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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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47/104

輝く日の宮 Ⅱ 

 東京都国立市。

 その地にある洋菓子屋「ソハーグ」にふたりの蒐書官が初めて姿を現したのは、秋に入ってすぐのある日、もうすぐその日の営業が終わる陽が沈みかけた時間のことだった。

 若い女性店員におすすめの品を聞き、それを五つ購入して店を出たふたりだったが、すぐさま主のもとに戻ろうとする年長の男に年少の男が食い下がる。


「鈴川さん。なぜ帰るのですか?このまま乗り込んで店主を縛り上げるのではないのですか?」


 だが、そう問われた男はその言葉がまったく解せぬ様と言わんばかりの表情を浮かべ、当然のようにその言葉を口にする。


「なぜ?」

「なぜと言われてもそれが我々の仕事でしょうが……」

「……先崎君」


 男は後輩の名を呼んだところで、言葉を切り、十年分のため息とはこのようなものだと言うように大きく息を吐く。

 それから、もう一度口を開くと、後は流れる水のごとし。

 絶対零度の言葉の波が彼のもとに押し寄せる。


「我ら誇り高き蒐書官。必要とあらば人を騙すことも害すことも躊躇わない。だが、それは手段であって目的ではない。違うかね?」

「違いありません」

「そもそも我々の仕事は蒐書活動であって君がやりたいという押し込み強盗の真似事ではないはずだ」

「それはそうですが、このまま帰ればただお菓子を買いに来た子供のようではありませんか」

「わかった。そこまで言うのなら君ひとりでやりたまえ。ちなみに、君が店で暴れた瞬間に私が君を撃ち殺す。安心しろ。頭を吹き飛ばし一発で成仏させてやる」

「嫌ですよ。でも、本当にいいのですか?その……手ぶらで戻れば、ここで助かっても夜見子様に殺されそうです。万が一そこに例のふたり組がいるようなことになれば拷問のかぎりをつくされ死ぬより辛い思いを味わいそうです」

「そうならないように、この菓子を買ったのだろう」

「それはそうですが……」

「心配するな。最終的にゴールに辿り着けばいいのだ。つまり……」

「終わり良ければすべてよし。ですか」

「そういうことだ」


 実を言えば、必死の抵抗空しく半ば強引に納得させられたものの、後輩蒐書官は先輩の言葉すべてに納得しているわけではなかった。

 いや。

 それどころか、圧倒的に不安のほうが大きかったのだが、その彼が信用していなかった先輩蒐書官の言葉が正しかったことは、それから二時間後、その店から約三十キロ東にある建物の一室で証明される。


「美味しい。それ以外の言葉はいらないくらいに美味しいです。皆さんはどうですか?」

「絶品ですね」

「鮎原の言葉に同意したくありませんが、間違いなく絶品です」

「まったくです」


 彼女たちの言葉どおりそれは見た目、味とも素晴らしくまさに絶品と評されるに相応しいものだった。

 人数に比例して殺伐となるこの部屋の雰囲気もこの日ばかりは穏やかなものだったのは、まさにこの菓子のおかげであろう。

 だが、それもここまでだった。


「さて、甘いものを食べて脳に栄養が行き届いたところでそろそろ始めましょうか。鮎原」


 彼女にとってふたつ目の、そして最後のひとつでもあるそれを口にいれたその女性に指名された男が軽く頭を下げてから口を開き会議が始まると空気は徐々に変化していく。


「おふたりとも先ほど堪能した菓子の名はわかりますか?」

「『空蝉』。包みにそうありましたから」

「そのとおりです。では、洋菓子には不似合いとも思えるこの名はどこから採られているかはわかりますか?」

「あなたはそれを誰に訊ねているのですか?鮎原」


 女性のひとりがその質問自体が無礼の極みであるかのように問い詰めると、男はわざとらしく両手を上げる。


「失礼いたしました。確かにこれは専門家であるあなたがたにお聞きするような類のものではありませんでした。答えはもちろん源氏物語からです。そして、ここからが本題です。実は鈴川君はこれを偶然立ち寄った洋菓子屋で購入したのではありません」

「どういうことですか?」

「この洋菓子屋の店主は菓子のすべてに桐壺から始まる源氏物語の巻名をつけています。正確を期してもう少し詳しく説明すれば、それに該当するのは定番商品であり期間限定の商品などはその基準から外れますが、それでもその店の品はすべてが源氏物語に関係する名を冠しています」

「ちなみにその定番商品は何種類あるのかしら?もしかして五十四種なのですか?」

「いいえ。現在まで使用された名は二十三巻までです」

「ということは『初音』まであるということね」


 彼女が自慢気に口にしたその言葉は源氏物語五十四帖のひとつにつけられた名である。

 だが……。


「いいえ。美奈子さん。それは大きな間違いです。いや、それどころかこれはあなたを常識の欠如者と呼ばざるを得ない残念な事態です」

「鮎原。あなた、この私を馬鹿にしているのですか?」


 自信をもって口にした自らの言葉を男に侮辱の言葉とともに否定された女性は激高する。

 そこに彼女とともにこの時代の専門家と自任するもうひとりの女性も加わる。


「鮎原。その名前はランダムにつけられているのですか?」

「いいえ。桐壺から順にきれいに並んでいます」

「では、美奈子の言うとおり二十三帖は『初音』よ。美奈子に対する非礼を詫び、それから自分の無知を恨みながら死になさい」


 ふたりの女性からの厳しい言葉。

 だが、男が動じることはない。


「それはこちらのセリフです。ふたりで出来の悪い漫才をする暇があるのなら、無知無学の身を恥じ夜見子様のお役に立つようにもう少し勉学に勤しんではいかがですか?」


 倍返しのような男のその言葉に当然のようにふたりの女性は怒り狂う。


「私たちが無知無学?もう一度言ってみなさい。鮎原」

「何度でも言いましょう。この程度のこともわからないあなたたちは幼稚なうえに実に愚かだ。少しでも夜見子様の役に立ちたかったらもっと努力をしてください」

「殺す。今日こそ絶対に殺す」


「三人ともそれくらいにしておきなさい。それから美奈子と真紀に言っておきます。先ほどの鮎原の言葉。あれは間違ってはいません。確かにあなたがたの言うように第二十三帖は『初音』ですが、それは世間一般の話であって今の私たちにとっては違うはずです。どうですか?真紀。何か心当たりはありませんか?」


 ふたりの女性から湧き上がった殺気が充満する部屋の時間を一瞬で凍結するその一言はこの部屋の主の口から発せられたものだった。


「どうですか?」


 主の言葉にあるそこに加わるべきもの。

 思い当たるものなどひとつしか存在しない。


「……もしかして『輝く日の宮』が入るということですか?」

「そういうことです」

「ということは、『玉鬘』までということなのですか?」

「それが正しい答えです。つけ加えれば、この店の一番人気の商品はその『輝く日の宮』という名がついたお菓子だそうです。ですが、鈴川たちが店を訪れたのは夕方だったために売り切れになっていたので今回はそれを購入することはできなかったそうです」

「な、なるほど」

「是非その『輝く日の宮』を食べてみたいわね。ねえ、美奈子」

「……そうね。本当にそのとおり」


 顔を真っ赤にしながら振り上げた拳をこっそりとおろすふたりの女性と、それを冷ややかに眺める男といういつもの光景。


 ……形の上では同格ではありますが、いくら頑張ってもあなたがたと鮎原では役者が違いすぎます。

 ……もっとも、それはあなたがた自身が一番感じているのでしょうが。

 ……それでもこうして口論になるのは、ふたりが憧れの男子に自分をよく見せたい乙女だから。

 ……そして、その想い人はそのようなふたりの気持ちを気づかぬふりをして手のひらで弄ぶちょっと意地悪な人だから。

 ……でも、本当にすてきです。皆さん。


 事実とは微妙に違うほほえましい物語を登場人物たちに断りもなく心の中で勝手につくり上げ、少しだけ微笑むと夜見子が口を開く。


「それは、すでに鮎原を通じて鈴川に伝えてあります。さて、ふたりが安心したところで、話を進めましょう。自らがつくる菓子、しかも和菓子ではなく洋菓子に源氏物語に関連する名を与えるところからもわかるように、この店主は無類の源氏物語ファンであることはわかります。ですが、『輝く日の宮』をそこに加えるとなるとさすがにやりすぎと思われます。しかも、鈴川の話では『輝く日の宮』が加わったのは最近のようです。これまで守ってきた順番を崩してまで『輝く日の宮』を加えた理由。真紀はそれをどう考えますか?」

「その店主とやらが『輝く日の宮』を手に入れたということですか?」

「そこまではわかりません。今のところは『輝く日の宮』の存在を確信させる何かを手に入れたのではないかと推測するくらいまでですね」

「そういうことなら、さっそく蒐書官を動かし店主の口を割らせ……」

「さすがに明確な根拠もなしに無抵抗の店を襲うなどチンピラでもやりません。それに今菓子屋の店主を害しては先ほど絶賛した美味しいお菓子は永遠に食べられなくなりますよ」

「では、どうするのですか?あなたには何か策でもあるの?鮎原」

「言うまでもないこと。そのために信用できる蒐書官を派遣しているのです」

「つまり彼らに任せるということなのですか?」

「当然です。しかも、鈴川君はベテランです。アドバイスが必要なら彼の方から求めてきますのでご心配なく。そういうことでしばらくは彼らが持ち帰る上品なお菓子を頂きながら様子を見ることが最善の策だと思われます」

「わかりました。ここは鮎原の意見を採用します。そのまま進めてください」


 その翌日からもふたりの蒐書官はほぼ毎日その店に訪れていた。

 当初はまだ購入していない二種類の菓子を順に買い求めていた彼らだったが、ある時を境に固定された一種と、別の一種を買い求めるようになる。

 もちろん固定された一種とは『輝く日の宮』の名を頂くものだ。

 そして、すでに二度コンプリートして、三周目も半ばに差し掛かったところで、彼らのひとりである鈴川が店員に言葉をかける。


「店主とお会いし話がしたいのですが……」


 この時点ですでに女性店員の間では「美形コンビ」として有名になっていたふたりからの言葉である。

 その要望は無視されるはずはなくすぐさま工房にいる店主に届けられる。

 だが、店主の言葉はそっけなかった。


「仕事中だ」


 店主である向山紘一郎は典型的な職人気質の男であり、人嫌いと気難しさなら右に出る者はいないと評される人物だった。

 だから、彼が口にしたその言葉は今回が特別というわけではなく、相手が誰であろうと分け隔てなく使用され、以前この店を訪れた現在の首相である牟田口を同じ言葉で追い返したことは特に有名な逸話として店員の記憶に残っていた。


「……なるほど」


 恐縮しながら店主の言葉を伝える若い店員に謝辞を述べてそれを受け取った鈴川だったが再度とりなしを依頼する。

 今度はこの言葉を添えて。


「……源氏物語について語り合いたい」


「すいません。お客様が……」


 断り切れず取次はしたものの、主の態度が変わるはずがない、それどころか再度の取次ぎをした自分にも火の粉が降りかかると思った彼女の予想は外れる。


「……そう言ったのか?それは間違いないことなのだな」

「……はい」


 彼女の言葉を聞いた男は少しだけ笑みを浮かべると、驚くべき言葉を口にしたのだ。


「わかった。今は仕事中だから、今夜九時に改めて訪ねてくるように伝えてくれ。それから……」

「はい?」

「楽しみにしているということを必ずつけ加えておくように」


「うまくいきましたね」

「だが、我々はまだ入り口にすら立っていない」

「入り口にすら……それはさすがに過小評価ではありませんか?」

「過小評価?君は本当にそう思っているのかな?」

「はい。さすがにこの進捗をもう少し誇っていいのではないかと」

「なるほど。では、先崎君。君に問う。我々の仕事とは何かな」

「夜見子様のために貴重な本を集めることです」

「そのとおりだ。そこで、君に訊ねる。君があの菓子屋の店主から譲り受ける予定の本のタイトルとは何かな?」

「それは……」

「答えられないようだな。では、問い直そう。彼は我々が望むものを所有しているのかな」

「それについても確定的なことは言えません」

「そのとおり。そのような状況では入り口に立っているとは言えないのだよ」

「なるほど。よくわかりました。ところで……」

 簡単にやり込められた彼がそれではと出かかった言葉を切り、先輩蒐書官の顔色を窺ったのは彼の隣に立つ人物は立場をわきまえぬ言動を極端に嫌っているからだ。

「構わんよ。訊ねたいことがあるのなら言いたまえ」

 先輩のその言葉に怒りの成分が含まれていないことに少しだけ安堵し、再び口を開く。

「決め手となった源氏物語についてですが、その名を出せば店主が乗ってくることを鈴川さんは知っていたのですか?」

「もちろん。と言いたいところだが、あれはどうしてもというときに使いたまえと鮎原さんから頂いた策だ。だが、それも成功する確率は半分だと鮎原さんは言っていたのでできれば使いたくはなかったのだが、それしか打開策がなかったので使わざるをえなかったというところだ。まあ、成功してよかったよ。だが、問題はここからだ」

「といいますと?」

「彼が所有している貴重な書とは源氏物語。しかも、幻の書のひとつ『輝く日の宮』だと鮎原さんは考えている。つまり今回のターゲットは源氏物語の幻の一巻『輝く日の宮』だ」


 ……なるほど。それで、鮎原さんが成功報酬の前払いと称して仕事前に『輝く日の宮』を読まされたわけですね。

 ……それにしても……。


「ターゲットは源氏物語の写本ではないかと思っていましたが、まさか『輝く日の宮』とは。驚きです」

「だが、やりがいがあるだろう。とにかく、そういうことで我々はまず彼から『輝く日の宮』を所有しているという言葉を引き出さなければならない。とりあえず話題をそちらにもっていくための足がかりが必要なのだが、先崎君はそれについての何か妙案はあるかな?」

「……すぐには思いつきません。鈴川さんはどうですか?」

「それについて私自身は思いつかなかったのだが、鮎原さんから素晴らしい策を教授していただいている。源氏物語に精通していると自負している者こそ堕ちる罠という触れ込みの逸品だ」

「そのような魔法の言葉があるとは信じられませんが」

「鮎原さんによればすでに最高級の被検体で実証済みだそうだから心配いらないそうだ。さて、そろそろ時間だ。あの手の男は待たせるのも嫌いだが、待つのはもっと嫌いだ。こういう時は少々早めに行くのが一番だ」


 鈴川が語った鮎原が授けたというその策の正体があきらかになったのはそれからすぐのことだった。

 指定された時間より五分ほど早くやってきたふたりを迎えたこの家の主で店主でもある紘一郎は昼間とは別人のように饒舌だった。

 それだけではない。

 ふたりの蒐書官が舌を巻くほど博識だった。

 もっとも、その知識は非常に狭い範囲についてのことだったのだが。


「私は源氏物語の研究者になりたかったのだ」


 アルコールが回り、さらに饒舌になった彼が口にしたその言葉。

 そこから始まる自分語りは、源氏物語との出会いから父親から受け継いだ小さな洋菓子屋をここまでにするまでの苦労にまで及んだ。


「……つまり、転機となったのは自分がつくった菓子に源氏物語にかかわる名をつけることを思いついたことなのですね」

「そうだ。それまでは嫌々やっていた菓子作りはそれ以降楽しいものとなり、その名を与える以上をいい加減なものはつくれないと真剣にもなった。そうなれば技術もアイデアも飛躍的進歩を遂げるのは必然だ」

「なるほど」

「それでも、やはりこの発想は驚き以外にありません。たとえばこれが和菓子というのならまだ源氏物語に関連する名がつけられても納得できるでしょう。ですが、洋菓子に源氏物語の名をつけるという発想は常人にはできますまい。つまり、これこそがあなたの源氏物語に対する愛の証し」

「まったくです」


 まさに「歯が浮くような」という表現がぴったりな言葉である。

 もしこれが昼間の出来事であれば、紘一郎も彼らが何かを企んでいるのではないかと疑いの気持ちを持ったかもしれない。

 だが、残念ながら今の彼にはそこまでの洞察力は残っていなかった。

 その言葉を信じ、彼はまた一歩、ふたりが手招きする方向へ踏み出していく。


「そこまで言われてしまうと何かご褒美を出さなければならないな。ここだけの話だが『行幸』は栗を使ったケーキの予定だ。これの意味がわかるか?」

「そこに栗が登場するからですね。そういうことあれば『宿木』もそうなるのでしょうか」

「さすがだな。いわゆるモンブランはその時までお預けだ」

「楽しみにしています。ところで洋菓子に源氏物語にかかわる名をつけるというその驚くべきアイデアはどこから着想を得たのでしょうか?」

「私もそれがお伺いしたかったのです。是非ご教授を」

「ご教授を言われるほどのものはないのだが、そうだな。あえて言うのなら天啓だろうか」

「天啓?」

「それ以外には表現できないな。本当に当然降ってきたものなのだから」

「なるほど。神の御導きというわけですか」


 そして、鈴川が鮎原より伝授されたそれが披露されるときがやってくる。


「そういえば、第二十二帖の『玉鬘』まできましたので、次は『初音』の名が与えられるお菓子となるわけですが、それがどのようなものになるのか教えていただくことは可能でしょうか?」


 そう。

 これは鮎原が口にし、ふたりの女性と口論となったものとほぼ同じものである。

 そして、あの時の言葉を少々アレンジしたそれは鮎原の予言通りあの時と同じ状況を再現させる。


「今何と言った?」

「『初音』の名を冠するお菓子はどのようなものと……さすがに企業秘密でしたね。失礼いたしました」

「そこではない」


 ……来た。


 それは心の中で響く鈴川の声だった。


 ……ということは、次はもちろん……。


「私が指摘したいのは『玉鬘』が二十二帖と言ったところだ」

「……それに何か問題でも……」

「『玉鬘』が二十三帖だ」

「……お言葉ですが、『玉鬘』が二十二帖ではないかと」

「いや。それは源氏物語を深く知らぬ者の言葉だ。『玉鬘』は二十三帖で間違いない」


 ……素晴らしい。

 ……これぞ「猫には猫のエサを。犬には犬のエサを」だな。


 断言する紘一郎の言葉に心の中で小躍りした鈴川だが、むろん表情にそれを出すことはなく渾身の演技とともに用意された言葉を口にする。


「私どものような非才の身ではそのお言葉がどうも理解ができません。もう少し詳しくお聞かせいただけませんか?」

「いいだろう。ヒントは私の店で出されている菓子だ。あるだろう。おまえたちも散々食しているものが」


 もちろんふたりともそれが何かを問われる前から知っている。

 だが、簡単に答えることはしない。

 相手が十分な満足感を得るまでたっぷりと時間を使い、それからゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……『輝く日の宮』がそこに加わるということですか?」

「そのとおり」

「ですが、あれは噂だけであり、存在している痕跡など……」

「あるのだよ。それが」

「ま、まさか」

「その気はなかったのだが、話の流れ上仕方あるまい。少し待っていろ。おもしろいものを見せてやる」


 なぜか嬉しそうに紘一郎がそう言って席を外すと、残されたふたりは目を見合わせこっそりと黒い笑みを浮かべる。


「さすがです。鈴川さん」

「いや、さすがなのは鮎原さんだ。まさかこれほどうまくいくとは正直私も思っていなかったよ」

 それは実に小さな、囁きあいと表現できそうな会話だった。


「これだ」


 紘一郎が無造作に差し出したものは今ではすっかり褪めてしまってはいるが元は鮮やかな赤色であったであろう表紙がついた古い紙束だった。


「これは……」


 それは疑いようもない「輝く日の宮」であった。


 ……しかも、これは夜見子様がお持ちの写本にはない表紙。

 ……ということは……。


「これをどうやって手に入れたのですか?」

「さすがにそこまでは教えられんな」

「そうですよね。そのようなことは簡単に教えられませんね。失礼いたしました」


 本来ならどんなことをしてでも知りたいはずのそれをあっさりと諦める鈴川の意図を後輩蒐書官はすぐに察した。


 ……鈴川さんは今日ですべてを決着させるつもりだ。


 ……だが、まずは中身の確認だ。


 彼は自分の役割を演じる。


「これを読ませていただけるのでしょうか?」

「ここで読ませないと言うほど私はろくでなしではない。構わない。ただし、おまえたちは現在生きている者で三番目に『輝く日の宮』を読む者となることを忘れるなよ」

「もちろんですとも。ご厚意感謝します」

「では、さっそく……」


 受け取った先輩蒐書官がゆっくりと紙を捲り、後輩がそれを覗き込む。

 そして、彼らは確信する。


 ……この紙は平安時代のもの。間違いない。

 ……しかも、少し前に読ませていただいた「輝く日の宮」とほぼ同じ内容。

 ……これは間違いなく本物だ。

 ……だが、この男にそこまで教える必要はない。


「素晴らしい内容です」

「まったくです」


 いつもよりもかなり遅く読み終えたふたりはこの書の真贋判定に触れることなく、感想だけを口にすると、続けて彼らにとってより重要な話を始める。


「この書は源氏物語の失われた時間を埋めることができます」

「そのとおりだ」

「それで、これからこれをどうするつもりなのですか?」

「そうだな……」


 鈴川の問いに紘一郎は考え込む。

 いや、それはもうすでに彼の中では決まっていることだった。

 だから、その姿はそう見せているだけと言った方がいいのかもしれない。

 十分に間を開け、それから口を開くと彼自身にとって甘美な響きがゆっくりと流れだす。


「然るべき時期に名のある学者に鑑定をさせたうえで、これの所有を発表する。そうすれば源氏物語にかかわるつまらぬ議論のひとつを終わらせることができる。それがこのようなものを手にした者の務めだと……」

「それはやめたほうがいいでしょう」

「何だと……」


 自分に酔う紘一郎の言葉に割り込んだのは、鈴川の冷え切った一言だった。


「どういうことだ」


 不機嫌そのものという表情で彼を問い詰める紘一郎など眼中にないかのように先ほどまでの笑顔はすべて流れ落ち無表情になった鈴川は言葉を続ける。


「まず、あなたの持つ『輝く日の宮』は存在するかしないかという議論に決着をつけられる決定的な証拠になります」

「当然だ」

「ですが、学者という生き物はあなたが考えているほど純粋なものではありません。彼らはこれまで主張してきた自らの言葉に整合させるために事実を捻じ曲げることに一グラムの痛痒も感じることはありません。その結果としてあなたは捏造疑惑の渦中に巻き込まれます。菓子を売りたいための売名行為だという誹謗中傷も飛び交うことでしょう。もちろんそうなればせっかく丹精込めて育て上げた菓子の名声は地に落ち売り上げも激減します」

「……なんと」

「それでも、強い精神力をお持ちのあなたならそれを耐えることも可能かもしれません。ですが、もうひとつの問題にはあなたでも対処できまぜん」

「それは?」

「その貴重な書を奪おうとする者たちの存在です。彼らは……あなたやあなたの家族の命を奪ってでもそれを手に入れようとするでしょう」

「では、どうすればいいのだ?」

「『輝く日の宮』の存在を口外しないこと。それが一番です」

「なるほど。確かに理にかなっている。それにしても……」

「何でしょう?」

「おまえは見てきたかのように喋っているが、そこまで言うということはそのような体験をしてきているのか?」

「ふふっ」

 思いがけずに届いた紘一郎のその言葉に鈴川が軽く嘲りを含んだ笑いをこぼす。

「何がおかしい?」

「いや、私は学者ではないので、前者については聞いた噂と私の偏見に基づいて話しました。ですが……」


 彼はそこで少しだけ息を吐き、それからその真実を告げる。


「後者について言えば、知っているも何も、私たち自身がその『輝く日の宮』を奪う者たちなのです。それなのにあなたは真面目な顔で当事者である私たちにその者を知っているかと聞かれたもので、つい……」

「すいませんね。向山さん。そういうことです」


「……先崎君。夜見子様へ連絡を。オペは成功。獲物は予定のものでしたと伝えてください」


 それから数日が過ぎた夜。

 あの建物にはいつもの四人が集まっていた。

 正確には男女が待つその部屋にある報告をするためにふたりの女性がやってきたというのが正しい。

 そして、この日も四人の前にはあのお菓子が……。


「夜見子様。売人に関する仕事はすべて終了しました」

「ご苦労様。真紀。それから美奈子。それで、どうでしたか?」

「あの菓子屋の主人に『輝く日の宮』を売った骨董屋は副業で高利貸しをしており、店で売れそうなものを担保や利子と称して巻き上げていたようです」

「ということは、『輝く日の宮』はその中のひとつだったということなのですか?」

「というより、利子代わりに巻き上げた骨董品の中に紛れ込んでいたもので菓子屋の店主が買い取るまで長い間放置されていたそうです」

「貴重な書をそのような扱いしていたとは。もうそれだけでその男は万死に値する罪を犯したことになります。それで他には何か見つかりましたか?」

「いいえ。その店には残念ながら私たちが望むものはありませんでした。まあ、今は正確になにひとつ残っていませんが」

「『輝く日の宮』の元の所有者についての情報は?」

「美奈子が拷問で吐かせた男の記憶を頼りに探してみたのですが……申しわけありません」

「わかりました。そちらは保留にしておきましょう。それで、菓子屋の主人はこの『輝く日の宮』をいったいいくらで購入したのですか?」

「二億円」

「驚くべき金額です」

「骨董屋は最後までその価値がわからなかったようで、試しに吹っ掛けた値段に飛びついたと驚いていました。もちろん向山紘一郎にとってそれはバーゲンプライスだったはずなのですが、買い取り交渉でひとつ問題が起きました」

「肝心の二億円がなかったということですか?」

「そのとおりです。もしかして夜見子様はご存じだったのですか?」

「いいえ。その金額で問題が起こるとしたらその程度しか思い浮かばなかっただけです。つまり金がないにかかわらず彼はそれを手に入れたということですね。それで、その顛末はどうなったのですか?」

「現金で支払えたのは四分の一ほどで残りはローンとなったのですが……」

「相手が高利貸しを営んでいたとなれば、利子が雪だるま式に増えたという以外には考えられませんね」

「そのとおりです。最終的には支払いが完了していなければ紘一郎死亡後はあの店のオーナーは骨董屋になるということで話がついていたようです」

「両方とも実に愚かですね。そもそもあの菓子屋は店主がいなくなったら立ち行かなくなるのは目に見えています。高利貸しはそのようなものを手に入れてどうするつもりだったのでしょうか。菓子屋の主も同じです。銀行からお金を借りて支払っておけば少なくても店を後継者に渡せないという心配をしなくて済んだでしょうに」

「いいえ。必ずしもそうではないようです。結局銀行から購入資金を借りるためには店を担保に入れなくてはならないため返済できない場合は店を手放すようになる構図は同じだったようですね。それに、どうやら見た目ほどはもうからないようです。菓子屋というものは」

「なるほど。ということは、鈴川たちがあの店を訪れたのは絶妙なタイミングだったということになりますね」

「それはどういうことでしょうか?」

「そのような状況では彼は早晩『輝く日の宮』を手放さなければならなくなったことでしょう。その時どこに声をかけるか?彼が考えるのは金だけでなく自らの名も残る場所でしょう」

「公的機関ということですか?」

「そうです。そうなってしまえば、私たちは手を出せなくなります」

「なるほど。確かにそうなる前に『輝く日の宮』を押さえられたのは幸運でした」

「逆を言えば、もう少し私たちが動くのが遅ければ文学史が大きく変わっていたわけでそれはそれで見たかった気もします。ところで、夜見子様。それとは別に今どうしてもお訊ねしたいことがあります」

「どうぞ」

「その愚かな菓子屋の主人向山紘一郎を生かしたままでよろしいのですか?鮎原は放置するつもりのようですが私は高利貸しと同じように闇に葬った方がいいと考えます」

「私も真紀の意見に賛成です。お許しが出ればすぐにでも処理してまいりますが」

「……鮎原はどう思いますか?」


 ふたりの女が主張する強硬論を聞き終えると、彼女は男にも意見を求めた。

 もちろんこれからもその店の菓子が食べたい彼女が彼に望むのはより穏健な意見だ。

 彼はその期待に見事に応える。


「菓子を食べながらその菓子職人を殺す算段をするなどという野蛮な行為は常識人である私や夜見子様にはとてもできるものではありませんが……」


 そう言っていつものようにふたりの女性を大いに憤慨させてから男は言葉を続ける。


「釘を刺し、監視もしているのであれば問題はないかと。そもそも、理由はどうであれ彼は鈴川の求めに素直に応じて『輝く日の宮』を差し出したのですよ。そのうえ命を奪うなどだまし討ちに等しく夜見子様の名に傷がつきます」

「甘い」

「そうです。放置し、何か取り返しのつかないことになったらあなたはどうするつもりなのですか?」

「そのようなことは起きませんのでそのようなつまらぬ心配は無用です」

「言い切りましたね。鮎原」

「言い切ったのではなく取り返しのつかないことなど起きないという事実を述べた。ただそれだけのことだけです。では、おふたりにお伺いしますが、それによって起こる我々にとっての取り返しのつかないこととはどのようなものでしょうか?」

「そ、それは……」

「どうしました?では、美奈子さん。あなたが答えてもいいですよ」

「……」

「答えがすぐに思いつかないようなことは口にしないほうがいいでしょう。そうすれば自分の無知はバレませんから」

「あ、鮎原」


 男はふたりの女を言葉でねじ伏せると、この部屋を支配する女性の方へ向き直り再び口を開く。


「それにしても、『輝く日の宮』が九億円で手に入るとは我々にとっては驚くべきバーゲンプライスですね。もっとも前回も『輝く日の宮』は大変安く手に入れることができましたが」

「そうですね。しかも、前回は大金と大掛かりな仕掛けを用意しましたが、今回はそれもありませんでしたので、本当に効率的に手に入れることができました。ですが、実はこの話には続きがあります。もちろん三人はすでに気づいているとは思いますが」

「表紙の色ですか?」

「さすが真紀。そのとおりです。もちろん『輝く日の宮』が単独であの表紙に綴られた可能性がないわけではありませんが、やはり同様の色の写本が存在していたと考えた方がいいでしょう。しかも、『輝く日の宮』がそこに含まれているということは……」

「定家が所有していたという写本よりも古いもの。つまり、より原書に近い写本ということになります」


「そういうことです。命じます。この写本の残りを探し出しなさい」

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