知られざる金鉱の位置を記したパピルス
「カイロもルクソールも素晴らしい。だが、エジプトで休暇を過ごしたい場所をひとつ挙げるのなら、もちろんそれはアスワンである」
これはエジプトを何度も旅したある人物の言葉である。
アスワン。
それはエジプト南部に位置する都市の名である。
確かにギザの三大ピラミッドや大きな博物館を抱える首都カイロやギザ、市内のどこからでも遺跡が見えると言ってもいいルクソールと比べればアスワンは観光地としての魅力は劣るかもしれない。
だが、そのゆったりとした時間が過ぎるこの都市独特の空気を愛する者は多い。
そして、それはエジプトを縄張りとする多くの蒐書官の多くもそれに当てはまる。
もちろん、そこには彼らも含まれる。
「柴崎さん。今が真冬とは思えない暑さです。さすがアスワンといったところでしょうか」
「だが、この地に住む者にとってはこれでも寒いそうだぞ」
「寒がりですね」
「それは日本人も同じだろう。ここに来るまで乗ってきたクルーズ船でヨーロッパ人は皆プールに入っているのに、日本人はコートを羽織って震えていたからな」
「ということは、プールで海外の人々と友好関係を築き、今はこうして半そでで過ごす我々はすでに日本人ではなくなっているのでしょうか」
「さあな。だが、言っておくが、西洋かぶれの桜井君と違い私は身も心も純日本人だ」
「ひどいです。私だって日本生まれで日本育ちの立派な日本人です」
先輩蒐書官に揶揄われた彼はホテルの窓から見えるアスワンの眺めを楽しみながらも、少しだけ寂しそうに言葉を紡ぐ。
「それにしても以前と比べて随分変わりましたね」
「以前?」
「学生時代にも一度来たことがあります。もっとも泊まったのは隣の安い方でしたが」
「確かにアスワンは変わった。だが、昔の方がいいなどと感傷に浸るのは一時だけこの町に滞在する旅行者だけだ。ここに住む者にとっては便利になることはいいことだ。旅行者の感傷ために自分たちが永遠に不便を強いられるなど住民にとってはいい迷惑だろう」
「そうですね」
「さて、明日から過酷な仕事が待っている」
「そうですね。だから、今日だけはアスワンの空気を思いっきり吸い込みましょう」
さて、彼らが休暇を過ごすのではなく仕事をするために大好きなアスワンを訪れることになったのは、この日から一週間前の出来事に由来する。
「桜井君。君はヒエログリフをどの程度読みこなすことができるのかな」
カイロでもコーヒーが美味しいことで有名なその店の一角で中堅と呼ばれる程度には経験を積んだ蒐書官柴崎は彼のパートナーとして最近日本からやってきたばかりの桜井にそう訊ねた。
「本を出せる程度には。そうでなければエジプトにやってくることはできませんから」
「なるほど。では、崩し字はどうかな?」
彼がそう言ったのには理由がある。
古代エジプトの文字として知られているヒエログリフであるが、一般によく知られている整えられたそれは公的な場所で使用されるものであり、現在残されているそれ以外から得られる多くの情報は崩し文字として存在していた。
そのため、崩し文字が読めないとは古代から残された情報の半分を手に入れられないことと同義語なのである。
もちろん桜井もそのことは承知している。
「まあ、余程の悪手によるものでなければ問題なく」
「それは頼もしい。では、これを読んでもらえるかな」
柴崎が手渡したのは崩し字が書かれた一枚のパピルスだった。
だが……。
「……試験ですか?」
桜井がやや不満そうな顔で柴崎に訊ねた。
「いや。なぜそのようなことを言うのかな」
「新米とはいえ私も蒐書官です。この程度のパピルスであれば私でも年代測定はできます。古さを出す加工こそされていますが、これはあきらかに現代のものです。顔料も現代のものですし加工もお粗末なものです。つまりこれは偽物」
事実だけを言えば、後輩蒐書官の指摘は間違っていない。
だが、大きなため息をついた柴崎の表情はあきらかにその言葉に落胆しており、その感情を滲ませるように少しにだけ苦みを帯びた言葉を口にする。
「書かれたものを読みもせず結論とは君は随分浅はかだな」
「違うのですか?」
「君が言う『違う』が何を指しているのかはわからないので、すべてを説明する。まず、パピルスの年代は君の指摘どおり現代のものだ。当然インクもそうだ。ちなみに、この達筆すぎる文字を書いたのは清水君で、手に入れたのは尾川さんのチームらしい」
「なるほど。いやいや、それよりも私のどこが浅はかなのですか?」
「決まっている。君がこれは試験なのかと言ったところだ。君は蒐書官として派遣されたということは基本的な技術はすべて習得しているはずだ。もし、そうでなければモグリとして私がこの場で処分してナイル河に住む魚のエサにする。そういえば、最近ナセル湖にはワニも出没するそうだからワニのエサのほうがいいかな」
まったく笑えない冗談だった。
だが、こんなことに絡んでいたら、先に進まないと後輩蒐書官は敢えてそれには触れず、適度に場を和ませる言葉を返す。
「それはどちらもご遠慮いたしますが、試験でないのならわざわざ手間をかけてこれをつくることにもどのような意味があるのですか?」
「わからないかね?」
「はい」
「では、ひとつ訊ねる。たとえば君が例の美術館の一室に忍び込んで首尾よくこれを手に入れたとしよう。ところが、調べてみるとそのパピルスもインクも現代のもので、しかも、文章に絶対にありえない間違いが多数発見された。君はその内容をどれくらい信じる?」
「そうですね。それがどのような素晴らしい内容であってもそれだけ違和感満載でしたら元の所有者込みで考えて我々を笑いものにするために用意されていたものではないかと判断します」
「わかったかね。そういうことだよ。ちなみに、このパピルスにある多数の間違いは罠として清水君が仕込んだもので、新池谷さんが保管している本物にはそのようなものはまったくない」
「なるほど。ですが、なぜそこまでするのですか?」
「だから、読みたまえと言っているのだよ」
それから五分後。
「柴崎さん。ここに書かれていることは本当のことなのですか?」
「もし、ここに書かれていることが嘘で、それにもかかわらず我々は新池谷さんから現地で調査をするように指示が受けたということなれば、それは本当に試験であり、私は前言を撤回しなければならない」
その内容に驚愕し、慌てて詰め寄る後輩蒐書官をあしらうように柴崎が答えた。
「それはそうですが、このような話を私は聞いたことがありません。柴崎さんはご存じでしたか?」
「いや。寡聞にしてまったくご存じではないな。だが、古代に書かれたパピルスにそう書かれているのだ。三千年後の我々を騙すためでなければ書かれていることは間違いということはあっても少なくても書いた本人にとっては事実なのであろう」
「なるほど。それにしても、蒐書官とは書物を手に入れるだけが仕事かと思っていましたが、それ以外のこともやるのですね」
「本来であればパピルスを手に入れたら終わりだ」
「では、なぜこれをやることになったのですか?」
「これを書いた清水君だよ」
「清水さん?……確か元学者だという方ですね」
「そうだ。彼がこのパピルスを読んでここに書かれているサイトに該当するものは見つかっていないので調査すべきだと新池谷さんに進言し、新池谷さんがゴーサインを出した」
「それで……」
「そういうことだ。だが、このような冒険映画の宝探しのようなものはめったにあるものではない。そういう点ではエジプトに来て早々にそれにあたる君はかなりのラッキーといえるだろう」
「わかりました。それにしても金鉱探し。いいですね。今からわくわくします」
彼の言葉どおりそのパピルスに書かれていたこととは未知の金鉱に関する事柄だった。
しかも、そこには具体的な場所を示すような記述もある。
彼らでなくてもその金鉱を探したくなるというものである。
さて、せっかくなのでここで古代エジプトの黄金事情について少しだけ述べておこう。
古代エジプトはまさに金の文化だった。
有名な副葬品や宝飾品の数々には惜しみなく金が使用されていたのは盗掘を免れたわずかな遺物を見ただけでもあきらかである。
だが、使用された莫大な量の金がどこからもたらされたのかはよくわかっていない。
いや、よくわかっていないというのは語弊がある。
多くの金はヌビアと呼ばれた現在のスーダンから持ち込まれたものとする意見が多い。
つまり、黄金をあれだけ消費しながら現在のエジプト領内から産出された金は多くなかったというのだ。
その根拠は簡単。
国内で当時の金鉱や金鉱跡がほとんど見つかっていないからである。
だが、見つかっていないことと存在しなかったことは必ずしもイコールというわけではない。
それを証明するのが今回手に入れたパピルスというわけである。
「当時の金とはナイル河周辺で採れる砂金だったと聞いていたのですが」
「確かにそうであればエジプト国内で金鉱が発見されなくても問題ないということになる。だが、それだけでないことは知られているいくつかの金鉱が東部砂漠に存在していることからもあきらかだろう」
「東部砂漠?どうやってそれを見つけたのでしょうか?」
「見上げた努力。それも最上級の。それしかないだろう。実際に金に限らず貴石を求めて古王国時代から探検隊が派遣されていたことは今でも各地に残る碑文からわかっている。おそらくその金鉱も王の命により出かけていた彼らが自らの知識と経験だけを頼りにあてもなく砂漠をさまよい、偶然見つけたものだろう。そして、このパピルスに金鉱の在りかを記した者もそのような探検隊に加わっていたひとりであることは間違いない。とにかく指示は受けた。明日出発する。ただし、まずルクソールまで行き、そこからクルーズ船を利用する」
「アスワン行きの飛行機で直接アスワンに乗り込むのではないのですか?」
「万が一、カイロから随行員がついてきた場合にもルクソールでまけるだろう。相手がどうしてもと望むのなら全員をナセル湖に水葬にするが、縁切れだけで済むのならそちらの方がいい」
「……なるほど。そういうことですか」
「それにしても、なぜその金鉱は採掘前に放棄されたのでしょうか?」
「大きな洪水があり、その後放棄されたと書いてあるだろう」
「砂漠で洪水ですか?想像がつきません」
「洪水と言ってもナイルの増水期に起こる洪水とはかなり違う。どちらかといえば、土石流と言ったほうが近い。私もベルシャで一度出くわしたが、規模が大きく流れが速いうえに流れる方向がわからないのであれはかなり怖い。もしかしたら彼らのうち何人かはそれに巻き込まれたのかもしれない」
「ですが、洪水が原因なら落ち着いたころに再びトライしてもよかったのではないでしょうか?」
「なるほど。君の言いたいことはわかった。それを理解するために現代に置き換えてみよう。現代で事故があった金の採掘現場を放棄する理由は何が考えられるかな?」
「……再開するメリットがない。つまりペイしない時でしょうか」
「そう。そして、古代だって事情はそれほど変わらない。建前は洪水のためとなっていても、実際には同じ手間をかけるのならあるかどうかもわからぬ場所よりも確実に金が採れる場所に限られた人的資源を投入する。そういうことだったのだろう。だが、恩賞がもらえなかった見つけた方はその決定に納得できない。だが、自分たちは再び探索の旅に出なければならないし、なによりもそれは王の決定だ。だから将来のためにその場所を記録しておいた」
「しかし、その機会は訪れないまま忘れ去られ現在に至った。ということですか?」
「そんなところだろう。量はともかくまちがいなく金を発見したようなので現代の技術ならさらに発見できるかもしれない。だが、それよりも重要なのは発見しながら採掘はおこなわれていないということだ」
「それが見つかれば文字通り宝の山ですね」
「そういうことだ。だが、問題もある。土砂に埋もれていても採掘可能な状態ならいいのだが建築物など建っていたのなら目も当てられん。明日の探索で首尾よく特定されたその場所に工場が建っていたら悪夢にうなされそうだ」
だが、事態は彼らの予想をはるかに超えるものとなる。
アスワン入りの翌日から始まった彼らの探索が十日目となったその日の夕方。
「本当に見つかるのでしょうか?」
今日も足が棒になるほど歩いたにもかかわらず得るものがなく、心身ともに疲労しきった後輩蒐書官はそう言ってほとんど何も口にしないままフォークを置いた。
「アスワンで最高級であるこのレストランの豪華な食事がまずくて食べられないとは君は随分贅沢な口をしているな」
一方、彼とは対照的によく食べ、よく飲む先輩はほどよく回ったアルコールのためなのかいつも以上に饒舌だった。
「それにしても、わずか十日間で根をあげるとは情けない。意気地なしの君には最弱の蒐書官という称号を授けよう。そして、その最弱の君に耳寄りな話がある」
「……何でしょうか?」
「アマルナで蒐書活動している西野さんたちはステラHを見つけるまでに二か月間毎日道なき道を歩き回ったそうだ。しかも季節は夏だ。それに比べれば冬に作業をおこなっている我々は圧倒的に条件がよく、さらにいえば作業期間もまだ西野さんたちの半分にもなっていない。どうだ。明日も頑張れる気になったかな?」
後輩をひとしきり揶揄い終わると、先輩蒐書官は表情を変え喘ぐようにその言葉を口にする。
「……だが、実際のところこれは予想外に面倒なことになってきた」
そう。
実は彼自身もこの状況に閉口していたのだ。
「西野さんたちはステラHを見つけるのに崖に沿ってワディを毎日数十キロ歩き続けたそうだが、これはそれくらいやらないと見つかりそうもない代物なのかもしれない。こうなってくるとその金鉱が採掘されなかったのも放棄されたのではなく後日探した誰かも我々と同じ状況に陥ったからだと思いたくなる」
「そうですね。それにしてもここに書かれたとおりにアスワンから東に三日間歩いた場所を探しているのに目印として示された変わった形状の崖が見つからないというのはどういうことなのでしょうか」
それがあるために彼らがすぐに見つかると思い、実は足かせとなっていたものがパピルスに描かれた絵とその説明文だった。
「三千年という月日を少々甘く見ていたな」
「当時は十分に目印になり得るものだったのでしょうが、今は風化などで形状が変化していると考えた方がいいのでしょう。ですが、そうなると目印がなく、我々はこれに書かれた距離だけを頼りに目的地を探すしかないということになります」
「そうだな。だが、我々は誇り高き蒐書官。指示されたことは必ず完遂する。とにかく明日こそ見つける」
「はい」
気合を入れなおし翌日の作業に臨んだふたりだったが、結局その日も、そして翌日も、その翌日も何も見つからなかった。
それから五日後、八方ふさがりになった柴崎はついにある人物に電話をする。
「……すいません。少しお知恵を拝借したいのですが、よろしいでしょうか」
現状を説明する柴崎の言葉を聞いたその人物が口を開く。
「そういうことなら、まずはパピルスに書かれた文章をもう一度検討してはどうだろうか?だが、そういうことは私ではなくエジプト学の専門家である清水君に聞いたほうがいいだろう」
「それはそうさせていただきます。それから、もうひとつ」
「何かな?」
「探索にあたってのヒントをいただきたく」
実はこれこそが彼がフィールドワークの達人と呼ばれるこの人物に訊ねたかったことだった。
「そうだな……」
その人物は少しだけ間をあけるとこう言葉を綴った。
「私ならまず古い時代の土器を見つけることから始めると思う」
それはその人物がふたつの境界碑を見つけたときに用いた手段だったのだが、柴崎はすぐに疑問の言葉を口にした。
「それでその地を見つけるということでしょうが、見つかったものが洪水で流されている破片である可能性もあるので場所の特定には使えないのではないかと思うのですがいかがでしょうか?」
だが、柴崎が呈する疑問など当然頭に入っているその人物はこともなげにそれに答える。
「そのとおり。だが、水は高いところから低いところに流れるものだ」
「と言いますと?」
「本来あった場所はそれより下流ではないことないがそれで特定される」
「……なるほど」
この時柴崎は思った。
確かにそれはそのとおりだが、このような考え方は自分にはできないと。
「さすがです」
電話の相手はさらに言葉を続ける。
「それからもうひとつ。そのパピルスのことだが、私がそのパピルスの書き手なら手柄を横取りされないように誰に読まれてもすぐには場所を特定されないように細工をする」
「細工ですか?たとえばそれはどのようなものでしょうか?」
「徒歩で三日の距離にそれがあると書いてあっても実際はその三倍の行程であるというようなものだ。解き方の分からぬものがそれを読めばそこにはっきりと徒歩で三日分の距離と書かれているためそこを中心に探す。だが、本当の場所はその三倍の距離の場所にあり、解き方がわかる者しか本当の場所には辿り着けない。だが、当然ながらその場所はおおまかな距離だけでは特定できない。絶対に目印が必要だ。だから、私なら文章にある距離よりも目印として描かれたものを優先して探す。それだけ探してみつからないのなら、君たちも徒歩で三日の距離という言葉にこだわらずもう少し足を延ばしてみてはどうだろうか?」
それから、わずか三日後。
「……柴崎さん」
「ああ。間違いない。これだ。ついに見つけたぞ。さすがです。そして、ありがとうございます。西野さん」
自分たちをここまで導いてくれたその人物に感謝し、それからやっと終わった過酷な任務に涙を流すふたり。
だが、話はそこで終わらなかった。
いや、話は半分しか終わっていなかったと言ったほうがいいだろう。
そして、その話の第二幕はカイロにあのふたりが現れたところから始まる。
早朝のカイロ空港。
「あれですね」
「そのようだな。桜井君。君があれをどう思っているかは知らないが、どのようなことがあっても笑顔は忘れてはいけない」
「柴崎さんこそ」
アスワン近郊で採掘がおこなわれないまま放置されていた金鉱を再発見したふたりがそこで待っていた相手とは、十分に美人の範疇に入る二十代後半と思われる女性と、こちらも見ようによってはいい男にも思える彼女より十歳ほど年長の男性だった。
「もう一度言っておくが、男の方はともかく、女性の方は夜見子様のご友人でもある。粗相のないように」
「ですが、今回のメインは男の方だと聞いています。橘花グループが誇るテリブル・ツインズのひとり一の谷和彦。現代のミダスと呼ばれる男が何をするためにエジプトにきたのでしょうか?」
「金儲けだろう。あのゲス野郎はそれしか取り柄がないのだからな」
後輩の警戒心を込めたその問いに吐き捨てるようにそう答えた先輩だったが、これは彼に限らず蒐書官の一の谷に対する一般的な評価だった。
ただし、夜見子の配下である彼らが彼女とは同格の存在である一の谷に対して間違っても直接そのような言葉を投げつけるわけにはいかない。
それが自戒の意味を込めた先ほどの柴崎の言葉なのである。
だが、彼と同格となれば話は別である。
「一の谷。私の前を歩かないで。目障りなうえに無礼でしょう」
彼とともにやってきたその女性の彼を責める声は空港に下りた瞬間からここまでずっと続いていた。
「ですが、最初は知り合いと思われたら嫌だから横を歩くなと言い、後ろを歩けば後ろ姿をジロジロ見るな。気持ちが悪い。この変態と言う。それで仕方なくあなたの前を歩いているのですよ。では、私はどうすればいいのですか?晶さん」
「この世から消えなさい。今すぐに」
一の谷のささやかな苦情を瞬殺したその見事な言葉にふたりは拍手喝采を送り、それから急いで営業用の表情をつくる。
「ようこそ、カイロへ。お待ちしておりました。一の谷様。墓下様」
それはまちがいなく「差しさわりのない」を地で行く心の籠らぬ歓迎の言葉だった。
だが、それにはすぐさま予定外の方向からの不合格通知と厳しい罰が与えられる。
「あなたはなぜ私の名をこの下賤な拝金主義者の後に呼ぶのですか?」
もちろんそれは女性からのものである。
「そもそも歓迎のあいさつは私にだけにすればいいのです。それなのに汚らわしい一の谷の名前を言うだけでは飽き足らず私がこの男よりも下のような扱いをするとはどのような了見なのですか。まったく常識どころかこの世の理すら知らないとは情けない蒐書官ですね。帰国したら夜見子に部下の教育がまったくできないと文句を言わなければなりません。もちろん厳しいお仕置きも要求します」
「……も、申しわけございません。墓下様。どうぞお許しを」
深く頭を下げる柴崎だったが、彼の心を代弁すれば、彼だってできることならそうしたかった。
だが、新池谷にふたりの出迎えを命じられた以上それはできない。
仕方なく「これも仕事だ」と自分を殺し我慢に妥協を何重にも重ね合わせてようやく先ほどの極めて無難な挨拶に辿り着いたのである。
……それなのにその自分にこのような理不尽な言いがかりとは。
……今日は厄日だ。厄日に違いない。
柴崎の心の声が伝わってきた隣に立つ桜井にはそれは痛いほどわかる。
……しかし、対象相手が目の前にいる以上さすがにここで「はい、そうですね」とは言えない。
……だが、このまま黙っていては火に油を注ぐことになるのは明白だ。
……相手の気分をこれ以上害さずこの場を無難に乗り切れる方法はないものだろうか?
困り果てるふたりに助け船を出したのはなんとその場にいる全員から疎まれている男一の谷本人だった。
「彼女の癇癪はいつものことなのですからそれほど思い悩むことはありません。ただし、こういう時はレディファースト……もちろん彼女はレディではありませんからそうしなかったのは十分に理解できますが、とにかく我慢をして形だけでもそうしておけば形式主義で極めて単純な生き物である彼女は満足し丸くおさまったわけですから、あなたがたも今後は人格者である私を見習い多くの忍耐と最上級の配慮の心を養って……」
「一の谷。今の言葉をすぐに取り消しなさい。そして、己の立場をわきまえぬ無礼な言葉を口にしたことを謝罪しながらこの場で切腹して死になさい」
どこまでも、卑下される存在。
それが、彼女にとっての一の谷和彦。
ふたりは場の空気を読まず愚かな言葉を口にして年下の女性に怒鳴りつけられるその男の惨めな姿を見て自分たちの認識をあらためて確認するのであった。
橘花グループの幹部である一の谷和彦と墓下晶。
彼らふたりがエジプトまでやってきた理由は何かということなのだが、もちろんそれは柴崎たちが発見したあの金鉱の将来について協議するように彼らの雇い主に命じられたからである。
「それにしても、よりによってやってきたのがあの守銭奴とは。そもそもあの程度の矮小で頭の悪い人間がなぜ夜見子様と同格の地位にまで上がれたのでしょうか」
「声がでかい」
ふたりの客人の後方を歩きながら小さくない声での不満を口にする桜井を咎める柴崎だったが、もちろん思いは彼も同じである。
だが、このふたりの蒐書官はこの後すぐに自分たちが小ばかにしていたその男が隠し持っていた別の一面を目の当たりにすることになる。
それはふたりが到着するとすぐに始まった会議で起こった。
「あなたからの報告は夜見子さんからいただきすべて読ませてもらいました。それにしても未採掘の金鉱とは本当にすばらしい発見です」
「ありがとうございます」
そのなんでもない会話で始まった会議はその後も日本からやってきた男が中身のない言葉を並べたてて一方的にしゃべり続けるだけの退屈な時間が流れていくものだった。
……この会議は得るものもなく終わる。
……時間の浪費とはこのことだ。
三十分が過ぎるころになると出席していた蒐書官の誰もがそう思った。
だが、その直後男の口から放たれたこの一言から会議は突如動き出す。
「さて、あなたがたが見つけた金鉱についてこちらの提案をお話する前に、まずはこの地域の統括官であるあなたの意見を改めて聞きましょうか」
……ようやく本題か。あんたが橘花の幹部でなかったらとっくに部屋から叩き出しているところだ。
心のなかで目の前の男をそう罵った新池谷だったが、それでも最低限の礼節を忘れることはなく心の中を見せることがないように軽く頭を下げると笑顔をそっと加えて口を開いた。
「承知しました。もちろん発見した我々自身がそれを管理し採掘したいという気持ちはあります。何と言ってもそこのふたりが苦労して見つけたものですから」
そこのふたりとはもちろん空港に出迎えにいった柴崎と桜井というふたりの蒐書官のことである。
男が頷くのを確認すると彼は続ける。
「ですが、それを始めてしまうと我々の本来の目的に大きな影響を及ぼす。もう少しはっきりと言えば、我々が持つ人材では採掘事業が軌道に乗らないどころか肝心の蒐書活動にも支障を来たしかねない状況に陥ることが予想されます」
「つまり質量ともに人材不足というわけですね。それで、新池谷さんは彼らが見つけた手つかずの金鉱を今後どうしたらよいと考えますか?」
「それはなんとも。ただ少なくても門外漢の我々はそれにかかわらないほうがいいとだけは言っておきましょう」
「それはそこから生む出される膨大な利益を諦めるというわけですね。たとえば、不足している人材をこちらから出すと言ってもその気持ちは変わりませんか?」
「残念ながら……」
「私からすればそれはあきらめが良すぎるように思えるのですが」
……我々は誇り高き蒐書官。貴様のような守銭奴とは違う。
その瞬間、その部屋にいるすべての蒐書官は心の中でそう唱和した。
だが、彼らと違い言葉を口に出さなければない新池谷はさすがにそこに加わるわけにはいかない。
「いいえ。ここで目の前の利益を拘り蒐書官の本分を忘れては夜見子様に対して申しわけないことになります」
それは本心を何重にもオブラートに包んだ見事な言葉だった。
「なるほど」
一の谷は小さく頷き、それから彼を知る者が嫌うあの特別な笑みを浮かべた。
「……いよいよか」
そう呟いた隣に座る女性は知っている。
それが何を示しているのかを。
そして、始まる。
「一の谷劇場」とも呼ばれる彼の独断場が。
彼が口を開く。
「わかりました。では、発見された金鉱に関するすべての権利をあなたたちは放棄するということでよろしいですか?」
「はい」
「では、その点を踏まえてここから本題に入ります。実は夜見子さんから当主様にこの件についての報告が上がり、先日当主様よりこの件についてはおまえに全権を委任するので考えられるなかで最大の利益を上げられるように行動せよとのご指示がありました」
「……」
「当然その時点で発見者であるあなたたちが夜見子さんに提出した金鉱の権利を放棄する旨の誓約書は上がっていたわけですが、念のため先ほどもう一度確認し、あなたがたの方針は変わっていないことを確認しました」
「そのとおりです」
「そうして、私がここにいる。つまり、その金鉱について私はどのような決定をも下すこともでき、あなたたちにはそれに対して口を出す権利は一切ありません」
「それも承知しております」
「よろしい。では、これよりしばらくの間、あなたがたは金鉱に関する事業をおこなう私の指示に従いその手足となって行動してもらいます」
「……な、なんと」
そのようなことまで承諾はしていないという言葉が出かかった新池谷を制してその男は言葉を続ける。
「安心してください。私は極めて人情が厚く民主的な人間です。あなたがた現地の方を奴隷として扱うこともありませんし、あなたがたの意見はできるだけ尊重したいと思っております。私の指示に黙って従い一分の違いもなくそれを実行してくれさえすればそのことは保証しましょう」
だが、その丁寧な言葉とは裏腹に一の谷はそこで蒐書官たちを従属させると高らかに宣言した。
当然それは蒐書官が耐えられるものではなく、彼らをまとめる新池谷にとってもそれは同じことだった。
ひと呼吸置き、怒りをどうにか抑え込んだ彼は形を変えた異議を唱える。
「ひとつよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「夜見子様はこの件を了承されているのでしょうか?」
つまり、夜見子の承諾なしにお前の言いなりにはならない。
彼は言外にそう言ったのだ。
もちろんこれは蒐書官全員の総意である。
だが、夜見子配下の蒐書官たちの反発を予想していなかったはずもないその男は完璧ともいえる準備をしていた。
新池谷のその言葉を待っていたかのように用意していた毒の籠った言葉を口にする。
「これは異なことをいう。夜見子さんが当主様の意見に異議を唱えなかったのかと訊ねるとは経験豊かな統括官らしくもない不見識な発言というだけではなく、当主様に仕える夜見子さんの配下として極めて不穏当なものといわざるをえません。言っておきますが、その言葉がジョークなら出来が悪いと軽蔑し、そうでなければ……」
「そうでなければ?」
「在エジプトの蒐書官たちとその主である天野川夜見子には立花家に対する敵対行為の兆候ありとして当主様に報告し、あわせてこの場であなたを断罪しなければなりません」
あきらかな恫喝、いやどちらかといえば言いがかりである。
「き、貴様。言っていいことと悪いことがある」
その瞬間その場にいた蒐書官全員の箍がはずれ武器に手がかかる。
もちろん彼らが行動を起こせば一瞬でケリがつく。
だが、相手は動じる気配はなく、それどころか単純な挑発に乗った彼らの浅はかさを嘲るように薄ら笑いさえ浮かべていた。
それから勝利を味わうようにゆっくりと口を開く。
「なるほど、武器を持ち出したわけですね。さすが単細胞の夜見子さん配下の蒐書官といったところでしょうか。それでどうしますか?やるのは結構。ただし、当主様より任じられた橘花グループの経済部門トップ、しかも丸腰の私を害したとなれば、その責任とその処分の対象は実行者であるあなたがただけにとどまりませんよ」
……これだ。これこそがこの男がここまでのし上がった理由であり、嫌われる理由なのだ。
男の隣に座る女は心の中で呟いた。
……だが、これでこの男の安全は保証された。
……まさに勝負ありといったところでしょうか。
……もっともあなたがどれほど優秀でも準備万端でこの場に臨んでいるこの男に勝てるわけがない。まして蒐書官ごときがこの男を言葉でねじ伏せることなどあり得ぬ話だ。
女の読み通りだった。
蒐書官の暴発を抑えるように右手で合図した新池谷は先ほどより一気に数十度は温度が下がったと思われる声でその言葉をその口にする。
「……失礼しました。私も彼らも少々熱くなってしまいました。ですが、私が申し上げたかったのはそこではありません」
「ほう。では、どの部分のことでしょうか?」
「我々エジプトの蒐書官があなたの指示に従うと言う部分です。夜見子様はそれを承知したのかと聞いているのです」
「それについては夜見子からあなたたちに伝言があるわよ」
その言葉の主はそれまで沈黙を守り続けていたテリブル・ツインズのもうひとりである隣の女性だった。
「今回の件に関わることについては一の谷の指示に従うこと。ただし、それ以外の命令には従う必要はなく、特に一の谷の個人利益に属するものについては帰国後相応の措置をおこなうので私墓下晶にその詳細に伝えること。以上です」
「ということで、夜見子さんからのお墨付きを頂いているわけですからあなたたちは私の指示に従ってもらいます。了解してもらえますね」
「……夜見子様の指示であるのならそれはもちろんでございます」
「まあ、私個人としては、あなたが小銭をかき集める恥ずかしい蓄財に勤しんでいる現場を彼らに押さえられることを期待しているわ」
「そうなれば、私は夜見子さんに切り刻まれてしまいます。そうならないようにこの地で蓄財をする際には十分気をつけることにいたしましょう」
もちろん最後の言葉はジョークである。
だが、殺伐としたこの雰囲気にそぐわぬ一の谷のできの悪いそれを笑うほど心に余裕のある者はもはやこの部屋には残っていなかった。
ひとりを除けば。
とても身内のものとは思えぬ異様な空気の中でその会議は進んでいた。
「……それで、我々が発見したあの金鉱をあなたはどうするつもりなのですか?」
「まずはその権利を確実なものにします。ちなみに買い取り交渉は終了しているのですか?」
「発見からまだ十日しか経っていません。しかも、購入目的について一切口にせず黒子を使っての交渉なのですよ。終わっているはずが……」
「遅い」
「遅い?ですと」
「遅いでなければ、大変遅いです。我々が動いているのがわかればその場所に何があるか嗅ぎつけられ交渉はさらに難しいものになります。晶さん。あなたの意見は?」
「言うまでもないこと。明日中、少なくても明後日にはケリをつけなさい。あなた達にそれだけの能力がないのなら代わりに私がやりますがどうしますか?」
「いや。どうやら最初から晶さんに任せたほうがいいようです。では、蒐書官の方々は彼女のサポートに回ってください」
「実はそうなると思ってすでに私の部下を多数前乗りさせている」
「さすがです。それから、晶さん。買い取り資金は私が用意しますのでお金のことは気にしないで交渉してください」
「それはつまり金額よりも早期妥結を優先しろということね」
「そういうことです」
「それで、買い取る広さは?」
「新池谷さん。現在交渉している広さは?」
「発見地を中心に約一キロ四方ですが」
「狭い。狭すぎる」
「晶さんの言うとおり。最低でもその十倍。できればさらにその倍を」
「できるだけ広くということね。わかった。そうと決まればすぐにでもアスワンに飛びたい。決めなければいけないことがそれだけなら会議はこれで終わりにしてちょうだい」
「承知しました」
「しかし、アスワンへ行く飛行機は明日にならないと……」
「我々が乗ってきたチャーター機があるから大丈夫です。それから新池谷さん」
「……はい」
「大統領に連絡を。立花家の代理人が面会したいと伝えてください。では、解散です」
それはわずか十分間の出来事だった。
それから三日後のアスワン。
柴崎たちが発見した金鉱の前にはその女性が立っていた。
「墓下様。ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
それは自らが苦労して発見した金鉱を彼女とともにやってきた男に乗っ取られる形となった者からのものだった。
「どうぞ」
「では、遠慮なく。私がお聞きしたいこととはもちろんこれだけの広さの土地を買い取ることが本当に必要だったのかということです」
彼の疑問。
それは実に率直かつ当然といえるものだった。
なにしろ、彼女はわずか一日の交渉で現在自らが立つ枯れ谷を中心とした東西約二十キロ、南北にいたってはなんと約四十キロにもおよぶ広大な土地を手に入れていたのだから。
だが、彼女はそれには答えず彼に問いかけなおす。
「それはどの視点からのものかしら?」
「どの視点……ですか?」
「そう。その設問はどの方向から見るかによって答えは変わってきます」
「では、我々の視点ということで」
「わかりました。そういうことであれば、答えはイエス。間違いなく」
即答である。
「根拠をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「簡単なことよ。一の谷がそれを望んだから。それだけのことよ」
彼は知っている。
彼女が口にしたその名前の男は触るものすべてを金に変えるという現代のミダスと呼ばれていることを。
そして、その彼が望んだのであればそれは必ず利益を生む。
つまり利益を生むためにそれは必要なのだ。
彼女は言外にそう言ったのだ。
だが、それだけでは彼にはわからない。
彼は言い方を変えることにした。
「私は金の採掘についてはまったくの素人なので再度お訊ねいたします。それをおこなうにはこれくらいの土地の確保が必要になるということなのでしょうか?」
「さあ。それはどうかしら。私にもわからないし、そもそもどれくらいの金が採れるかも調査していないのですから何とも言えません。ですが、軽く掘っただけでもこれだけのものがみつかるのですから見る者によってはそれなりのものが期待できるようには見えるのではないでしょうか」
非常に回りくどい表現を使った彼女の手には少しだけ黄金色を帯びた部分がある石が載せられていた。
彼は彼女の言葉を噛みしめる。
……必要かどうかはわからない。
……だが、実際に採掘が始まり追加で土地の購入が必要になったときにはその購入金額は跳ね上がる。
……それなら、不要になるかもしれないが、今のうちに購入しておくべくだということか。
「つまり可能性を含めても先行投資ということなのでしょうか?」
「なるほど。あなたにはそう見えるのですか?」
彼女はそう言うと薄く笑った。
それがまったくの見当違いであるかのように。
「……ということは違うのですか?」
「それについてはいずれわかるでしょうが、この広さこそが私たちに利益をもたらす源とだけ言っておきましょう。それよりもあなたがた蒐書官にやってもらいたいことがあります。そのために多くの蒐書官に集まってもらったわけですから」
「とにかく集めろということでしたが、これから我々に何をさせるつもりなのですか?……まさか金の採掘?」
「そのとおり。と言いたいところですが、やってもらいたいこととはあなたたちの本分にかかわることです」
「と言いますと?」
「この一帯の岩々に刻まれた文字をすべて切り取りカイロに持ち帰ることです」
「採掘工事が始まれば貴重な碑文が傷つくからということですね。承知しました。ただちに手配します。ちなみにそれも一の谷様の指示なのですか?」
「いいえ。一の谷からはまだそこまでの指示は受けていません。ただ、いずれそうなるでしょうから前もってやっておきたいと思っただけです」
「なるほど。……それにしても少し意外です」
それは心からの言葉であった。
「意外?何が意外なのですか?」
彼女の問いに彼は苦笑いを浮かべる。
「最初に空港でふたりをお見かけしたときには非常に仲が悪いようにみえましたが、その後の会議や今の墓下様の言葉を聞くとおふたりはお互いをよく理解しあっていらっしゃるようなので」
「それですか」
彼女は笑みを浮かべ直したが先ほどのものとは違い、今度のそれはあきらかな苦みを帯びているものだった。
「言っておきますが、私があの男そのものを理解したいと思ったことは一度もありませんし、ましてあの男を好きになったことなどありません。ただし仕事のパートナーとしてのあの男は最高ですし、あの男以上にやりやすい相手もいません。そして、なによりも重要なのはあの男が自分の側の人間だったことです」
「……そうなのですか」
「どうやらあなたはあの男の能力を疑っているようですね」
「決してそのようなことはありませんが……」
「あなたたちはすでにあの男の恐ろしさの一端は見ていますし、やり過ぎなくらいの気配りも体験しているはずなのですが、どうやら噂に惑わされてあの男の真の姿がわからなかったようですね。まあ、それはいずれ形となって現れますので楽しみにしていることです」
さて、彼女が口にした多くの謎を含んだ言葉であるが、彼女がカイロに戻った翌々日から始まる一連の出来事が終わった時そのすべてが明らかとなる。
「では、ショーを始めましょう」
男の言葉とともに動き出したそれは「日本の企業がリゾート施設を建設するために買い取ったエジプトの荒野で特大の金鉱を発見された」というニュースが流れるところから始まる。
その情報はあっという間にエジプト中を駆け巡り、翌日には二匹目のドジョウを狙って国内外からアスワンに人が押し寄せ最近でお目にかかれない素晴らしいゴールドラッシュとなるのだが、そこにやってきた彼らはとんでもないものを目の当たりにする。
噂の金鉱のはるか手前で彼らの行く手を阻む立ち入り禁止の看板と物々しい警護。
それが彼らの見たものだった。
だが、これがかえって彼らの金鉱への夢と期待は高まり大小さまざまなトラブルが発生する。
そこに追い打ちをかけたのがその二日後のニュース番組に登場した日本人だった。
もちろんそれは一の谷が用意した彼の替え玉だったのだが、敷島と名乗るその日本人はそこで自身が現地で見つけたという黄金色に輝く小さな物体をこれ見よがしに見せつけつけたうえに、そのインタビューの最後をこの言葉で締めくくった。
「ここは宝の山です」
宝の山。
そして、彼が語ったその魅力的な言葉は、すでにアスワンに集まっていたものたちとはまったく異質の、そしてとんでもなく大きな集団までエジプトに呼び寄せるきっかけとなる。
それぞれの背景や属する国家は違うものの、目的とそのやり方はまったく同じその三つの巨大利権グループは、当初は静観を決め込んでいたものの敷島の言葉を聞くと即座に動き出しライバルに先を越さてなるものかとばかりに策を次々に打ち出す。
彼らはまず自分たちの活動に邪魔なだけのアスワンにたむろする山師たちを表裏両面の力を行使して駆逐した。
そうしてから彼らと入れ替わるようにカイロ、そしてアスワンに姿を現したのは組織が抱えるスーツを来た選りすぐりの戦士たちだった。
彼らが関係者に向けて笑顔で語る「この国の繁栄に寄与する今回の事業に資金、技術、人材。どのようなことでもお手伝いさせていただきます」という言葉には「儲け話に一枚噛ませろ」というメッセージが含まれおり、さらにもう一歩進み最終的には敷島の会社自体を飲み込んでしまおうという思惑もあったのだが、いずれにしてもまずは敷島と接触しなければ話は何も始まらない。
その黒い思いを抱いて面会を求める彼らの前に現れたのが、敷島の代理人という肩書を持った一の谷だった。
「皆さまのご提案はすべて社長にお届けいたしますのでご安心を」
中宮寺計良と名乗った一の谷は夜見子や晶が「気持ちの悪い」と表現し忌み嫌うあの笑顔をたたえながらそう言って彼ら全員と面会したのだが、彼らが提示する提携条件を絶賛するだけでそれ以上の言質はなにひとつ与えぬまま事実上の門前払いを繰り返す。
簡単にことが進むと思っていた彼らにとってそれはまったくの予想外のできごとだった。
焦る彼らにさらなる悲劇が訪れる。
彼らの耳にライバル会社が一歩前に出たという悪魔の囁きが聞こえてきたのだ。
……冗談ではない。
……ここまで来て、手ぶらで帰れるか。
……金鉱さえ手に入れれば元は取れる。とにかく今は奴らよりも先に提携を勝ち取ることを何よりも優先させる。
「提携条件を上乗せして再交渉だ」
だが、そう息巻いている彼らは知らない。
その囁きは彼ら全員の耳に等しく届いていたことを。
「それにしてもよく踊ってくれるものです」
カイロ市内の高級ホテルの一室。
自らの手のひらの上で繰り広げられている彼らの戦いを冷ややかに眺めている者たちがそこにいた。
「ですが、演出家が用意した台本どおりにこうして動いてくれるのですから我々は彼らに感謝すべきではないでしょうか」
「そうですね。まったくそのとおりです」
もちろんそのひとりはその言葉を口にした一の谷。
「それで、あなたはどう思いますか?」
「それはまだ愚かな共食いが続くかということでしょうか?」
そして、もうひとりは彼の隣でその問いに答えるこの会社の社長という肩書を持つ彼の腹心のひとりでこちらに来てからはずっと敷島卓と名乗っていた桂修二だった。
「さすがにそろそろ我々の仕掛けに気づくのではないでしょうか」
「そうでしょうね。ですが、もう遅い」
「そのとおりです。こちらの準備はすでに終わっていますので彼らに打てる手などありません」
「よろしい。では、そろそろ仕上げに移りましょうか」
一の谷の言った仕上げ。
それがあきらかになったのはそれから間もなくのことだった。
その発表がおこなわれた数時間後。
「うまくいきましたね」
「最高の条件を提示した彼らはライバルたちを蹴落とし握手を交わすことができて喜んでいることでしょう」
「もっとも、その相手が我々ではなくエジプト政府だと思わなかったでしょうが」
「そうかもしれません。ですが、それはすべて彼らが決めたことです。それについて我々がとやかく言う権利はありません」
帰国に向けての準備も終わり、ラウンジでコーヒーを飲みながらそう話していたふたりのもとを訪ねる者がいた。
この地の蒐書官たちを統括する新池谷勤である。
彼は深々と頭を下げた。
「一の谷様。今回はお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそ楽しい時間を過ごすことができました」
「まったくです。エジプトは非常に魅力的な国です。今度はプライベートで訪れたいものです」
「そのときはできるかぎりのことはさせていただきます。ところで、今回の件についてですが……本当にあれでよろしいのですか?」
「よろしいとは何のことでしょうか?」
「もちろん金鉱を含む土地を売却して得た膨大な利益の八割を我々がいただくということです」
それは彼にとってそのすべてが予想外の出来事だったのだが、相手はそれが当然であるかのように大きく頷く。
「そもそもあれをあなたがたが見つけなければこの儲け話は生まれなかったのですから、あなたがたがその大部分を手に入れるのは当然のことです」
「そうは言いますが、我々は早々にあの金鉱に関する権利を放棄しました。その後にエジプト政府と売却交渉をおこない高額の売買契約締結に導いたのはまちがいなくあなたがたです。それなのに、実った果実は何もしていない我々が一番多く手にするというのはどうも居心地が悪いです」
「それこそ心配ご無用。我々はそれぞれ利益の一割を頂ければペイします。もっとも欲深な晶さんは最低でも二割は欲しいと言っておりましたが」
「一の谷」
一の谷の言葉を問い詰めるようなそれは彼らとは少し離れた場所に座っていたあの女性からの声だった。
「欲深とは失礼なことを言いますね。私は自分がおこなった交渉にはそれくらいを払う価値はあるはずだと言っただけです」
「では、晶さんの報酬は利益全体の二割にしますか?今なら変更できますよ」
「いらないわよ」
「墓下様。遠慮せずにどうぞそうしてください」
「いいえ。この世で一番金に汚い守銭奴の一の谷が一割の報酬でいいと言っているのに私が二割を要求したと知ったら帰国後夜見子に何を言われるかわかりません。断固お断りいたします。それに、率はともかく額だけでいえば、今回の報酬はわずか一か月弱の仕事で手に入れられるものとは思えぬものではあったことは確かなのですから」
「そういうことです。エジプト政府が支払ったあの土地の購入額は我々の買値の実に十八倍というものです。しかも、彼らが手に入れた大部分が金とは無縁の二束三文にしかならない土地なのですから、商売としては十分満足できるものだったといえるでしょう」
「ところで、一の谷様。あなたは金鉱を売り払うプランはいつ思いついたのですか?」
「もちろん最初からです」
「最初から?」
「あなたは最初の会議の時にこう言いました。あれはノウハウのない自分たちには手に余る存在だと。それは我々も同じです。しかも、金鉱に限らず鉱山経営というものは意外に手間がかかるうえにリスクも大きい。素人が手を出すものではありません。その我々ができる最良の手段といえば、できるだけ高くそれを売ることなのです」
「そういうことであれば、最初にそうおっしゃっていただければ……」
「いいえ。あなたやその他の蒐書官の方々はともかく、現地で雇った数多くのスタッフの中にはそれなりの人物がいるようでしたのであの場でそれを話さなかったことはよかったと思っています。そうでなければ、情報は相手に洩れ、結果としてこれほどの成果は得られなかったはずなのですから」
「ところで一の谷。あなたはあの金鉱にはどれくらいの金が埋蔵されているのかは知っているのですか?」
女性の声に男が微妙な色合いが添えられた言葉で答える。
「それを聞いてどうするのですか?すでにあれは我々の手から離れているのですよ」
「では、質問を変えます。あなたはあの金額で私たちから土地を買ったエジプト政府とパートナーに選ばれた企業グループはリスクと投資に見合うだけの利益を上げられると考えているのですか?」
「私は心の底から彼らには多くの利益を上げてもらいたいとは思っています。ただし、彼らが思い描くようなものが本当に得られるようならば、彼らが握手をした相手はエジプト政府ではなく我々になっていたとも思っています。ここまで言えば聡明な晶さんなら実態がどのようなものかがおわかりいただけると思いますが」
……つまり、答えはノーということね。
「さすが拝金主義者。きれいごとを並べても最終的にはそこに辿り着くのね」
「お褒めの言葉と受け取っておきましょう。さて、そろそろ出発時間のようです。新池谷さん。それから蒐書官の皆さんには本当にお世話になりました」
「……現代のミダスか。たしかにあなたはその言葉どおりの男でした」
空港でふたりを見送った彼はそう呟いた。
「もっとも拝金主義者というもうひとつの通り名はまったくの見掛け倒しでしたが……」




