帚木
天野川夜見子が蒐書官たちを統べる立場になって三年が経った二十歳の誕生日が過ぎて二日後の七月四日の夜。
彼女はその本を読んでいた。
「……なるほど」
もはや本当に読んでいるのかもわからないようなスピードでそれを読み終えた彼女は、その古い本をテーブルに置くと、その本の価値と文章量に比して極めて短い感想を呟いた。
「ということは、やはりあるということになりますね」
そして、彼女のその言葉に同意したのは、彼女よりふた回りほど年長の男だった。
男は頷き、それから口を開く。
「その経緯というものがどういうものだったのかは現時点ではわかりません。ですが、存在していたものがある日突然消えてしまったのは間違いないでしょう。そして、これはその現場に立ち会ったのか、少なくてもその状況を目の当たりにした人物の言葉です」
「そうですね。それで、あなたはどう思いますか?」
「どうと言われますと?」
「では、もう少しはっきりと言いましょう。残っていると思いますか?『輝く日の宮』は」
「それは何とも。ただし……」
「ただし?」
「かつて存在したのであれば、現在でも残っている可能性はゼロではありません。探してみるだけの価値はあるでしょう」
「そのとおりですね」
「では、そのように手配をさせていただきます。ただし、これまで見つかっていないことから発見には時間がかかるという覚悟だけはしてください」
男の言葉に夜見子が頷き、それからもう一度口を開く。
「ところで……」
「なんでしょうか?」
「当主様がこの本をどのようにして手に入れたのかをあなたは知っていますか?」
夜見子のこの疑問は当然である。
なぜなら、これは彼女が今の地位に就くよりもずっと昔から立花家の所有物となっていたのだから。
夜見子の言葉は続く。
「記録によれば、これはあなたが蒐集官を束ねていた時期に手に入れたことになっています。もしかして、何か知っているのではないのですか?」
もちろん彼女は当時の空気を吸った者として多少なりとも情報を共有しているのではないかと訊ねたつもりだった。
だが、それに対する男の答えは彼女の想像を大きく超えていた。
「もちろん知っています。なぜなら、それを手に入れたことに私も直接関わっているのですから」
男が懐かしそうにその本を眺めながら語ったその言葉は、当時の状況を知っている彼女には意外なものだった。
少しだけ驚いた彼女が再び口を開く。
「カイロを中心に活動していたあなたが日本の古典を手に入れることに関わっていたとは驚きです。では、その経緯を話してもらえますか」
「承知いたしました」
彼はそこから長い月日を遡らなければならないある物語を語り始めた。
その頃はまだ蒐書官という肩書は存在せず、蒐集官と名乗っていた彼らは立花家直属の組織として主のために裏世界で美術品を手に入れる活動していた。
その日、世界中に散らばる蒐集官たちを束ねる立場にあるその男が姿を現したのは、東京の中心とは思えぬ木々に囲まれた広大な敷地に建つレンガ造りの洋館だった。
「鮎原。実はおまえにやってもらいたい仕事があってわざわざ日本に戻ってきてもらった」
「私は立花家の僕。何なりとお申し付けください」
彼のいつもと変わらぬ言葉に男は頷く。
「実は妙な噂が流れている。おまえにやってもらいたいのは噂の主を探し出しその真偽を確かめ、それが事実である場合には適切な措置を講じてもらいたいということだ」
「承知したしました。それで、その噂とは?」
「うむ」
そう即答する彼に将来立花家の当主として彼が属する組織はもちろん橘花グループのすべてを支配することになる男が彼に差し出したのは一冊の本だった。
「おまえはこれを知っているか?」
「源氏物語ですね。もちろん知っています」
「では、読んだことは?」
「熱心にというわけではありませんが、もちろんあります」
「なるほど。それで、その感想はどうだ」
「それは素晴らしいもので……」
「私が聞きたいのはそこではない」
「も、もうしわけございません」
あまりの語気の強さに彼はすぐさま謝罪の言葉を口にする。
だが、恐縮したのは彼だけではなかった。
たった今彼を怒鳴りつけたその男はすまなそうに言葉を重ねる。
「いや、感想はどうかと問われれば、読んだ感想を答えるのは当然なのだからおまえが謝罪することはない。あきらかに私の言い方こそが悪かったのだ。謝罪して改めて言い直そう。この物語に違和感はなかったか。言葉をつけ加えれば、何か構成について疑問を感じるところはなかったか」
おそらく気の利かない者ならこの言葉を聞いても、まだ物語の中の出来事に思いを巡らしていたことだろう。
だが、彼は違った。
……なるほど。そういうことですか。
目の前の人物が望むものを理解した彼が口を開く。
「いくつか語るべき箇所が足りないと思われる部分がありました。もちろんその後にそれを補う言葉もあり、そこでおこなわれたことは十分に想像できましたが、やはりそれは語られる場所で語られるべきではないかと感じました」
「さすがだな。そのとおり。そして、今回の噂もそれにまつわるものだ」
そこから、男は彼に語ったこと。
それは源氏物語に関する論争のひとつに関するものだった。
「『輝く日の宮』は知っているか?」
「名前だけは。その名前の巻が源氏物語に存在したどうかで論争になっているものだと承知しております」
「そのとおりだ。ちなみに、おまえはそれについてどう思う?もちろん物的根拠を要求するものはないただの思いつきの範囲で構わない」
「先ほどの違和感のひとつが、『桐壺』と『帚木』の部分でした。もちろん現状の表現は『間』を大事にした非常に優れているものですが、ここにさらに一巻が存在してもおかしくはないと思いました」
「さすが鮎原。隙がない答えだ。せっかくだ。私の見解も述べておこう。私は入手困難な紙の節約のために当初『桐壺』から『帚木』へと書き進んだものの、のちにその部分を書き加えたものが『輝く日の宮』だと考えている」
「そのような意見を持つ根拠はどのようなものなのでしょうか?」
「まず、『輝く日の宮』があったとされるのは二巻目にあたる部分だからだ。その当時はまだ評価も定まっておらず上流階級であっても貴重なものであった紙が安定的に供給されるかどうかもわからなかった。そのため省ける部分は省いたのではないかと考えた。それに、決定的なのは最初から存在したものを一巻分そっくり落とすというのは相当な理由がなければできないことだ」
「たしかに『雲隠』にはそのような噂もありますね」
「そうだ。だが、『輝く日の宮』に書かれるべき内容はそこまでするものではなかったと思われる。つまり、『輝く日の宮』はそこまでの理由でなくても一巻丸ごと削除することができる環境が最初からあったのではないかと考えた。そして、何らかの事情でそれはおこなわれ、その結果といえば元に戻ったと言えなくものないだが先ほど鮎原の言ったいかにも日本的な『間』が生まれた素晴らしいものに仕上がった。私はそう考えている」
「……つまり式部の手による『輝く日の宮』は存在したと考えるわけですね」
「あって欲しい程度には。さて、おまえならここまで話せば今回の仕事がどのようなものかはわかったと思う」
「もちろんです。『輝く日の宮』の痕跡が見つかったので、その所有者を見つけそれを回収して来い。これが指示の概要ということでよろしいでしょうか」
「端的に言えばそうなる。ただし、その噂が正しければそれは『輝く日の宮』そのものではないらしい。『輝く日の宮』が存在した痕跡が残る品を売りたがっている者がいる。それが私の把握しているその噂のすべてだ。つまり、それは『輝く日の宮』の痕跡が残るものであって『輝く日の宮』ではない」
「『輝く日の宮』の痕跡があるが、それは『輝く日の宮』そのものではない。なぞかけのようですね」
「まったくだ。だが、それがどのようなものかを是非確かめたい。金に糸目はつけないので本物であれば必ず手に入れてくれ」
「かしこまりました」
「それから噂を聞きつけた別のコレクターがすでに動いている可能性がある。それにその噂はまだ日の当たる世界には広がっていないが、それも時間の問題だろう。好きな者を好きなだけ連れていって構わないから早急にケリをつけてくれ」
その晩、彼は渡された資料を読み返す。
「その男、いや、男かどうかもわからない。とにかくその者はなぜ『輝く日の宮』が存在した証拠を手に入れながら公表せずに日の当たらない場所だけに情報を流したのだろうか」
それは彼がその話を聞いた時点で疑問を持った点だった。
「書物に限らず歴史的にも貴重な品を隠し持っている者は驚くほど多い。だが、その多くは人に自慢できない方法でその品を手に入れているために所有していることを言わないというよりも言えないと表現したほうがいい立場の人間である」
そこまで自分に向けて語ったところで、彼は自らを嘲るように苦笑いを浮かべる。
「……まあ、その最たるものが自分の仕える方々であるのだが」
冷たくなったコーヒーを少し口に含み、彼はさらに考えを進める。
「では、その噂の主もそこに含まれるのか?」
彼はそう問い、それからすぐに自らそれを否定する言葉を口にする。
「それはない」
もちろん彼が断言するのには根拠がある。
ひとつは蒐集官の存在である。
「略奪は言うに及ばず大金が動く取引を特別な人間でない者が蒐集官に気づかれることなくおこなうことなど不可能だ」
傲慢に聞こえる彼の言葉であるが、それは驕りではなく事実だ。
なにしろ彼らの目を盗んでそのような取引ができる者など日本国内では数えるほどしかいないのだから。
では、彼の言うその特別な人間が今回の噂の主なのか?
「それこそあり得ないというものだ。彼らが一旦手にした貴重な品を簡単に手放すことなどありえぬ。彼らが関わっているのならそれは罠を張っている場合だけだ。だが、我々に面と向かって喧嘩を売ろうとする愚かものは彼らの中にはいない」
そこで、言葉を切った彼はもう一度自らの考えを咀嚼する。
特別な力と手段を持ったコレクターではないのなら、蒐集官が日本に姿を現した明治初頭にはすでにそれを手にしており、しかも、所有していることを世間に知られていない者がその噂の主に該当する。
もちろんそのような者も彼は知っている。
いや、そういう者こそが今回の噂の主に最もふさわしい人物だといえる。
「そうなるとやはり呪縛だろうな」
呪縛。
それは彼が先輩たちから受け継いだ言葉で、その品を権力者から守るために所有者一族がいにしえよりおこなってきた「門外不出」よりもさらにもう数段階上位の秘匿方法である「その存在そのものを口外しない」ことを指していた。
「つまり、今回の噂の主は呪縛に取りつかれた遥か昔よりそれを所有していた一族の末裔」
彼はそう断定した。
「では、なぜ今おかしな噂が流れているのか?」
「相手が呪縛に取りつかれた者であるということであれば、考えられるのはふたつしかない」
「金と罠」
それが彼の答えだ。
「まあ、そういうことなら、今回の仕事に同行させる者は決まってくる」
翌日の朝。
都内でも有数の高級ホテルにあるレストラン内に設えられた個室。
そこで朝食をとる彼の同じテーブルには三人の男が同席していた。
「それにしても珍しいですね。鮎原さんが日本で活動するなんて」
「勅命だからな。そういうことで君たちも心して仕事をするように」
「承知しております」
「ところで、ここに君が現れたということは依頼した情報の分析は一晩で済んだと思っていいのかな。秋島君」
「当然です」
「よろしい。朱雀君も蒲原君も準備はできているということでいいかな?」
「もちろんです」
「もっとも、君たちが集合時間のはるか前からこうしてやってきた理由は別にあるのだろう」
「違います。ときっぱりと否定したいところなのですが、それができないのが非常に残念です」
「まったくですね」
「同じく。これの誘惑には勝てませんでした」
潔く本当の目的の存在を白状する彼らだったが、たしかに彼らのその判断は正しいといえる。
なにしろカイロから帰ってきた鮎原が日本での滞在先として選んだこのホテルはすべてがその評判に違わぬ一流のサービスだったのだが、その中でも食事の素晴らしいことは有名で、特に朝食は「朝食に支払うものとは思えぬその高額な料金が安く思える至福」、「一生に一度は食べるべきもの」とされているものだったのだから。
「もちろん今日の朝食は私の驕りだから十分堪能してくれたまえ。では、食事をしながらそろそろ仕事の話をしようか」
そこから彼が依頼された仕事の概要を説明するのに要した時間は五分。
それはすべてを説明するにはあまりにも短いものだった。
だが、これだけで彼が言いたいことを理解できない者はここにはいない。
「……なるほど。十分理解できました」
「そして、これが秋島君に調べてもらった候補者のリストだ。そのプロフィールも載っている。さて、ここに君たちが関わったことのある者の名前はあるかね」
鮎原のその言葉に全員が首を横に振る。
「鮎原さんには何か懸念でもあるのですか?」
「話があまりにも出来過ぎている。だから、これは我々を誘い出すために仕組まれているのではないかと思っただけだ」
「と言いますと?」
「この話を聞いて蒲原君はどう思うかね」
「もちろん美味しい話だと思います」
「そうだろう。コレクターの自称する者がすぐに動き出すに違いない話だと私も思う。ところがだ」
「何か?」
「どうやらその噂を聞いたのは我々だけのようだ。つまり、その噂は我々の耳にしか届いていない。これをどう評価する?朱雀君」
「罠ですね。さらに言えば、その罠は我々に物理的ダメージを与えようという罠以外に、偽物を掴ませて大金をせしめようとしている可能性も考慮すべきでしょう」
「秋島君の見解は?」
「罠かどうかはともかく少なくてもその噂の主は我々を誘っているのは間違いないでしょう」
「そういうことだ。相手が蒲原君の挙げたふたつの可能性のどちらに属していようとも、こちら側で生きる者ものならば我々に喧嘩を売ることがどれほど愚かなことかは知っているはずだ。だが、世の中にはそれでもあえてそれをおこなおうとする者はいる。我々に対してそのようなことをおこなおうとする意志を持っている者がいるとしたらどういう理由によるものかな」
彼の問いに答えたのは蒲原という男だった。
「当然我々と関りに持った者となります。もう少し言えば、我々が大変お世話になった方々です」
「そうだ。だから、国内の蒐集活動を把握している君たちに訊ねたわけだ。そのような人物がこの中にいるかどうかと」
「なるほど」
「だが、君たちの答えはノーだった。もちろん、その噂の主は君たちが迷惑をかけた者の縁者という可能性もあるが、基本的にはこれまで我々とは接触がなかった者と思ったほうがよさそうだ。さて、ここからが本題だ。この中で一番怪しいのは誰だと思う?」
三人の指が瞬時に指さしたのは同じ人物だった。
「これは驚きだな。それほど人相が悪いとは思えないが……」
「では、鮎原さんは誰だと思っているのですか?」
「奇遇だな。実は私もこの男だと思っていた。そういうことならば、まずはこの男からあたることにしよう。では、最初にこの男が噂の君であると君たちが思った理由を聞こうか」
彼が視線で指名した男が口を開く。
「理由も何も条件に合っているのがこの男ひとりだったからですかね」
それに続いて、隣の男が口を開く。
「そうですね。猜疑心が強く、明治期以降の成り上がりがではない所謂名家と呼ばれる家系であり、それを鼻にかけていること。そして、あまり知られてはいないが、現在経済状況がかなり悪い者という条件に合う者はこの男だけです」
「だが、十代前の祖先が名家を鼻にかけていたというのならともかく、その考えが現代に生きる彼のなかの重要部分を占めているようならばこの男の時代錯誤も相当なものだな」
「それに、そのような考えの持ち主なら通常なら我々に取引を持ち掛けるなどあり得ない。つまり、それほど切羽詰まっているということなのかな」
「確かにいえる。だが、たとえ金に困っているのならコレクターではなくても、彼の一族と同格以上の者に買い取ってもらうという手もあったのではないか。たとえば桐花家のようなところに。これなら格下の者に頭を下げなくて済む」
三人のうちのひとりである蒲原がその言葉を口にすると、それまで聞き役に回っていた彼らの上司にあたる人物は口を開き短い言葉を発した。
「……甘い」
「甘い……ですか?鮎原さん」
「蒲原君。君はプライドの塊のような人間の気持ちがわかっていない。彼らにとって格下の者に頭を下げる以上に避けたいのはライバルに対して頭を下げることだ」
「そうなのですか」
「そうだ。格下のものにはいくらでもやりようがあるが、ライバルに対してはそれが通用しないからな」
「……お伺いしてもよろしいですか?」
「何かね。秋島君」
「そうは言いますが本当に桐花家は彼らのライバルなのですか?私にはとてもそう思えないのですが」
その瞬間、残るふたりが小さく笑う。
それは嘲りの成分が含まれているものだった。
もちろん彼はそれが何を意味しているかを十分に理解していた。
……たしかに間違いではない。
……だが、とりあえず言っておくべきだろうな。
心の中で呟いた彼の口が開く。
「この場合に大事なのは客観的な評価でも桐花家がどう思っているかでもない。彼らが桐花家をどう思っているかだ」
つまり、その者が桐花家を一方的にライバル視している。
彼の言葉はそう言っていた。
「……そういうことなら十分に考えられますね」
「猜疑心が強いということを条件に加えたのは?」
「品物を売りたいと言いながら、自らの身元とあきらかにしない者が猜疑心と無縁な人物とは思えないだろう。本人は『名家の当主である自分は猜疑心が強いのではなく用心深いのだ』と主張するのかもしれないが、中身はたいして変わらない」
「なるほど」
「まあ、そういうことで噂の君がこの男でいいということにしよう。だが、もうひとつ問題がある。というか、この男を攻略するきっかけになるともいえるキーポイントがあるのだが、わかるかな」
「……それは誰がこの男に入れ知恵をしたかということでしょうか」
「さすが秋島君。そのとおりだ。先ほど君たちが分析したとおりこの男はプライドが高い。そのため金が尽きかけているにもかかわらず有効な手を打てないでいた。そこに状況を打開するアイデアを持った人物が現れる。もちろん現れるのではなく、彼にそのアイデアを提供したのは元々彼の身近にいた人物だ。そうでなければ彼がそのアイデアに乗るはずがないからな」
「私がこの男が噂の男ではないかと考えたのはそのような人物が身近にいたからです」
「素晴らしいな。それで、その人物とは?」
「彼の弟です」
「彼自身の思いつきという可能性もあるのではないでしょうか?」
「ないとは言えないし、実際に思いついてかもしれない。だが、彼の長男という立場ではたとえそうでもそれは言いだしにくいのではないか。特に弟が別の意見を持っていた場合には一族の宝を他人に売り渡すことをよしとせず、それだけではなく長男は一族の長という地位に相応しくないと非難されることになるだろうから」
「なるほど」
「蒲原君。君はこの弟が苦境に立たされている兄に助け船を出した理由がわかるかな」
「単純な兄弟愛か、自らの利益のため。この二択でしょうね」
「彼ら兄弟は仲が悪いわけではないが、固い絆で結ばれているわけでもないとしたらどうなる?」
「当然後者でしょうね」
「朱雀君は?」
「私もそう思います」
「秋島君。正解を」
「彼の弟は飲み屋を営んでいます。もちろんそこでは名家の子孫というものを売り物にしているわけで、だらしない兄によって実家が潰されてはその売り文句が使えなくなるだけでなく火の粉が自分のところに飛んでくることも危惧したのでしょう」
「決まりだな」
「だが、それではその弟は我々を知っていたということになりはしないか」
「彼自身がこちらに足を踏み入れていた様子はないので、彼の客のなかに裏世界に関わっている者がいたのではないでしょうか?」
「我々にしか届かない巧妙な伝達方法もそこからということか?」
「そうでなければ、彼にそのような才があるということになります」
「……いや」
……そんなはずがない。
彼は心の中でそう呟く。
……我々の耳にだけ届くようにごく自然に情報を流すなど余程の情報操作能力とそれを可能にする組織がなければできない。
……そう。これはとても一介の飲み屋の経営者が思いつくものでも、たとえ思いついたとしても簡単に実行に移せる類のものでもない。
……では、どのような人物にそれが可能なのか?
彼には思い当たる人物がいた。
最近橘花グループで頭角を現してきた男。
……証拠はない。証拠はないが……。
……あれならこの程度のことは容易くやってのけるだろう。
……とりあえずあの男なら構わない。だが、そうでなければ即座に処理すべき案件だ。
……まずは早急に確認しなければならない。
「鮎原さん?」
「気にしなくて結構だ。それよりも、朱雀君に至急やってもらいたいことがある」
彼の予想は当たっていた。
彼が思い浮かべたその男はある目的のために数か月前から営業が終わる間際、他の客がいなくなるのを待っていたかのよう噂の君の弟が営む店に通っていた。
必然的に彼はマスターでもある噂の君の弟と親しく会話をする機会が増えるわけなのだが、言うまでもなくこのような店ではマスターが客の話を聞くというのが一般的なスタイルだ。
もちろんこの男の場合も最初はそうだった。
だが、男はすぐに巧みな話術で立場を逆転させていた。
やがて、彼は男に自分と自分の一族が抱えるある問題を打ち明ける。
男は親身になってそれを聞くと、ある言葉を口にした。
「それほどお金にお困りなら、家に伝わる何かを売ったらいかがでしょうか?一挙に解決したうえでお釣りがきますよ」
「家に伝わるもの?」
「マスターの実家は格式ある家です。あるでしょう。そのようなものが」
「まあ、たしかにあるにはある」
「それは素晴らしい。それを売るかどうかは別にして、それはどのようなものなのですか?後学のために是非……」
もともと気を許していたうえにアルコールも入り警戒心が緩んでいた彼の口を割らせるなど男にとっては造作もないことだったのだが、彼が口にしたものを聞いたときにはさすがに男も驚きを隠せなかった。
……古い源氏物語の写本。しかも、幻の巻「輝く日の宮」についても言葉が記されているとは。
……これこそ瓢箪から駒というものだ。
……これを当主様に献上すれば間違いなく……。
だが、捕らぬ狸の皮算用を始めたところで彼の心が自制を促す。
……いや。これは蒐集官の縄張りに属するものだ。
彼が属する橘花グループには各セクションは互いの守備範囲を尊重する厳格なルールがあった。
……協調性のかけらもない排他主義者の集まりである蒐集官に関わるものは特にそうだ。
……名を上げる好機ではあるが、一時の利益のために将来に響くようなおこないは避けるべきだ。
……それに、私の目的はそれではない。
……ここは蒐集官に恩を売っておくことでよしとすべき。
……それに、それが本物である保証がない以上、リスク回避にもなる。
……なによりもこれは噂通りの実力が蒐集官にあるのかを確かめるいい機会でもある。
「私にひとつ提案があります」
一か月後のある朝。
蒐集官を束ねる立場にあるその男は今朝もあの場所で食事をしていた。
そして、この日彼はひとりの男をその場に招待していた。
「お招きいただきありがとうございます。鮎原さん」
男は笑顔を絶やさぬまま一部の隙もない礼を述べるが、そこには言葉とは乖離した別の感情が乗っていることが鮎原には手に取るようにわかった。
……緊張と対抗心が駄々洩れだよ。
彼は失笑し、心の中での言葉を少しだけオブラートに包み口にする。
「一の谷君。君はまだ若いな」
一方、男は彼の表情と言葉にさらに感情が高ぶる。
「……それは鮎原さんと比べてということでしょうか?」
「そうだ。ただし、私が言っているのは実年齢の話ではない」
一瞬とは言えない時間が過ぎ、目の前の男は絞り出すように言葉を吐きだす。
「……それは経験ということですね」
「さすがだな。そのとおり。だが、そうであっても私が抱えている若者たちよりも君は半歩ほど前に出ている」
「だが、自分には届かないと言いたいようですね……」
「私が言わなくても君自身がそれを実感しているのではないのかね」
……忌々しいがそのとおりだ。
男は口惜しさを滲ませながら、少し前にあった出来事を振り返る。
……私が苦労してつくりだしたあの策を鮎原さんはわずか一日で看破しただけでなく、私が手引きしていたことさえ見抜いた。
……いったいどうやって?
……それが経験ということなのか。
「それを言うためにわざわざ朝食に招待してくださったのですか?」
「まさか。この前の礼を言うために決まっているだろう。君の手引きがなければ、我々はあの書まで辿り着けなかった。果実を手に入れながら、その場所を教えてくれた相手に礼も言わないなど無礼の極みというものだ」
「……なるほど」
「それから、どこで習得したのかは知らないがあの情報操作は見事だった。問題点がいくつかあったので修正は必要だが何かの機会に使わせてもらうよ」
「そういうことなら、その使用料を成功報酬分も含めて形あるもので頂きたいものですね」
「なるほど。だが、君がそれを言うのならこちらも今回かかった経費の半額負担を願うがそれでも構わないかね」
「それはどういうことでしょうか?」
「君だって私が気づかないとは思っていないだろう。君の狙いがあの兄弟の分断と弟が営んでいた店の乗っ取りだったことを。結果的に君の策に乗った兄弟は我々に『帚木』を売り、その金が元になって騒動になった。そして、君は漁夫の利に近い形で弟だけでなく兄の土地まで手に入れたのだから、騒動の元になった『帚木』を買い取った資金を出した我々に君は幾ばくかの金を支払う義務はあるだろうと言っているのだよ」
……そこまで読み切っていたとはさすがです。
「なるほど。筋は通っていますね」
……この人にはまだまだ勝てない。
……それどころか背中、いやその姿すら見えないくらいの差がある。
……私の才はこの人を超す日が来るのだろうか?
心の中で自問を繰り返した男はひと呼吸おいて、その言葉を口にする。
「ひとつ訊ねてもよろしいですか?」
「もちろん」
「私はあなたを超えることができますか?」
「それはこれからの君次第だろうが、その問いに答える代わりにひとこと忠告しておく」
「なんでしょうか?」
「理由の如何を問わず橘花を離れたら、私は必ず君を必ず殺す」
「……それは私にとって最高の誉め言葉です。ありがとうございます。鮎原さん」
すべての話を聞き終えた彼女は少しだけ感慨深げな表情を浮かべる男に声をかける。
「……この本の獲得に、現在の統括官たちだけでなく、橘花のエースなどと呼ばれているあの男もこの本に関わっていたのですか。それにしても、あの一の谷を軽くあしらうとはさすがとしか言いようがありませんね」
余韻のすべてを台無しにする彼女の嬉しそうな言葉に男は苦笑いを浮かべながら答える。
「ですが、それはもう十年も前の話です。彼がその才に経験が加わって橘花随一の交渉能力を持つようになった今は私など彼の足元にも及びません。しかも、驚くべきはあれが彼の本当の実力ではないということです」
「どういうことですか?」
「私の見立てでは彼はどのようなときでも三割くらいの力で仕事をしています。いや。もしかしたら、それ以下なのかもしれません。底がまったく見えないとは彼の才に関する表現にこそふさわしい言葉です」
……なるほど。そういうことですか。
「能ある鷹は爪を隠すということですか。ですが、それはあなたも同じことでしょう。ところで、今の話を蒐書官たちは知っているのですか?」
「彼らには何も言っていませんので、知らないと思います。ただし、彼はそのあとしばらく私のもとを訪ねてきていたので、当時の部下たちは彼を快く思ってはいないと思いますが」
「なるほど。それが若い蒐書官たちにまで引き継がれた伝統になっているわけですね」
「まあ、そういうことになりますが、彼の場合は元々人に好かれるタイプでもありませんし、人に好かれたいと行動をしてもいませんので仕方がないのではないでしょうか」
「あなた自身は彼をどう評価しますか?」
「積極的には友人になろうとは思いませんが、単純に仕事上の仲間や同じ敵に対して戦う味方ということであれば非常に心強いと言えるでしょう。さて、昔話はこの辺で切り上げてそろそろ本題に入られてはいかがですか?せっかく当主様が『輝く日の宮』の存在を確信させる証拠が残るこの『帚木』を夜見子様の誕生日プレゼントとして下賜されたのですから……」




