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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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ファイストスの円盤 Ⅰ 奇妙な依頼

 その話は北米地区の蒐書官を統括する秋島新をひとりの客が訪ねたところから始まる。

「まさかあなたが私を訪ねてくるとは思いませんでしたよ」

 秋島は困惑気味にその客をオフィスを兼ねた自宅に招き入れる。

「どのような目的があるのかは知りませんが、あなたに丸腰で敵の本拠地に乗り込んでくるほど胆力があるとは思いませんでした。ですが、あなたのような人物がここにやってきて無事に帰れないことはわかっているでしょう。とりあえず死ぬ前に言い残すことがあればどうぞ」

「手厳しいですな。さすが北米地区の蒐書官を束ねるミスター秋島だ」

 冷たい笑顔の秋島が口にした冗談とも本気ともわからぬその言葉に愛想笑いを浮かべるこの男。

 もちろん只者ではない。

 名前はジョン・ウェラー。

 蒐書官が蒐集官と名乗っていた時代から彼らと貴重な品の争奪戦を繰り広げてきたあの美術館の形式上のナンバーツーであり、裏工作をおこなう実働部隊を差配する事実上のトップの地位にある人物である。

「それで、星条旗を振りかざし世界各地で非道のかぎりを尽くしている美術館のトップが我々にどのような用事があるのでしょうか?」

「……依頼を」

「依頼?」

「はい。あなたがた蒐書官にお願いしたいことがあります」

 ……これは罠だな。

 そう判断する根拠はない。

 だが、両者の関係はまさに敵同士であり、彼らに対して信用、その他プラスに働く要素をなにひとつ持ち合わせていない秋島がそう思うのは無理もないことだと言えるだろう。

 ……油断させて情報を奪い取るのか、そうでなければ、我々の身動きを封じてその隙にアメリカ国内で一仕事をおこなうといったところか。

 もちろん一ミリグラムも好意的ではないその心の声を口に出すことはなく、秋島はその言葉に応じる。

「敵対関係にあるあなたからの依頼を受けてもいいのかは私だけの判断ではできません。主の許可を求めるために詳細をお聞きする必要がありますがよろしいですか?」

「もちろんです」

 ……意外に素直だな。

 彼は心の中でそう思いながら、それでもお油断することなく会話を進める。

「まず、その依頼はあなた個人のものですか?それとも美術館からのものですか?」

「……両方と言わざるを得ません」

「両方?その言葉にはもう少し説明が必要ですね」

「美術館に関する案件には間違いないのですが、私の地位に関わるものでもあるということです」

「なるほど。ですが、あなたの地位に関わることを我々に話をしてしまってよろしいのですか?私が言うのもおかしなものですが、我々がその情報を利用する危険性は高いと思いますよ。なにしろこれは目の上のたんこぶであるあなたを排除できる絶好のチャンスなのですから」

「それは随分と過分な評価ですね。ですが、それは私も十分承知しています」

「承知のうえでの依頼ということですか?」

「もちろん。はっきり言いますと、このまま手をこまねいていれば私のクビは免れません。そうであれば、一途の望みをかけてあなたがたに依頼したほうがよいと判断してここにやってきたのです」

「あなたの熱意はよくわかりました。できるかぎりの助力をお約束いたしましょう」

 そう言いながら、秋島は心の中では別の判断をしていた。

 ……決まりだ。

 だが、ここで簡単に切り捨てない。

 そこが彼が若くして多くの蒐書官を統括する今の地位にある所以であるといえるだろう。

 ……これを逆手にとってあの美術館の所蔵品を頂くことができるかもしれない。

 ……とにかく判断を下すのはもう少し話を聞いてからにしよう。

 素早くそのための策を組み立てた彼が言葉を続ける。

「では、依頼の内容を詳しくお聞かせください」


 依頼者であるジョン・ウェラーが語ったこと。

 それは驚くべきものだった。

 一週間前、部下が、と言っても、公式には全く無縁の存在であるのだが、とにかく彼の部下のひとりが組織を抜けた。

 理由は様々あるものの、組織を離れる者は多いので、それ自体は大きな問題ではないのだが、その男は退職金代わりに収蔵品を博物館から持ち出したのだという。

「その持ち出されたものとは?」

 秋島は心の中で嘲りの表情を浮かべる。

 ……ここであなたがその収蔵物名を口にしたとたんに化けの皮を剥がしにかかりますよ。

 ……つまり、王手。いやチェックです。

 ……さあ、どうぞ。

 ウェラーの口が動く。

「盗まれたのはメソポタミア文明に関わる彫像三点。我々の試算では十億ドルという逸品です」

「それは大変だ。それで、その彫像の名は?」

「正式にはまだ決まっていません」

 ……ん?

「決まっていない?決まっていないとはどういうことなのでしょうか?」

「つまり、それは私やあなたがよく知る世界から手に入れた品物だということです」

「……なるほど」

 秋島は知っている。

 ウェラーが口にしたその言葉の意味を。

 そして、それを正規に入手したことにする彼らがおこなう常套手段も。

「盗品……いや、公開するのならそれはない。つまり、今回の品は盗掘品ということですか?」

「そのとおり。以前イラクで掘り出したものです」

「なるほど」

「これもあなたがたはご存じでしょうが、我々はいつものようにそれを多くの個人コレクターや中小の博物館を経由させて公式に買い取る準備をしていました。ところが……」

「それを盗まれた」

「見た目はコレクターのもとにありますが、それは書類上のことであり実際は我々が保管しているわけです。そこをまんまとやられました」

「なるほど。つまり、あなたが我々に依頼したいのはそれを取り戻すということでよろしいのですか?」


「そうです。……そうだ。ついでにそれを持っている裏切り者の処分もお願いしたい」

 ……なるほど。つまりそういうことか。

 ……やめだ。

「ご要望は承りました。ですが、率直に申し上げまして、やはり自らの手でおやりになられてはいかがですか?ことアメリカ国内に関していえば、我々よりもあなたがたの方が動きやすいでしょうし、仕事の内容も我々に依頼するほどのものには思えませんが」

「私だってそうしたい。だが、それができない理由があるのです。だから、こうして恥を忍んであなたにお願いしているのです」

「ほう。その理由とは?」

「それは……」


 もちろんその一報はすぐに日本にもたらされる。

「あなたはこの申し出にどう対応すべきだと思いますか?鮎原」

「そうですね……」

 東京都千代田区神田神保町。

 そこに聳える建物の一室でおこなわれていたその会議。

 情報を手に入れるとすぐ会議を招集した主の問いに答えようとした男は嫉妬の香りが漂うふたり分の視線を感じる。

 ……やれやれ。

 男は心の中でため息をついた。

「夜見子様。まずはそちらのふたりに訊ねられてはいかがでしょうか?」

「そうですか。では、真紀から」

 男に言われるまま、目が合ったという理由だけでその女性に指名された彼女より十歳ほど年長の女性が嬉しそうに口を開く。

「放置。絶対に放置すべきです」

「理由は?」

「罠の可能性も十分考えられますが、なによりも私たちはあのコソ泥どもの使用人でも傭兵でもありません。裏切り者など自分たちで探し出し始末すればよいことではありませんか」

「美奈子の意見は?」

「真紀と同意見です。つけ加えれば、そもそもその裏切り者はまだアメリカ国内にいる保証はあるのですか?そのようなどこにいるかどうかもわからぬ者の捜索など犬にでもやらせればいいのです」

「なるほど」

「ちなみに、秋島の意見は添えられていたのですか?」

「調査しなければ確実なことは言えませんが話を聞いた限りではジョン・ウェラーの言には矛盾はなかったとあります。ただし、触らぬ神に祟りなしとありましたので、彼も真紀や美奈子と同じ意見のようです。では、最後に鮎原」

「条件つきですが、受けるべきかと」

「あなたの弟子である秋島は放置を推奨しているようですが」

「それはあくまで初見での話ですので『君子危うきに近寄らず』をモットーにしている彼の性格ではそうなるでしょう。ですが、それとともに彼は損得計算ができる男であり、すぐに調査に入っているはずです。その結果を反映させた意見は改めて来ると思います」

「その時は別の意見になっていると?」

「そうなると思います」

「わかりました。それはそれとして、あなたの意見についての説明をしてください」

「承知しました。まず述べておきたいのは、真紀さんや秋島君の意見はそれを採用しても何ら問題のないものだということです」

「言い方が勘に障りますが、まあいいでしょう。鮎原に聞きます。それなのに、なぜコソ泥を助けると主張するのですか?」

「それはもちろんそちらの方が我々の利益があるからです」

「コソ泥の手助けをしてどのような利益があるのですか?もしかして、その十億ドルの彫像とやらをかすめ取るのですか?」

「まさか」

「では、展示物を成功報酬として要求するのですか?」

「それも少し違います」

「では、何だというのですか?」

「これを受けるための前提として、我々が求めるべきは任務完了後にそれを手にする成功報酬ではなく、報酬の全額前払いであることです。そうする理由は、今回の話が罠ではないとは百パーセント言い切れないうえに、依頼相手のことを考えればタダ働きをさせられる可能性があるからです」

「それはいい」

「私もその意見には賛成です」

「おふたりの賛成を得られたところで話を進めます。そして、報酬として我々が要求するもの。それは彼らが隠し持っている宝のひとつ『もうひとつのファイストスの円盤』です」

「『ファイストスの円盤』ですと……」

 ふたりの女性のうちのひとり上級書籍鑑定官北浦美奈子が声を上げるのも無理はない。

「ちょっと待って。『ファイストスの円盤』はオンリーワンだったはず。そのために解読不明の文字とされているのでしょう。それなのにコソ泥はそれとは別の『ファイストスの円盤』を持っているとあなたは主張するのですか?」

「はい」

「すぐには信じられない話ですね。それに、たとえその話が本当であっても、その程度の報酬としてそれは手に入れられるものなのですか?私なら絶対に手放しませんが」

「たしかに真紀さんの言うとおり、『ファイストスの円盤』は彼らから依頼された仕事程度に対する報酬となるべきものではありません。ですが、それをあえて要求する。彼らの本気度を確かめるために。それに、諸々の事情により、彼らがそれを差し出す可能性は真紀さんたちが考えているほど低くはありません」


 二杯の紅茶と同じ数のコーヒー、そしていつもどおりやってきた四人分の「輝く日の宮」によって中断された会議が再び始まる。

「ところで、コソ泥が『ファイストスの円盤』を持っていることをあなたはなぜ知っているのですか?」

「もちろん我々もそれを追っていたからです」

「つまり取り逃がした?」

「はい」

 それは聞きようによっては罪を咎めるような物言いだったのだが、男は気にする様子もなくそれに応える。

「相手もいることですし、我々が百戦百勝というわけにはいきません。特に相手があの美術館となれば取りこぼしというものも当然出てきます。『第二のファイストスの円盤』がそのひとつということになります」

「それはいつどこでの話なのですか?」

「数年前のシリアですね」

「蒐書官はそのような場所にも足を踏み入れていたのですか?」

「我々だけはありませんが、そうなります。その理由をここで改めて述べる必要はないのですが、あのような地こそが我々のような者にとっては格好の狩場なのです」

「かの地に住む者がその言葉を聞いたら何と思うでしょうね」

「たしかに内戦とはそこで暮らす者にとっては辛く苦しい以外のなにものでもないのですが、それをどうするのかを考え、よりよい世界を実現する義務を担っているのは施政者であって我々ではありません」

 言ってしまえば、盗賊の類である自分たちにそのような正義を求める前にそれを求めなければならない相手は世界中にいる。

 その義務があり、さらにそれをおこなう力を持つ者たちがそれをおこなわないのに、なぜ義賊と名乗ったこともない我々がそのような義務を負わされなければならないのだ。

 彼が口にしたその言葉は正論である。

 ……ですが、それを是と言えないところが人間なのです。

 彼の主は心の中で呟いた。

 ……もっとも、そのようなことなどあなたは百も承知でしょうが。

 彼女の心のなかでの葛藤など無視するように討論は続く。

「ひとつ訊ねます。本家『ファイストスの円盤』はクレタ島で発見されたはずですが、その親戚がなぜシリアにあったのですか?」

「そこは推測するしかないのですが、もしかしたら、こちらこそ本家だったのかもしれません。『ファイストスの円盤』が発見地でつくられたものなら、その地で同種の文字が多数発見されて当然なのですが、一切見つかっていない。つまり、そこで使用されていた言葉ではない可能性も十分ありますから話としては成り立ちます」

「もうひとつ。たとえ紛争地域で手に入れたものであっても盗難品でなければ手に入れたことを発表できるのではないのですか?」

「『ファイストスの円盤』の売り主に問題がなければたしかにそれは可能だったのでしょうが、残念ながら現実はその売り主とは文化を通して民主国家の一翼を担うと自負している者であれば絶対に取り引きしてはならない者たちだった。しかも、彼らに支払った金額は商品に見合った驚くべき額です。そして、その金が何に化けたのかは言うまでもないこと。我々に先んじて手に入れたものの、手に入れたそれはひとつ間違えば美術館そのものが閉鎖に追い込まれるようなものだったのです」

「……なるほど」

 もちろん彼女はそれが何かを意味するかすぐに理解した。

 だが、守備範囲外のことには甚だ疎い残りふたりがそれを理解するには間接的な表現だらけの彼の言葉は少々難解だった。

「つまりそれはどういうことなのですか?」

 あまりにも正直な美奈子の言葉に男は小さなため息をつく。

「今回盗まれたとする小物程度なら盗掘騒動が出てもいくらでも言い逃れできます。彼らはこれまでもそうやって多くの盗掘品を堂々と収蔵品に加えてきたのですから今回もうまくやるでしょう。しかし、『ファイストスの円盤』の場合はそうはいかない。たとえば、手に入れたと意気揚々と発表したあとに、元の持ち主が内幕を話せば世界中から袋叩きに遭い彼らのすべてが終わるということです」

「……つまり『ファイストスの円盤』は貴重な品ではあるが、彼らの手に余るものでもあったということですか。だから、一見すると報酬として差し出すはずはないと思われる『ファイストスの円盤』を要求することもさしておかしいことではないということなのですね。というか、私たちが手に入れたいと思っているその品は相手にとっては勢いで掴んでしまったジョーカーのようなもので一刻も早く手放したいもの。つまり双方の利益が合致している。十分に勝算はあると」

「そのとおりです」

「鮎原。あなたの悪知恵は無限に湧き出る泉のようですね。一度例の守銭奴と悪知恵比べをしてみてはいかがですか?あなたなら十分対抗できそうです」

「美奈子さん。それはいくら何でもひどいですよ。それに晶さんとともに『橘花の双璧』と呼ばれている彼に比べれば私など老いたひよこですよ。とても勝ち目はありません」

 ……ご冗談を。彼の師匠であるあなたが弟子に遅れを取ることなど万にひとつもあり得ないことです。

 そう心の中で呟く主の脇に座る女性が再び口を開く。

「とにかく『ファイストスの円盤』が手に入る可能性があることはわかりました。それで、事前にそれを手にいれてしまえば律儀にコソ泥の手伝いをする必要はないと思うのですがどうでしょうか?」

「潔癖症の美奈子さんらしくもない。それでは詐欺に等しいではないですか。商品を受け取ったら仕事はやります。それからもうひとつ。品物を持って逃げた者の始末ですが、こちらは相手に引き渡すことを基本とします」

「当然ね。そこまでやってやる必要はないし、それを口実にして仕掛けてくる可能性もある」

「そういうことです」

「それにしても、どうしてその裏切り者の捜索を彼ら自身でおこなわないのかしら。もし私の配下からそのような不届き者が出たら、私自身が先頭に立って探すけど」

「私もそうする。まったく真紀の言うとおりよね。不思議だわ」

「ウェラー氏だってそうでしょう。ですが、秋島君のもとにやってきたということは彼にはそうやりたくてもできない事情があるということで間違いないでしょう」

「それはどういうことですか?」

「彼が秋島君に語った理由は違ったようですが、本当の理由は枷。つまり美術館は一枚岩ではないということです」

「と言うと?」

「美術館の中には裏組織が暗躍する今の体制をよしとしないまともな感性の持ち主も多くいるということです。そして、彼と彼が抱える裏組織に反感を持っているグループが彼の組織の失態を知ればこれ幸いとばかりに組織の取り潰しに動く。ウェラー氏もそれがわかっているから部外者である我々に捜索を依頼した。というよりも頼まざるを得なかったというのが真相なのでしょう」

「では、私たちが動かず、逆にその情報を流してやればその男と組織はつぶれるということではないですか?」

「そうです。ただし、『ファイストスの円盤』は手に入らない。我々にとって、道に転がっている小石程度のライバルを取り除くことと貴重な品を手に入れる。そのどちらを優先させるかは火を見るよりも明らかです。それに、彼には我々に仕事を依頼した汚点が残る。つまり、今後彼は我々の駒として使えるということです」


「さて、要求する品物が決まったところで、どのようにしてターゲットを見つけ出すかということですが、何か効率的に発見できる方法はありますか?」

 主のその言葉とともに三人分の視線が男に集まる。

「もちろん仕事を請け負うことを主張した時点で、あなたには何か策があると見ましたが違いますか?」

 主の問いに男は一礼し答える。

「残念ですが逃亡したひとりの人間を探す方法は地道に探し回るよりも簡単でしかも発見できる可能性が高いものは存在しません。ですが、今回にかぎりそれはあります」

「そのような画期的な方法があるのなら、特許を取得したらいかがですか?鮎原」

「本当ね。では、言ってみなさい。鮎原」

 疑わしそうに彼を眺めるふたりの女性に促された男が口にしたこと。

 それはたったひとことだった。

「待つ」

「待つ?たったそれだけですか?」

「もちろんそれなりの事前準備はおこないますが、基本は獲物がそこにやってくるのを待つということです」

「それだけではわからないでしょうが」

「わかりませんか?」

「わかるわけがないでしょう。鮎原。あなたはまた私たちを馬鹿にしているではないでしょうね」

「おや、わかりましたか?」

「わかるに決まっているでしょうが」

「おふたりは肝心なことはサッパリなのに、つまらないことだけはすぐにわかるのですね。実に面白い」

「殺す。絶対に殺す……」


 それから十分後。

「真紀も美奈子もあなたを怒鳴り過ぎて息切れしていますのでそろそろ種明かしをしたらどうですか。ふたりだけではなく私もどうしてなのかを知りたいですので」

「承知いたしました」

 笑いをこらえる主に促された男の口が動く。

「実際のところ、逃げた男の情報がないので、それはすべて仮定の話であろうと思うでしょうが、やることは同じです。まず彼が逃亡先に選ぶのはどこかというところから考えてください。どうでしょうか?」

「アメリカ国内。または国境を接した場所」

「偽造パスポートを使って彼のかつての勤務地に高跳びする線も考えられる」

「または、過去の自分に無縁な場所」

 三人の女性が彼の問いに答えるようにそれぞれ可能性のある場所を挙げる。

「ほぼすべての国が網羅されているようですね。では、条件をひとつ加えることにします。彼は何を持って逃亡していますか?」

「高価な彫像でしょう」

「そのとおり。では、何のためにそれを持っているのですか?」

「もちろん売るためです」

「そうです。皆さんが先ほど挙げた場所のなかで、時価十億ドルだというその彫像を適正価格で購入してくれる人物がいるところはどこでしょうか?もう少しつけ加えるならば、適正価格で購入してくれるだけではなく、自身の安全が担保されること。これではどうですか?」

「……適正価格で購入してくれるうえで、彼を元の雇い主に売らない。たしかにそれは彼にとっては必須条件になる」

「そうね。だけど、そうなるとかなり絞られる」

「そういうことです。そして、そのような条件をクリアできる我々にとって身近な人物とは誰でしょうか?」

「……もしかして、蒐書官?」

「そう。彼もまず思い浮かべたのは美術館と敵対関係にある蒐書官だったことでしょう。そして、あの人物もそう思った。だから、秋島君のもとを訪れたということです」

「つまり、その男は単純に困っていたから秋島のもとを訪れたわけではないということですか?」

「もちろん依頼は十中八九本物でしょう。ですが、たとえ依頼を受けてもらえなくても釘はさせる。それだけでも彼の目的は達成するわけです」

「まったく食えない男ですね」

「ここはさすがと言っておくべきでしょう。だが、幸か不幸かターゲットは我々に接触してきていない。となると、彼が頼るつもりなのは我々以外の誰かとなります」

「残りはもうひとつのライバルである大英博物館か」

「中東の王族かも。ロシアや中国という線もある」

「今挙がった候補者では可能性があるのは大英博物館だけですね。他は身の安全に大きな不安が残る」

「では、大英博物館関係者を張っていればいいと?」

「いいえ。私が一番可能性のある人物と思っているのは大英博物館関係者ではありません」

「では、誰ですか?」

「いるでしょう。もうひとり。例の美術館の武闘派でも手が出せない人物が。しかも彼らのすぐ近くに……」

「もしかして……」

「そのとおり。エマーソン氏です」


 男の言うエマーソンとは、もちろん有名なオカルトグッズコレクターであるあのエリオット・エマーソンのことである。

「ですが、持ち逃げした彫像はエマーソンとやらの守備範囲から大きく逸脱しているのではないですか?」

「確かに。だが、目利きの能力は間違いないし、金払いもいいこともわかっている。つまり身の安全は保証されながら大金を手に入れる。彼にとっては理想の取引相手といえるでしょう」

「ですが、それはその男にとっての話であってエマーソンとやらにはまったく得になることはないでしょう」

「実はそうでもないのです。持ち込まれたものが本当に十億円相当に逸品であるのなら、彼はそれをトレードの駒として使えるし闇オークションに流し購入資金に変えることもできる。だから、彼にとってもこの取引は十分に利益になるというわけです」

「なるほど。ターゲットがエマーソンの家に逃げ込む可能性があることはわかりました。ですが、私たちにとっては問題なのは彼らの利益ではなく、その男と品物をどうやって確保するかでしょう」

「確かに。それに、その男はこちらの引き渡し要求に受け入れるに際し、然るべき条件を出してくるのは必定でしょう」

「もちろん彼から要求されれば何かしらのものを用意しなければならないでしょう。ですが、交渉でミスをしなければそのようなことにはならないと思います」

「どういうことですか?」

「前回我々は彼に対して小さな貸しがあります。それを返してもらえばいいと言っているのです」

「その貸しというのは彼が差し出したアトランティスの真実が記された羊皮紙のレプリカを贈ったことを言っているのだったら、収支はどう考えても彼が満足するものとは言えないと思えますが?」

「では、その不足分は借りておきましょう。次の一手にも役立ちますし」

「次の一手?」

「言ってしまえば、エマーソン氏を縛る枷です」

「また枷ですか。ですが、借りをつくることが借り手側ではなく、貸し手側を縛るものになるとは思えませんが」

「いやいや、それがなるのですよ。なにしろ我々のような一部の例外を除けば人間は貸しがある相手を裏切ることはないのですから」

「鮎原。あなたが言っている意味がわかりません」

「まったくです。また私たちをからかっているのですか?殺しますよ」

 先ほどのことがあるので女性ふたりは気色ばむ。

 だが、男の表情は先ほどとは異なっていた。

「そのようなことはありません。いいですか?借りている者が裏切り行為をする。もう少しわかりやすい事例を出せば縁切れになり借金を踏み倒すことは短期的にせよ借り手の利益にはなります。ですが、貸し手が一方的に借り手を裏切り縁切れになった場合、貸し手は損をすることはあっても得にはならない。だから貸したものを返してもらうまでは貸し手は基本的に借り手を裏切ることはないということです。もっとも、エマーソン氏はそこまでしなくても我々の側の人間なので、逃亡者と我々を天秤にかけることなく、彼の屋敷に逃げ込んできた逃亡犯にとっては悲しい結論を下すのは間違いないところでしょう。ですから、先ほど待つと言いましたが、案外待っているのはエマーソン氏なのかもしれません」

「あなたの言いたいことは理解しました。それにしても……」

「どのようなことも謀略に利用する。鮎原。あなたは絶対に天国には行かれない人ですね」

「それだけは間違いないわね」

「いずれにしても、方針は決まりました。鮎原に命じます。秋島には早急に行動するように伝えてください。『ファイストスの円盤』を手に入れるためにウェラー及びエマーソンとの交渉に入るようにと」


 アメリカ、ニューヨーク州。

 ただし、ニューヨークと言っても日本人がその言葉を聞いて思い浮かべる摩天楼が立ち並ぶ光景とは別世界のような場所にその男が住む屋敷はあった。

 そして、この日その男の屋敷にやってきたのはこの地で活動する蒐書官を統括する立場にある秋島新である。

「お久しぶりです。ミスターエマーソン」

「素晴らしい贈り物を届けてくれて以来になるな。ミスター秋島」

 応接間まで通された秋島を屋敷の主は愛想よく歓待の言葉を口にする。

 だが、言葉を飾った型どおりの挨拶が終わると、ふたりの会話はすぐに別の色に染まっていく。

「それで、今日はどのような要件かな」

「聞かなくても、あなたならすでにわかっていらっしゃるはず」

「まあ、確かにそうだ」

 男はそう言うと少し苦めのコーヒーを口にする。

「だが、こんなに早いとは思ってはいなかったのも事実だ。おおよその察しはつくが、まずこれほど早くやってきた経緯をおまえの口から聞かせてもらおうか」

「はい」

 ……そうは言ったものの、さて、どうする?

 そう心の中で呟いた彼は以前この男と交渉をおこなった長谷川のアドバイスを反芻していた。


「彼は我々のような歯ごたえのある者との交渉を楽しみにしている。だから、彼の機嫌を損ねぬようにたとえ都合が悪い話であっても言葉を濁すだけにとどめ、嘘で胡麻化してはいけない。特に要件の根幹にかかわることは絶対に嘘で逃げるな」


 ……東京からの指示を説明するわけにはいかない以上、ここは……。

「色々事情がありまして……」

「ほう」

 今度は屋敷の主が秋島の言葉を吟味する番である。

 ……つまり細かいことは言えないということか。

 ……だが、嘘ではなく、あからさまに言葉を濁すのは私への配慮ということか。

 ……いいだろう。では、こちらから聞いてやる。

「わかった。それで、おまえの言うその事情とやらの中にはあのポンコツどもが泣きながら頼み込んだ依頼が含まれているわけなのだな」

「そうなります」

「まあ、そうだろう。そうでなければ美術館中枢部にも知られていないやつらの不祥事の情報をこれだけ早く手にできるはずがないからな。それにしても、自分たちの不始末の尻拭いをライバルに依頼するとはやつらはどこまでポンコツなのだろうな」

「彼らにも色々事情があるのではないでしょうか」

 ……随分用心深いな。私は本気で奴らが嫌いなのだが。

 どこまでも慎重な彼の言葉に男は心の中で苦笑いを浮かべると、新たな言葉を紡ぐ。

「まあ、やつらとの交渉についてはあまり話したくないようだからポンコツどもの話はこれくらいにしよう」

「ご配慮ありがとうございます」

「さて、ここからは商談だ」

「はい」

「わかってはいるだろうが、私はすでにおまえたちが探している人物から具体的な提案を受けている。しかも、それは私にとって有益なものだ。それに対するおまえが用意しているものとは何か?」

「……用意と言いますと?」

「手ぶらで来たわけではあるまい。何を手土産に持って来たのかと聞いている」

「いいえ。残念ながら今回はその手ぶらです。すでに品物は前回お渡ししていましたので。今日はあれの対価となる商品を受け取るだけとなります」

「……ほう」

 ……相手が私以外なら交渉の決裂を招くこのような奇手を彼がひとりで考えついたとは思えぬ。私の性格や心情をすべて読み切った誰かの、いや、これは間違いなくあの男の入れ知恵だ。

「……なるほど。おまえの言いたいことはわかった。ちなみにこの交渉のシナリオを書いたのは長谷川か?」

 ……やはり、そう来ましたね。さすがです。鮎原さん。

 彼が心の中で呟いたそれはエマーソンが顔を合わせたことのない長谷川の師匠にあたる男が予想したものと同じ言葉だったからである。

 曰く、彼はこの手を聞いた時、それを授けたのは長谷川君だろうと読む。そして、それを聞いた君が打つべき次の一手は……。

 秋島が浮かべた笑みはもちろんその心情を表している。

「まあ、そういうことになります」

 自分が思い描いた幻影を肯定する彼の言葉に男は頷く。

「では、聞こう。その取引では私が圧倒的に不利益を被ることになるのだが、彼はそれをどう穴埋めすると言っていたのかな」

「不足分は借りておけと」

「ほう。彼は私に借りをつくっておけと言ったのか?」

「はい」

 ……素晴らしい答えだ。

 多くの者にとって傲慢に聞こえるそれはなぜか彼には快い。

 そして、それは彼の為人を読み切り秋島にこの策を授けた男の勝利ともいえる瞬間でもあった。

「なるほど。借金の件は了承した。とにかくおまえが提示するものを見せてもらおうか。いや、双方の手札を開陳することにしよう。そのほうがフェアであり、効率的だ」


「私の手札はこれだ」

 エマーソンが提示したもの。

 それは、彼に連絡してきたある男が示した条件だった。


「……本来十億ドルは下らない品だが、身の安全を保障してくれるのであれば、支払額はその半分で構わない。もちろん、あなたがどのようなものを専門に蒐集しているかは知っているが、これだけ価値のあるものなら、物々交換でも十分に有利な交渉に持ち込めるだろうし、購入資金を確保するためにコレクターに売り渡すことも可能でしょう。もし、そのような知り合いがいなければ私が紹介いたします」


「コソ泥の分際で随分と高飛車な物言いだとは思わないか?」

 男はそう口にしながら書かれた紙をテーブルに放り投げた。

 ……まったくだ。

 秋島はそう思いながらそれを拾い眺めなおす。

「まあ、足元を見られないように精一杯の虚勢を張ったというところでしょうか」

「ふん」

 男は彼の言葉に頷き、そこにいない人物に向けて嘲笑を浴びせる。

「そんなものは私の心証を悪くするだけで何の役にも立たない。愚か者が」

「おっしゃるとおりです」

 秋島は相槌を打ち、一呼吸置いて、彼がもっとも知りたいことを問おうと口を開く。

「ところで……」

「心配するな」

 右手で彼を制した男が口にしたのはまさに彼が知りたいことだった。

「足止めはしてある。もちろん私が用意したその場所にはあのポンコツどもは近づくことはできない。あの男は安全な場所にかくまわれている気でいるのだろうが、実際は檻に閉じ込められているわけだ。供物になるときまで」

 ……つまり、あなたは我々がやってくるのを待っていたわけですね。

 ……まさに、鮎原さんの読み通り。

「さすがです。それで、彼をフリーズさせる魔法の言葉とはどのようなものだったのでしょうか?」

「買い取り額は一億ドルだが現金で用意する。それから、私が用意した場所から動かなければ身柄の安全は保障する。どうだ。完璧だろう」

「はい。ですが、提示額は評価額の十分の一ですか。彼はそれを受け入れたのですか?」

「もちろん渋っておるが、それでも、一億ドルの現金を手にして多少窮屈でも安全に生活ができるのだ。いずれ承諾する」

「なるほど。ところで、彼の元の雇い主からのコンタクトはありましたか?」

「ない。遠くから眺めているのかと思ったら、本当にノーマークだ。これだけでもあいつらがポンコツだとわかるというものだ」

 それは確かに事実だった。

 ……だが、彼らもそこまで馬鹿ではない。

 ……それなりの理由と思惑があるのでしょう。

 もちろん彼はそれらすべてを飲み込み、目の前にいる相手が望む言葉を選び出す。

「日本にはすぐ近くのことに気がつかないたとえとして『灯台下暗し』ということわざがあります」

「言い得て妙だな。まさにやつらにピッタリの言葉ではないか。さて、今度はそちらの手札を見せてもらおうか」

「はい。まず、ターゲットは生きたまま引き渡してもらいます」

「うむ」

「それから、彼が盗んだ商品ですが、一度こちらで預からせてもらいます」

「一度預かる?」

「はい」

「……なるほど。そういうことか」


「よかろう。取引は成立だ」


「し、蒐書官」

 翌朝、隠れ住んでいたホテルの一室のモニターを見たその男がドアの前に立つふたりの日本人を見て悲鳴に近い声を上げたのは仕方がないことだった。

 顔は見えないものの、スピーカー越しにひしひしと伝わってくる男の緊張を嘲るようにその日本人は彼の言葉に応じる。

「驚きました。名乗ってもいないのに我々の職業を言い当てるとは」

「まったくだ。さすが世界を股にかけ悪事のかぎりを尽くす美術館に勤めていた方だけのことはある」

「ふざけるな。ここにやって来る日本人など蒐書官以外には考えられないだろう。それよりも答えろ。なぜ、おまえたちが来たのだ」

「それはエマーソン氏に依頼されたからに決まっているではないですか。取引相手に現金を渡し、品物を受け取って来いとのことです。彼は護衛以外の私兵は抱えていないので、ここに兵を向ける余裕はありません。ですから、知り合いにお鉢が回ってきてもおかしなことではないですよ」

「そうであっても、なぜおまえたちだ。私は騙されないぞ」

「相当人間不信に陥っていますね。その程度のメンタルなら世界を相手にするような悪事を働くべきではなかったのではないですか?」

「う、うるさい」

「そうだ。それほど心配ならエマーソン氏に確認してはいかがですか?」

「もちろんだ。そこを動くなよ。蒐書官」

 数分後、扉が開く。

「信じられないが、本当のことだった。それで、どっちが間宮だ?」

「私が間宮。そして、隣にいるのが二階堂です」

「金は持って来たのか?」

「もちろん。お確かめを」

 飛びつくように彼らが運び入れたふたつの特大トランクを開け、札束を数え始める男を冷ややかに眺めていたふたりの日本人だったが、やがて間宮と名乗った男が彼に声をかける。

「取り込み中に申しわけないことなのですが、引き換えに品物を受け取ってくるように言われていますので、そちらについてもお願いしたいのですが」

「……そうだな。わかった」

 男は作業を中断し面倒くさそうに立ち上がると、テレビの隣に置かれた三体の小さな石像を乱暴に掴む。

「これだ」

「……これですか?」

 胡散臭そうにそれを眺めるふたり。

 だが、もちろんこれは演技であり、彼らは中東でこの種の遺物を何度も扱ってきた素晴らしい鑑定眼を持つ一流の目利き蒐書官として知られており、それが理由で秋島によってここに送り込まれていたのである。

 そのようなことなどおくびにも出さない彼らの渾身の演技は続く。

「このみすぼらしい像がその大金に見合ったものなのですか?」

「どうやら蒐書官は本以外の価値がわからないようだな」

「まったくそのとおりです。サッパリですね。本以外は」

「お恥ずかしいかぎり」

 自らの嫌味にもあくまで低姿勢で愛想笑いを浮かべるふたりの様子に少々余裕が出てきた男だったが、その状況を一変させたのがけたたましく響く電話の音だった。

「……何ですと」

 電話を切ると男は慌てたようにコーヒーを飲んでくつろぐ日本人を急き立てるように喚き散らす。

「……蒐書官。おまえたちは私を連れてエマーソン氏の屋敷に行け。いや、行ってくれ。もちろんエマーソン氏の許可も取っている」

「まあ、それは構いませんが……」

「何か手違いでもあったのですか?それとも買い取り価格の上乗せ交渉ですか?」

「そんなことではない。エマーソン氏からの連絡ではまもなく追手がここにやってくるそうだ。だから、すぐにここを離れる」

「なるほど。それは一大事」

「急ぎましょう」

 だが、その時自分のことで頭が一杯だった男は気づかなかった。

 ふたりの日本人が一瞬見せた表情がどのようなものだったのかを。


 それから約半日後。

 もちろん彼に待っていたのは安全とは程遠い現実だった。

「これはどういうことなのですか?ミスターエマーソン」

「この状況になっても自分がどのような立場にあるとわからないとは愚かだな」

「わ、私を裏切ったということか?」

「失礼なことを言うな。私がいつおまえの仲間になったのだ」

「それに、裏切り者のあなたにミスターエマーソンを裏切り者呼ばわりする資格などないでしょう」

「……蒐書官。やはり貴様たちか……」

 屋敷に到着した直後、エマーソンの私兵たちに襲われ、縛り上げられた状態で応接間の床に転がされた彼の前に屋敷の主とともに現れたのはこの地の蒐書官を統括する秋島だった。

「どこから情報を手に入れたのかは知らないが、私が手に入れたものはおまえたちの守備範囲外であろう。あまり欲張ると罰が当たるぞ」

「威勢がいいですね。ですが、あなたの言葉にも一理あります。では……」

 彼は手にしていた彫像を隣に立つエマーソンに手渡す。

「どういうことだ?」

「見ての通り、我々はあなたから不当に奪ったこの彫像をミスターエマーソンにお譲りしたのです。そして……」

「確かに受け取った。感謝する。ミスター秋島。では、私の商品の権利もおまえに渡そう」

「ちょっと待て。それは私の……」

「そうですね。確かに先ほどまではあなたのものだった。しかし、その所有権はあなたからそれを奪った私へ。そしてたった今ミスターエマーソンに移っていますので、あなたが所有者だったのは遠い昔のことです。ついでにいえば、ミスターエマーソンによって捕らえられたあなたの身柄は私たちに移された」

「どこまでも忌々しい……いや、そのようなことはどうでもいい。私をどうする気だ」

「もちろんあなたを探している方々に引き渡します」

「その彫像も返すのか?」

 男の言葉に秋島は黒い笑みを浮かべながらこう言い放つ。

「彫像?何の話かわかりませんね。なにしろ私が取り押さえたときにはあなたが持っていたのは幾ばくかの金だけでそのようなものは持っていなかったものですから」

「くそっ」

 たった今自らが語ったことを堂々と否定する彼の言葉を男は歯ぎしりしながら聞き、心の底からこう思った。

 ……殺したい。

 だが、今の状況では彼にはそれはできない。

 彼が口にしたのは別の言葉だった。

「引き渡すがいい。だが、私がすべてを話せばおまえたちの悪事はすべて明らかになるぞ」

それはまさに最後の悪あがきに等しいひとことだった。

「確かに。ですが、品物のありかがわかれば、彼らにとって裏切り者のあなたは用済みです。逆をいえば、黙っている限りあなたは生きていけるというわけです」

「……甘いな」

「甘い?」

「私が自発的に話をするまでやつらが待つと思っているのか」

「つまり拷問か自白剤を使用しで自白させられると言っているのですか?」

「当たり前だ。どうせ白状させられたうえで殺されるのだ。それなら、拷問される前にすべてを吐いておまえたちも道連れにしてやる」

「……なるほど」

 自白させられ、その後殺される。

 確かに彼の言葉は正しい。

 彼の元の職場は裏切り者を許すほど甘くはなく、彼の命運は引き渡された時点で決まってしまうのは間違いない。

 だが、それに続いて彼が口にした言葉は彼の寿命をほんの僅かであるが、自ら縮めることになった。

 秋島の顔に今まで見せたことのない黒い笑みが浮かぶ。

「困りました。彼を生かしたまま引き渡してしまうと私たちの取引が彼の元上司にすべて露見してしまうそうです。どうしますか?ミスターエマーソン」

「目障りなだけのこいつをこの屋敷に置く気はない。ポンコツ美術館に引き渡すことは変わらぬ。だが、生きていても我々の迷惑をかけるだけであるのなら、死んだ状態で渡すしかあるまい」

「奇遇ですね。私もまったくの同意見です。ミスターエマーソン」

「では、決まりだ」


「やれ」


 すべてが終わってから三十分が経った。

「ところで、おまえに少々訊ねたいことがある」

「どうぞ」

「私は三体の貴重な彫像を捨て値のような金額で手に入れることができた。だが、私の目には今回の取引でおまえたちは得るものは何もないように見える。本当にそれでいいのか?」

「もちろんです。私どもはすでに十分な報酬を得ておりますので」

「その相手は依頼者であるあのポンコツどもということなのか?」

「はい」

「そうなるとひとつ疑問が残る」

「なんなりと」

「そういうことであれば、おそらくおまえたちへの依頼内容は盗まれた彫像の奪還と裏切り者の始末であろう。とりあえず先ほど以来のひとつは果たしたことになったが、私に彫像を渡してしまってはもうひとつは不履行となるのではないのか?」

「確かにそのとおりです。ですが、私はそれほど心配していません」

「どういうことだ」

「私たちが彼の身柄を押さえたときには品物はすでにあなたに渡っていたと言えば済むことですから。それは事実ですし手に入れた相手があなたとなれば彼らがここまで奪いにやってくるとは思えません。彼らが動くとすればあなたがそれを手放した後のことであり、あなたがもちろん損害を被ることはありません」

「なるほど。たしかにそうだ。万が一やつらがなけなしの勇気を振り絞って彫像を買い戻しにやってきたらせいぜい高値で売りつけてやることにしよう」

「それがよろしいでしょう」

 ……実はそれ以上に重要な理由があるのですが、聞かれてもいないのにそこまで説明してやる義務は私にはないです。

 彼は心の中でそう呟くと、笑顔を浮かべ直す。

「これで一件落着です。おめでとうございます。ミスターエマーソン」


 東京都千代田区神田神保町。

 その一角に聳える建物の一室で待つ主のものに男がやってきた。

 その情報を携えて。

「夜見子様。後始末はすべて終了したと秋島君から報告がありました」

「ありがとうございます」

「それで、『ファイストスの円盤』の解読は捗っていますか?」

「まあ、ボチボチというところでしょうか。ところで、今回の件についてあなたはまだ私に話していないことがあると私は思っているのですが、どうでしょうか?」

「それはどれについてでしょうか?」

 一見するととぼけているような彼の言葉であるが、すなわちそのようことが複数存在していることを示すものでもある。

 もちろん彼女は男を咎めるようなことはしない。

「逃亡者を殺した件についてはいかがですか?あなたは人殺しの依頼など受ける気はないと言っていましたが、実際に美術館に引き渡されたのは冷たくなった男でした」

「あの時には確かに言いました。ですが、約束を違えたのは状況の変化からやむを得ずとそうなったということでお許しいただきたいものです」

「言いますね。ですが、あなたに限ってそのようなあやふやなことはないでしょう。最初からそのつもりなどなかったではないのですか?」

 すべてを察しているような彼女の言葉に男は大きく息を吐きだした。

「まあ、ここには私と夜見子様しかいないので話してもいいでしょう。……彼を生きたままウェラー氏に引き渡せば、あることないこと話すのは確実です。ウェラー氏がそのすべてを信じるとは思いませんが、それでも情報は漏れないことに越したことはありません。ですから、秋島君には死体を届けるようにあらかじめ指示しました」

「美術館側もそれを承知していたのですか?」

「もちろんです。というか、彼らもそれが望みでした」

「彫像をミスターエマーソンに渡すことも最初から決めていましてね」

「そのとおりです。やはり、借りはつくらないに越したことはありませんから」

 男が堂々と口にしたその言葉に彼女は思わず苦笑いを浮かべる。

「さすがにそこは真紀たちには聞かせられないですね。それで、ウェラーにはどのような説明をするように秋島に指示をしたのですか?」

「隠れ家を見つけ、彼を拘束し尋問した結果、彫像の在りかはわかったものの、彼の足元を見たエマーソン氏に買い叩かれたらしく手持ちはわずかな現金だけでしたというものです」

「つまり、美術館は盗まれた彫像も取り返せず、さらに『ファイストスの円盤』も手放すことになったわけですね。ウェラーはそれについて何と言ったのですか?」

「ありがとう。と」

「それだけですか?」

「はい。秋島君の報告によれば、彼は例の彫像や『ファイストスの円盤』の存在を知っているのは裏組織関係者だけだったので、いくらでも帳尻が合わせられると上機嫌で説明していたそうです」

「……そうですか」

「どうやら夜見子様は納得していないようですね」

「そう見えますか。……実はそのとおりです。私には彼の言動は組織を統べる者とは思えません。その言葉どおりであれば、彼こそが美術館に対して背信行為をおこなっている者に思えますが」

「夜見子様には本当にそう見えるのですか?」

「はい」

「では、ご説明します。ウェラー氏は優秀ですので、おそらく我々の裏取引にも気づいているでしょう。それでも、それに触れないということは了承したと受け取って問題ないです。そして、このことからわかることとは、彼にとって大事なのは盗まれた彫像でも我々への報酬となった『ファイストスの円盤』でもなく、彼が抱える裏組織ということなのでしょう」

「どういうことですか?」

「組織を裏切った者は組織の情報を漏らすことなど厭わぬ。だから、この裏切り者が口を開く前に葬ることが最優先事項である。そのためには、どれほど出費をしようとも構わない。彼の言動にはそのような強い意志さえ感じられます」

「ですが、私たちには知られる可能性はあります」

「たしかにそうです。実際にあの男は助かりたい一心で秋島君に多くのことを語ったそうですから。ですが、この場合に限って我々はウェラー氏にとっての安全牌なのです」

「なぜですか?」

「今回の件について、彼にとっての一大事とは組織の存在とこれまで組織がおこなってきたことが日の当たる場所に晒されることであり、それに比べれば彼ら自身と同じくらい彼らのことを知る我々に多少の知識を与えることなど些細なことでしかないのです。ですから、紆余曲折はあったかもしれませんが、結果的に彼の目的は果たされたということになりましたので、彼が上機嫌というのもわからぬ話ではないのです」

「なるほど。闇には闇の常識があるわけですね。それで、あなたが考える今回の収支は?」

「我々は目的である『ファイストスの円盤』を手にしましたので言うに及ばず、エマーソン氏もわずか三千万ドルでとてつもなく貴重な彫像を三体手に入れることができました。相場の半値で売っても莫大な軍資金を手にすることができますので彼も収支はプラスです」

「ということは……」

「形のうえでは美術館のひとり負けです。ただし、美術館内の反対勢力に気づかれることなく裏切り者を始末できたうえに三千万ドルを手に入れた。さらに懸案だったジョーカーを有効利用したうえ手放すことにも成功したわけですから、まったくの赤字ではない。むしろ黒字だ。少なくてもウェラー氏はそう考えているでしょう」

「では、ウインウインというわけですね。正確にはウインウインウインですが」

「ウインウインウインですか。まったくそのとおりです」


 ……時間を遡り、ウェラーが秋島の屋敷を訪ねたあの日から二日経った日の深夜。

 彼は屋敷の主の招きにより再びそこを訪ねていた。

「ミスター・ウェラー。あなたからの依頼をお受けすることが決まりました」

「ありがとうございます。ミスター秋島」

「ですが、条件があります」

「承りましょう」

「まず報酬ですが、我々はあなたがたがシリアで手に入れた『もうひとつのファイストスの円盤』を要求します」

 秋島は籠から果実のひとつを取り上げるようにその遺物の名を口にした。

 だが、言われた方がそうはいかない。

 ……ふざけるな。手に余るものとはいえ、あれを手に入れるために我々がいったいいくら支払っていると思っているのだ。あれはこの程度の仕事の報酬になるようなものではない。

 その心の声がそのまま映し出されたように顔色を変えた彼は自分よりもひと回りは若い男を睨みつける。

「我々があれを手に入れていたのをご存じであるあなたがたが報酬として要求するのはわかります。ですが、申しわけないのですが、あれは世界の宝であり、いずれ我々の美術館で公開する予定です。ですから『はい、そうですか』とあなたがたに譲り渡し闇に消すわけにはいきません」

 それは拒否と言う部分を除けばすべて嘘で塗り固めた言葉だった。

 だが、彼渾身のハッタリも念入りに準備をしてきた相手には通じない。

「それは見ものですね。あなたが属する国が殲滅を図ろうとしているテロリストに大金を渡して買い取った品をどのような説明をして公開するのですか?いつものように、文化財の保護ですか?ですが、そのようなことをしたら末代までの笑いものになりますよ。人質になった人間には一セントも支払わないのに骨董品には一千万ドルを気前よく支払うのかと」

 ……くそっ。そんなことは言われなくてもわかっている。

 自らの言葉をあっさりと看破され、心の中で地団駄を踏んで悔しがる彼の前に座る日本人の言葉はさらに続く。

「そもそもあれはあなたがたのような日の当たる部分に顔を持つ組織が手にするものではなかったのです。もちろんそのことをあなたはよくわかっているはずだ。そして、あなたがあれをどうしたいのかも我々は知っている。だから、要求したのです。あなたもこのようなつまらぬ駆け引きはやめるべきでしょう。あなたが回答を先延ばしすればするほど逃亡者は遠くに逃げることができるのですから」

 ……いちいち癇に障る物言いだ。だが……。

 ……そのとおりだ。

 ……仕方がない。

 観念するように彼は俯いたままその言葉を口にする。

「……確かにあれは我々にとってのジョーカーだ。こういう機会でもないかぎり有効に活用できないのも指摘のとおりだ。いいでしょう。我々の手の中にある『もうひとつのファイストスの円盤』を今回の報酬とします」

 ……こういう形であれを失うのは残念だが、とりあえずこれで決着だ。

 一方的な譲歩を強いられたものの成功報酬も決まり交渉は終わったとほんの少しだけほっとした彼だったが、実は話はまだ終わっていなかった。

「ありがとうございます。では、それを今日中に持参してください。品物を確認次第我々は仕事に入りますので」

 それは成功報酬として『もうひとつのファイストスの円盤』を差し出すつもりだった彼にとっては驚くべき要求だった。

 一旦は落ち着いた彼の心臓の鼓動が再び早まる。

「ちょっと待ってください。それは成功報酬ではないのですか?」

「いいえ。報酬はもちろん先に頂きます」

「さすがにそれはあまりにも虫が良すぎる話ではないのですか。とても承服できない」

 確かに事前に報酬を渡してしまってはそれを手にした相手が動かない場合も手放したものは戻ってこないのだから、その要求に疑念を抱く彼の言葉は正しい。

 だが、交渉とは主張が正しいか否かで結果が左右されるわけではない。

 特にこのような交渉では。

 そして、この日の交渉で勝者になるために必要とされるものを持っていたのは彼ではなかった。

 そのすべてを握っていた彼の目の前に座る日本人が口を開く。

「そう思うのはあなたの自由です。ですが、私は主より『ファイストスの円盤』を事前に差し出されないかぎり依頼は受けるなという指示を受けておりますので、一切の妥協を拒否します。それでいかがいたしますか?交渉から降りるのであればそれでも結構ですが」

「ちっ」

 相手の言葉に頷くことしか許されない今の彼が舌打ち以外にできることといえば、心の中で苦虫を盛大に嚙みつぶして憂さを晴らすぐらいしかなかったのだが、常人の多くが怒り狂い交渉の席を立つこの場面でこの人物の非凡さが露わになる。

 ……どうせくれてやるのだ。それがいつかなどたいしたことではない。彼らが気持ちよく仕事ができるというのならそれでいいではないか。

 ……そう。見誤ってはいけいない。今すべてに優先すべきは手遅れになる前にあれを密かに始末すること。それ以外のすべてが些事なのだ。

 心の中ですばやく取捨選択をおこない、彼は自らにとっての最良の選択を見つける。


「……それも承知した」


 ……ありがとうございます。ウェラーさん。

 それはその人物の率直な気持ちだった。

 なにしろ彼は「彼はもっとも重要なこと以外はすべて捨て去ることができる傑物」という鮎原の助言に従って強硬姿勢を貫いたものの、実は自らの言葉によって交渉が打ち切りになるのではないかとはらはらしながら相手の言葉を待っていたのだから。

 ……さて、そんなあなたに感謝しながらそろそろ仕上げに移りましょうか。

「ありがとうございます。ところで、ミスター・ウェラー」

「何でしょうか?」

「報酬を頂く以上我々はあなたからの依頼を誠実に実行するつもりです。ですが、どちらかひとつを諦めなければならなくなったときには、どちらを優先すべきかをお聞きしておきたいのですが、いかがでしょうか?」

 男のその言葉に彼は再び唸る。

 ……やはりわかっていたのか。私の魂胆を。

 ……それなら結構。ここまで知っている者につまらぬ隠し立てなど不要だ。

 もはや体面を気にすることなくその男はその言葉を口にする。

「あなたも組織をまとめる人間ならどちらを優先すべきかなど聞かずともわかるでしょう。それ以外のことがどうなろうともそれだけは必ず実行していただきたい。そのための『ファイストスの円盤』だ」

 彼の言葉を聞いた日本人が頷く。

「承知しました。ミスター・ウェラー。あなたが真に望んでいる状態で彼を届けることをお約束します」

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