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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story 安土山図屏風

「狛野物語」の後日談的話です

時系列的にはこちらが先ですが

 東京の中心部に位置する住宅街の一角。

 どこにでもありそうなその一軒の住宅にその男が現れたのは夏の太陽が少しだけ恋しくなる季節になったある夜のことだった。


「はるばる遠くまでお越しいただきありがとうございました。高畑様」

「こちらこそ。この世界で高名な画商である木村様と取引できるとは光栄のきわみ」


 有名な闇画商である家の主とそのような会話をかわしたのは兵庫に住むひとりの若いコレクターだった。

 彼の名は高畑光毅といい、有名な絵画コレクターだった父の遺産を数年前に継いだ男である。


「友人の紀ノ川の話では高畑様は珍しい絵がご所望だとか」

「そうですね。ですが、最近は中東の王族たちがのさばっているので有名オークションで良い絵を手に入れるのは難しい。難儀している私に以前からお付き合いをしてくださっている紀ノ川氏が手を差し伸べてくださり、あなたを紹介してくださいました。オークションでは絶対に売りに出されない品を扱っている画商を知っていると」

「ですが、私や紀ノ川がいるこの世界は特別なルールがあります。すでに紀ノ川から聞いているとは思いますが、改めてそれを確認させてください」


 それに続いて闇画商が口にしようとしたその言葉を制するように彼の口が動く。


「……入手先を詮索してはならない。契約後は滞りなく支払いをする。一旦結んだ契約はどのような事情があっても反故にしてはならない。そして、客の紹介以外ではどのような事情であっても闇画商の存在を表の世界で口外してはならない。もし、それに反する行為が発覚したら、本人だけでなく、家族もすべて抹殺される。もちろんすべて承知していますし、紀ノ川さんに誓約書は提出しております」


 ……なるほど。前置きはいい。さっさと商談に入れということか。

 ……若者らしくせっかちだな。まあ、嫌いではないが。紡ぎ

 ……いいでしょう。では、望みどおりに。


 闇画商は心の中での呟きを顔のどこにも表すことなく言葉を紡ぎ始める。


「わかりました。では、さっそく商談に入りましょうか。具体的にどのようなものがお望みなのですか?」

「個人的には印象派の絵画が好きなのですが、私のコレクションの首座に置かれるようなものがあるのならそれにはこだわりません。もちろんお金に糸目はつけることはありませんし、それなりの用意はしております」

「なるほど」


 彼の言葉に納得するように再び頷いた闇画商であるその男が言葉を続ける。


「実はいくつか用意していたものがあったのですが、そこまでのものをお望みであるならば、もっと別のものを用意する必要がありそうです。申しわけありませんが、今日はお引き取り頂いて明日もう一度お越しください。少し前に手に入れたあなたの希望に十分応える逸品をお見せしましょう」


 そして、翌日。

 闇画商が用意したそれを見た彼は驚愕した。

 彼が見たもの。

 それは……。


「この城の形は……もしかして、これは『安土山図屏風』ではないのですか?」


 安土山図屏風。

 織田信長が狩野永徳に安土城とその城下町を描かせ、宣教師ヴァリニャーノに贈ったとされる屏風画である。

 それはその後天正遣欧少年使節によりローマ法王に献上されたものの、ある時期に突然姿を消し、現在まで所在不明になっている。


 ……その安土山図屏風が自分の目の前にある。

 ……これを見て驚かずにいられるだろうか。


 驚愕の表情を浮かべる彼を横目で眺めながらもう一人の男は言う。


「さすがです。そのとおり。これはあの『安土山図屏風』です」

「ですが、なぜ、そのようなものがここにあるのですか?……あっ」


 言ってから彼は気づいた。

 それはこの世界での禁じられた言葉のひとつだったことを。

 そして、その言葉を口にした後に自分の身に何が訪れるかも。

 彼は慌てて取り繕う。


「あ、すいません。あまりの驚きについ……」


 そう言いながらも彼もわかっていた。

 ここはこの程度の言い訳が許される生やさしい世界ではないことを。


 ……まさかこんなところで私は命を落とすのか。


 口惜しさのあまり視界が滲む。


 ……死にたくない。

 ……たとえ全財産を差し出しても許しを請うしかない……。


 だが、彼が命乞いを始めようとしたときにその奇跡が起こる。


「構いませんよ。私が扱う商品は皆そのようなものですから、その言葉が口に出るのは致し方ないことだと思っています。私たちの仲間がすべて寛容というわけではありませんから今後は言葉に気をつけ、それから今口に出した言葉を実行しないようにしていただければ今の言葉は聞かなかったことにいたします」


 それはあり得ないと思われた許しの言葉だった。


「……肝に銘じます。お目こぼしありがとうございます」


 ……助かった。


 男の寛容さに感謝し、それからこの世界で取引する恐ろしさを身に染みた彼の耳にさらに続く闇画商の声が届く。


「さて、品物を堪能したところでそろそろお伺いしましょうか。これを購入する気はありますか?」

「も、もちろんです」


 勢いでそう言ってしまった彼はすぐに後悔し、苦悶する。


 ……昨日は確かに値段に糸目は付けないとは言ったものの、実際に目にしたものは想像をはるかに超えるものだ。

 ……これを購入するとなれば、いったいどれほどの資金が必要になるのだ?

 ……その価値だけでなくバチカンから消えたこれがここまでやってきた経緯を考えれば百億円。いや、二百億円は下るまい。

 ……だが、やはり欲しい。

 ……ここはまず購入価格を。


 口を開きかけた彼を闇画商は右手で押しとどめた。


「その気があるのなら結構。では、もう一度この屏風をよく眺めてください」

「……はい」

「どうですか?」

「国宝に指定されたものやそれに準ずるものも多数見ましたが、これはそれに匹敵するものとはいえますね。素晴らしい」

「なるほど。ちなみにこれの作者はわかりますか?」

「落款はありませんが狩野永徳ではないのですか?たとえそうでなくても狩野派であることは間違いないと思うのですが」

「さすがです。なかなか目が肥えていますね」

「それほどでも……」

「実を言いますと、これはレプリカです」

「なんと……これがレプリカですと。……信じられません」

「まったくです。私もこれを見た時には信じられなかったのですが、事実です。なにしろそうであると納得せざるを得ないものを見せられましたから……」


 闇画商が口にしたこと。

 それが起こったのは高畑が東京にやってきた日より一か月ほど前のことである。


「あり得ない。これはあり得ないことだ」


 そう声を上げた有名な闇画商の目の前にあったもの。

 それはもちろん現在は彼の手元にあるあの安土山図屏風。

 しかも、その隣には寸分たがわぬ同じものがもうひとつ。


「こ、これはどういうことなのかを説明していただけるのでしょうね」

「もちろん」


 狼狽する闇画商の姿を冷ややかな目で眺めるのは、彼をこの場所に呼びつけた若い女性だった。

 彼女の口が開く。


「このうちひとつはレプリカ。つまり偽物です」

「そんなことは私にもわかります。私が聞いているのはなぜ同じものが……」

「そのようなつまらぬ質問よりも、まずどちらが偽物であるかを教えてもらいましょうか。画商であるあなたなら簡単なことでしょう」

「いいでしょう。その代わり、あとで私の質問にも答えてもらいますよ」


 もちろんこの時彼はその程度の鑑定などすぐに片がつくと思っていた。

 だが、それは五分経っても、十分経っても結論は出ず、一時間後、彼は心の中である結論に達した。


 ……これは両方が本物だ。


 本物がふたつ。

 実に滑稽な話である。


「さすがにそれはないでしょう」


 彼のその言葉に女性は嘲りを込めてそう言い放った。

 だが、彼は動じない。


「あなたはそう言うが、それ以外には考えられない」

「つまり、あなたは『安土山図屏風』は二双つくられ、しかも、その両方がローマに送られ、そして消えていたと言いたいのですか?」

「そういうことになります」

「その根拠は?」

「すべての材料が現代のものではない。しかも、当時のヨーロッパではこれを手に入れるのはほぼ不可能だ。さらに筆跡もほぼ間違いなく永徳のもの。決定的なのはその劣化具合も……」


 そこで彼は言葉に詰まる。

 彼は気づいたのだ。

 それはあってはならないことだということに。


「そういうことです。たとえこのふたつが同時期に作製されたものでも、劣化した場所やその程度まで完璧に同じということはありえない。つまり、どちらかは忠実に再現されたレプリカということなのです」

「……信じられない。確かにそれ以外には考えられないことではありますが、当時の材料を揃え、これだけの技術を駆使してレプリカをつくるあげることができる者が本当にいるのですか」


 もちろん彼は知らない。

 彼の言うそれだけの材料を集め驚異の技術を駆使するそのような集団を抱えているのが自分の目の前にいる人物であることを。


「さて、今の珍奇な答えはともかく私はあなたの画商としての目を買っています。このふたつにある違いは見つけられましたか?」

「それはもちろん。これでしょう」


 彼が指さしたのは左側にある屏風に描かれた城門付近の一点だった。


「右のものでは男が描かれているが、こちらでは女が描かれている」

「そのとおり。さすがです。そして、それが本物とレプリカを見分けるポイントとなっているようです。それを踏まえてもう一度眺めてください。どちらが本物ですか?」


 女の言葉に彼はもう一度それを見返す。

 だが、結果は変わらない。

 彼の震える口から言葉が漏れる。


「……私は仕事に命をかけており、自分の眼力には自信がある。だが、残念ながらこれはわからない。私が贋作を見分けられなかったのは独立してからこれで二点目だが、贋作があると知りながらそれが見分けられないことは初めてです」

「それはお気の毒に。ちなみにあなたの眼を欺いた一点目はどのようなものだったのですか?」

「それを……それを私に言わせるのですか。もちろんそれはあなたが引き取った例の忌々しいフェルメールですよ」


 忌々しいフェルメール。

 それは、彼を破産寸前にまで追い込んだフェルメール作品「合奏」のことである。


「……なるほど。そういえばそうでしたね。失念していました」


 彼女は笑う。

 そして、心の中では呟く。


 ……誇りなさい。あなたの実力を。

 ……なにしろあれは正真正銘の本物なのですから。

 ……そして、これもどのような科学的調査もすり抜ける「すべてを写す場所」のほぼ完全コピーなのですから、あなたがわからなかったのも無理はありません。


 もちろんそのようなことなど知る由もない彼は口惜しさを滲ませながら問う。


「それで、どちらが本物なのですか?」

「こちらです」


 彼女が指さしたのは左側に立てられていた屏風だった。


「これは両方とも借りものですが、こちらのものならあなたに譲り渡してもいいと許可を得ています。それで、買う気はありますか?」


 ……当然だ。

 ……たとえレプリカでも十分に売り物になる。

 ……それに、あんただってそう思っているから私をここに呼びつけたのだろう。

 ……問題はその価格だ。


「それで、いくらですか?」

「三十五億円」

「さ、三十五億円?」


 男の言葉がその異様さのすべてを物語っていた。


 ……幻の逸品であり本物と言ってもいいくらいのすばらしい出来であるとはいえレプリカに三十五億円に値をつけるだと。

 ……イカれている。


 心の中でそう叫んだところで、彼は自嘲した。


 ……イカれているのは、その金額か?

 ……それとも、その金額を聞いてなおそれを購入しようとしているこの私か?

 ……どちらにしてもそれだけの金を払うのだ。元を取る権利はある。


「……いくつか聞きたいことがあります」

「私が話したことを口外せず、詮索もしないのなら」

「それは約束しましょう」

「では、どうぞ」

「こちらがレプリカ、そして、そちらが本物であるのならローマ法王の所有物であるそれをどうやって手に入れたのですか?これの持ち主は」


 彼の問いかけに彼女は薄く笑う。


「それを答えられないのはあなたの世界と同じです。ですが、あちらが間違いなく本物であることは保証しましょう」

「では、もうひとつ。このレプリカを作製した者をあなたは知っているのですか?」


 この時彼が思っていたこと。

 それはもちろん自分を死の淵に立たせたあの贋作も同じ作者ではないかということだった。


 ……今後のこともある。

 ……それがわかれば報復を兼ねて、闇に葬ってやる。


 だが、彼の思いは彼女のひとことで断ち切られる。


「それも答えられないです。ただし、あなたの不安を取り除くためにこれだけは言っておきましょう。私の知るかぎりこれの製作者は絵画のレプリカをつくることを生業としているわけではないので、このレベルの贋作が世の中に出回っていることはありません。つまり、あなたはこれまで通り安心して仕事が続けられます」

「では、その者はなぜこれを作製したのですか?」

「そうですね。真相はわかりませんので、あなたにこれを売りつけて小銭を稼ぐためとでも言っておきましょうか。さて、そろそろいいでしょうか。それで、あなたはこれに三十五億円を支払うことはできますか?」


「もちろん」


「これはいくらでしょうか?」

「そうですね。友人の紀ノ川の顔を立てる必要もありますので、四十億円でどうしょう」


 ……四十億円だと。


 彼は心の中で呻き、少しだけ間をおいて口を開いた。


「お伺いしてもよろしいですか?」

「なんなりと」

「確かにこれは素晴らしい。しかも、行方知れずになってからは誰の目にもふれたことのない品です。ですが、所詮レプリカです。そのようなものに四十億円とは少々高すぎはしませんか?それに四十億円も出せば有名画家の本物を手に入れることも可能です」

「そのとおりです。もし、あなたが違う絵を所望するというのであれば私はそれでも一向に構いません。しかし、あなたは昨日こうおっしゃった。自らのコレクションリストの筆頭に名を置くものが欲しい。そこで、私はこれを用意したわけです。そこをお忘れなきよう」

「つまり、それは私が買わなければならないということでしょうか?責任を果たせと」

「いいえ。そのようなことを言いません。あなたがこれを手に入れる気がないのならそれで結構です。なぜならこれを私が主催するオークションに出品すれば、おそらくこの倍の金額で落札されるでしょうから私としてそちらのほうがより多くの利益が得られますので」

「……八十億円?ということは、そのオークションではこれをレプリカということを隠すということなのですか?」

「まさか。これが本物であれば私は二百五十億円からスタートさせます。そして、落札価格は……」


 ……最低でもその倍ということか。


 彼は自分が足を踏み入れた世界がどのような場所なのかようやく理解した。

 あきらかに顔色が悪くなった彼を眺めながら闇画商は言葉を続ける。


「つまりこれはそれだけの作品です。そして、これだけは言えます。この金額でもこれを購入できないあなたは多くの意味で私の客のレベルには達していない。言ってしまえば日の当たる場所でアラブの富豪とつまらぬ争いをしているのがお似合いの人ということになります」


 彼は考える。


 ……この世界は信用で成り立っており、一時の利益に走りこの世界の信用を失わせる画商は商売ができなくなるだけでなく、裏切り者として物理的にもこの世から消される。

 ……そのような世界で淘汰されず長い間活動しているこの男は信用できる画商ということになる。

 ……つまり、この男の言葉は嘘ではない。

 ……だが、やはり四十億円は高い。


 そう。

 この売値の四十億円という金額に、どのようなものでも十分に買えるはずだった彼の資金が七億円ほど届かなかったのである。


 ……どうする?


 決断ができないまま、どうにか息を整えた彼はやっとのことで思いを乗せた言葉を吐きだす。


「たとえば、これを百億円で購入するようなコレクターとはどのような方なのでしょうね」

「具体的に教えるわけにはいきませんが、私のようなものから絵画を購入する方は皆本当に絵が好きということなのでしょう」

「と言いますと?」

「あなたも知ってのとおり、私たちが扱う商品は日の当たる場所には出せないものばかりです。ですから、不特定多数の者に絵画の自慢をすることも、それによって利益をあげるということはできません」

「……確かに」

「それどころか、本来の持ち主から返還訴訟を起こされ巻き上げられるのが関の山です。たとえば、この『安土山図屏風』。これを購入した方がその所有を公表したらバチカンから返還要求が来るのは間違いありません」

「レプリカでも?」

「あなたはこれがレプリカであると証明できますか?この屏風に使われている材料はすべて当時のものです。その描きかたはまさに永徳。さらに科学的調査が入ったら本物と判断されるような代物なのです。それ以外にこれがレプリカと証明できるものはありますか?」

「それは……」


 彼は押し黙る。

 その方法は確かに存在する。

 だが、それは目の前の闇画商の存在をあきらかにするということであり、その後に待っているものは恐ろしい報復である。


「どうやら気づいたようですね。そこまでしてレプリカと証明する方はいません。私たちが絵を購入する方はそのようなリスクを支払ってまで欲しい絵画を手に入れているのです。そこまでして手に入れるのは絵画が好き以外のどのような理由があるのでしょうか」

「……なるほど」

「さて、雑談はこのくらいにしましょう。残念ながらあなたには私の顧客になる覚悟さえないようだ。せっかく起こしいただきましたがそろそろお引き取りいただきましょうか。もちろんここで見聞きしたことやこの世界について口外しなければあなたは平和に暮らせますのでご安心を……」

「待ってください。これを購入しないとは言っていません。いいえ。もちろん購入させていただきます。ただ、少し値段が……」

「高畑様。先ほども言いましたが、あの屏風に関してはすでに十分過ぎるバーゲンプライスになっているのでこれ以上の値引きはありません。あなたにはこの金額で購入するかしないかの二つしか選択肢はないのです」


 店じまいを宣言した自らに慌ててすがり着いてきた若者のわずかな望みをあっさりと絶った闇画商だったが、彼の言葉は続きがあった。


「ですが……」

「何か?」

「『安土山図屏風』は値引きしませんが、代金の代わりとなるものがありますのでそれをお伝えしておきます」

「……それは?」

「古い書物。古いと言っても源氏物語や枕草子の古い時代の写本のようなものなのですが」


 そう。

 これが最近の彼なのである。


「高名な画商であるあなたの口から源氏物語という名が出てくるとは意外ですね」

「そうでしょうね。まあ、副業というか趣味のようなものです。それで、どうでしょうか。そのようなものが書庫に眠っていることはありませんか?」

「……そのようなものには思い当たりませんね。残念ながら。ですが、そのようなものがあった場合は高く買い取っていただけるのですか?」

「もちろんです。ただし状態やタイトルによって変わるものの高くても五億円程度と絵画ほどは高くありませんが。それでもそのようなものがあれば、この『安土山図屏風』の購入資金の足しにはなるでしょう」

「なるほど」


 会話はそこで一旦終わる。

 だが、実は彼には心当たりがあった。

 戦後の混乱期に曾祖父が金に困った華族から高値で買い取ったという本。

 そして、父から伝え聞いた曾祖父が自慢気に語っていたというその本についての言葉。


「これは清少納言や紫式部も読んだ『狛野物語』という幻の本だ」


 一方、闇画商の心の中では、彼が持つ何かが彼に語り掛ける。


 ……金額を提示した時に一瞬表情が変わった。つまり、この男は間違いなくそれなりのものを持っている。


 彼はその声に素早く反応し、すぐさま金儲けの算段を始める。


 ……素晴らしい。

 ……だが、相手が本の存在を否定しているこの状況ではこのまま買い取り交渉を進めるのは難しい。

 ……そうなると、利益はだいぶ下がるが、あの女に情報を売ったうえで、売買の手伝いをして手数料を頂くのが最善の策であろう。

 ……では。


「とりあえずお知らせしておけば、万が一そのようなものが見つかった場合には、まずこちらの世界で評価を確定できる人物を探すことです。そうすれば、鑑定人だけでなく古書専門の買い取り業者も現れることでしょう。彼らなら、表の世界はもちろん、本業が画商である私よりずっと高く買いとってくれます」

「ほう。それは耳寄りな情報ですね。ありがとうございます」


 ……つまり、「狛野物語」を売りさえすれば、なんとかなるということか。


「『安土山図屏風』の買い取りについてですが、とりあえず手付けとして半額を支払い、残金は工面出来次第支払うということで契約を結ぶことは可能でしょうか?」

「もちろんです。ただし、『安土山図屏風』は支払い完了時にお渡しいすることになりますが」

「結構です。では、契約成立ということで」


 男は、その世界での契約成立の証しである握手をするために闇画商へ差し出した。


 それから一時間後。

 その男はある女性に連絡をしていた。


「……天野川さん。今日は一億円であなたに買っていただきたい情報がありまして連絡を差し上げました」

「つまり、貴重な本についての情報ということですね」

「そのとおりです。ただし、書名までは判明していませんが」

「いいでしょう。ただし、支払いはその本が手に入ってからになりますよ。もちろんその価値によって値引きがあると思ってください」

「承知しました」

「では、詳しく聞かせてもらいましょうか。その買ってもらいたい情報とやらについて」

「はい。それは……」

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