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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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44/104

狛野物語

 兵庫県芦屋市。

「失礼いたしました」

 高級住宅地としても知られるそこの中でもひときわ古く、そして大きい屋敷から出てきたふたりはともに蒐書官だった。

「今日もダメでしたね」

 ふたりのうち若いほうの男がそうぼやくと、彼よりも二回りほど年長と思われる男は少しだけ渋い顔をつくりあげ、彼を窘める。

「湊君は蒐書官に昇格してわずかしか経っていないので仕方がないことなのだか、たかが五回程度の交渉で目的のものを手に入れられると思っていたら甘すぎる。特に今回の獲物のようなものについては油断もいけないが、それ以上に短気はいけない」

 経験豊かな先輩蒐書官の言葉は重い。

 渋々だが彼も頷く。

「……それにしても『狛野物語』とは驚きました。遥か昔に消えたはずの幻の書をなぜあの男が持っていたのでしょうか?」

 「狛野物語」

 それはまさしく幻の書である。

 枕草子、源氏物語という現在では同時代の最高峰とも評されるふたつの文学作品に取り上げられたそれは、当時の人気作だった可能性はあるものの、著者もわからず、物語自体も原本どころか写本すら存在しない今となってはどのような話なのかもわからない。

 そのようなものをたとえ一部であっても所有しているとなれば、彼でなくでもその入手経路には興味をそそられるはずである。

 だが、目の前にいる先輩蒐書官はその疑問にまったく感心を示すことはなかった。

 彼の口が動くと、実にそっけない言葉を吐きだされる。

「さあな。それに蒐書官である我々にとってあの男がそれを持っていた理由や入手ルートなどそれほど重要なことではない。少なくても今は」

 さすがに先輩のこの言葉には彼も首をかしげる。

「それはどういうことでしょうか?」

「少しでも頭を働かせればわかることだ。所有している。それこそが今の我々には重要なことだということだよ。では、聞く。君は相手がどのような方法で本を手に入れたかによって自らの手段に変化を与えるのかね」

「いいえ」

「そうだろうな。それは他の蒐書官でも同じことだ。どこからどのような手段を使ってその本を手に入れたかを我々が気にするのは、それを手に入れた後、我々のあらたな活動に役立ちそうなときだけだと肝に銘じておきたまえ」


 ……まずい。このままではいつもの説教モードに突入する。


 自分の指導役でもある先輩蒐書官の雄弁な言葉に感じるそれを回避するために、彼はさりげなく話題を変える。

「なるほど。……それにしても、今回の仕事は難関といえそうですね。この状況を打開するために何か秘策はないのですか?」

 だが……。


 ……甘い。

 ……私を騙すには芸の細かさがまったく足りない。

 ……さりとて臆面もなく正面から堂々と話題を変える潔さがあるかといえば、それもない。

 ……まさに笑止。

 どれをとっても中途半端な彼の小細工とその目的をあっさりと見破った先輩蒐書官は心の中でそう呟いた。

 ……だが、仕方がない。これも指導の一環と思ってつきあってやるか。


 すべてを飲み込んだ先輩の口が開く。

「あればすでにやっていると思うのが普通だと思うのだが、どうやら君はそういう思考は持ち合わせていないらしい。ちなみに、君はその秘策とやらになにか心当たりがあるのかね」

「一応考えてはあります。質問をするならまず自らの答を用意せよといつも比谷さんに言われていますから」

「よろしい。では、聞かせてもらおうか。湊君の答を」

「夜見子様の主は立花家ですよね」

「そうだ」

「世界の指導者に電話一本で指示ができるような力が立花家にあるのなら立花家の力をもっと利用すればいいのではないでしょうか」

「なるほど。君の言いたいことはわかった。実につまらぬ考えだが、今後のこともあるからそれについてははっきりと答えておこう。まず、立花家が蒐書活動に直接かかわらない理由だが……」

「はい」

「知っての通り我々の活動は常に合法というわけではない。というか、そうでないことの方が多い」

「はい」

「当然ではあるが、その場合、相手からは少なからぬ恨みを買う」

「もちろんその覚悟はできています」

「そこで君に問おう。君はナイフで刺されたときに、お返しをするのは自分を貫いたナイフか?それともそのナイフを使った人間か?」

「当然人間のほうです」

「私もそうだ。そして、立花家を全面に出して蒐書活動をおこなった場合には、我々は先ほどのたとえでいけばナイフとなり、その持ち主が立花家となる。ここまで言えば私の言いたいことはわかっただろう」

「……はい」

「さらに重要なのは夜見子様のスポンサーであり、その他にも多くの支援はしていただいてはいるが、立花家には我々とは別の次元の、そして、とんでもなく大きな責務がある。だが、その責務には本を手に入れるというものは含まれていない」

「つまり、我々は自らの行動によってお忙しい立花家のお手を煩わせるようなことが起こしてはならないということですか?」

「そうだ。だから、我々は表の世界だけではなく裏の世界でのしきたりも守り、合法とまでは言わないが、その世界のルールに則った交渉と買い取りを基本にすえ、たとえ相手よりも圧倒的な力があっても、それを行使するのは限定的でなければならないのだ」

「それが武力行使を最終手段と呼んでいる所以なのですね」

 彼の言葉に先輩蒐書官は大きく頷く。

「それから、もうひとつ。こちらは我々に直接関係することだ」

「……何でしょうか?」

「簡単なことだ。立花家が自らの持つ強大な権力を行使して夜見子様が欲する本を集め出したら我々は全員不要になる。つまり失業だ。そうなった場合には君はどうするかね?」

「せっかく手にした能力を生かすべくどこかの博物館に雇ってもらい……」

「夜見子様の敵になって殺されるか?それは思いつく中で一番悪い未来図であるし、現実ならさらに数段悪い。少なくても私は御免被る」

「私だって嫌ですよ」

「そうだろうな。だから、そうならないように我々は立花家の力を頼らず本を手にいれなければならないのだよ」


 それから一週間後。

 状況はあれからなにひとつ変わっていないように思えたその日の夜。

 今の交渉が始まってからというものほぼ毎日通うその店に彼らはいた。

「神戸ビーフも毎日食べるとさすがに飽きますね」

「君は贅沢だな。私は毎日食べてもちっとも飽きないが、君が別のものを食べたいのならつきあうことにしよう。それで具体的に何が食べたいのか言ってみたまえ」

「せっかく神戸に滞在しているのですから、ここはやはり中華でしょうか」

「わかった。では、明日の夜は中華料理にしよう。店の選定は君に任せるがここのようなゆっくりと話ができる場所を選んだくれたまえ。では、空腹も満たされ、明日の夕食も決まったところで本題だ。君はこの状況をどう見ているのかな」

「一言で言えば停滞でしょうか」

「根拠は?」

「根拠も何も初日からほとんど交渉は進んでいませんから」

 もちろん彼は自信満々で答え、当然満点の回答をしたつもりだった。

 だが、先輩蒐書官は彼の言葉にかぶりを振る。

「……そうでもないだろう」

「そうでしょうか」

「よく考えてみたまえ。交渉の過程で語られた言葉。それから、我々が許された行為。色々あるだろう。もう一度問う。どうかな?」

「まったく変わりませんが」

「……そうか」

 それはまさにできの悪い生徒の残念な答えに直面した教師ががっかりする構図である。

「では、仕方がない。湊君。私が話すことをよく聞きたまえ」

「はい」

「これまで前進した部分。まずターゲットは『狛野物語』であることが判明し、実際にその存在の確認と真贋検査も完了できた。これは大きい。そこにつけ加えれば、『狛野物語』は完品であること」

「確かに。そういえば、二日前に少しだけですが読むことはできましたね」

「少しか……湊君はもう少し速読術を磨いたほうがいいな」

「比谷さんはあのものすごいスピードでめくる中で読んでいたのですか?しかも、活字ではなく崩し文字を」

「もちろん。ちなみに鮎原さんやふたりの上級書籍鑑定官は私の倍のスピードで読み、夜見子様はさらにその倍のスピードで読むそうだ。独り立ちする気があるのなら、君は少なくても私程度には読むスピードを上げなくてはならない」

「ど、努力します。それで、読んだ結果はどうでしたか?」

「内容は平安時代の香りがするよいものだった。紙質から年代は平安中期から後期に書かれたと思われるが、少なくても二人の朱入れが施されていたことからおそらくあれは何人ものの手にわたった写本だろう。それでも原本はおろか写本も残っていないのだから十分に価値のあるものだ。それ以外に交渉を重ねて君が気づいたことはないかね」

「私には思い当たることはまったくありませんが」

「あの本は彼の先祖が闇市場、または裏取引で買い取ったもので間違いない」

「あの男はそのようなことを言っていましたか?」

「直接には何も言っていない。だが、彼の言葉をすべてつなぎ合わせるとそういうことになる」

「ちなみに、どの辺がそうなのでしょうか?」

「まず、以前はともかく今はこれの価値をよくわかっているという言葉。もし、これを自らが買い入れていたのなら、そのような言葉は出てこない。それともうひとつ。彼は何度も高尚な趣味を持った先祖がいたことに感謝している。このふたつを組み合わせればどうなるかな」

「……なるほど。そういうことですか」

「ついでに言えば、夜見子様の情報網は相当なものだ。それは裏世界で古い書籍の鑑定ができる人間を探している者がいるという情報だけであっという間にあの男を探り当てたことでもわかる。その夜見子様の情報網にまったく触れることなく大金が動く売買行為をおこなうことはかなり難しい。しかも、あの若造に代替わりしたのは数年前だ。そう考えれば、まず間違いなく彼は先祖の誰かが手に入れたものを引き継いだのだろう」

「なるほど」

 よどみなく紡ぐ先輩蒐書官の言葉に彼は納得する以外になかった。

「それで、そこから攻める糸口は見つかったのですか?」

「もちろん。というか、最初の段階からわかっていたことがある」

「それは?」

「彼は『狛野物語』をそれほど愛してはいない」


「『狛野物語』をそれほど愛してはいない?」

 先輩蒐書官の言葉が理解できなかった彼は思わず同じ言葉を口にしてしまう。

「それはどういうことですか?」

「あの男は『狛野物語』が貴重な品であることを理解している」

「それは私もわかります」

「では、聞こう。君がこの世に一冊しかない『狛野物語』を所有していたのなら、突然やってきた我々のような人間の問いに簡単にその名を明かし、あまつさえそれを読ませるようなことをするかね」

「……いいえ」

「そのとおり。さらに言えば、我々のような人間に簡単に読ませるような者が専門家や公的機関にその存在を知らせないのはなぜか?それだけでなく、コレクター仲間にもそれを知らせていなかったのはなぜか?」

「……あくまで裏の世界のごく一部のみ知られる存在にしておきたかったからでしょうか」

「そうなる。では、その理由はどのようなことが考えられるかな」

「規制がかからないので自分の自由にできる」

「つまり?」

「……売ることができる」

「ほぼ正解。だが、点数は六十点というところかな」

「正解のわりには点数低いですね」

「売るだけなら、どのような条件でも売ることは可能だ。だから、ただ売るために隠し持っているわけではない。つまり、彼がその有用性に気づいたのは最近であり、それからその本を売りたいと思っている相手とはまさに我々のような存在……ところで、湊君。君は神戸ビーフの定義を知っているかね?」

「突然どうしたのですか……なるほど」

 比谷がさりげなく、だが唐突に話題を変えたのは、彼らの皿がきれいになっていることを気づいたウエイターがやってきたからである。

 ふたりは料理を絶賛し、空いた皿を持ったウエイターがテーブルを離れると会話は再開される。

「つまり、彼は我々のような存在に『狛野物語』を売りたいのだよ。では、なぜそうなのか、その理由はわかるかね」

「買い取り価格が圧倒的に高いからでしょうか」

「それは答えの半分でしかない」

「……まだあるということですね」

「ヒントをやろう。たとえば闇商人どもが日の当たらないところで絵画の高額取引をする理由とは?」

「税金対策ですか」

「ピンポイントだな。だが、彼らにとってほぼそれが理由だから合格としよう。正確には公式に高額取引をした者は税務署をはじめとして多くの者から目をつけられる。裏世界で品物を取引するコレクターにとってそれはよいことなどまったくない。しかも、君の言うとおり税金も馬鹿にならない。そういう点で我々は彼にとって理想のバイヤーだといえる」

「なるほど。つまり、彼が我々に『狛野物語』を売る気があると比谷さんは考えているのですね」

「そういうことだ。そうでなければ本来なら招かざる客である我々の来訪を拒むはずだ。それどころか我々を招くために例の情報を流した可能性すらある」

「それで、私たちが打つ次の一手は?」

「簡単だ。彼が望む姿を演じ続けていればよい。そうすれば絶対に開かないと思われた扉が内側から開く」


 そして、翌日。

 ついにそのときがやってきた。

「それで、おまえたちはこの『狛野物語』をいくらで買い取るつもりなのだ」

 屋敷を訪れたふたりがいつものように買い取りを提案したところで、それまでは言葉を濁すだけで返事をすることがなかったこの屋敷の主高畑光毅がその言葉を口にしたのだ。


 ……来ましたよ。比谷さん。


 後輩蒐書官は色めき立つ。

 だが、このような場面を何度も経験している比谷は動じることはない。

「我々の基準では八億円というところでしょうか」

「……意外に安いな」

 その言葉は実感が籠っており、高畑は心の底からそう思っているようであった。

「少なくても大台には乗るとは思っていた。なにしろ……」

「現存する世界で一冊の『狛野物語』だからということでしょうか」

「そのとおりだ」

「確かにこの本は現存する唯一の『狛野物語』ではあります。しかし、これは残念ながら原本ではなく写本です。しかも、写されたのは原本が書かれてからかなり経ってからのものです。我々が朱入れと呼ぶ書き込みも多数確認されました」

「それで、八億ということか。それでも安いと思うのだが」

「そのようなことはないと思います。一冊の本に十億円近くの金をかけるというのはそうあることではありません。では、逆にお伺いします。いくら支払えばお譲りいただけますか?」

「それは……」

 比谷のその言葉に高畑は言葉に詰まる。


 ……売り手に希望金額を訊ねれば最低でも二十億円は下るまい。

 ……比谷さんもいよいよ面倒になって言い値で買い取る気になったということか。

 ……二十五億円が上限だろうから、それ以下なら即契約成立というところか。


 湊は心のなかでそう値踏みした。

「そうだな。十五億円を出すなら売ってもいい」


 ……なんと。


 顔には出さなかったが、高畑のその言葉に湊が驚いたのはもちろんである。


 ……先ほどの八億円が相当影響しているのだろうが随分安いな。

 ……だが、これで決まりだ。

 ……さすが比谷さん。


 一方、表情も、そして声も変わることはないのは比谷である。

「一応、その根拠のようなものがあるようでしたら教えていただけますか」

「曾祖父が終戦直後にさる華族から購入した金額に色をつけた」

「なるほど。確かに理にかなった主張ですね」

「言っておくが、私はそれほど金に困っているわけではないので、希望金額以下で売る気はまったくない」

「なるほど。では、我が主にその旨伝え満額を調達できるように努力させていただきます」


「比谷さん。お伺いしてもよろしいでしょうか?」

「それは君が切望した中華料理、しかも、この見るからに美味しそうなエビチリをお預けしてまで語りあわなければならないことなのかな」

「そうですね。そうだと思います」

「よろしい。では、聞こうか」

「八億円というのはどの辺から出たものなのですか?私の目にもあれを八億円で買い取るのは難しく見えましたが。もしかして値引き交渉のためにわざと安値を付けたのですか?」

「いや。そうではない。あれは他で売りに出たときにつけられる最高の金額だ。高畑氏が不満を述べたが激高しなかったのはおそらくこっそりと査定に出して知っていたのだろう。あれを日の当たる場所で売買すればどの程度の値がつくかということも」

「ということは、あの男はあれを専門家の誰かに見せたということなのですか?」

「そんなことをすればとっくに大騒ぎになっている。おそらく雑談のなかで訊ねたのだろう。それとも誰かが入れ知恵したか……」

「なるほど。しかし、それにしても八億円というのは……」

「あれが『狛野物語』でしかも完品なのだから本来ならどこかの学者の決め台詞である『世紀の大発見』であることはまちがいない。だが、その商品価値は意外に安いのだよ。それどころかそれが本当に『狛野物語』かもわからないとケチをつけられ、さらに値を下げられることも十分に考えられる。鑑定家などと言っても大部分はその程度のレベルなのだよ。もちろん文化財として指定されることもないだろう」

「そうなのですか?」

「なにしろ文化財と認定する彼らは『狛野物語』を読んだことがない。前例踏襲しかできない彼らがどうやってあれを本物と認定したうえでその価値を決めるのだ」

「では、あの男の言い値である十五億円は少々高すぎたのではないでしょうか」

「まあ、彼は吹っ掛けたつもりなのだろう。だが、私に言わせればあれでもまだ安い」

「そうなのですか?どこにそれだけの価値があるのでしょうか?」

「もちろんあれ自体が十分それくらいの価値がある作品だということだよ。そして、さらに価値を高めているのは朱入れをした人物だ」

「いったい誰なのですか?」

「そこまで教える義理は私にはない。そこからは自分で調べるべきだろう。その方が勉強にもなる。だが、特別に君がそれを探すときに参考となるひとことをつけ加えておこう。その人物は非常に有名人で、しかも見比べることができるサンプルが非常に多く残っている。残念ながら著者ではないだろうが、この本のどこかの段階での所有者だったのは間違いないと思われる」


 それから一週間が過ぎた東京都千代田区神田神保町。

 そこに建つ建物の一室でその建物の主である女性と彼女に呼び出されていた年長の男性はテーブル越しに対峙していた。

「今日『狛野物語』が届きました」

「それはよろしゅうございました。それで読んだ感想はいかがでしたか?」

「もちろん初めて出会うものでしたから楽しんで読むことができました」

「そのお言葉を聞かせてやればそれは手に入れるために努力したふたりの蒐書官も喜ぶことでしょう。それで、著者を知る手がかりはありましたか?」

「ひととおり目を通しましたが残念ながらないようですね。せめて、これが写本ではなく原本であれば調べようがあったのですが」

「それは仕方がありませんね。他には?」

「有名人のサインがありました」

「サイン?署名があったのですか?」

「いえいえ。その筆跡が多く伝わっているのですぐに特定できる人物が朱入れをしていたということです」

「ほう。それは興味深い。レプリカが出来上がったら是非読ませていただきたいものです」

「それについて約束しましょう。ところであなたにはその前にやってもらいたいことがあります。今日はそのために来てもらいました」

「なんなりと。と言いたいところですが、それは出どころについて調査しろということでよろしいでしょうか?」

「そのとおりです。『狛野物語』の元の持ち主はすでに判明しています。金に困ってそれまで隠し持っていた『狛野物語』を売り払ってしまうような情けない貴族の子孫が貴重な書をまだ抱えている可能性は低いのですが、『狛野物語』は当時としてかなりの大金で売り渡したようなので他は手つかずになっていることも考えられます。一度調べてみる必要はあるでしょう」

「なるほど。確かにそれは魅力的な客ですね。それにたとえ今は所有していなくても過去に何かを持っていたとしたら、そこから辿って現在の持ち主に辿り着けばいいわけですからそれはそれで素晴らしい情報にはなります」

「そういうことです。では、よろしくお願いします。それにしても……」

 そう言って女性は薄く笑みを浮かべる。

「それにしても彼は本当に役に立つ男ですね」

「彼?それは例の闇画商のことですか?」

「もちろんです。彼からの情報がなければ『狛野物語』は今私の手元にはなかったことでしょう。それどころか、さらに多くの時間を日の当たらない場所で過ごすことになったのは間違いないと思います」

「まあ、そのとおりですね。そういう意味では彼に支払った情報料一億円というのは安いものでしょう」

「……闇画商、木村恭次。まったく不思議な男です」

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