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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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恋の骨折り甲斐 

 イギリスの首都ロンドン。

 多くの蒐書官が活動しているこの都市の裏世界で現在話題をさらっているもの。

 それは失われたはずのシェークスピアの戯曲だった。

 そして、そのタイトルは「恋の骨折り甲斐」という。


「君はどう思うかね」

「君が僕に感想を求めているのは君おすすめのこの紅茶についてだろうか?それとも、僕が用意したここから見えるロンドンの素晴らしい眺めについてだろうか?」

 いい歳の、それも男ふたりで観覧車に乗るというとてもその絵面を自慢できないカプセル状のゴンドラの中で彼が訊ねたその問いに対してあまりにも的外れな言葉を返したのは当然もうひとりの男である。

「まったく……」

 彼はこれでもかというほどのじっとりとして視線を目の前の男に送る。

「久々に耳にしたが、君が口にするジョークの出来は相変わらず地上スレスレの低空飛行だな。いや、もういつ地下に潜ってもおかしくないレベルだ。そういう点では成長しているといえるかもしれないな。それともこういう場合には退化と言うべきなのか」

 だが、彼渾身の皮肉だったそれは、相手の分厚い面の皮に跳ね返されたようであった。

 彼の言葉を気にする様子もなく、紅茶を飲み干したその男が言葉を返す。

「そう言う君はつまらぬ男という点では今でも孤高の地位を保っているようだね。常識人の僕にはそのような恥ずかしい地位にしがみつく君の気持ちはまったく理解できないが、トップはトップだ。君の涙ぐましい努力とその結果にだけは敬服するよ」

 男のそのひと言で彼は言葉に詰まる。

 彼がこうしてやりこめられるのも昔と変わらない。

「……言ってくれる。どうやら君はここから落とされて死にたいようだね」

「その言葉そっくり君に返そう」

「いらん」

 水と油のように思えるふたりだが、実はこれでも親友である。

 そして、もちろんふたりとも蒐書官。

 しかも、特別な才能を持つ凄腕である。

「それで、実際のところ君はどう思っているのかな。あの話を」

「もちろんあって欲しいとは思うが、僕自身はよくある話、かつ胡散臭い話だと思っている。わざわざ僕らが乗り出すほどのものでもない。それどころか関わるべきものですらない。君だって実はそう思っているのではないのかな?」

「そのとおり。だが、蒲原さんはそう思っていない」

「そうなのかい?」

「それ以外には考えられないだろう。そうでなければ、わざわざチームの組み換えまでしてイギリス古典文学の専門家である我々ふたりを組ませたりはしない」

「それとも、この胡散臭い噂を流している相手が誰かを調査するということが目的なのかも。しかも、噂の出どころは実にやばいやつというオマケつき」

「それだけは遠慮したいものだが、どちらにしても指示を受けたからには動かなければならない」

「給料分は仕事をしろということか。まあ、久々に君と仕事できるのは楽しみなことではあるのだが」

「その点についてはとりあえず同意しておこう。ところで、現在の我々の状況について君に非常に重要な質問があるのだが聞いてもらえるだろうか」

「もちろん。君と僕の仲だ。何でも聞いてくれたまえ」

「では、遠慮なく」

 そう言ってから彼は大きく息を吸い込む。


「この程度の話をするために、大金を払ってこれを貸し切りにする理由とは何だ?」


 それからしばらく経った……正確には彼らがあらたに与えられた仕事を始めてから四日目の夜。

 今日もこれといった収穫もなく、だからといって仕事終わりにパブに行く昔からの習慣をやめるわけでもなく、いつもの店でビールを飲み始めたところで、ふたりはあり得ない光景、いや、あってはならない光景を目にする。

「八柱君。私の目にはとんでも光景が見えているのだが、これをこのまま信じてもいいのだろうか?」

 親友でもある相棒の蒐書官に訊ねる彼の声は驚きのあまり上ずっていた。

 それは彼の親友も同様である。

「どうやら、君も僕と同じものを見ているようだ。無粋な君の意見に賛同するなど甚だ不本意なのだが、僕も君と同意見なのだよ」

「君にも見えているということはこれが現実のこととして納得しなければならないようだ。では、仕方がない。最低限の自衛手段を用意しておくことにしようか」

「当然だな。やつらがここで宴を開く度胸があるとは思えないが、準備だけは必要だ。ところで、君の持ち物は何かな?」

「現在はMk.23だ。君は?」

「奇遇だね。君と同じだよ」

 銃を持ち出すまでに彼らが目の当たりにして驚愕したもの。

 それは、犬猿の仲である大英博物館と彼らのライバルでもあるあの美術館の裏バイヤーが二人並んで店に入ってくる姿だった。

「……それにしてもなぜ彼らが一緒にいるのだ。偶然か?それとも共通の敵に対して共闘したということか?もしそういうことであれば、ターゲットは当然我々ということになるが……」

「そういう事ならと恨まれることをした当事者とやってくれ。僕らは今それどころではないのだから」

「いやいや、少なくても君はその当事者だろう。聞いているよ。あの美術館にまがい物を押しつけた話。あれは実にひどい。とにかくここはすべて君に任せる。おいしいビールも飲んだことだし部外者である私はそろそろ失礼するとしょうか」

 面倒ごとの処理を友人に任せてその場をこっそり立ち去ろうとする彼だったが、実は同じことを考えていた人物がもうひとりいた。

「ちょっと待て。僕は君と違って慎み深い。功はすべて君に譲るから遠慮なくすべてを受け取ってくれたまえ。それに当事者の資格を語るのなら質量ともに君の方が圧倒的にあるだろう。僕が席を外すから君は彼らと大いに語り合ってくれ。では、健闘を祈る」

「君がしでかした不始末の尻拭いを私がしなければならない理由はない」

「それはこっちのセリフだよ。藤華君」

 これから起こる愉快とは程遠いものをお互いに相手に押し付けようとしていたふたりだったが、それぞれの希望を平等に掬い上げる天界の神のごとくその声は彼らのもとに等しく降臨する。


「探しましたよ」


 ……嘘をつくな。しっかり尾行をつけていただろうが。

 目の前に立つイギリス人のその言葉に八つ当たりのような異口同音がふたりの心の中で響く。

 当然実際に口にした言葉にも毒がある。

「組織の責任者であるあなたがたが我々ごときを探していたとは光栄のきわみです」

「それよりも、あなたがたが手打ちをして仕事終わりにビールを飲む仲になっていたとは寡聞にして知りませんでしたが、米英の巨大博物館の蒐集担当者が顔を揃えて楽しそうにパブにやってくる光景はあなたがたの醜い暗闘の歴史を知る者の目にはやはり珍妙以外の言葉では表現できないくらいに奇異なできごとに映ります」

 それは楽しい宴を邪魔されたふたりのお返しとばかりの特上の嫌味だったわけなのだが、効果は彼らの期待を遥かに上回るものだった。

「おまえたちは何か勘違いしているようなので念のために言っておくが、私は過去の栄光しか誇れるものがない大英博物館の陰気な奴らと恒久的な手打ちをしたわけではない」

 ひげ面の大男は彼らからの祝福の言葉は自らの名誉を傷つけているかのようにそう吐き捨てると、メガネをかけた神経質そうなもうひとりもすぐさまお返しの言葉を披露する。

「こちらだって本当なら札束を見せびらかす下品な交渉しかできない文明とは無縁の単細胞生物であるアメリカ人などと同じ道を歩くなど御免被りたいところなのだ。我慢しているのがこちらであることをない頭をフル活動させて自覚してもらいたいものですな」

「なんだと」

「先に言ったのはそちらだ」

 それは見事としか言えないくらいの見せかけの友情が壊れる瞬間だった。

 ……たったひとことでこれとは。相変わらず笑わせてくれる。

 目の前で繰り広げられるその様を黒い笑みを浮かべながら眺めていたふたりの蒐書官だったが、残念ながら火の粉はすぐに彼らのもとにもやってくる。

 その心情を表すかのように先客を挟み込むようにして両端に座り、それぞれビールとつまみを注文すると、それは「最高級の」と形容できそうな意地悪な笑みを浮かべたふたりは彼らの要件をこのような言葉で表現した。

「だいたいおまえたちにとっても今回の件は他人ごとではない」

「そのとおり。笑っていられるのは今のうちだけです」

 いくら記憶を振り返っても身に覚えがない彼が訊ねる。

「それはどういうことでしょうか?」

「わからないのか?」

「まったく」

「それでは教えてやる。というか、我々はそれをおまえたちに伝えるためにここにやってきたのだ。では、心して聞くがいい」

「随分気前がいいですが、あとで請求書が届いても支払いはしませんよ」

「もちろん構わん」

「ほう。せっかくですからその理由も聞いておきましょうか」

「それは我々の輪の中にこれからおまえたちも加わるからに決まっているだろう」


 普段ならお互いに相手を罵りあい、どんな手段を使ってでも相手よりも先に品物を手にしようするふたつの組織。

 それがこうやってとりあえず同じカウンターに座ることになったいきさつはこうである。

 始まりは一か月ほど前にロンドンで活動しているアメリカ人エージェントの身に起こったある悲劇であった。

「くそっ。またやってくれたのか。腐れ蒐書官ども」

 部下が「恋の骨折り甲斐」の偽物を掴まされ大金をだまし取られたジョージ・ガードナーは当初これを蒐書官がおこなったものだと信じて疑わなかった。

 もちろんそれは以前彼が蒐書官のひとりに同じような目に遭わされていたためなのだが、報復を始める準備をしている過程で彼の心の中に別の容疑者が浮かび上がる。

「どうもおかしい。集めた情報はすべて蒐書官どもののしわざではないことを指している。ということは、つまりこれをやったのは大英博物館。それしかない。カビの生えたポンコツ博物館の分際に生意気な」

 だが、調査を始めるとすぐに彼らも事件には何も関わっていないことがわかったのだという。

「まったくひどい濡れ衣だ。やったことを非難されるならともかく何をしないうちから犯人扱いされたことを笑って許すほど僕はできた人間ではない」

「少なくても、もう少し調査をしてから犯人の名を挙げたほうがいいようですね。それから、堂々と披露されたそのひどい形容詞も改善の余地があるのでは?」

「まったくだ。だから、単細胞のアメリカ人は……」

 それは濡れ衣を着せられた被害者三人によるすばらしい非難の大合唱だった。

 だが、エージェントとして数々の修羅場を乗り越えてきた経験が生きたのかもうひとりはその圧倒的不利な状況にも動じることはない。

 それが些細なできごとかのようにフライドポテトを齧りながら非難の言葉を聞き流すとこれぞアメリカンスタイルといわんばかりに盛大な切り返しを披露する。

「何を言う。それもこれも普段から疑われるようなことばかりしているおまえたちが悪いのだろう。それにダンカン。あんたのところだってうちと同じだったのだろうが」

「同じ?」

「そうだ」

「どういうことですか?」

「それは本人から聞くべきだろう。なあ、ダンカン。ダンカン・フィリップス。ここからはおまえの出番だ」

「……そうだな。確かにそれは私が話をすべきことだ」

 好きでもないアメリカ人に紹介され苦虫を大量に口に含んだような顔のイギリス人が語ったこと。

 それは、主語が違うだけで先ほどガードナーから聞かされたものと瓜二つの話だった。

「つまり、米英の大博物館が揃って同じグループのペテンにかかったというわけですか?」

「言葉を飾らずにいえばそういうことになる。発覚したのが公式発表前であったのが不幸中の幸いだったのだが、それでも我々にとっては一大汚点と言わざるを得ない。なにしろ裏金をほぼすべて持っていかれたのだから」

「しかし、そこで犯人はやはりおまえたちだと我々に文句を言いに来たのであればお門違いというものです」

「そうそう。たった今事情を聞かされて君たちの愚かさを笑ったくらいだから僕たちは本当に何も知らなかった」

「おまえたちの言葉はいちいち癪に障るがそんなことはわかっている。我々がこうしてやってきたのは別の意図がある」

「それは?」

「まず、おまえたちがすでに被害者になっているかどうかを確かめようと思ったのだが、今の話でそれがないことは確かめられた。そうであれば、ネズミどもが大金をせしめるために次に狙うターゲットはおまえたち蒐書官となるというのが我々の共通した答えだ。本来ならば情報を開示せず遠くからおまえたち蒐書官のぶざまな姿を笑って見ているところなのだが、今回ばかりはそう言っていられない事情が我々にはある」

「……それが上からの指示だから」

「それから奪われた金の回収というところかな」

「残念ながらそのとおりだ。さらに言えば最近妙に首のあたりが涼しくなってきた。そしてそれは彼も同じらしい。つまり、期せずして我々ふたりは一刻の猶予もならないという同じ立場に立たされているのだよ」

「そこで、今回に限り共同してことにあたり、おまえたちにその不届き者が接触したところを取り押さえることにした。そのときに取引の邪魔に入ったと勘違いしたおまえたちと無用な争いをしてネズミを取り逃がさないようにこうしてすべて話をしているというわけだ」

 彼は頷く。

「なるほど。あなたがたの言いたいことは理解した。だが、ロンドンにいる蒐書官は我々だけではない。それなのにあなたがたはなぜ犯人が我々に接触すると決めてかかるのですか?」

 その言葉は正しい。

 統括官蒲原に率いられた在イギリスの蒐書官チームを数えるにはふたり分の両手でも足りない。

 そして、彼らの大部分はロンドンを根城にしている。

 すなわち、たとえ彼らの言葉どおり犯人グループが蒐書官に狙いをつけたとしても、それが目の前にふたり組であると言えないはずだ。

 だが、その疑問を軽く受け流すようにフィリップスが小さく手を上げ、待っていましたとばかりにガードナーが続く。

「その質問には私が答えてやる。それはもちろん我々がそうなるように仕向けているからだ」

「仕向ける?それはどういうことですか?」

「情報を流した。蒐書官の藤華と八柱が噂になっている『恋の骨折り甲斐』を高値で購入しようと売り手を探し回っていると。しかも、都合のよいことにおまえたちはこれまでの実績からイギリスの古典を狙うバイヤーとして裏世界でも名が知れわたっている。どのような情報網を使っているかは知らないがネズミはいずれこの情報を掴みおまえたちのもとを訪れる」

「……なるほど。まさに我々はネズミを捕らえるためのエサですね」

「おまえたちに相応しい役であろう」

「いやいやちっとも似合っていない、いわゆるミスキャストだ」

「しかも、今の話のなかには我々があなたがたの用意したつまらぬ演劇に出演しなければいけない理由はないし、当然出てやる義理もない」

「まったくだ。それなのに出演料も払わず俳優を勝手に舞台に上げようとするとはあなたたちは本当にお粗末な演出家だ」

「何を言う。そもそも演出家が俳優に金を払うわけではない。出演料が必要なら請求書はこの喜劇のスポンサーに回してくれ。とにかく、今はおまえたちもつべこべ言わずに我々に協力しろ。蒐書官」


 あれから二時間が経過した。

「まったく。君がおかしな友人を連れてきたせいでせっかくの酒がまずくなったではないか。ここからの酒代はすべて君に払ってもらう」

 奇妙なふたり組が帰ってからの何杯目かのビールを飲みながらそう口にする八柱のあきらかな言いがかりに彼が言葉を濁し明確に答えなかったのには訳がある。

 実は彼の目の前には避けては通れぬやっかいな懸案事項が立ちはだかっていたのである。

 しかも、それは口の悪い友人の言葉などどうでもよくなるくらいの大きくなものだった。

 決心した彼が口を開く。

「これから蒲原さんに我々のどちらかが報告をするわけなのだが、ここでひとつ提案がある。君の言うとおり今日の飲み代は私がすべて出すから、友よ。君がその仕事を引き受けてくれないか」

 統括官蒲原への連絡。

 それがその懸案事項だった。

 そして、それは彼らだけではなく在ロンドン蒐書官の多くにとって共通の悩みの種だった。

 だが、蒲原への連絡を遠慮したいのは相手も同じであり、その程度の報酬で友人がそれを快く了承するはずがない。

「いやいやいや。それとこれとは別の話だ。それにそういうことなら僕は一週間分の飲み代を支払うことを約束しよう。どうだ。君よりもいい条件だ。ありがたく受け取ってくれ」

「それなら……いや、今はそのようなことをやっている場合ではない。とにかく困った」

「同感だ。だが、この状況を蒲原さんに報告をしないわけにはいかない。……仕方がない。このままでは埒が明かない。これで決めるか」

 長い沈黙後、そう言って友人が取り出したのは一ポンド硬貨だった。

「負けたほうが蒲原さんに連絡。勝ったほうは今日から一週間の飲み代を出す。それでいいかな」

「もちろんだ。私のサイフの中にはボールトン・アンド・ワットが大量逗留しているから君は心置きなくビールが飲めることを約束しよう」

 だが、それから三分後。

 蒲原に電話をしていたのは彼だった。

「……そういうことです。それで……承知しました」

 連絡を終えた彼は重要案件を終えて安堵はしているものの浮かない顔であることには変わりなかった。

「どうした?ひどい顔がさらにひどくなったようだよ。それで蒲原さんは何と言っていたのかな」

「彼らに快く協力してやれということだった」

「意外だな」

「だが、つけ加えてこうも言っていた。奴らが掴まされたものがまったくのまがい物ではない可能性もある。まずは確認し、できれば回収せよ。そして、最後に必ず原本を押さえろという指示まであった」

「さすが蒲原さん。厳しい要求だ。だが、今の話を聞く限り蒲原さんはそのペテン師グループについて相当な情報を持っており、さらに言えば彼らは本物の『恋の骨折り甲斐』を所有していると思っているように聞こえたのだが、間違いないかな」

「いや。当然そうなる」

「君は蒲原さんにその根拠は聞いたのかな?」

「知りたかったら自分で聞くのだな。だが、これはやっかいだ」

「そのとおり。犯人グループが本物の『恋の骨折り甲斐』を持っているかどうかもそうだが、たとえ本当に持っていたとしても、ライバルと行動をともにしながらそれを手に入れなければならないのだから」


 奇妙な同盟が成立してから三日後、彼らはホテルの一室に集まっていた。

「おまえたちが所望していたものがこれだ」

 ガードナーがふたりの蒐書官の前に放り投げたのは古い紙束と表現してもよさそうな一冊の本だった。

「そして、我々大英博物館が掴まされたのがこれです」

 続いて差し出されたのもほぼ同じような状態の本だった。

「読ませていただいてもよろしいですか?」

「もちろんだ」

 ……見た目は古いがあきらかに現代の紙。このようなものに騙されるとはこいつらの能力はかなりのものだな。

 手に取った瞬間それを見抜いた彼らは心の中で目の前にいるふたりの人物と彼らが属する組織を嘲笑したが、口にしたのはまったく別の言葉だった。

「これが偽物とした理由は?」

「もちろん紙が現代のものだからだ。もちろんインクも」

「そうなのですか?私には随分古いように見えますが?」

「一見しただけではその時代のものにしか見えないように細工がしてある。そうでなければ我々が騙されるはずはないだろう」

「なるほど。これだけ精巧なものなら私たちも簡単に騙されるでしょうね。ちなみに、これがなぜ現代の紙だとわかったのですか?」

「もちろん科学的調査だ。それはおまえたちのところでもやっているだろう」

「大英博物館も同じような科学的調査をおこなっているのですか?」

「当然だ。それとも、ほかに方法があるのかね?」

「いえいえ、歴史ある大英博物館なら魔法のような特別な技術をお持ちではないかと思いお伺いしただけです。失礼いたしました。では、読ませていただきますが、ふたつの内容は同じなのですか?」

「ああ。しかも、書き込みまでほぼ同じだ」

「なるほど。それは芸が細かい」

 フッと笑い、それからふたりは読み始める。

 それから三十分後。

 彼らは読み終えた。

 読み終えるまでの三十分という時間はそれでも十分に早いと言えたのだが、彼らがその気になればこの半分の時間で読み終えることができたであろう。

 そうしなかった理由はもちろん……。

「……驚いた。これはいい出来だ。実に面白い」

 最初に読み終えた友人が本を置きその言葉を漏らすと、少しだけ遅れて彼も同様の感想を口にする。

「私も同感だ。本当にいい出来だと思う。おもしろいうえに文章全体からシェークスピアの香りもする。すばらしい」

 それを絶賛するふたりの言葉に残りのふたりも同意する。 

「それについては異議はない」

「確かにこれが『恋の骨折り甲斐』だと言われて読めばそう思えるほどの出来ではある。しかも、あの外面だ。我々のエージェントも騙されたのも頷けるだろう」

「確かに」

「では、犯人は実際に本物を所有し、これは現代の紙にそれを書き写したという可能性はないのですか?」

「ある。と言いたいところなのだが、ない。その可能性はゼロだ」

「根拠は?」

「細かく文章を調べていくと文法や表現方法、それに使用されている単語にシェークスピアの時代とは異なるものや存在しないものが多数見つかった。それがシェークスピアの作品ではない理由だ」

 ……なんだ。気づいていたのですか。

 ……つまらん。

 ふたりは心の声を出すことはなかったが、その代わりに心に残ったある疑問を口にした。


「ですが、内容は先ほどのとおり素晴らしい。では、これだけのものを誰が書いたのでしょうか?」


「それはシェークスピアを病的に愛した挙句自分をシェークスピアであると思い込んでしまった名も知らぬ誰か。そして、これはその誰かが書いたいわゆる『なりきり』の作品だろう」

「我々もその意見に賛成する。出来は悪くないが所詮なりきりだ。本物には遠く及ばない。それがこれに対する評価だ」

「……なるほど。そこまで調べ上げているとはさすがです。さて、そこでひとつお願いがあります。私たちの情報レベルをおふたりのものまで引き上げるためにこれを持ち帰ってじっくり調査検討したいのですがそれは可能でしょうか?」

「構わんよ。いや、このような忌々しいゴミに我々はもう用はない。くれてやる」

「我々はすでに交換してお互いに相手のものも調べています。こちらもお貸しすることを断る理由はありません。そして、その後はお好きに処分してくださって結構。いわゆる証拠隠滅にご協力ください」

「ありがとうございます。では、遠慮なくお借り、いや、頂戴いたします」


「八柱君。君はこれについてどう思う?」

「まず君の意見を聞かせてもらおうか」

 二時間後。

 ふたり分のコーヒーが漂うその部屋で口にした彼の言葉に即座に返ってきた相方の言葉に彼は頷き、それに応じる。

「これはやはりどう考えても出来が良すぎる。もっとも、彼らを騙す気ならにはそれくらいのものを用意しなければならないのだが」

「君が言いたいことはわかる。もしこれだけのものを書ける作者が現代人ならば、なぜ自らの作品として発表しないのかということだろう。それは先ほど彼らが言ったことで説明がつく」

「それは『なりきり』の話だろう。だが、それであってもやりようはいくらでもある。私は犯人の目的はずばり金だと思う。実際にふたつの博物館から大金をせしめているし、なにより自分の作品を本物シェークスピア作品と思わせたいのなら同じものをふたつも用意しない」

「つまり君は彼らの意見に与しないということかな」

「そういうことだ。さて、当然私は彼らとは別の意見を持っているわけなのだが、君はそれを聞きたくはないかね?」

「拝聴するのは構わないが、どうせ君が語るものとは蒲原さんと同じ見立てだろう?」

「そのとおり。こうなってくると早い段階からあのように言っていた蒲原さんがどこであれの情報を手に入れてどこまで知っているのかも気になるが、とにかくさっき君はあれを読んで大変面白いと言った。もちろん私も。シェークスピアの作品をよく知りイギリスの古典文学をこよなく愛する我々ふたりがおもしろいと思い、しかもそれは驚くほど良い出来である。さらに、その文章からはこれでもかというくらいにシェークスピアの香りがする。そのようなものを現代人がそう簡単に書けるとは私は思わない。ここまで言えば彼らが斬り捨てたあれの作者を私が誰であると考えているか君にもわかるだろう」

「もちろんそれはシェークスピアだろう。実を言うと、僕も同意見だ。だが、問題はある。先ほど彼らが指摘した文法や表現方法、それに単語についての問題を君はどうクリアするのかな?」

「それこそ君がいつぞや使った手だ」

「ベースは本物。そこに犯人グループ専属の書き手、いや、こうなってくると首謀者こそがその優秀な書き手に思えてくるのだが、とにかくその書き手がところどころに違和感を持たせる言葉を含ませ意図的にレベルダウンさせたということか。だが、それをやる理由は?」

「犯人はやはりシェークスピア作品を愛しており、作品を自分のものだけにしておきたい。だから、金を手に入れるために渡したものにはすぐにはわからないがそれなりの人間が細かく調べればわかるトリックを噛ませて、実はほぼすべてが本物であるそれを完全な偽物と見誤らせる。そして、頭に血が上った相手にそのすべてを否定させればそれは再び闇に消え目的はすべて達成する」

「なるほど筋は通っているし、現在のところそれは成功しているわけだ。しかも、金を巻き上げられたうえに無意識に共犯者に仕立て上げられた相手が世界に冠たるふたつの巨大博物館となれば犯人側にとっては痛快極まりない。まさに僕好みだよ。それは」

「……来るな」

「僕もそう思う。相手が裏世界に通じているのなら間違いなく彼らの次のターゲットは僕たちだ。というか、彼らの後に僕らを選んだということは彼らの本命は僕らということにならないかい?」


 自分たちが犯人の次のターゲットである。

 彼らのその予感が現実となるのはその数日後、そしてそれは意外な形でやってきた。

「これは?」

「こちらのお客様にお渡しするようにとあちらの方が……あれ?」

 ランチ中の彼らにメモを渡したウエイターはそこにいたはずのメモの送り主である相手を探すように視線を左右に泳がせる。

「もしかして、見当たらないのかな?」

「……はい」

 戸惑うウエイターに対してそれをあまり気にすることなくチラリと渡されたメモを眺めた彼は訊ねる。

「それよりも、どのような方だったかな?このメモを渡すように言った紳士は」

「……紳士?いえ、女性でしたよ。上品なご婦人という感じの」

「女性?本当に?」

「はい」

「……そうか。わかりました。とにかくメモは確かに受け取った。どうもありがとう」

「こちらこそ。では、失礼します」

「ちょっといいかい」

 踵を返しかけたウエイターに声をかけたのは彼の相棒だった。

「僕らはここをほぼ毎日利用しているけど君はあまり見かけない顔だね。君はここで働いてどれくらいになるのかな?」

「二日前に入ったばかりですが」

「なるほど。そういうことか。どうでもいいことを聞いて済まなかった。えーと名前は」

「ケビン・リーです。サー」

「ありがとう。ケビン」

 特上の笑顔で気前よくチップを握らせた彼らだったが、ウエイターを下がらせるとふたりの表情は一変する。

「さて、この状況についての君の意見を聞いておこうか」

「君が聞きたいのは先ほどの見事なクイーンズ・イングリッシュを話すウエイターが単なる嘘つきなのか、それとも誰かに金を掴まされて見たこともない女性をでっち上げたのかということかい」

「まあ、そういうことになる」

「僕らがどんなときでも周辺には気を配っていることに気がつかないであのような嘘を堂々と披露するところから彼は少なくてもプロではない。おそらく単なる使い走り。だが、それなりの演技だったから彼はあらかじめセリフを教え込まれた三文俳優という可能性もある」

「もしかしたらそう見せかけてのご本尊ということもありえる」

「話としては非常におもしろいが現実にはそれはない。周辺には露骨にオーラを発するガードナーたちが張り付いているこの状況でノコノコ出てくるほど首謀者は間抜けではないだろう。なによりもそれではここでゲームオーバーとなってしまい僕らが活躍する場面がなくなってしまう。僕にとってそれはつまらんことだ」

「君の気持ちなどどうでもいいことだが、とりあえずこの状況では彼が何者かを調べるのはガードナーたちに任せるしかなさそうだ」

「それが彼らの目的だから致し方ない。では、僕らは違う道を行こう。それで、肝心の彼から渡されたメモには何と書いてあったのかな」

「ほら。実に達筆だ」

 彼から手渡されたメモを眺めると、相方はさらに顔を歪める。

「これはひどいな。まず中身以前に先ほどの小細工を考えれば女性に書いてもらうべきではないのかと思うのは僕だけではないだろう」

「確かに字体からこれを書いたのは年齢の高い男性だ。少なくても女性ではない」

「それでどうする?君はこの中年男からのお誘いを受けることにするのかい?」

「そうだな。手っ取り早く話の核心に辿り着くためにもこの話に乗るべきだと考える」

「奇遇だね。僕も同じ意見だよ。だが、珍しいな。慎重派の君は罠の存在を心配して躊躇するかと思ったよ」

「いつもならそうしたのだろうが、今回にかぎりそれはない。というか、今回は罠と呼べるものは我々につかませるまがい物を指すと思うのだが」

「まったくそのとおり。僕らを害してしまっては報復を誓う夜見子様に世界の果てまで追いかけられるし、なにより一銭も金が取れない。つまり犯人にとって百害あって一利なしだからね。さて、話がまとまったところでさっそく出かけようと言いたいところなのだが……」

 ふたりの視線の先にはふたつの博物館のエージェントの姿があった。

「どうする?」

「親分たちの薫陶を受けた彼らは皆無粋だし、なによりも見栄えの悪いだけのむさ苦しい男の集まりだ。一緒に行って相手にあれの同類だと思われたくない。ということで、置いていくという選択肢しか僕は持ち合わせていないのだが、どうかな?」

「異存はない」


 その日の夕刻。

 倉庫街の一角、その暗がりに彼らの姿はあった。

「呼び出しに応じて来たものの相手がいる様子はないな。君は本当に来ると思うかい?」

「そういう質問は僕ではなく僕らを呼び出した当人に訊ねるものだろう」


「そうだな。まったくそのとおり。君が訊ねるべき相手は彼ではなく私だと思うぞ」


 彼の呟きにも似た問いに出来の悪い冗談で応じた相棒に続いたのは暗闇に響く彼らふたりが知らないもうひとりの声だった。

「よく来てくれた。だが、少し驚いてもいる。まさか、本当にふたりだけで来るとは思わなかった」

「いやいや、そうするようにあなたからのメッセージに書いてありましたよ。我々はそれに従っただけです」

「もっとも、お付きがいるとこちらにも色々と不都合なことがあったので書かれていなくてもそうしたでしょうが。さて、僕らは求めに応じてわざわざ来てやったのだ。あんたもそろそろ姿を現したらどうなんだい?それとも。こちらからそちらに行ったほうがいいのかな」

 その声に応えるふたりはすでに銃を一点向けていた。

「銃を下したまえ。この状況ではどれほど腕が立っても君たちには勝ち目はない。それに君たちだって私が君たちに危害を加える気がないことくらいはわかっているだろう。まず名前を聞いておこうか?」

「私たちを招待した時点で調べはついているのではないかと思いますが、とりあえず私は藤華馨、隣にいるのは八柱健吾。それで、あなたのお名前は?」

「今はまだ教えられん」

「爺さん。人に名乗らせておいて自分はそれができないとは虫が良すぎる話だ」

「私も彼と同意見だ。顔も見せない。名前も言わない。そのような相手とは大金が動く商談などできないと思うのだが」

「心配はいらない。なにしろ今日は顔合わせのようなものだからな。それに本格的な交渉に入れば嫌でも顔を合わせる。それよりも次の質問だ」

「ちょっと待て」

 闇から届く男の声を遮ったのは友人だった。

 そして、ここからは彼の独断場となる。

「何だ?」

「あんたは自分の情報はまったく開示せず、そのくせ僕らには質問に答えることを要求する。あんたが何様かは知らないが世の中そう都合よくはできていない。こちらの質問に答えないならこちらもあんたの質問に答える義理はない。それとも、僕らが答えなければならない何かをあんたは持っているのかい?」

「……なるほど」

 その言葉のあとしばらく沈黙が続く。

 やがて呟きのような男の声が響く。


「……『恋の骨折り甲斐』は欲しくはないのか?」


「なるほどそれがあんたの答えか。そうやってその魔法の言葉を何度も唱えた挙句、ふたつの博物館にあんたが書いた名前だけが同じでもシェークスピアのものとは似ても似つかぬゴミを掴ませ大金をせしめたのだろうがハッキリ言っておく。僕らはその手には乗らない」

 これはもちろん挑発である。

 なぜなら、彼は自身がたった今ゴミと呼んだそれを高く評価し、おそらくその大部分はシェークスピアが書いたものだという結論に達していたのだから。

 そして、それは見事に相手を誘い出すことに成功する。

「……ゴミ?おまえはあれをゴミだというのか?」

 ……いいね。この男がシェークスピア作品を愛しており、そしてあれが僕らの予想通りならそれなりの反応があるとは思ったが、まさかこれほどとは。

 彼の友人は男の声から湧き上がる怒りの成分を感じると心の中で黒い笑みを浮かべた。

 だが、目に見える部分では何一つかえることなく言葉を続ける。

「もちろん。それ以外にどのように表現するか思い浮かばないよ。それはあんたが書いたゴミを掴まされたふたつの博物館の担当者も同じだ。読む価値のない腐った生ごみ同然の文章だったと言っていたよ。そういえば一番価値のあるのは手をかけて古く見せた印刷用紙だとも言っていたな」

「おまえ自身はあれを読んだのか?」

「いや。読まなくてもゴミであることくらいはわかるよ。というか、そんなゴミを読むために時間を潰すほど僕は暇ではない。そういうことで、とりあえずさっきの質問に答えてやろう。それは欲しいさ。なにしろ『恋の骨折り甲斐』とはシェークスピアが書き現在は消えてしまった戯曲の名なのだから。ただし、僕らが欲しいのはシェークスピア本人が書いた本物であってあんたが書き、恥ずかしげもなく同じ名前をつけたポンコツ戯曲ではない」

「貴様、言わせておけば……」

 ……決まりだな。これだけ情報を仕入れられれば上等だ。相手が暴発しないうちに次にいくか。

 その言葉から見えない相手の心情が読み取った彼はギリギリのところで話題を変える。

 あらたな情報を手に入れるために。

「さて、話を変えよう。さっきあんたは『今日は顔合わせだからプロフィールは明かせない』と言った。それはそれで結構。では、それとは別の質問をさせてもらう」

「……何だ」

「難しいことではない。聞きたいのは僕らのランチを邪魔してくれただけの出来の悪い三文芝居のことだよ」

「三文芝居?」

「最初にあれの感想を述べれば、あまりの出来の悪さに笑わせてはもらったが、正直ちっとも楽しめなかったよ。もしあれがあんたのつくったシナリオなら僕は作家廃業をお勧めする。それともすでにまったく売れずに廃業しているのかな」

「言ってくれるな。その言葉を公共の電波に乗せたらおまえは英国民に殺されるぞ。それに私の目にはおまえたちがあれを十分楽しんでいるように見えたぞ」

「それは耄碌した老人の妄想の産物以外のなにものでもない」

「言ってくれる。だが、感想は感想だ。ありがたく受け取っておこう。それで、聞きたいこととは何だ?」

「まず、なぜメッセージをあんたの直筆にしたのかということだ」

「……あれが私の字だとなぜわかるのだ?」

「それは企業秘密だ。それよりも、せっかくだからあのメッセージをなぜ女性の字が書かなかったかも教えてもらおうか?なにしろそのおかげであのウエイターはひどい目に遭っていたのだから。いくら穴倉に閉じこもっているモグラでも子分に対する使用者責任というものがあると思うのだが」

「彼に気をつかってもらうのはありがたいのだが、君たちが確実に私からのメッセージであることをわかってもらえるようにあえてそうしたのだ。ただし、君たちの観察眼を甘く見過ぎた点は反省している。まさか、マークが女性客と接触していないことまで見ているとは思わなかったよ」

「……なるほど。彼はケビンではなくマークなのか。せっかくなので、隣にいるそのマーク君にもひとこと」

「ちょっと待て……もしかして見えているのか」

「夜目が利くものでね。とにかく元気そうで何よりだよ。マーク。彼らの疑いは晴れたようなので、次回のメッセンジャーも君に頼むよ。なにしろ君の英語は大変きれいだ。育ちがわかるよ」


 あれから一時間後。

「君は男ふたりでこれに乗るのは恥ずかしいなどと言っていなかったかい?」

 そこから見えるロンドンの夜景を楽しむ友人に訊ねられた彼が答える。

「今でも恥ずかしいのだがここは密談するのにはいい場所だと気づいた。それにいいだろう。今回の貸し切り料金は全部私が出すのだから。それで、まず聞きたい。なぜあのウエイターが老人の隣にいるとわかったのだ。夜目が利くという事が事実でもさすがに限度がある。あれは見えるはずがない」

「君の言うとおり当然見えていない。答えはもちろん勘だよ」

 そう言うと友人は彼に向ってウインクをした。

 一方、見たくもないものを見せられた彼は顔を歪めながら言葉を続ける。

「勘?つまりハッタリということか。君は昔から交渉でハッタリを噛ましていたが、まさかあんなところでそれを使うとは思わなかった。だが、何かしらの根拠はあったのだろう?」

「直前の爺さんの発言でウエイターは仲間だとわかったので言ってみた。あの暗闇だ。外してもそれほどダメージにはならないと思ってね。それが見事に当たったわけだ。しかも、当時爺様も現場にいた可能性が高いことまでわかるおまけつきだ」

「ということは、直筆というのもハッタリなのか」

「まあ、そちらについては五分五分というところかな。試しにエサを撒いてみたところ結果は大当たりだったわけだが、その結果僕らはとんでもない大物を引き当ててしまったようだ」

「英国民に殺されるというやつかい」

「そのとおり」

「それにしても、あの爺さんはよくもあそこまでペラペラと喋ったものだな。まあ、それもこれも君がすべて引き出したものなのだが」

「彼は交渉のプロではないのはすぐにわかった。頭に血が上ればボロを出すと思ったが案の定だった」

「ほぼシェークスピア作品であるあれを君が腐った生ごみと言ったときは私もドキッとしたよ」

「シェークスピア作品をこよなく愛する彼ならなおさらだ。本来なら自分が用意した罠に僕らが引っ掛かったのだから喜ぶところが、思わず本音が出てしまったのは年寄りのご愛敬というところかな」

「それで、君が出した結論は?」

「もちろん彼は本物の『恋の骨折り甲斐』を持っている」


 それから二週間が経ったある日。

 ついにふたりのもとに使者が訪れる。

「驚いたよ。我々が相手をしていたのはイギリス王室に繋がる者だったとは」

「彼の場合は遠い親戚みたいなものだから王室関係者というよりも作家や評論家として有名だったわけだけど、それも十年以上音沙汰なしで世間一般には忘れられた存在だった。その空白の期間にやっていたことがこれだったのかとなるわけだが、今の僕らにとって重要なのは、彼の経歴よりも……」

「この二週間に何にしていたのかということか。確かにそちらの方が我々にとってはるかに重要な問題だ」

「ちなみに、君はこの時間をどのように使っていたと思っているのかな?」

「君の考えと同じだ。すなわち必死に文筆活動に勤しんでいたのは間違いないだろう」

「当然そうなるよね。できれば、その予想は外れて欲しいものだが」

「まったくだ。前座であるふたつの博物館を欺いたものでさえあれだけの出来だ。彼が本気でやったものを我々が本当に見抜けるのかはわからない」

「だが、本当の問題はそこではない」

「というと?」

「数だ」

「数?……まさか」

「そのまさかだよ。僕らを呼びつけた彼がやろうとしていることはおおよそ想像ができる。だけど、僕らの前に差し出された選択肢の中に正解があると誰が保証してくれるのかい。僕がその技術を持ち、そしてそのような立場になったらまちがいなくそれを使うが、君ならどうする?律儀に選択肢に正解を入れるかい?」

「いや。命よりも大事なものを守るためなら躊躇なくペテンをおこなう」

「彼もそうだろう。さて、そうなるとそこで僕らができることは三つくらいしかない」

「何かな。その三つとは」

「ひとつ。その勝負を受けて彼の望み通り偽物を掴まされる」

「そうなれば蒐書官廃業だ。その前に蒲原さんにロンドン橋かロンドン塔に吊るされる。どちらにしてもそれは御免被る。ふたつ目は?」

「彼を殺し、すべてを奪う。すべてを奪えばその中に本物はあるはずだ」

「それは最終手段だ。それに彼だってそれくらいは予測しているだろう。対策はされていると考えるべきだ。なによりも、相手のことを考えたらそれをおこなうためには誰もが納得するような大儀というか口実がなければならない」

「僕はやってしまった後にそのようなものは考えればいいと思うのだが。手っ取り早いし」

「我々は誇り高き蒐書官であって強盗団ではない。却下だ」

「まあ、君ならそう言うだろうと思ったよ。では、僕らが選ぶのは三番目しかないな」

「それは?」

「どのようなことをしてでも本物を引き当てるということだよ。だが、これはなかなか難題だ」

「そのためにはまずテーブルまでそれを運んでもらわねばならないからな。だが、心配ない。あるだろう。我々にはそれを見抜く方法が。さて、そろそろ出発の時間のようだ。では、行こうか。シェークスピアの新作を読める場所に」

 そして、実をいえば、彼も、彼の同僚もその自信があった。

 だが、彼らを待っていたものは、ふたりの想定を超えるものだった。


「……いい紙ですね」

 その男の屋敷にやってきた彼らに主が差し出したものをまず眺めた彼は絞り出すようにしてかろうじてその言葉を口にした。

「そうだろう。なにしろ特別なものだからな」

 その言葉を聞くと彼の前に座るその屋敷の主である老人はニヤリと笑う。

「君たちがこれまでの客とは違う特別な能力があるのではないかとは予想していたので歓迎の準備に時間を要した。それについては詫びておこう。それでどうかね。この書の出来は」

 勝ち誇る老人の言葉には答えず、彼はひたすら自らの能力をたよりに目の前の書に睨みつける。

 だが……。

 ……紙の年代で偽物を見分ける。それが僕らの方針だった。

 ……だが、これはわからない。

 ……それどころか三冊すべてが当時の紙を使っているとしか思えない。

 ……しかも、今回の内容はまちがいなく本物。シェークスピアと筆跡も同じ。

 ……どうやったらここから本物を見つけ出すことができるのか。

 彼は隣に座る相棒を見る。

 笑顔の欠片もない友人の顔が目に入る。

 ……やはり同じか。

 彼らの答えに窮している様子を眺めた老人は表情を崩し、それからさらにもうひとつ言葉を加える。

「当然ながらふたつはレプリカだ。君たちのことだ。当然本物を選ぶだろうがそれは仕方がないことだと私も思う。さて、君たちがその中からひとつ選んだところで譲渡契約を結ぶことを申し添えておこう。万が一にも間違えないようにゆっくりと吟味したまえ」

「契約?」

「とてつもない金が動くのだから当然だろう。それに忘れた頃になってあれは偽物だから金を返してくれなどと言いがかりをつけられても困る。まあ、君たちに限ってそのようなことは言わないと思うが、とりあえず保険だと思ってくれ」

 ……つまり好きなものを選ばせるが、その後は自己責任であり返却不可というわけか。

 隣の相棒が口を開く。

「承知しました。ちなみに、あなた自身はどれが本物かわかっていらっしゃるのですか?」

「もちろんだ」

 その瞬間、ふたりは老人の視線を追う。

 そして、確信する。

 ここにはそれはないということを。

 ……だが、ここに並ぶものすべてが偽物であることを証明しないかぎり言い逃れされてしまう。

 ……そうは言っても、私の能力ではそのすべてが本物となってしまう。

 その時、彼の心にここにやってくる前に語った相棒の言葉がよぎる。

 ……彼を殺し、すべてを奪う。

 相手は自分たちの背後に四人、老人の背後にふたり。

 対して自分たちは入館時に、武器は取り上げられている。

 ……だが、他に手がない以上やるしかないか。

 ……それに数的には不利ではあるがこの程度の相手なら十分勝算はある。

 ……後世の者に何と言われようが我々は蒐書官。どんな手段を使おうとも本物を手に入れる。

 心に決めた彼はある言葉を口にする。

「八柱君。君は右と左。どちらがいいかね?」

 それは合言葉であり、相棒が左右どちらかを答えた五秒後にアクションを起こす。

 それがふたりの取り決めだった。

 しかし……。

「提案があります」

 少しだけ考え、相棒が答えたそれはNOを示す「それ以外の言葉」であり、そして、それは彼にとってあまりにも意外なものだった。

 ……しかも、選んだのがその言葉とはどういうことなのだろう。

 相棒の心を読み解くことができなかった彼だったが、もちろん心の動揺を抑えて平静を装い表情を変えることはなかった。

 それが功を奏した。

「提案?何かは知らないがとりあえず聞こうか」

 事情を知らない老人は八柱の言葉は自分へのものと誤解したのだ。

 それは天から地獄へ垂れる一本の糸のようだった。

 すがるように、いやそれを強引に手繰り寄せた彼の友人だったが、その彼が続いて口にしたその提案は意外なものだった。

「これらをすべて持ち帰ってもよろしいでしょうか?」

「お、おい」

 それはこの状況を理解していれば彼でなくても慌てるほど荒唐無稽なものだった。

「……君はそれを本気で言っているのか?」

 当然老人にそう問われた友人だったが平然と頷き、言葉を紡ぐ。

「もちろんです。これほど精巧につくられたレプリカを二組も混ぜられては私たちのような非才の身には判断しかねます。しかも、閣下がおっしゃったようにこれの売買には多額の金が動きます。しかも、返却は不可という。間違って本物でないものを買ってしまっては取り返しがつきません。当然そうなれば交渉したものの責任が問われるわけですが、私たちも自分の身はかわいい。判断を仰ぎ責任の一端を上司に負ってもらおうという私の提案はそれほどおかしなことではないように思うのですが」

 ……一見すると筋は通っているが、さすがに老人がこの提案を飲むはずはない。

 もちろん相手の答えは彼の予想通りである。

「なるほど。君の言いたいことは十分に理解した。だが、残念ながら希望は叶えられない。……悪いな」

「いいえ。こちらこそ無理なお願いをして申しわけありませんでした」

 ……当然だ。

 ……そして、結局得るものもなしに振り出しも戻るということか。

 ……こいつはこれからいったいどうする気……ん?

 謝罪し首を垂れる相棒を心配そうに眺めた彼はそれを見た。

 彼が見たもの。

 それはその言葉とは裏腹に相手を罠に嵌めたときに見せるあの黒い笑みを浮かべる相棒の顔だった。

 ……そういうことか。

 彼はようやく相棒の意図を理解した。

 ……これは彼が放った渾身の一撃。

 ……これなら彼の最初の言葉に老人も取り巻きも疑いを持つことはない。

 ……さらに、老人の機嫌を損ねずに決定を先延ばしにすることも可能となる。

 ……そういうことならば当然彼の次の言葉とは……。

「閣下のおっしゃることは当然のことです。ですが、私どもといたしましてもやはり上司との相談は必要ですので、今日はこれくらいでお暇したいと思いますがよろしいでしょうか?」

「よかろう」

 ……引っ掛かった。当然だな。すでに勝った気でいるのだから。

 ……今のところは確かにそのとおりだし、我々は打開策どころかその糸口すら見つけていないことも事実だ。だが、ここで我々を取り逃がしたことを必ず後悔させてやる。

「それから次回は私どもよりも優秀な蒐書官を加えて交渉に臨みたいのですがよろしいでしょうか」

「そのような者がいるのなら構わんが、私はそれほど気の長いほうではないので次回の交渉で必ず結論を出してもらう。延長戦は今回限りだ」

「もちろんです。おおよそお目星をつけておりますのでご安心を。とにかく今日はありがとうございました」


 ……乗り切った。


 それは図らずもふたりの心の中で同時に叫ばれた言葉だった。


「今回の件は君がどれだけの悪党かが証明されたとしか言いようがないな」

 彼は上司のもとに向かう車の中で延々と助手席に乗る相棒をこき下ろしていた。

 もちろん本心からではない。

 彼は感謝をし、自分にはない友人の交渉能力の高さを羨ましく思っていたのだ。

「しかし、とりあえず契約の延長まではとりつけたものの、このままでは敗戦の日を先延ばししただけになる」

「そのとおり」

 半分眠りながら彼の友人は答えた。

「だが、こうして手ぶらで屋敷を出られたのは大きい」

「そうなのか」

「当然だろう。あんな偽物を掴まされての帰宅など御免被る。それだけではない。相手の手のうちを蒲原さんに報告できるというのは大収穫だ。ターゲットとその所有物がわかった。つまりそれは蒲原さんがその気になれば、ロンドン中の蒐書官を総動員してあの屋敷を襲うという選択肢を手に入れたのだから」

「それはそうだが……」

「とにかく、まずは蒲原さんへの報告だ」

「そうだな。ところで君に聞きたいことがあるだが」

「それは疲労困憊している今の僕にどうしても聞かなければならないことかい?」

「もちろんだ」

「わかった。では、聞こう」

「延長戦に持ち込んだ君の一手は用意されていたものなのか?」

「それは『提案』の話かい」

「それ以外にないだろう。それともあれは思いつきなのか?」

 ちらりと隣に目をやって彼の顔が本気であることを確認すると友人は目を開け姿勢を正す。

「そもそもあれは僕のオリジナルではない。だから、思いつきというよりも思い出したというほうが正しい」

「あれと同じことをやった蒐書官がいるのか。それはいったい誰……もしかして」

 そこで彼の脳裏に浮かんだのは、目の前にいる男の師匠と呼ばれる人物の顔だった。

「長谷川さんか」

「そのとおり。ただし、長谷川さんはあれ以上に悪い条件から最後にはひっくり返したそうだから、相手の油断につけ込んでも引き分け以下の結果しか出せなかった僕を長谷川さんと同列に並べて話すなどおこがましいだろうけど」

「青は藍より出でて藍より青し、ではなかったわけだ」

「残念ながら今の僕では長谷川さんの足元にも及ばない」

「それでも、あの状況からあそこまで戻したのだから、さすが長谷川さんの一番弟子と言われるだけのことはある。あのとき私はとるべき道は最終手段しかないと思っていたよ。それからついでに聞いておこう。私があれをやろうとしたときに君は反対したのはなぜだ」

「あの時点で僕はすでに長谷川さんのパクリをやるつもりだった。そこへ君からの提案だ。もちろん僕も君と同じようにあれでも成功はすると思ったよ。だが、それをやれば僕らも無事ではいられない。そこでそれらを天秤にかけて勝率も生還率も高いほうを選んだというわけだ。もっとも、あそこで拒否されれば最終手段に踏み切っただろうけど」

「なるほど。そういうことなら、こうして五体満足であの屋敷から出られたことを君に感謝しなければならないな。最後のひとつ。そして、一番重要なことだ。君は引き分けに持ち込んだのは再戦すれば勝てるという根拠があったからだろう。それは何だ?」

「それはさっき披露しただろう」

「いや、君とは長い付き合いだ。君はまだ隠している。そしてそれは先ほど披露したものよりはるかに出来のよいものはずだ。だが、私にはそれがあることはわかっても何かがわからない。いったいそれは何だ?」

「そこまで持ち上げられると言わないわけにいかないな。確かにある。実現すれば確実に勝てる手が。では、教えよう。それはもちろん……」


 ……それから一週間後の同じ場所。

 だが、そこではあのときの勝者と敗者は立場を逆転させていた。

「なぜ、なぜこうなった」

 奪われてはならぬものを奪われたショックからあのときの自信に満ちた姿など微塵も感じられない変わり果てた老人のうめき声がその部屋に響く。

「そんなことよりも、閣下。そろそろ自らが犯した罪に対する対価を払ってもらいましょうか」

 穏やかな口調で彼はそれを告げる。

「……対価?これ以上何を奪うというのだ?」

「もちろんすべてよ」

 虚ろな目で彼を見る老人のその問いに答えたのは聞きなれた男たちのものとは違う声だった。

「すべて?」

 老人はその声の主に顔を向け再び問うた。

 声の主が冷たく答える。

「そう。あなたが持つすべてを手に入れ、消えるべきすべてを闇へ葬る。それが私の望み」

「それはいったいどういうことだ?」

「簡単なことよ」


「始めなさい」


 それよりも約一時間前。

「この三冊はすべて偽物です」

「なんだと」

「さらにいえば、これがこの中では一番古い。古いと言っても五十年も経っていませんが。つけ加えれば、これはこの中で技術が一番劣ったレプリカでもあります」

「……」

「次はこちらですね。これは一年以内に書かれていますが、かなり鍛錬を積んでから書かれたらしくこの中では一番出来がいいです。これならシェークスピア作と偽っても大部分のバイヤーは喜んで買ってくれることでしょう。そして、最後はこれ。完成してからそれほど時間は経過していません。ただし、緊張なのか興奮なのか、それとも急いだせいなのかはわかりませんが心の安寧が感じられない字で構成されています」

「こ、小娘。なぜそのようなことが言える。おまえはいったい何者だ」

 老人は狼狽する。

 もちろんそれは指摘されたすべてが真実というだけでなく、彼の心のうちまで見透かしたような言葉まで加わっていたからだ。

「私が何者かなどあなたに話す必要はありません。ですが、これらがすべて偽物であることを私がわかる理由はそれを用意したあなたにも関係があります。ですから、あなたはそれを問う権利を有しています」

 小娘と呼ばれたその少女はそれまで以上に冷たい視線で老人に突き刺し、ゆっくりと口を開く。

「ですが、その答えを聞く前にあなたはこのような交渉で大金を用意した相手に対して本物ではなくレプリカを差し出そうとしたのはどういう了見かを私たちに説明する義務があります。その責任も……」


 日本の高校に通っているはずのその少女がそこにいた理由。

 それを語るにはこの五日前の午後、この少女が彼女の語学教師のもとを訪ねたところまで時間を遡らなければならない。

「どうしたのですか?」

 少女は珍しく渋い表情を見せるその女性に声をかける。

「すいません。少々難しい問題が発生しておりまして……」

 それから彼女が語ったこと。

 それは……。

「つまり、その問題とはベテラン蒐書官でも年代が判別できない紙に本人そっくりな字で書かれた完璧なレプリカを含む三冊の本の中から本物を見つけ出すということなのですか?」

「厳密にいえば、おそらくそのすべてが十六世紀にイギリスで使用された紙。さらにいえば、当時彼が使用していたものと同じもの」

「それで、その彼とは?」

「シェークスピアです。そして、その書のタイトルは『恋の骨折り甲斐』です」

「それはシェークスピアの失われた戯曲と同じ名ですね。ロンドンの統括官である蒲原が昔それを手に入れかけたと聞きましたが、ようやくそれが見つかったということなのですか?」

「その話は彼がまだ蒐集官だったころのものですが、よくご存じでしたね。あと一歩というところで逃げられ、相手はそのまま行方不明になっていたのですが、最近になってその人物を操っていた者が闇から姿を現したそうです。今回はその人物の素性も居場所もすでに判明しているのですが、彼との交渉中にこの難題が持ち上がり、どうしたものかと悩んでおりました」


「夜見子。あなたは随分おかしなことを悩んでいるのね。持ち主がわかっているのなら、すぐに蒐書官を動かして奪えばいいでしょう」


 そう言い放ったのは、少女の護衛責任者で彼女が通う高校の体育教師でもある女性だった。

「私には夜見子が躊躇っている理由がわからない。その持ち主が手放す気があるのなら金で解決し、そうでなければ殺してでも奪う。それがあなたの配下のやり方でしょう」

「由紀子は本当に嫌な言い方をするわね。それでは、まるであの美術館と同じじゃないの」

「でも、そう間違ってはいないでしょう。それで、あなたが躊躇っている理由は何?」

「もちろん相手はそのゲームに勝ったら『恋の骨折り甲斐』を差し出すとは言っていることよ。相手が正々堂々と勝負するといっているのに、そのゲームに勝てそうにないから殺して奪うというのはちょっと違うでしょう」

「なるほど。確かにそれは日頃『誇り高き』と吹聴している蒐書官としてはちょっと恥ずかしいわね」

「いやいや、ちょっとではなくて、かなり恥ずかしいから」

「それで、その恥ずかしい蒐書官たちの元締めである鮎原氏の意見は?」

「もちろんさっきのあなたと同じよ。大事なのは目的の完遂であってその方法ではない。まして、蒐書官のプライドなどというつまらないもののためにやるべきことを躊躇しているようでは蒐書官失格だと言っていた。もちろんそれで終わらずにロンドンの連中ができないのなら、自分が乗り込んで直接指揮をとると息巻いている」

「さすがは鮎川氏。もっとも、彼の場合は最悪の場合に必要な汚れ役を引き受けるつもりでそう言ったのでしょうけど。それで、本当にそれしか手がないの?」

「報告どおりならないわね。ロンドンの統括官である蒲原からは担当蒐書官たちから要望があり交渉でケリをつけるために長谷川を派遣してもらいたいと依頼が来ているけど、今回の件は長谷川どころか私でも無理そうよ。結局ゲームに勝たないとどうにもならないのだけど、肝心の紙がすべて本物となると打つ手がないから」


「では、私が行きましょう」


 それはふたりにとって想定外の人物の言葉だった。


「もう一度言います。そのゲーム、私が受けましょう」

「お嬢様……」

「博子様」

「ふたりともどうかしましたか?それとも私が参加することに何か問題があるのでしょうか?」

「確かにお嬢様であれば、難なくクリアできるとは思いますが、その……」

 少女の言葉に対して、その建物の主である女性が遠慮気味に懸念を示すものの、結局最後まで辿り着けず言葉が途切れた彼女に代わり、少女にそれを伝えたのはもうひとりの女性だった。

「警備責任者としては言わせてもらえれば、少しでも危険と思われる場所に博子様が出向くのは賛成しかねます。さらに、博子様の本当の能力は蒐書官でさえ知らないものです。それを部外者の前で披露するなどもってのほかです。それから……」

「それから?」

「……定期試験が間近です」

 女性の言葉に少女は小さく微笑む。

「最初の懸念についてはそれほど心配ならあなたがたふたりも同行すればいいでしょう」

「それはもちろんそうしますが……」

「近接戦のプロであるふたりが同行する。それなら警備上は何も問題ないです。そして、二番目の問題については私がそれを鑑定するときに立ち合うのはあなたがたふたりだけにすればよいでしょう。蒐書官たちはケリがついた後に入室することにすればふたつ目の問題もクリアです」

「目の前にいる相手は?」

「口外しないように物理的にお願いすればいいでしょう。もちろんすべてが終わった後のことですが」

「もちろん口封じはしますが、それでは結局私や鮎原の案と変わりはないと思うのですが」

「いいえ。結果は同じでもふたつの方法は似て非なるものです。そして、最後のものですが、もともと私は試験勉強というものをしたことがないので試験当日に間に合えば問題は何もありません。それよりも、交渉相手がテーブルに並べたものの中に本当に本物があるのですか?私はそちらの方が心配です」

「それは以前お嬢様がニューヨークの怪人に対して使った手のことですか?」

 女性が口にした少女が使った手。

 それは「アトランティスの真実を記したプラトンの書」を手に入れる際に少女が披露した「二択の両方が偽物」という奇手である。

 少女は小さな声でそれを肯定すると、建物の主が言葉をつけ加える。

「それについてですが、交渉した蒐書官である藤華と八柱から、確証はないものの、交渉相手の仕草を観察した結果本物は別の場所に保管し自分たちの前に出されたものはすべて偽物ではないかと蒲原に報告しています」

 彼女の言葉に少女が答える。

「私が逆の立場でそれだけのものを持っていたのなら間違いなく交渉にはそれを使います。おそらく蒐書官の報告は間違いないでしょう。そして、当然ながらそれは私たちも交渉相手に永遠に黙っていただく口実にもなります。それで、肝心の取引相手は誰なのですか?」

「アルセスター侯爵。それよりも、作家で脚本家でもあるトーマス・ウィンターパレスと言ったほうがとおりがいいかもしれません」

「……ほう」

 自らの問いに答えた彼女の言葉に少女は一瞬だけ驚いた表情を見せた。

 だが、すぐに別の表情に変わった少女が口にしたのは驚くべきものだった。

「トーマス・ウィンターパレス。いいえ。アルセスター侯爵ジョージ・マーレイ。ここで彼の名前が出てくるとは驚きました。これはなかなか興味深いです」

「興味深いとはどういうことでしょうか?お嬢様」

「あまり知られていませんが彼の先祖とシェークスピアの間には深い繋がりがあります。そして、その子孫で文才のある彼がシェークスピアの幻の一冊を所有し、さらにとてつもなく精巧な贋作をつくる。実に興味深いことではありませんか。この際です。その一冊だけではなく、彼が持つすべてのものを回収してください。うまくいけばシェークスピアの知られていない作品も見つかるかもしれません」

「承知しました」

「それから、これまでのことを考えれば、例の美術館だけでなく、地元の大英博物館も邪魔に入る可能性があります。その対策を講じるように蒲原に指示してください」

「そちらについてはご心配なく。蒲原がすでに優秀な蒐書官を使って彼らと担当蒐書官との引き離し工作を完璧な形でおこなっています」

「なるほど。では、すぐに渡英の準備を」


 そして、すべてが終わってから一週間後の夜。

 彼らはあのパブにいた。

 そして、なぜかあの二人組も。

「おまえたちはこの一か月間何をしていたのだ?」

 アメリカからやってきて二年になるその大男はその外見にふさわしい無粋な言葉を彼に投げかけた。

 もちろん彼らに本当のことなど言えるはずもない彼は言葉を濁す。

「色々……本当に色々あった」

「まさか人に隠れて毎日こそこそといい思いをしていたのではあるまいな?」

 ……あるわけがないだろう。少なくてもそれだけは決してない。

 そう叫びたかった彼だったが、ここでそれを言ってしまえばすべてを話さねばならないことにもなりかねないと心を強くし口を噤む。

 彼はなんとか自重できたが、世の中にはそうでない者もたくさんいる。

 そして、幸か不幸かここにはその代表のような男がいた。

 言うまでもない。

 彼の友人である。

「いや。どちらかといえばひどい目に遭っていたと言った方が正しいよ」

 ……馬鹿か。そんなことを言えばすぐに次の問いかけがやって来る。そして、それは……。

「おう。そうか」

 だが、彼の相棒の苦り切った言葉を聞いた大男は疑うどころかうれしそうに豪快な笑い声をあげる。

「それはならよい」

「まったくです。我々を出し抜こうとした結果がそれなら素晴らしいと言わざるを得ません。やはり神は見ていたのですね。神に感謝を」

「はあ……よかった」

 もうひとりも追随したのを確認して安堵の言葉を口にし、それから彼は心の中で思った。

 ところで、永戸さんたちはこの人たちと一か月間何をして何を話していたのだろうと。

 彼は隣に座るアメリカ人に訊ねる。

「あなたたちこそどうされていたのですか?」

「おまえは同僚から聞いていないのか?」

「いいえ。ただ永戸さんから私たちのもとに届いたとんでもない額の請求書からある程度は想像できますが」

 それは本当にトンデモない代物だった。

 なにしろ餌付け代と書かれたそれには彼らがこの一か月の間ほぼ毎日このふたりを連れて飲み食いしていた証拠が残されていたのだから。

 ……もしかして、それだけということなのか。

 そして、彼の不安は的中する。

「それにしても、他人、しかも、ライバルの金で飲むお酒があれほどおいしいとは思いませんでした」

「まったくだ。あいつらはおまえたちと違って本当に気前がいい。今度あいつらに会ったら言っておけ。高給で雇ってやるから蒐書官などやめて俺のところに来いと」

「……伝えます。そ、それで、肝心の戦果のほうは?」

「酒を飲みながら待ち、あのふたりに寄ってくる寄生虫をすべてつるし上げたぞ」

「まあ、結局何を出ませんでしたが」

「まったく腰抜けばかりだったな」

「そうですか。……それはなんともお気の毒なことで」

 もちろん彼が示した哀悼の意はふたつの博物館のエージェントに締め上げられた無関係な被害者たちと、彼らの酒代を払う自分たちに向けたものであり、間違ってもこのふたりのことではない。

 だが、当事者たちにはそうは伝わらなかったらしく、大男の陽気な言葉は止まらない。

「だが、これだけやっても出てこないということは、おそらく大金をせしめた犯人グループは地下に逃げこんでしまったに違いない。残念だが、これ以上粘っても何も出ないだろう。この辺で店じまいすべきではないだろうか」

「それがいいでしょう。ということで、あなたと酒を酌み交わすのも今日が最後ということですね」

「そうだな。では、私から感謝の言葉を贈ろう。おまえは根暗なイギリス人の割にはいいやつだった」

「あなたこそ単細胞ながらもその何も考えない明るさには少しですが敬服しました」

「ところで……」

 喧嘩が始まる前にと彼の友人が頃合いを見計らって口を開く。

 友人がこれから訊ねようとしていること。

 それを彼は知っている。

 それはあの場にいた者として、そして、蒐書官としてどうしても聞かなければいけないことだったのだから。

「最近、貴族の館が一軒火災で焼き落ちたのはご存じですか?」

「もちろん。ニュースになっていたから知っている。しかし、あの館の主がトーマス・ウィンターパレスだとは知りませんでした」

「トーマス・ウィンターパレス?かつて『イギリスの宝』とも呼ばれていた作家だったな。それで、その落ちぶれた作家が焼死したことがどうした?」

「彼の書くものからは古き良き英国の古典文学の香りがしましたので、そのニュースを聞いた時にそれらを愛する我々は残念な気持ちで一杯になりましたが、皆さんはどう思われているのかと。ただそれだけのことです」

 ……これは完全に気づいていない。

 ……地元の大英博物館にさえ情報が漏れないとはさすが橘花のクリーニングシステムといったところでしょうか。

 ふたりは心の中でそう呟き、そして実際にはこの言葉を口にした。

「……トーマス・ウィンターパレスとその先祖。それから彼らがつくったすばらしい作品に乾杯」

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