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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story 残照

「桜人」の後日談的話となります

 東京都千代田区神田神保町に聳え立つ建物。

 窓が極端に少ないこと以外はいたって普通に見えるその建物の一室。

 あの日、そこで建物の主天野川夜見子と以前彼女が語学を教えていた次期立花家当主立花博子はこのような会話も交わしていた。


「そういえば、藤葉義詮は『桜人』の持ち主だった長野の豪農と接触していたようですね」

 実を言えば、諸々の事情により彼女は少女にまだあの日記の存在を知らせていなかった。

 ……それなのにいったいどこからその情報を得たのだろうか?いや、もしかしたら、情報など手に入れておらず……。

 それを問い質したかった彼女だったが、まずは自分の義務を果たさなければならない。

 自らの気持ちを心の中に押し込め、彼女は少女の問いに答える。

「そのとおりです。藤葉義詮の屋敷から回収した資料のひとつである使用人の日記にそのような記述がありました。そして、そこから私たちは『桜人』の存在とその持ち主を知ることができたのです」

 少女の問いは続く。

「なるほど。それで、藤葉義詮が長野の豪農と接触したのはいつのことなのですか?」

「藤葉義詮の使用人の日記によれば、半年ほど前から始まった交渉は私たちと接触する少し前には決裂したようです。お嬢さまはそれについて何か気になることがおありなのですか?」

「いいえ。私たちとの交渉の前に『桜人』を手に入れておけば彼にとってかなり有力な交渉材料になり得たはずだったと思っただけです」

 ようやくできた彼女の問いかけに答えた少女の言葉は正しい。

 その言葉通り世界的書籍コレクターである彼女もさすがに「桜人」は手に入れておらず、さらに言えば、その情報を手に入れるまで「桜人」は原本どころか写本も残っていないと考えていた。

「たしかに『輝く日の宮』をコピーさせる代わりに、『桜人』のコピーを渡すと持ち掛けられたら私は難しい判断を迫られたかもしれません。ただし……」

「鮎原なら何か有効な策を講じたかもしれないと言いたいのですか?」

「そのとおりです。なんといっても鮎原はあの一の谷の上をいく権謀術数の使い手ですから」

「つまり過程は変わっても結果は変わらないと言いたいわけですね。たしかにそうですね。たとえば私が鮎原の立場なら、その事実を知っても強烈なブラフを利かせながら予定通り藤葉義詮の持つ源氏物語の写本フルセットを強硬に要求して彼を暴発させ彼の屋敷を襲う口実を得るように献策したでしょうし、おそらく鮎原も同じ提案をしたと思われます。つまり、たとえ藤葉義詮がその時点で『桜人』を手に入れ、それを交渉材料として提示してきても、結局先生が手にする貴重本が一冊増えただけだという結果になったことでしょう」

「なるほど」

「ですが、それはあくまで鮎原の為人を知ったうえでの話です。それを知らない藤葉義詮にとっては十分な交渉材料となりうる『桜人』をなぜどのような手段を使ってでも手に入れようとしなかったのか。そこが私には不思議でなりません」

 ……なるほど。お嬢様の知りたかったこととはこれか。

 彼女は心の中でそう呟き、口に出したのはその疑問に対する答えだった。

「日記には私たちの交渉が始まった直後、この使用人は藤葉義詮に『桜人』を手に入れれば『輝く日の宮』に関する交渉を有利に進められるので手に入れるべく再交渉すべきだと進言したが藤葉義詮に却下されたことも書かれていました」

「気がつかなかったのなら愚かなだけですが、それに気づきながらそうしなかったというのは愚かどころではなく理解不能と言わざるを得ません。日記にはその理由は書かれていましたか?」

「無礼な爺さんに頭を下げるのは嫌だと言われたとあります」

 その瞬間、少女はあからさまにがっかりしたという表情を見せる。

 そう。

 彼女はこのような感情が理論の上をいく話が嫌いなのだ。

「……なんとも大人気ない理由ですね。そういえば藤葉義詮は私兵を抱えていましたね。そこまで言うのなら、なぜ藤葉義詮は先生に対しておこなったように自らの私兵を動かさなかったのでしょうか?」

「そちらについては使用人たちが反対したそうです。火をつけることは可能だが簡単に消火することはできない。場合によってはこの屋敷にはまで延焼すると」

「つまり、相手が地元の名士であることから殺害した場合には市民が騒ぎ警察も動かざるを得ない。結果として事件のもみ消しに失敗し警察の手が自分たちにも及ぶ可能性が高いということですね。実に私好みの比喩を使用していますが、その文学的素養のある使用人とはどのような人物なのですか?」

「藤葉義詮の執事をしていた男です。最終的には主人を裏切り、屋敷襲撃当日に美奈子に処分されましたが、日記を読むかぎり源氏物語の保存を優先すべきだと主人に訴えるなど常識人ではあったようです」

「常識人ですか。……では、仕方がないですね」

 それは実に奇妙な言い回しだった。

「仕方がないとは美奈子がその男を殺したことについてでしょうか?」

 思わず口にした彼女の問いに少女は頷く。

「たとえば藤葉義詮がただの金持ちということであれば、その執事は有能ということになるでしょう。ですが、藤葉義詮の執事を務めるのであれば常識人だけではだめなのです」

 ……なるほど。たしかにそのとおり。

 彼女は心の中で大きく頷いた。

 藤葉義詮や彼女自身のような人間を補佐する人間は常識だけでなく、それと相反する考えも持っていなければ務まらないのだと彼女も思う。

 少女の言葉はさらに続く。

「つまり、特別な能力もなく常識だけが取り柄などという極めて凡庸な人物なうえに我が身可愛さに主を裏切ったようなつまらぬ男など生きていても先生の役には立たない。鮎原のその判断は正しいと思います」

「……殺害は鮎原の指示だと……」

「直接的な指示をしたのかはわかりません。ですが、その男を本当に生かして使うつもりであれば、鮎原はことが始まる前に北浦女史にそう指示したことでしょう。極端なまでに潔癖症である彼女が裏切り者を許すはずがなく殺すことがわかっていてそれを止める指示しなかったということは、理由は別にあっても鮎原も結論だけは彼女と同じだったということになります。もちろん私も同じ考えです」

「……なるほど」


 紅茶が注がれたティーカップと「輝く日の宮」という洋菓子には不似合いの名前がつけられた菓子が運ばれ少女の話が途切れたところで、彼女は先ほどの疑問を目の間にいる少女にぶつけることにした。

「お嬢様。ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんです」

「お嬢様は、先ほど藤葉義詮が『桜人』の持ち主だった安曇野伸一郎に接触したのではないかと訊ねられましたが、それは何か根拠があってのことなのでしょうか?」

「根拠というよりも結果から遡り出発点に辿り着いたという方が正しいでしょう。もちろん誰にでもできる実に簡単な推理です。それがどうかしましたか?」

 洋菓子を口に運びながらこともなげに少女は言った。

 だが、彼女は心の中で断言する。

 ……いいえ。それは違います。

「申しわけありませんが、もう少し詳しく説明していただけませんか?」

「いいですとも」

 少女は紅茶で口を潤してから再び言葉を紡ぎ出す。

「つまりこういうことです。まず、ベテラン蒐書官で構成される特別なペアが派遣された。内情を知っていればこれだけで目的の本が非常に貴重なものだということがわかります。しかも、それが藤葉義詮の屋敷を襲ってそれほど日が経っておらず、あわただしく決まったことも考えあわせれば藤葉義詮の屋敷から発見された重要な何かを根拠にしていることはわかります。さらに、藤葉義詮は源氏物語の写本蒐集家として有名な人物だった。そして、最後に手に入れたものは源氏物語の幻の一巻『桜人』。これだけの事実を並べば藤葉義詮がその豪農と接触していたのではないかと推測できます」

 少女はこれならわかるだろうと言わんばかりに言葉を区切る。

 だが、彼女は心の中で再び首を横に振った。

「……ですが、目的の書が『桜人』であったとしても必ずしも藤葉義詮が松本の男に接触していたとは限らないのではないでしょうか?現に現地に向かった蒐書官は気づきませんでしたし」

「そうでしょうか」

 それは彼女が勇気を振り絞って出した言葉だったのだが、少女はあっさりと否定した。

「私が思うに、彼らは目的の品が『桜人』と知らされてはいなかったのではないでしょうか」

「そのとおりです。彼らは資料を受け取ることなく現地に向かったものですから。到着後に届いた資料を見て非常に驚いたそうです」

「そうでしょうね。ですが、今の私はそれを知っている。それはその差によるものでしょう。つまり、その人物が源氏物語コレクターで、豪農が持っているその目的の本が『桜人』となれば、それを手に入れる以上の優先事項はありません。たとえば、先生が『輝く日の宮』を所有していることを先に知ったとしてもそれは変わることはないでしょう」

「その理由は何でしょうか?」

「逆に先生が藤葉義詮の立場であればどうですか?『輝く日の宮』を所有する自分と同類のコレクターと『桜人』を所有する素人。どちらから手をつけますか?」

 ……なるほど。たしかにそうだ。

 彼女はようやく少女の言った意味を理解した。

 ……自分と同じ病的なコレクターならそのような貴重なものを簡単に手放すはずがない。

 ……だが、そうでない者が偶然手に入れたものであれば話は別である。

 ……手をこまねいているうちに他のコレクターが接触し手に入れてしまう可能性は十分にある。

 ……逆に所有者が大学や博物館に持ち込むことだってある。

 ……そうなっては手に入れることが困難になる。

 ……そうなる前になんとかしなければいけないとすぐに動く。

 ……実際にあの日記を読んだ鮎原はすぐに九州で活動中だった御菩薩木たちを呼び戻して松本行きを指示した。

「……そういうことですか。よくわかりました」

 詳しく説明された今では確かに十分に納得できることだ。

 だが、与えられたそれはすべて断片的な情報だった。

 それをいとも簡単に組み上げて正しい結論に結びつけてしまう。

 この人はやはり天才だ。

 彼女はそう思った。


「そうそう言い忘れていました。藤葉義詮が手を血で汚すことなく『桜人』を手に入れていたら長野の豪農は焼死することを免れた可能性はあります。たしかに手に入れた執事の日記から浮かんだ『桜人』の元の所有者である彼の書棚にはまだ何か珍しい書があるかもしれないと蒐書官が松本に派遣されることにはなったでしょうが、もう少し穏便に交渉がまとまっていた可能性は十分に予想されます。ですから、藤葉義詮の愚かな判断がこの豪農一家を不幸にしたと言えなくもないですね」

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