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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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桜人

 長野県松本市。

 天守が国宝に指定されている松本城を中心として南北に広がる中心街から少し離れた旧家。

 十月のある日、その旧家を訪れるためにこの地に姿を現したふたりの蒐書官御菩薩木と葛葉は、ともにベテランと呼ばれる部類に入る長い活動歴を誇っていた。

 通常ベテランと若手がペアを組む蒐書官チームのなかで、このような組み合わせは皆無ではないものの、間違いなく稀であり、ロンドンで活動している永戸と湯木のチームを例に挙げるまでもなく、いわば特別に設えた存在である。

 そのような貴重な人材である彼らをここ松本に呼び寄せたのはある情報だった。

 曰く、その旧家には貴重な書が隠されている。

 もちろん、このような情報の大部分はデマや誇張の類であるのだが、今回の情報は出どころがしっかりしたところだったことから、この特別な蒐書官チームを派遣するに足りるものだとされていたのだ。

 その出どころの主は藤葉義詮。

 夜見子との「源氏物語争奪抗争」に敗れ、一族もろとも滅んだ男である。

 そして、その藤葉義詮の屋敷に火をかける直前に持ち出された多くの資料のひとつに、次に交渉すべき相手としてこの旧家の名が記されたいたことがその情報なのである。


「ということは、当然それは源氏物語に関係するもの」

「そうだろうな。ただし、それが源氏物語の何かまではわからない。少なくても『輝く日の宮』よりは優先順位が低いということだろう。その上位なら爺さんはそちらを先に手を付けただろうからな」

「そのとおり。まあ、名もなき写本の一部というところが妥当なところでしょう。言ってしまえば、我々にとっては軽い仕事だ。鮎原さんから至急松本に向かえと連絡があったのでどれほどのものかと思いましたが、これは間違いなくご褒美ですね」

「そうだな。仕事をさっさと済ませてここから近い白骨温泉に入りたいものだ」

「いいですね。温泉」


 このとき、ふたりは冗談交じりそのような軽口を叩いていた。

 彼らの前に並べられた状況を考慮すればそれは仕方がないことだったと言えなくもない。

 だが、残念ながらこのあとあきらかになる事態により、彼らの予想は大きくはずれることになる。


 翌々日。

 市内にある四つ星ホテルの一室で彼らは鮎原から追加で送られてきた資料を目にして驚愕する。


「ということは、爺さんはすでに交渉に入っていたということなのか?」

「ここに書かれていることが真実だとすればそうなる。しかも、引きこもりの爺さんもここまでやってきて何度か交渉に参加していたということだった」


 そう言った葛葉が手にしていたのは分厚い日記帳だった。


「ちなみに、爺さんは交渉に参加していたのか?」


 御菩薩木の問いに葛葉は頷き、補足するように言葉を加える。


「鮎原さんから届けられたこの執事の日記によれば、いつもは執事や他の子分どもが面倒な交渉をおこない、爺さんは実った果実を口にするだけだったようだ。何回かは契約書にサインするために出向いたことはあったようだが、それでも、相手の家に行くということはせずに、近くのホテルや料亭でそれはおこなわれたそうだ。だが……」

「そのプライドが高い爺さんがわざわざここまで来ただけでなく、交渉にも参加したということか。観光が主目的ということでないかぎり、それはつまりターゲットはどうしても手に入れたい相当の大物」

「それとともに、交渉相手が相当厄介ということも意味しているのかもしれない」

「爺さんが交渉に参加し、結局手に入らなかったのだから確かにそうなるな。そういえば爺さんも少数だが私兵を抱えていたはずだ。なぜそれを使わなかったのだろうな」

「執事の日記には私兵を動かすことを検討していたことが書かれている。だが、問題が解決されず見送られたようだ」

「問題とは?」

「比喩が使われはっきりとは書かれていないが想像はできる。相手は地元の名士だ。それを襲えば警察だって黙っていないだろう。これまで彼らが抹殺していたチンピラだの小さな古書店の店主とはわけが違う。もみ消しにはそれなりの金が必要になるし、もみ消しそのものができるかも怪しいとでも考えたのだろう」

「なるほど。では、我々も用心して交渉することにしよう。それで、日記には爺さんが狙っていたターゲットについての記述はあったのか?」

 御菩薩木の言葉にそれまでは饒舌だった葛葉の表情が固まる。

「……それと思われるものはあったのだが、にわかには信じがたい」

「もしかして『輝く日の宮』か?それとも『雲隠』か?」

「いや。現在では君が名を挙げたもの以上に幻となっている一巻『桜人』だ」


 「桜人」または「さくらひと」


 桜を愛する人という意味があるそれは現在では語る人もない源氏物語の忘れ去られた一巻につけられた名である。

 だが、これだけはいえる。

 ある時期までそれは間違いなく存在した。

 それは現存する源氏物語の最古の注釈本となる藤原伊行の「源氏釈」に残された「この巻はある本もあり無い本もある」という言葉によってもあきらかである。

 では、なぜ「桜人」は消えてしまったのか?

 そして、それはいつ頃起こったことなのだろうか?


「おそらく、写本をつくる中で不要とされたのだろう。その時期は遅くても鎌倉時代のはじめ」

「つまり、それは紫式部本人ではなくのちの時代の編集者によってボツ原稿として削り落とされたということなのか?」

「乱暴な言い方をすればそうなる。だが、それが不要かどうかというのは編集者の勝手な解釈でおこなわれていいのかは疑問だ」

「要するに君は『桜人』は残すべきだったと言いたいのだな。だが、それも君の個人的解釈と言えなくもない。しかし、紫式部本人が必要だと思い書いたのであれば、どのようなものでも読んでみたいという気持ちは確かにある」

「つまり、君も『桜人』があってほしいと言いたいわけだ」

「本心を隠さず言えばそうなる。まあ、それはそれとして、今回の目的はその『桜人』を手に入れるということで本当にいいのだろうか?」

「少なくてもこれに目を通している鮎原さんはそう思っているだろうな。そして、その場合ひとつ大きな問題がある」

「ほう。参考までに聞かせてもらおうか。その問題点を」

「夜見子様の手元にも『桜人』はないので、内容による照合はできない」

 相棒の簡潔かつ深刻そうな言葉に彼よりも物事を単純に考える御菩薩木が口笛を鳴らす。

「つまり、買い取り交渉をおこなう我々の責務は重大だということか」

「そういうことだ。我々ふたりに鮎原さんは随分簡単な仕事を回してきたと喜んでいたのが、やはり甘くはなかったな」

「だが、それだからこそ我々にお鉢が回ってきたのだろう。こうなったからには白骨温泉はしばらくお預けにして仕事に打ち込むしかあるまい」


「さて、まずは爺さんが攻略に失敗した原因を考えてみよう」


 御菩薩木は今日五杯目となるコーヒーを飲みながらその言葉を口にすると、同じくコーヒーカップを手にする彼の相棒が応じる。


「基本的にはその原因は二種類に大別できる」

「では、金と呪縛だろう」


 だが、御菩薩木のその言葉にはすぐに同僚からの不合格通知が飛んでくる。


「金はともかく呪縛はどちらかといえば相手側がこれまで『桜人』を解放しなかった理由であって爺さんが手に入れることに失敗した直接的な原因ではないだろう」

 不機嫌そうに御菩薩木が問い直す。

「では、そのもうひとつの原因とは何だ?」

「交渉に臨む姿勢。具体的には傲慢な態度かな」

「傲慢?」

「相手の呪縛を解く努力をしない。もう少し言えば、相手を研究もしないで乗り込んだうえに交渉中も頭を下げない。これではとても目的のものは手に入らないだろう」

「いやいやターゲットの難易度からいって頭を下げて手に入るものとは思えない。というか、爺さんが頭を下げなかったとなぜわかる?」


 もちろんそれは、彼が持つ日誌に記述されていたからだ。

 執事の恨み事とともに。

 だが、そのようなことをおくびにも出さずに彼は別の言葉を口にする。


「逆に聞くが、爺さんは頭を下げてお願いしたと思うか?」

「いや」

「では、ふたりともそう思っているのだからそれでいいだろう」


 もちろん釈然そしない気持ちはある。

 だが、それは些細なことであもあるため、御菩薩木は問い質すことをやめ、それに同意することにした。


「……そうだな。実際に失敗しているし。それで、我々はその教訓をどう生かすべきか?」

「乗り込む前に徹底的に相手を調べ上げ、ウィークポイントを探す。実際ところこれまで長い間隠し持っていたのだ。ただ金を積み上げても拒絶されるだけだ」

「それではいつもやっていることと変わらないだろう」

「そう。つまり、いつもと変わらないということだ」


 確かにその通りだと彼も思う。

 だが、やはりそれでは面白くない。


「実につまらん答えだ」

「そうは言っても、これが現実だ。準備もせず、それどころか何も考えず勢いや思いつきで交渉に臨んでも問題は解決しない。特に今回のように相手が長年隠し持って、いや大切に保管していたものを手にしたいという交渉の時はそうだ。自らの情熱だけを語り、その言葉にほだされた相手から快く品物を譲られるなど安っぽい夢物語の中だけの話だ。現実は相手の弱点をつくか、そうでなければ相手に相応の利をあたえなければ交渉は成功しない」

「そのようなことは子供でもわかることだろう」

「いや。そうでもないことは、爺さんの失敗が証明している。爺さんのことだ。どうせ、『それは私が所有すべきものだ。おまえに身分不相応な金をやるからさっさとよこせ』とでも言ったのだろう」

「なるほど。確かにそう言われると、その場の状況が目に浮かぶな。では、爺さんと同じ轍を踏まないために打つ次の一手とは何だ」

「相手の懐具合の調査。これはすでに鮎原さんにお願いしている。こちらでやることはその一族の評判を聞くこと。それから『桜人』の入手経路と『桜人』の所有をこれまで公開しなかった理由の調査」

「地味だな」


 彼の素直過ぎる感想にポットから二人分のコーヒーをカップに注ぐ相棒は思わず苦笑する。


「何を今さら。それにこれまでそのようなことを真面目にやってきたから今の我々があるのだろう」

「言い返せないのが悔しいな」

「とにかく探そう。遠回りのようだが、これが一番の近道だ」

「わかった」


 そして、それから五日後の夜、彼の相棒が呟く。


「……見つけた」


 十一月の初め。

 松本にやってきてから三週間が過ぎたその日の夜、彼らの姿は市内の繁華街の一本の狭い路地にあった。


「さて、目的の人物はやってくるかな」


 御菩薩木の言葉に相棒が答える。


「我々が待っているのは複数形なのだから、目的のグループと言ったほうがいいだろう」

「言い方などこの際どちらでもいいことではないのか」

「いや。そういう細かなことをおろそかにするといつか失敗する。修正できるものは気がついたときに修正すべきだと私は考える」

「……そうだな」


 そう言いながら自分の言葉の小さな間違いを隙のない同僚に指摘された御菩薩木は心の中で閉口する。


「それよりも、そろそろ遭遇するはずだ。準備はいいかな」

「もちろんだ。周辺の防犯カメラは?」

「すべて処理済み」

「真のターゲットは?」

「すでに確保済みと連絡が来ている」

「では、心置きなくできるわけだ」

「……そういうことです」


 ……おや、もう臨戦態勢か。


 御菩薩木は隣にいる相棒の言葉の変化に気がついた。


 ……言葉が丁寧になるほどこいつは冷酷になる。

 ……この状態のこいつと手合わせするとはまったくついていないやつらだ。


 御菩薩木は心の中でまだ見ぬ相手をそう憐れみ、そして、ぼやく。


 ……この私が、こいつの暴走を止める役とはつまらんことだ。


 やがて、彼らの待ち人、いや待ち人たちが姿を現す。

 自分たちの縄張りに入り込んだ獲物を狩るために。


「やあ、おじさんたち。こんにちは」


 そのグループのリーダーらしき男がふたりに声をかける。


「本当にひと目でどのようなことを生業としているかわかりますね」

「まったくだ。そんなやつにおじさんと呼ばわりされるとはどうも納得いかないな」

「確かに無礼な言葉ですが、彼らは我々よりも十歳は若いのは事実ですので、表現は間違っていないと言わざるをえません。それに……」

「その不愉快な時間はすぐに終わるのだから我慢しろ。か」

「そういうことです」

「おい。人の話を聞いているのか。無礼なオヤジども」


 ふたりの会話に割り込んできたのは先ほどの男の不機嫌の色が濃くなった声だった。

 その言葉に今度は御菩薩木が答える。


「悪いな。それで、要件は何だ」

「決まっているだろう。出すものを出せ」

「そうすれば痛い思いはしなくて済むかもしれないよ。おじさん」

「……つまり金をせびっている。いわゆる恐喝というわけか」

「まあ、そういう言い方もできる」

「言っておくけど、騒いでも誰も来ない。この周辺ではヤクザよりもウチらの方が幅を利かせているから」

「なるほど」

「それから抵抗するというのなら構わないが、大ケガするよ。なにしろこいつは空手の有段者だ」

「いやいや、こいつは抵抗しなくてもやる」

「金を取った上に殴るとはひどいやつだな。おまえたちのリーダーは」


 彼の言葉には嘲りの成分が大量に含まれた笑いとともに上品とは言い難い言葉が戻ってくる。


「まったくだ。だが、それはこいつのいつものやり口だからあきらめてくれ。オッサン」


 嘲りの言葉を吐きながら彼らを囲む六人の若者を眺めるふたりは一人の少年の姿を探していた。


 ……最終確認を。

 ……渡された写真に写る者と同一人物はいないことを確認。OKだ。

 ……では、予定通り清掃作業を開始しましょう。

 ……了解。


 ふたりは目で合図して打ち合わせどおりにことを始める。


「聞いてもいいか」

「何だ」

「おまえらに払う金は持っていないと言ったらどうする」

「御菩薩木君。それでは我々が金を持っていないように聞こえますよ。正しくは君らに払う金などない。です」

「そうだった。では、言い直そう。おまえらに払う金など一円たりともない」

「貴様ら俺を舐めているのか」


 怒号とともに、空手の腕前を披露しようとふたりに迫ったその男だったが、三度の聞きなれない音と共に地面に倒れ悲鳴を上げながら転げまわる。

 それと同時に何かをはじくような小さな音は続けざまに十回この路地に響き、五人の仲間は声を上げずに倒れ動かなくなる。


「……銃を使うなど卑怯だぞ」


 腹と両足を正確に射抜かれた男が痛みをこらえながら口にしたその言葉を冷ややかな表情で聞き流した男のひとりが口を開く。


「あなたは馬鹿なのですか?」

「何だと」

「あなたの腕前がどれほどのものかは知りませんが、少なくてもこれは空手の試合ではなく殺し合いです。それなのに、なぜあなたの都合に我々が合わせなければならないのですか?」


 彼の言葉を相棒である御菩薩木が引き継ぐ。


「本来なら一発で仕留めているところだが、これまで貴様が甚振ったやつらの痛みを知ってもらうようにわざわざ生かしてやった。これからゆっくりと死んでいくわけだが、今の感想を聞かせてもらおうか」


 もちろん彼らはこの男が口にする言葉を想像していた。

 だが、それは大きくはずれる。


「……お願いだ。金は払う。助けてくれ」


 なんと男の口から漏れ出したのは命乞いの言葉だったのだ。


「おやおや、ステレオタイプの悪党の頭らしくさっさと殺せとでも言うのかと思ったぞ」

「まったくです。それにしてもひどいですね。お仲間は皆すでに旅立ったというのに、自分だけは助かりたいとは」

「た、頼む。このままでは死ぬ。早く医者に……」

「申しわけありませんがあなたのご希望に沿うことはできません。さて、ここで御菩薩木君にひとつ提案です。この男の見苦しい姿は見るに堪えませんし、そもそも美女ならともかくこんな醜い男の死に行く姿を眺めているなど時間の無駄なだけのような気がするのですがどうでしょうか?」


 ……ほう。珍しい。


 彼は心の中で呟いた。


 ……てっきり、ここから長々とこいつを甚振るのかと思っていたのだが。


 日頃はこのような場面で必ずおこなう相棒の変わった趣味にうんざりしていた彼は、相棒の気が変わらぬうちにことを終わらせるために急いで同意の言葉を口にする。


「実は私もそう思っていたところだ。予定変更ですぐに始末したほうがよさそうだな」

「そうしましょう。では、そういうことなので向こうで待っているお友達によろしく」

 次の瞬間二発の銃声、と表現し難い小さな音が二度にわたって響いた。

「さて、ここでの仕事は終了した。さっさと移動するぞ」

「その前に証拠写真を」

 すでにあの世に旅立った仲間と同じように眉間と心臓を撃ち抜かれたその死体の写真を撮り終えると、ふたりは彼らの真のターゲットが待つ場所に向かうために音もなくその場を離れていった。


 それから十五分後。

 彼らが姿を現した先ほどの現場からそれほど離れていない川沿いの小道。

 そこが彼らの目的の場所だった。


「サポートありがとう。村上君、それから新郷君」

「いえいえ、これくらいはお安い御用です。それで向こうの首尾は?」

「もちろん完璧だ。すぐに清掃屋の方々が仕事に入ったので後始末も問題ない」

「それはよかったです」

「君たちの仕事はこれで終わりだ。彼らと一緒に近くの温泉に入って身を清めてから報告に戻ってくれ」


 そう言って葛葉は十分な厚みを感じさせる封筒を手渡す。


「では、そうさせていただきます。というか、身を清めなければならないのは御菩薩木さんと葛葉さんですよね」

「確かに」

「私たちもこの仕事が終わった後に行くつもりだよ」

「では、温泉でお会いしましょう」

「わかった」


 ふたりは若い蒐書官たちとの会話を切り上げると、彼らが捕らえていたひとりの少年に言葉をかける。


「さて、お待たせしました。安曇野伸弥君」

「ぼ、僕に何の用だ」


 縛り上げられていた少年は虚勢を張ってはいるものの、全身から恐怖におびえる様子が見て取れる。


 ……さすがにまだ子供だな。


 このような相手に対する交渉ごとを担当する葛葉は、本来の冷酷さを包み隠した笑顔を浮かべながら、その心の声を微塵も出さずにまったく別の言葉を紡ぎ始める。


「彼らが手荒な方法を使ったことは謝ります。ですが、あなたにはどうしてもここにいてもらわなければならなかったのです。ご容赦ください」

「どういうことだ?」

「あなたに小間使い役を仰せつけていたお仲間からの伝言をお聞かせするためです」

「諏訪さんたちからの伝言?それで何と」

「おまえとは縁切れだ」

「縁切れ?……本当にそう言ったのですか?」


 思わず口にしたその言葉は先ほど彼らが始末してきた若者たちとは明らかに違うものだった。


 ……やはり素は良家の坊ちゃんだな。


 彼は心の中でそう呟くと、縄を解きながらさらに言葉を続ける。


「なんでも彼らは遠いところに行って帰る予定もないそうで、もう伸弥君には用事がないとのことです」

「それは間違いないのですか?」

「はい」


 直後ふたりが予想もしていなかった出来事が起きた。

 少年の緊張が一気に解け、涙が勢いよく零れ落ちたのだ。

 荒事には慣れているふたりだったが、さすがにこの状況に出くわすことは初めてだった。


「任せる」


 あっさりと職務放棄の宣言した御菩薩木のひとことにより、続けておこなうことになったその仕事に彼の同僚は小さくないため息をつく。


 ……やれやれ。こういうことは本来女性に対してやるものだろう。


 心の中で苦笑しながら、彼は少年にハンカチを渡す。


「実を言いますと、我々はお爺様に迎えに行くように頼まれた者たちです」

「お爺様が……」


 少年は知っている。

 祖父が連中と何度も交渉し、その度失敗していたことを。

 彼の頭の中で思考が目まぐるしく錯綜する。


 ……ということは、今度こそ交渉に成功したということなのだろうか?

 ……だが……もしかして、また……。


「ですが、諏訪さんたちは本当に戻ってくる可能性がないのですか?」

「大丈夫。その場所は言えませんが、そう簡単に戻って来れそうなところではありませんので、その可能性はゼロです」


 ……もしかして、刑務所?


 その時少年はそう思った。

 たしかに彼らはそこに行くだけのことをやっていたのだが、それでも、それは大きな間違いだった。

 もちろん彼が住む日本が法治国家であり、刑務所に入れるためには諸々の手続きが必要であり、現場から刑務所直行ということにはならないのだが、今回に限ればそれも理由ではない。

 彼らはそれよりも遠い、いや、永遠に戻ってこられない場所に行ったのだから。

 それが真の理由である。


「……そうですか。と、とにかく。ありがとうございます」

「その言葉はお爺様に言ってください。では、戻りましょうか」

「はい」


 ……これで任務完了です。


 そう。

 彼らが見つけた「桜人」所有者のウィークポイントとはこの少年のことだった。


 この十日前。

 彼らはこの少年の祖父である「桜人」所有者安曇野一族の現当主安曇野伸一郎のもとを訪ねていた。


「……つまり、君らがその仕事を請け負うということなのか?」

「そういうことです。我々はそのような仕事を密かにやることを生業としておりますので安心してお任せください」


 もちろん彼らが語ったその職業と「ある依頼で訪れていた松本市内で噂を聞いてやってきた」というここに訪れた経緯はまったくの嘘である。

 もっとも、依頼者にとっては彼らが頼んだ仕事を完璧にこなすかどうかが問題なのであり、彼らの素性など些細な問題であるうえ、そもそもそのような仕事をする者の経歴を疑い出したらきりがないことは伸一郎も承知していた。

 伸一郎が疑わしそうに名刺を眺めていたのにはそれとは別の理由があった。


「そうは言っても、思いつくことはすでにやりつくした。そして、何よりも君らの同業者にも何度も依頼したのだが、ことごとく失敗している。そのくせ、報酬だけはしっかり請求してきた」

「なるほど。それは災難でした。ですが、我々は彼らとは違います」

「ほう。どこがどう違うというのかな?」

「まず前任者となる彼らがやったこととは交渉または金での解決。大別すればその二種類に入るもの。違いますか?」

「……そのとおりだ」

「それでは、狡猾なあの者たちにただ金をむしり取られるだけです。ですが……」

「我々には別の一策がある」

「別の一策?」

「そうです」

「具体的には?」

「お孫さんに取りついている寄生虫の物理的排除」

「物理的排除?」

「彼らは生きている限りお孫さんに取りつきます。ですから、二度とそうできないようにするためには……」

「……それはあいつらを殺すということか?それはさすがにやりすぎではないのか?」

「そのようなことはありません。調べたところ、あの者たちはあなたからせしめた大金だけではなく、地元ヤクザから縄張りを奪って好き放題やっているようです。そして、私が問題としているのは、彼らがその金を元手にして組織を巨大化させていることです。今ならまだ間に合いますが、組織がこれ以上大きくなってからではもう簡単には手が出せなくなります。そうなれば、孫さんを取り返す機会は……非常に言いにくいことではありますが、お孫さんがお縄になった後まで待たなければなりません」

「……伸弥が逮捕されるだと」

「はい。しかもそれはこの状況を放置すれば確実にやってくる未来図です。よく考えてください。今は財布代わりと使い走りとしていいように利用されているだけですが、いずれそれなりの役を押しつけられることになるでしょう。そうなれば問われる罪も当然……」


 葛葉はあえてそれを口にしなかった。

 目の前に男に考えさせるために。

 そして、そう長く待たされることなく、その重い門が開く。


「……わかった。依頼しよう。それで報酬は?」

「たとえゴミとはいえ六人の人間をあなたの代わりに殺すのです。それ相応のものを要求します。ただし、これは成功した場合です。失敗した場合には報酬は必要ありません」

「当然だ。……いや。問題は金よりも……」


 ……やはり、そちらが大事か。


 葛葉は目の前の男が気にしていることが手に取るようにわかる。


 ……ここは交渉を成功させるために気を遣うべきか。


「それから、もうひとつ。非常に重要なお知らせがあります」

「と言うと?」

「彼らは我々の仕事のあとには存在そのものが消えることになります。つまり、殺された痕跡はまったく残りません。当然我々が彼らを手にかけたということも、あなたがそれを依頼したことも表ざたになることはありません。それは失敗したときも我々にはセーフティーネットがありますので間違ってもあなたにまで司直の手が伸びることはありませんのでご安心ください」

「わかった。……だが、それではやつらを死んだことを私は確認できないのではないか」


 ……もしかして、我々が奴らとグルになって金を巻き上げる算段をしているとでも思っているのか?

 ……かなりの小物だな。


 彼は薄く笑みを浮かべる。


「ご希望であればこのテーブルに彼らの生首を並べて差し上げますが」


 もちろんこれは冗談であるが、必要以上に自分たちを疑う目の前に座る依頼者を黙らせるためのブラフでもある。


「……いや。それは遠慮しておこう」


 ……その覚悟がないなら最初からそういうことを語らないでもらいたいものです。


 心の中ではそう吐き捨てていたものの、とりあえず望む答えを手に入れた彼は頷き、言葉を続ける。


「では、証明は写真ということで。それから、もうひとつ。我々の世界は契約と信義に基づいています。我々は依頼者の秘密を守り、契約で取り決めた報酬以上の要求はいたしません。ですが、依頼者も同様です。我々にタダ働きを強要する事態になった場合には苛烈な報復が待っているとご承知ください」

「それも承知した。それで、そちらが望む肝心の報酬額はいくらだ?」

「我々が望む報酬は現金ではありません」

「では、何を要求するというのだ」

「あなたがお持ちの古い書物。具体的には源氏物語の幻の一巻『桜人』」

 彼がその言葉を口にしたとき、依頼者の男は闇の深淵を覗いた時のものとでも表現ができそうな多くの感情が混ざり合った複雑な表情を見せた。

「……知っていたのか」

「もちろん」


 彼は自信満々にそう答えたものの、実はこの時まで伸一郎が「桜人」を所有しているという確たる証拠を持ち合わせていなかった。

 つまり伸一郎のその言葉によってようやく彼らの今回のターゲットが「桜人」であることが確定することになったのである。

 もちろんそのような事情を知らない伸一郎はさらに言葉を続ける。


「いったいどこで知った?」

「その情報をどうやって手に入れたかを私の口から話すわけにはいきませんが、私たちが掴んだその情報の出どころについては、もしかして伸一郎様は心当たりがあるのではないでしょうか?」

「……心当たり?」


 言葉とともに思考を巡らす彼だったが、そう時間をかけることなく伸一郎の記憶は「桜人」を求めてしばらく前に屋敷にやってきた傲慢が服を着たような無礼な年寄りに辿り着く。


「……それは藤葉義詮のことか?」


 彼の問いに目の前にいる男は微笑むだけで何も答えない。

 この時彼の微笑みは実はまったく違うところから生まれていたのだが、伸一郎はそれを肯定と受け取った。


「……なるほど。そういうことか」

「納得していただけたところで話を戻しましょう。それで『桜人』を今回の件の成功報酬としていただけますか?」


 それから一瞬、いや十瞬ほど間が開いた。


「……君らがそのような高尚な趣味を持っているとはとうてい思えないから、どこかのコレクターに高く売りつけるつもりなのだろうが、まあ、よかろう。『桜人』はくれてやる。本来であればチンピラ六人の命と先祖から伝わる貴重な書ではつり合いは取れないが、そこに孫の将来も含まれているとなれば承知せざるをえない。だが、もう一度念を押す。失敗したらビタ一文支払わないからな」

「それで結構です。さて、その契約する前にひとつお願いがあります」

「何かな」

「実は、私たちは『桜人』というものを見たことがありません」

「この世に残る唯一の『桜人』は私の手元にあるのだから当然だな」

「ですから、品物を事前に確かめたいと思います。このような言い方をして申しわけないのですが、せっかく仕事をしながら報酬が予定のものではなかったというのでは目も当てられませんので」

「なるほど。ただし、眺めるだけだ。持ち帰ることも写真を撮ることも許さぬ。それでもいいか」

「構いません」

「では、少し待て」


 それから五分後。

 ……間違いない。

 ……これは本物の「桜人」です。


「契約成立です」


「それで、あの少年はいったい何をやらかしたのだ?」

 少年を自宅に送り届け宿泊先であるホテルに戻る車中で彼は助手席に座る相棒にそう問いかけた。

「やらかした?」

「見たところ、好き込んであのチンピラグループにいたわけではないようだった。ということは、チンピラどもに何か弱みを握られていたに違いない。それが何かと聞いているのだ。どうせ調べたのだろう。同僚に無料で教えてもバチは当たらないぞ」


 彼の言葉は色々な意味で正しい。

 確かに葛葉は下調べの段階で少年がチンピラの手先になっている理由に辿り着いていたのだが、あえて同僚には話していなかった。


 ……最後まで黙っているつもりでしたが訊ねられれば答えるしかありませんね。


 ため息をひとつつくと葛葉は口を開く。


「まあ、聞いて面白いくなるものではないのですが、言ってしまえば男子高校生の気の迷いのようなものです」

「だから、何だ」

「……小さい女の子にイタズラをしているところを例のチンピラグループに見られた」

「なるほど。さすがにそれは家族どころか世間にも知られるわけにはいかんな。名門一族の御曹司となればなおさらだ。確かに聞かなければいいような実につまらん話だ」

「そうでしょう」

「そちらについては了解した。それで、これからどうする?」

「と、言いますと?」

「欲深なおまえさんのことだ。報酬である『桜人』だけで終わりにするわけではないだろう。ついでに、書斎にある本を根こそぎ買い取る気ではないのか」

「そのとおり。と言いたいところなのですが、その前に片付けなければいけないことができました」

「回りくどい言い方だな。ここにはふたりしかいない。素直に白状してもいいのではないか」

「そうですね。では、白状します。実は安曇野伸一郎氏が成功報酬の出し惜しみに動いています」

「浅はかなことを考えたものだ。それで具体的には?」

「裏から手をまわして地元のヤクザに我々の始末を依頼しました」


 ……なるほど。そういうことか。


 ここで彼の疑問は氷解する。


 ……それで、仕事が終わってからも言葉が丁寧だったのだな。


「そのヤクザというのは、我々が秩序を回復してやったことになるガキどもに縄張りを奪われたあの根性なしの組のことか」

「そうです。そして、軽くでも我々のことを知っていれば当然のことではありますが彼らは即座にその依頼を断ったそうです。我々に『桜人』を引き渡す期日が目の前に迫って焦った安曇野伸一郎氏が代わりの者を探しているところで私の情報網にかかったというわけです」

「恩を仇でということか。地元の名士がヤクザ以下とはまったく嫌な世の中だ。それで、どうする?」

「決まっているでしょう」

「ということは、助けてやったあの少年もかわいそうなことになるということか」

「そうなりますね。残念です。本当に残念なことです」


 東京都千代田区神田神保町。

 そこに建つ建物の一室に彼女はいた。

 そして、もうひとり。


「それにしても相変わらず彼らのやることは派手ですね。今回もトップニュースになっています」


 テーブルをはさんで彼女と反対側に座るそのもうひとりである少女が苦笑しながら広げて見せたのは、前日に屋敷が全焼し一家全員が焼死したことを伝える地方紙だった。


「彼らが通ったあとは草一本残りませんね。……本当に」

「ご迷惑をおかけして申しわけございません。お嬢様」


 彼女は恐縮するばかりだったが、もちろんお嬢様と呼ばれたその少女は謝罪の言葉が欲しかったわけではなかった。

 紅茶を少しだけ口に含むと、少女はさらに言葉を続ける。


「先生が謝ることではありません。それに彼ら自身も不必要に人を殺めているわけではありませんので特に気にすることはないでしょう」

「それはそうなのですが……」

「それよりも長野県の田舎町に『桜人』が隠されていた経緯は判明したのですか?」

「本人の口から手に入れた経緯を聞きだすことはできませんでしたが、江戸時代から続く豪農だったようですから先祖の誰かが古書を蒐集していたと思われます。ただし、どうやって『桜人』を手に入れられる状況になったのかは不明のままで終わりそうです」

「なるほど。とにかくその名も知らぬ彼の先祖のおかげで消えゆくはずだった『桜人』が残り、先生のもとにやってきたわけですね。ですが、その恩人が『桜人』を手に入れたことと同じくらいにそれを口外しない伝統を脈々と受け継いできたその後継者たちも素晴らしい功績だったと賞賛しなければなりませんね」


 少女の言葉はそこで途切れた。

 もちろんそこから語られるべき言葉とは昨日の凄惨な事件のあらましである。

 彼女は少女が語るはずだったその言葉をすべて飲み込み、それからその言葉の続きを口にする。


「おそらく彼らは知っていたのでしょう。それを所有していることを公表したら自分たちの身に災いがやってくることを。ところが現当主の安曇野伸一郎はちょっとした気の緩みからそれをどこかで話してしまった。その結果があれです。やはり、『この書の所有を口外することまかりならぬ』という先祖の教えは正しかったということになります」


 少女は小さく頷く。


「ですが、私たちにとってより重要なことは、そのことが万人にとって不幸というわけではないということです。なぜなら、そうなった場合にはこの書は闇に眠ったままであり、私が手にとってそれを読むことはできなかったのですから」

「なるほど」

「さて、ティーブレイクは終了です。そろそろ感謝と弔いの気持ちを込めながら続きを読みたいと思いますがよろしいでしょうか」

「もちろんですとも」


 彼女は頷き、少女はサイドテーブルに置かれていた古い書を取り上げ、しおりを挟んでいたその一葉を開いた。

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