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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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雲隠

 「雲隠」

 それは公式には源氏物語の二十六番目の巻に与えられた名である。

 だが、現在読むことができるすべての源氏物語にはこの「雲隠」はその名を冠す巻はあっても、本来ならタイトルに続く本文は存在しない。

 つまり、「雲隠」とはタイトルだけの巻なのである。

 それだけではない。

 「雲隠」で語られるべき約八年間におよぶ物語の大部分は源氏物語のなかでは空白のままとなっているのだ。

 そのため源氏物語を愛する少なくない数の者が「雲隠」には当初そこに書かれるべき物語が存在したもののある時期に喪失したという言葉を信じている。

 もちろんその主張には反論する者がいるわけで、「雲隠」がタイトルだけしか存在しない現在の姿こそがオリジナルであると主張する意見にも同じくらいの賛同者が存在し、彼らは反目し自らの主張を一歩も譲らない。

 だが、原書が存在しない今となってはそのどちらが正しいのかを断定することはできない。

 つまり、結論は永遠に得ることはできないのだ。

 そして、そのような出口の見えない論争に関わることなく、「雲隠」には物語が存在することを信じ、ただひたすら残っているかもわからぬ「雲隠」を追い求める者たちもいた。

 言うまでもない。

 天野川夜見子配下の蒐書官たちである。

 そして、その始まりはまだ大学にも入学していなかった彼女が手に入れた一冊の源氏物語の注釈本に書かれた作者の心の声とも思える一文だった。


「源氏物語から「雲隠」を除くことなど狂気の沙汰である。まったくもって愚かな話だ」


 もちろん存在を確信した彼女がそのままそれを放置するはずがない。

「『雲隠』を探し出しなさい」

 こうして「雲隠」探索は始まった。

 だが、それは困難の連続だった。

 蒐書官たちの必死の努力にもかかわらず何も見つからず、それよりも遅れて探索が始まった同じく源氏物語の幻の一巻である「輝く日の宮」が発見されても、「雲隠」は痕跡すら発見できなかった。

「……やはり『雲隠』は残っていないのでしょうか。残念です」

 彼女自身も含め誰もがあきらめかけた「雲隠」探索が動き出したのは、あの「源氏物語争奪抗争」が起こる少し前、探し始めて十年近く過ぎたある日のことだった。

「捜索方法について私にひとつ案があります」

 いつものお茶会の席で「雲隠」探索が行き詰っていることを彼女に打ち明けられた少女がひとつの提案をした。

 「雲隠」に物語が存在したのはほぼ間違いないだろう。

 では、これだけ探しても見つからないのはなぜか?

 伝承のように焚書によってすべてが消えた可能性もあるが、そうでなかった場合はどのような条件下で起こるものなのだろうか?

 まず考えられるのは天皇の意思は焚書ではなく封印であった場合だ。

 つまり、すべての「雲隠」は回収されたものの、焼却処分されたのではなく、どこかに隠されたということ。

 この場合には、探索すべき人物とはこの封印の仕事を担った可能性のある者の子孫だ。

 次に考えられるのは、焚書の指示はあったものの、それに従わなかった場合だ。

 この場合、天皇の意向に背いてまで「雲隠」を隠し持っていた可能性がある者とはどのような人物なのだろうか?

 「雲隠」の供出を拒んだ人物。

 または、「雲隠」焚書をサボタージュし密かに持ち続けた者。

 そのような可能性のある人物たちをリストアップしその子孫を洗い出す。

 最後に、所有者が「雲隠」を所有しているにもかかわらず、所有していることをあきらかにしない理由を考える。

 そして、リストアップした人物のうちそのような理由を持っている者。

 その人物が「雲隠」の所有者である可能性が高い。

 それが少女の言葉だった。

 もちろんこれまでも「過去から未来、すべてを見渡す眼を持つ」とも評される彼女の助言によって多くの難題が解決されてきたことを知っている彼女が少女の言葉を疑うはずはない。

 さっそくそれが実行に移されると、驚くことにすぐに複数の候補者が浮かび上がる。

「さすがお嬢様というところでしょうか。ですが、これは困りました」

「そうですね。まったくです」

 リストを眺めながら彼女の補佐役を務める年長の男がぼやき気味に言葉を口にすると、彼女もその言葉で応える。

「ここに名前がある誰もが持っていそうではありますが……」


「困りました」

 再びその言葉を口にしたふたりの視線の先にあったリストの筆頭に並ぶのは立花家当主より手出しすることを禁止されている人物三人の名だった。

「では、こちらをと言いたいところですが、この人物も随分やっかいですね」

「まったくです」

 ふたりがため息をつきながら睨みつけるそれに続く人物の名は藤葉義詮。

 のちに夜見子たちと「源氏物語争奪抗争」を繰り広げることになる男である。

「この男なら確かに『雲隠』を持っている可能性は十分あります」

 その言葉どおり、この男は夜見子が住む世界では源氏物語コレクターとして非常に有名であり、「雲隠」所有者の資格が十分にあった。

 しかし、この男は極端なまでの秘密主義者で、情報開示というものには無縁の存在であったために、そのコレクションの概要について正確に知る者はいない。

「その点については我々も同様ですからあまり非難はできませんが」

 男は苦笑いを浮かべた。

「持っている可能性は高い。ですが、それはあくまで可能性の話であって、証拠もなしに蒐書官を動かし敵対行為をしていない者の屋敷に火をつけるというわけにはいきません」

 正論である。

 彼女もその言葉に同意するように小さく頷く。

「そうですね。ですが、そうは言っても過去にこの爺さんを訪ねた学者連中の例を考えたら、『ありますか』と訊ねてまともな答えが返ってくるとは思えません。何かこの状況を打開するための策はありますか?」

「残念ながらすぐには……」

 お手上げという表情を浮かべながら男が答えたその言葉。

 彼女にとってそれは意外であった。

 ……あなたでもそのような答えをすることがあるのとは思いませんでした。

 ……ですが、あの一の谷の上をいく思慮遠望の権化であるあなたが何も考えていないはずがありません。

 ……それはそれで深い意味があるのでしょう。

 彼女は心の中で納得し更に言葉を紡ぐ。

「では、この男は後回しということになります」

「それがよろしいでしょう。残りはふたりということになりますが、どちらから交渉を始めますか?」

「あなたはどちらが所有している可能性が高いと思いますか?」

「こちらでしょうか」

 彼女の問いに答える男が指さしたのは名門一族の端に名を連ねる者だった。

「理由は?」

「彼の家は戦前に一度専門家にコレクションの一部を公開してひどい目に遭っており、それからというもの蔵は閉じられたままになっています。もう一方は数年前に藤葉氏に屋根裏の隅々まで荒らされているようですので、十分きれいになっていると思われます。そういうことで、もし、どちらかということであれば……」

「なるほど。ちなみに、藤葉の爺様は源氏物語以外の書物についてはどのような扱いをしているのですか?」

「実に徹底しています。源氏物語以外もそれなりに造詣がありかなりの数の書を所有もしているようですが、それはあくまで交換品として保有しているだけであり、手に入れたいものが見つかれば躊躇なく放出するようです。もしかしたら、夜見子様の本棚に収まっているいくつかも出自は彼のところかもしれません」

「なるほど。ですが、そのような男が今まで私たちに接触してこなかったのは意外ですね。もしかして私が源氏物語を持っていないと考えているのでしょうか?」

「いいえ。彼も夜見子様が世界有数の蔵書家であることは当然知っており、知られていない源氏物語の写本のいくつかを持っているだろうとは考えていると思います。それでも、接触を避けてきたのは、それによって得られるものより失うもののほうが大きいと判断したからでしょう。まあ、私が彼の立場でも同じことをしたでしょうね」

「つまり悪名高き蒐書官から自らのコレクションを守るために警戒している。ということですね」

「そういうことになります。ですから、我々との衝突を避け、我々の影のないところで細々とコレクションを増やしていたのでしょう」

「なるほど。そういうことなら、その男の行動をもっと監視しておけばよかったですね。そこまで知りながらあなたがその男を未だ野放しにしているのには何か理由があるのですか?」

「簡単に言ってしまえば、まだその時期でないと判断したからです。なにしろ氏は譲渡交渉でなんとかなる相手ではありませんから、最終的には蒐書官を動かして最終手段を使う必要があります。せっかく狩るのであれば、できるだけ太らせたからのほうがいいと判断したからです」

 ……そういうことですか。

「こちらの思い通りにことは運びますか?」

「もちろんです。いずれ時期が来ましたら彼のコレクションを残らず吐き出させてご覧に入れます。ですが、今は目の前に並ぶ料理の話をすべきではないでしょうか?」

 目の前の料理。

 男はそう言って話を本題に戻した。

 このような比喩を使う話し方は彼女も嫌いではない。

 小さく息を吐き、それから口を開く。

「……そうですね。ちなみに、あなたは好きなものは最初に食べる派ですか?それとも、最後に食べる派ですか?」

「もちろん最初に食べます」

「奇遇ですね。私もそうです」

「では、そのように手配いたします」

「お願いします」


 それから三日後の京都市。

 京都駅からほど近いその屋敷にやってきたふたりはもちろん蒐書官である。

「ここのようですね。朝霧さん」

「そのようだな」

 ペアを組む若い蒐書官柳沢の言葉にそう答えたその男の表情はお世辞にも明るいといえるものではなかった。

「どうかしましたか?」

「柳沢君。君は京都市の中心にあるこの屋敷がこれだけのたたずまいを保っている理由がわかるかな」

「旧家で、しかも金持ちだったからではないのですか?」

「そのような家なら、東京にも大阪にもあるだろう。岡山にある私の父親の実家も元はこれよりも風格のある大きな屋敷だったそうだ」

「だった?」

「そう。空襲で焼けたからな」

「な、なるほど」

「改めて問おう。なぜ、この屋敷は残っている?」

「空襲を免れたから……そういえば、京都は本格的な空襲を免れたのでしたね」

「君はその理由を知っているかな」

 その声にはあきらかな苦みの成分が含まれていた。

 彼は思った。

 ……もしかして、京都が焼け野原にならなかったのが気に入らないのだろうか?

「文化的価値のあるものが多く残る古都だったのでその価値を当時の米軍指導者が認めたからだったと思いますが」

「その要件は京都だけに当てはまるものではないだろう。そもそも京都市内にも軍事施設も軍需工場もあった。もし、本当にそのような理由で京都を手つかずにしていたのなら米軍も存外甘いということになる」

「では、その話は違うのですか?」

「正解は京都を原爆の実験場にするつもりだったから空襲を禁止していた」

「原爆実験?」

「当時の戦況を考えれば、焼夷弾だけで焼け日本を焼け野原にできた。また戦後アメリカが主張している原爆を落とし戦意を挫いて日本を早期降伏に導くつもりだったということが本当のことなら東京近郊に原爆を落とし、指導者たちに直接その威力を見せつけたほうが広島や長崎に投下するよりも効果ははるかに大きかった。では、なぜそうしなかったのか?そのようなことは少しでも考えればわかるというものだ」

「……なるほど」

「京都の街並みが被害を免れたのは相手の都合と気まぐれによる偶然の産物だった。だから終戦が数か月でも遅かったら次の一発はここに落とされ広島や長崎と同じ光景が広がっていたことだろう」

「そうなのですか?」

「もっとも、原爆が落とされなくても米軍が上陸して地上戦が始まれば首里城の例を挙げるまでもなく同じ状況になっただろうが。私は京都や奈良を訪れるたびに思うよ。戦争は勝たねばならぬものだと」

「なるほど」

 頷きながら柳沢は朝霧の心に思いを寄せる。

 先輩蒐書官が語ったややひねくれた言葉の裏側には何があるのかと。

「岡山の空襲で朝霧さんの家族の方が亡くなられたのですか?」

「祖父も祖母も無事だった。だから、私がここにいる。だが、彼らの親せきや友人は多数死んだそうだ」

「そうなのですか」

「だが、戦争とはそのようなものだし、そうならないためにも始めたからには完全な勝利を得なければならないのだ。そして、それは我々蒐書官への教訓でもある。君の言動にもそのようなところが見受けられるが、駆け出しの蒐書官たちは、地味な作業である分析や準備を怠り何も考えず気合と根性と勢いでことを始めるようとするが、私に言わせればそれは愚か行為以外のなにものでもない。たとえどのような弱い相手であっても、入念な情報収集と準備をおこない、それを基にした完璧な策を講じて勝つことが決まったところで初めて動かなければならない。そうでなければ……」

「そうでなければ?」

「いつか失敗する。それは夜見子様に対する義務を果たせないというだけでなく自らの命を落とすことにも直結する。そうなりたくなければ今後は今私が話したことを肝に銘じて行動することだ」

「はい」

「では、行こうか」


「お目通りを許していただきありがとうございます。月道様」

「唐橋氏の紹介とあれば断るわけにはいかないからな。会うだけなら構わんよ。だが、私は忙しい。要件は簡潔にお願いしたいものだ」

 それがふたりの目の前に座る不動産賃貸を生業としているその屋敷の当主の第一声だった。

「そういうことであれば、単刀直入に要件をお話いたします。あなたの屋敷にある蔵を我々にお見せいただきたい」

 ……それはあまりにも直接過ぎる言葉だ。

 若い蒐書官は顔を顰める。

 だが、その言葉を受け取った男は怒るどころか笑みさえ浮かべていた。

「なるほど。実に簡潔でよい言葉だ。ちなみに見せるだけでいいのかな」

「いいえ。もし、我々が探しているようなものが見つかればお譲りいただきたいと思っております」

「疑問の余地など起こらない素晴らしい言葉だ。では、こちらも簡潔に答える。断る」

「譲り渡すことを、ということでしょうか?」

「違う。蔵を見せるということだ」

 いわゆる門前払いである。

 だが、朝霧はそうなることを知っていたかのように顔色ひとつ変えず言葉を続ける。

「それは困りました」

「それは困るだろう。それがおまえたちの仕事だからな。だが、そのために私が被害を甘受する義理はないだろう」

「被害?」

「どうせ、おまえたちも私の蔵にあるといわれている古い紙束が目当てだろう。蔵を荒らし奪い取る。それを私にとって被害と言わず何を被害というのか知りたいものだ」

「……確かに私たちの目的は蔵にあるのではないかと思われる古い書物です。ですが、よくそれだとわかりましたね」

「先日もおまえたちの同類がやってきた。蔵の中にあるものをよこせと言って。それにそのような輩がここにやってくるのは今に始まったことではない。噂を頼りに押しかけられるとは実に迷惑なことだ」

「なるほど。……では、それについて質問をひとつ。そのお宝は実際にあるのでしょうか?」

「それに答える義務はない」

「まったくそのとおりですね。ですが、興味はないですか?さきほど私はこう言いました。目的のものがあればと。その目的のものとは何かということを」

「興味はないな。だが、せっかく来たのだ。聞いてやってもいいぞ」

「ありがとうございます。私たちの目的のもの。それは……」

「うむ」

「源氏物語の幻の一巻『雲隠』です」


「だが『雲隠』はタイトルだけのはずだが」


 その言葉は一瞬だけ間があったものの、即答といってもいいものだった。

 朝霧は男の表情を確認して薄く笑みを浮かべ、それから言葉を口にする。

「……お詳しいですね」

「いや。この程度は常識の範囲だ」

「月道様は源氏物語を読破されているのですか?」

「あるわけがないだろう。私はあのようなまどろっこしいものは嫌いだ」

「なるほど。そうでありながらですが『雲隠』のことを知っているとはかなりの博学のようですね。ですが、ひとつ訂正しておけば『雲隠』には物語があります。そして、我々はその証拠を掴んでおります。私どもが探しているのはその物語が書かれた『雲隠』なのです」

「それはご苦労なことだ。だが、言っておこう。『雲隠』はあの蔵にはない」

「ない?」

「そうだ」

「そこまで断言するということは月道様自身の目でそれを確認しているということなのでしょうか?」

「くどい」


「どうやら空振りだったようですね」

「いや、当たりだ」

「えっ?」

 ホテルへの帰り道、自らの言葉を完全に否定する助手席に座る先輩蒐書官の言葉に驚いた彼は思わずその言葉を使い聞き返す。

「当たり……なのですか?」

「そうだ」

「いったいあの短い会話のどこからその結論を導いたのですか?」

「わからないのかね」

「わかりません」

「では、丁寧に説明するからよく聞きたまえ。まず、『雲隠』があるかどうかについてだが、最初に怪しいと思ったのは『雲隠』にすぐさま反応したところだ」

「そういえば、すぐにタイトルのみだと答えていましたね」

「そうだ。源氏物語を読み込んでいれば確かに常識なのかもしれないが、月道氏は自らそのではないと言った。しかも、『雲隠』がタイトルのみだと答えた直後にしまったと言う表情をした。いや、出てしまったというほうが正しいかもしれない」

「それは私も気になっていました」

「一瞬のことだったのにそれに気づくとは筋がいいな。だが、それに気づきながらそれが何を意味するかがわからないとはまさに宝の持ち腐れだな。残念だよ」

「すいません。それで、それが『雲隠』を持っている根拠なのですか?」

「まだある。彼が念を押していたことがあっただろう」

「蔵の中に『雲隠』はない」

「正確には『雲隠』は蔵にはない」

「……つまり『雲隠』は蔵の中以外にあるということなのですか?」

「正解だ」

「ですが、それは解釈の仕方を変えれば、『雲隠』そのものがないとも言えなくはないのでは……」

「柳沢君。君は月道氏の性格を把握しているかね。彼は回りくどい言い方が嫌いなのだよ。だから、普通の者なら無礼だと怒り出すような私の言葉を歓迎した」

「……知っていたのですか?」

「もちろん。そして、その彼がわざわざいくつもの解釈ができそうな物言いをしたのはどういうことだと考えられるかね?」

「……『雲隠』はある。ただし、その場所は蔵の中ではない」

「それを気づいた者だけが次のステージに辿り着けるというわけだ。我々の先客はどうやらそれに気づかなかったようだな」

「次のステージとは?」

「売買交渉だよ」

「月道氏は隠し持っている『雲隠』を売る気があると?」

「そうだ」

「彼の言葉にそのような理由を見出すものは何もありませんでしたが」

「先ほどの会話にはない。だが、彼の周辺を調べればその理由が浮かび上がる。言っただろう。事前の準備は大事だと。君が涎を垂らしながらガイドブックで昼食場所を調べていた時に私は彼の身体検査をしていたのだよ」

「身体検査?」

「彼の身辺調査。つまり弱点探しだ」

「その結果は?」

「見た目ほど金に余裕がない」

「土地持ちなのではないのですか?確か京都の一等地を持っているようでしたが」

「まあ、その土地をすべて手放せばなんとかなるだろう。だが、それは元貴族という家柄を誇りにしている彼の矜持が許さない。その結果現在彼は自分の財布を他人に握られている。そのひとりが我々と彼の間を取り持ってくれた唐橋氏というわけだ」

「なるほど。それで、朝霧さんと唐橋氏とはどのような関係なのですか?」

「以前困っているところを助けてやったことがある」

「それがここで役に立ったということですか。やはり人には優しくするものですね」

 後輩の言葉に朝霧はあからさまにがっかりした表情を見せる。

「ふん。私の言葉を素直に受け取るとは君は相当なお人よしだな。ただ助けてもらっただけで簡単に手駒となって働く者はいないだろう」

「では、どのような……いや。聞かないほうがよさそうですね。それで、これからどうするのですか?」

「決まっている。彼が気分良くそれを差し出すのを待つだけだ。彼の選択肢をひとつずつ消していきながら。彼にとって土地が一番で、『雲隠』などそれに比べれば重要度が低い。彼が抱える借金をすべて返済できる金額に少々色をつけてやれば『雲隠』は必ず手に入る。それだけではない。一度売れば箍が外れる。これは非常に重要なことなのだが柳沢君はこの意味がわかるかね」

「彼が持っているかもしれない珍しい本のすべてが手に入るということでしょうか?」

「そういうことだ」

「……楽しみですね」

「まったくだ。そして、それはまもなくやってくる」


 ふたりの蒐書官そのような会話をしてから一か月後の東京都千代田区神田神保町。

 その一角に聳えるその建物の一室に彼女はいた。

「やっと『雲隠』が手に入りました」

 建物の主である彼女の言葉に年長の男が応える。

「おめでとうございますと言っておきましょう。ですが、本当に予想以上の成果でした」

「まったくです。他にも何か持っているのではないかと思っていましたが、これだけのものがあるとは思いませんでした。それを一滴の血を流すことなく手に入れてくるとはさすが朝霧誠一郎といったところでしょうか」

「そうですね。ところで、『雲隠』の評価についてはまだお聞きしていませんでしたがいかがでしたか?」

「……それは読んだ感想ということですか?それとも……」

「両方というのは欲張りでしょうか?」

「構いません。というか、実は私も誰かに話をしたくて仕方がなかったところです。聞いてもらえますか?」

「もちろんです。では、『雲隠』を読んだ感想からお聞かせください」

「新しい物語を読めたのは確かにうれしかったのですが、『雲隠』なしの源氏物語を読み込んだためなのか、やや蛇足感があります。語られていない部分を自らの想像力で補いながら読むのも悪いことではないと思えました」

「それは贅沢な悩みですね」

「そうですね」

「では、もうひとつの方をお願いします」

「私は『雲隠』を読みたいと願っていました。それは間違いありません。しかし、これは……」

「……そうですね。さすがにこれは多すぎですね」

 ふたりの目の前に積み上げられたもの。

 そのすべてが『雲隠』だった。

「あなたはこの状況の原因は何だと考えますか?」

「彼の一族が『雲隠』の封印を担ったと考えるのが妥当ではないでしょうか」

「つまり、沙汰は焚書ではなく封印だったいうことですか?」

「これだけの写本が一か所に残されていたということはそう考えるほうが自然でしょう。もっとも、本当に封印なのか、燃やせと命令されたものを隠し持っていたのかは今ここで断言はできませんが」

「そうですね。そして、これをもう少し解析すれば『雲隠』が源氏物語からそぎ落とされた時期も判明することになるでしょう」

「それから、今回の最大の成果は……やはりこれですか?」

 そう言うと、男はかつて鮮やかな紫だったと思われる薄汚れた表紙の一冊の『雲隠』を手に取った。

「言うまでもありません。式部本人の手による『雲隠』。これが手に入ったこと以外には考えられません。汚れが少ないことからこれは式部本人が書き写した写本かもしれませんが、この一冊だけで朝霧が元貴族の子孫に支払ったお金でお釣りが来ます」

「まさに望外のきわみ。といったところでしょうか」

「まったくです」


「……さて『雲隠』探索にケリがついたところで、夜見子様との約束を果たすためにそろそろあちらにも手をつけることにしましょうか。……そうですね、せっかくですから『雲隠』を……。いや、ここはやはり予定通り『輝く日の宮』をエサにすることにしましょう。彼が我々のためにどれだけ努力してくれていたのか、実に楽しみです」

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