焚書坑儒
北京。
歴史ある国の首都であるこの都市には様々な目的をもって多くの日本人がやってくる。
だが、本を手に入れるためだけにこの国を訪れる者はそう多くないだろう。
その目的でやってきた数少ない日本人のうちのひとりが天野川夜見子配下の蒐書官である田中秀一だった。
そして、ガイド役を務めるこのあたりに詳しい中国人とともに彼の隣を歩くのがもうひとりの蒐書官で彼のパートナーである飛鳥昇である。
「やはりいいですね」
「この雑多な雰囲気はヨーロッパでは味わえない」
「しかも、料理がおいしい。フランス料理?あんなもの、高いだけで中国料理に比べたら味に深みがないですよね。これに勝てるのは和食だけです」
「まったくだ」
「治安もいいですし」
「ここは我々のような善良な旅行者にとっては天国だ」
言葉どおりふたりは担当しているこの国を世界のどの国よりも愛していたのだが、これから半日もしないうちに最後に部分について大幅な修正を求められることになる。
「……一応聞いてもいいか」
「どうせこれから死ぬのだ。特別に聞いてやろう。言え」
地元の住民しか利用しないような小さな食堂。
そこで食事中の彼らは一見して普通の人には見えない者たちに囲まれる。
自分たちを囲む男達の中からその頭目と思われる者を見つけ出した秀一の問いに返ってきた暴力な香りを漂わせた言葉に顔を歪めながら彼はもう一度口を開く。
「なぜ善良な旅行者である我々がおまえたちチンピラに食事を邪魔されなければならないのだ?」
もちろん秀一は心の底からそう思っていたのだが、彼がこの地で積み上げてきた実績がどのようなものかといえば、秀一の言う善良な旅行者とは程遠いものと言わざるを得ない。
だから、秀一の言葉に諸々の事実に基づいたそれなりのものが返ってくるのは致し方ないと言えるだろう。
当然のように、男は中立的な立場から言えば極めて事実に近いその言葉を吐きだす。
「なにが善良な旅行者だ。俺の縄張りで好き放題暴れたことを忘れたとは言わせないぞ」
ふたりの会話を肴に黙々と食事を続けるもひとりの日本人は心の中で盛大にその言葉に同意して大きく頷き、周りを取り囲む中国人の正体を知っているもうひとりは下を向き震える。
だが、自らのおこないが善悪問わず関係各所に迷惑をかけていることに無自覚なうえに、楽しみしていた食事を中断させられていたため、すでに高水準に達していた秀一の不機嫌のギアはこの言葉でさらに一段階上がる。
秀一が口と、それ以上に手を動かそうとしたそのときだった。
「ただ暴れただろうと言われても、いったいどれのことを言っているかがわかりません。なにしろ田中さんは都合が悪いことはすぐに忘れるうえに、関わったトラブルはこの中国だけでもたくさんありますから」
その言葉に口にしたのは彼の同僚だった。
……飛鳥君の言葉は……まあ、間違ってはいない。
……だが、今ここでそれを言うのか?
心の中で苦笑いした秀一がもう一度口を開く。
「飛鳥君。俺をトラブルメーカーか物忘れが激しい人間のように言うことをやめてもらおうか。……だが、たしかにそれだけではわからん。そこまで言うからにはそれなりの根拠があってのことなのだろう?おまえはいったいいつどこで起こった出来事の話をしているのだ?」
後輩へのクレームのついでのようにつけ加えた彼の言葉によってふたりに揶揄われていることにようやく気づき、怒りで顔を真っ赤にした男が答える。
「この先にあった書店の店先の話だ。それとも、おまえたちと一緒にいるそこの裏切り者の店があった場所と言ったほうがいいか」
……なるほど。
そこまで言われれば、このチンピラどもが何のためにやってきたのか想像できる。
だが、彼はわざとらしくそれが些細な出来事であるかのように事実を矮小化した言葉でそれを表した。
「……あれか。だが、あれはビジネス上に起こったチョットしたトラブルの解決方法であり、ついでに愛する中国への社会貢献をした結果だ。いうなれば中国にやってきた善良な旅行者としての最小限度の義務を果たしたまでだ。感謝されることはあっても恨まれることではないと思うのだが」
「ふざけるな。おまえたちがやったことのどこが社会貢献になるのだ?」
「もちろん黄とかいう喋る汚物を処理したあとに下水に流し北京を少しだけきれいにしたことに決まっているだろう」
「貴様、それは俺の弟だ」
もちろん、この後におこなわれたささやかな奉仕活動によって彼らは再び北京の美化に少しだけ貢献することになったわけなのだが、この日の彼らにとっては余計な仕事であるそれをおこなうはめになったのは一年前に起こったある出来事が原因だった。
その日、ふたりは天安門広場から少しだけ南西に歩けば辿り着ける小さな古書店にいた。
「店主、さっきは五万元と言っただろう」
「そうだよ。それがいきなり十万元になるというのはひどいでしょう。そもそもその本は五万元だって高いと思うよ」
「そう言われても決まりですから」
「そのような決まりは聞いたことがない」
「そうそう。あまり欲をかかないほうがいいよ。温厚な僕らでも怒るときは怒るよ。温厚な人間ほど怒ると怖いよ」
「……いけませんな。お客さん」
ふたりの日本人と店主の熱が籠った値段交渉に強引に割り込んできたのはふたりの男を従えて店の外からやってきたとてもカタギとは思えない身なりをした中国人だった。
「黄さん」
「黄?どこの黄さんかは知らないが取り込み中だ。それに言っておくが悪いのはこの店主の方だ」
「いや、彼は正しい。お客さんは知らないようだが、ここではそういう決まりになっているのだよ」
「どういうことだ」
「つまり、ここでは客は交渉で決まった金額の倍を払うことになっているのだ」
「なぜ?」
「我々が決めたからだ」
「なるほど。要するに増えた分は、おまえたちに入るみかじめ料ということか」
「失礼な。おまえたちのような外国の悪徳商人から店と商品を守るための警備料と訂正してもらおうか」
「ものはいいようだね。どこのチンピラかは知らないけれど僕らが誰かを知って言っているのかい?知らないよ。あとで公安の人に怒られても」
「おまえたちのことは上から話が来ている。だが……」
「だが?」
「この辺りは実質的に我々が支配しているので、中南海とどれほどコネがあってもここでは我々が決めたルールに従ってもらう。それは上も非公式ながら認めている」
……つまり、我々が政府中央と繋がりあることを知っているということか。
……たしかにこの程度の奴らを始末するなど雑作もない。
……だが、この本がこれだけというわけでないことを考えれば、揉め事を起こすのは得策ではない。
……ここは引くべきだな。
ふたりは素早く判断する。
「辺境の地ならともかく北京のド真ん中にそのようなものがあるのは驚きだが、郷に入れば郷に従えという言葉もある。そういうことなら仕方がない。諦めて別の店を探すか。この程度の本なら探せば見つかるだろう」
「そうですね。では、さようなら、黄さん」
ここで終わればよくあるトラブルとして旅行サイトに書き込まれる出来事程度で済んだのだろうが、実際にはそうはならなかった。
「待て」
店を出ようとしたふたりの行く手を塞ぐように屈強なふたりの中国人が立つ。
そして、この日の出来事第二章といえるそれは、黄という名の中国人が上品には程遠い笑みを浮かべながら彼の本当の目的を口にしたところから始まる。
「悪いな、実はそうはいかないのだ。あるお方より目障りなおまえたちをここで葬れと指示があった。そういうことなので、おまえたちはここで死ぬことになっている」
……なるほど。そういうことか。
ふたりはすぐに悟る。
これは偶然ではなく、計画されたものだということを。
……ただし、それだけの話だ。
黒い笑みを浮かべた先輩蒐書官の口が開く。
「それは困る」
「まったくだ。ここで死んで目的が果たせなかったら夜見子様に拷問されて殺される」
「夜見子?誰だ、そいつは」
もちろん黄はその名を知るはずがなく、当然のようにやってくるその問いに後輩蒐書官が答える。
「僕らの雇い主でこの世どころかあの世を含めても一番怖い人だ。指示に従わない部下は皆生きたまま皮を剥がされて羊皮紙代わりにされている」
「ふん」
……つまらんハッタリは俺には通用しない。
……というか、ハッタリにもなっていない。
黄がその言葉を鼻で笑う。
「俺はその夜見子とやらと違って慈悲深いので苦しまず殺してやる。もちろん羊皮紙になどしないので安心してあの世に行けるから感謝しろ。それから一応忠告しておくが、この店はすでに俺の部下たちに囲まれているので逃げられない。試してみてもいいが結果は変わらないぞ」
その言葉どおり、外を眺めると柄が良くない男たちがたむろしているのが見える。
「なるほど状況は理解した」
「黄さん。やるのであれば、店から離れた場所で……」
彼らの後ろからおそるおそる顔を出し、その言葉を口にしたのはこの店の店主だった。
もちろん彼としては騒動に巻き込れたくないという気持ちからそう言ったのだが、黄から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「そうはいかない」
「……それはどういうことでしょうか?」
不安そうに訊ねた店主に黄が答える。
「決まっている。証拠隠滅も兼ねておまえは家族もろともこの世から消えてもらうからだ。そして、価格交渉中激高したおまえがこいつらを殺し、それを後悔し家に火をつけ一家心中したと中南海に報告をする。そういうシナリオになっている」
「随分出来の悪いシナリオだな」
「まったくです」
このようなトラブルには慣れているふたりの日本人は黄の書いたシナリオにさして驚くことはなかったのだが、代わりにその驚きを隠せなかったのは店主の男だった。
「……黄さん。私はこれまであなたの理不尽な要求をすべて受け入れてきたではありませんか。その私を殺すのですか?」
「上からの命令なのであきらめろ」
「……そんな」
運命を呪いながら店主は崩れ落ちた。
その時だった。
「店主。先ほどの本を一万元で売れ。そうしたら家族全員の命をついでに助けてやる」
声の主は、先ほどまで自分と交渉をしていた日本人だった。
予想もしない相手から、予想もしない内容の言葉が投げかけられた彼が答えられずにいると、ありがたくもその日本人がもう一度それを言葉にした。
「わからないのか。では、もう一度言う。先ほどの本を五千元で売れと言っている」
「……意味がわからん」
もちろん目の前にいる日本人は中国語で話しているので、繰り返さなくても言いたいことは十分に伝わっている。
わからないのはなぜ今なのだということだ。
……この日本人は頭がおかしいのか。今から殺されるというこの状況で値引き交渉を始めて何になる。しかも、値引き幅が先ほどより大きくなっているし。そうだ、コイツは頭のネジが緩んでいるに違いない。十本くらい。
彼の疑問に答えたのはもうひとりの日本人だった。
「黙っていては彼らに殺されるだけですよ。ここはとりあえず是的と言っておきましょう」
……そうは言っても話を持ち掛けた日本人はふたり、それに対して黄の仲間は少なくても二十人はいる。
五千元のいう価格はとても飲めるものではないと思った店主だったが、たしかにこの言葉の軽い日本人の言う通り黙っていてもただ殺されるだけだと考え直し、勝ち目は少ないと思いつつも彼らの提案に乗ることにした。
「……お願いします」
「契約成立だ。では、掃除を始めるぞ」
「了解です」
その言葉を待っていたらしい日本人ふたりはニヤリと笑うと何を根拠にしているのかはわからないがとりあえず余裕綽々という表情で大群の中に飛び込んでいった。
それからわずか十分後。
店の周囲には黄とその手下の二十を少々超える死体が横たわっていた。
「いい眺めです。まあ、数が多いだけの雑魚相手でしたので楽勝でしたけど」
「その割には苦戦していたようだったぞ。飛鳥君は少々鍛錬が足りないようなので日本に帰ったら特別料金で鍛えなおしてやろう。ところで店主。先ほどの約束どおり本を三千元で売ってもらうが、それとは別に聞きたいことがある」
「何でしょうか?というか、約束は五千元だったはずです」
どさくさ紛れにおこなおうとしたさらなる値引きに失敗した秀一は渋い表情をしながらすぐさま話題を変える。
「……で、これからどうする?」
「と言いますと?」
「黄の飼い主がこのまま黙っているとは思えない。必ず報復に来る。そうなればあんたも家族もタダでは済むまい。そこで提案だ。家族とともに日本にわたってやり直せ」
ありがたい提案だった。
だが、それとともにこの国の現状と自分の懐具合を考えると難しいこともまた事実であった。
しかも日本は移民の受け入れに消極的な国だということは日本に渡った多くの同胞から聞いている。
「家族を連れて国外に出るなど……」
「できるのですよ。僕らは。……正確には僕らの雇い主のそのまた雇い主ですけど」
ふたりのうち若い方の日本人の軽い口調は、彼の口に出かかった「できるはずがない」という言葉を遮った。
「色々心配する気持ちはわかるが、こうなってしまったからにはもう中国にはあんたの居場所はない。諦めて我々の保護下に入れ。それに日本には古書を扱う者にとっては天国のような場所がある。どうだ?」
……それは神田の古書店街のことだな。それにこの男が言うように必ず報復はやってくる。ここは決断すべきときだ。そういうことなら……。
「……なるほど。そういうことならお任せします」
「よし決まりだ」
「王凱です。よろしくお願いします」
一度決断するとその後の行動が素早いのは規模の大小を問わず優秀な商人の証なのは万国共通である。
どうやらそのひとりらしい店主は本棚の奥に隠すようにひっそりとしまわれていたそれを取り出した。
「それから、これをどうぞ。あなたたちへの信頼の証としてこれを差し上げます」
それは一冊の古びた包みだった。
「ん?……これは」
「但し書きだけ理解するとはさすがお目が高い。そのとおりです」
「なぜこのようなものをあなたが持っているのですか?」
「これは我が祖先が代々隠し持っていたものです。そして我が家にはこの文書とともに『文書はそれに相応しき所有者があらわれたときにその手に渡すべし』という言葉が伝わっています。それが今であり、あなたたちがその人物だと確信しました」
「夜見子様。活動中に関わりを持った古書店の店主からとんでもないものを提供されたことをご報告いたします」
続いて秀一の口から話された詳細はもちろんあの包みについてであり、それは聞かされた彼女にとっても驚くべきものだった。
「……焚書坑儒の生き残りの品がまだ残っていたとは驚きです。その貴重な品を譲ってくださった店主の王凱さんにはこの私天野川夜見子が責任を持って保護し日本での快適な暮らしを約束すると伝えてください」
さて、最後に蒐書官にかかわる揉め事に巻き込まれ、日本に移住することを余儀なくされた名もない古書店の店主王凱のその後について述べておこう。
日本到着後彼は一時神田の古書店街の一角で商売を始めるのだが、ほどなく店を閉め姿を消す。
それから二年の月日が経ったある夏の日、彼は再び古書店街に現れ、何事もなかったかのように店を再開する。
そして、再オープンした王凱の店は中国関連の良質な書籍を扱う古書店として多くの専門家も出入りし大評判となり、三十数年後彼はこの地で有名古書店の店主として一生を終えることになるのだが、あの空白の二年間については最後まで語らず、その真相はわからずじまいとなる。
「……私はそれについて話すわけにもいかないし、君たちも絶対聞いてはいけないものだ」
それが空白の二年間についての彼の言葉である。
だが、それを探る手掛かりはある。
なにしろ、彼が扱う本の大部分はあの女性経由のものであったのだから。