ルクソールの王名表
エジプト中部の観光都市ルクソール。
何かに引き寄せられたかのように、観光客とはまったく違う雰囲気を纏った多くの日本人が知り合いのエジプト人たちとともにこの都市に姿を現し始めたのは三日前のことである。
もちろん彼らはすべて蒐書官。
そして、この日あらたな男がルクソールに現れる。
新池谷勤。
統括官としてこの地の蒐書官を束ねる男である。
「それにしても、新池谷さんが発掘前の現場にやってくるとは驚きです」
カイロから空路でやってきた自分の上司であるその男にそう話しかけていたのは、空港まで彼を出迎えに来ていた蒐書官清水である。
彼の皮肉交じりの言葉をつまらそうに聞き流したその男が口を開く。
「これからおこなうのは年に何回もない大仕事だ。この地域の責任者である私が来るのは当然だろう。君こそどうした?発掘などという君の前職を思い起こすような単語を持ち出すとは。もしかして遺跡だらけのルクソールに来て里心が芽生えて前職に戻りたくなったのかね」
それは「元エジプト学者」という彼の肩書にスパイスをたっぷりかけた言葉だったのだが、さらにそれを上塗りするように彼が言葉を返す。
「そのようなことはまったくありません。いや、今嘘をつきました。現在の百倍の報酬を約束し、私を追い出した連中が全員で土下座して泣いて頼んだら復帰してやってもいい程度には戻りたい気持ちがあります」
「つまり、ないということか。まったく素直じゃないな。君は」
「なにしろ新池谷さんに徹底的に鍛えられましたから。それに新池谷さんが手を付ける前の現場に私を送り込んだ理由は今回の仕事には私の発掘技術を必要であると感じたからではないのですか?」
それまでの冗談の色が一気に抜け落ちた彼の言葉に男は頷く。
「そのとおり。今回は前回と違い力技で掘り起こすというわけにはいかない繊細な品物を探すことになるからな。そのために君を一足先にルクソールに入ってもらったのだ。それで、肝心の準備状況はどうなっているのかな?」
「問題ありません。エジプト学者という立場であればこのような現場を任せられたら喜びで震えが止まらないことでしょう」
もちろんそれは先ほどのお返しのつもりで口にしたものだった。
だが、すぐさま返ってきた言葉は彼を一瞬で凍りつかせる。
「そういうことであればもうひとことつけ加えておこう。現在の君は蒐書官であり研究者ではない。何を優先させるかを考えたうえで行動するように」
……まずい。
上司の前で本心を垣間見せる発言をした自分の浅はかさを後悔した彼だったが、ここはなんとしてでも何事もなかったかのように振舞わなければならない。
「もちろんですとも。それについてはご心配なく」
清水は取り繕うようにそう言って笑った。
だが、彼の表情に一瞬だけ浮かんだ影を彼の上司は見逃さなかった。
「……やはりな。だが、それが元とはいえ学者の性というものなのだろうな」
だが、新池谷が呟いたその言葉はあまりにも小さく彼に届くことはなかった。
さて、ここで蒐書官だけではなく彼らを束ねる統括官までルクソールに現れた理由をあきらかにしておこう。
そのきっかけは、その男がルクソールに現れたその日から三週間ほど遡った日の昼下がり、在ルクソールの蒐書官チームのひとつが一片のパピルスを手に入れたことだった。
「金平君。君はこれをどう見るかね」
根城にしているルクソール神殿近くの最高級グレードのホテルの一室でエジプトにやってきたばかりの後輩にそう訊ねたのはベテラン蒐書官杉江だった。
もちろん彼が期待したものは即座に返ってくる自分の考えているものと同じ答えであったのだが、実際に戻ってきたものはそれとはまったく異質なものだった。
「それは当然このパピルスに書かれた内容についての感想ということですよね」
杉江は怒る気にもならないとばかりにゆっくりと首を振った。
「私はこのパピルスを見せながら君に訊ねているのだ。君がそれ以外の答えを求められていると思ったのなら、私の訊ね方が悪かったのか、君の頭が悪いかのかのどちらかだろうな」
「では、杉江さんの質問方法が悪かったということで」
「君の頭が悪いに決まっているだろう。つまらんことを言っていないで、さっさと答えたまえ」
爆発寸前で怒りを留めた杉江に促された若い男はパピルスを睨みつけ、それから一瞬だけ考え込むと口を開いた。
「あまりにも小さく保存状態も悪いのであまり多くのことは言えませんが、はっきり言えるのはこのパピルスにはあまり有名ではない王の名前が記されていることでしょうか」
「それだけかな」
「はい」
……まあ、彼はここに来てそれほど時間が経っていない。
……出てくるのはこんなところか。
なかば自分自身を納得させるために彼は心の中で呟き、用意されていた言葉を口にする。
「ちなみにパピルスに残されているこの即位名は第十七王朝インテフ六世のものなのだが、それよりも重要なのはそれに続く文字だ」
「と言いますと?」
「君はこれと似た文字列をそれほど遡らない過去に見なかったかな」
「遡らない過去?つまり最近ということですか。最近そのようなものを見た記憶は……ないですね。まったく」
後輩蒐書官のある意味予想通りの答えに再び大きなため息をついた彼は何度も深呼吸をして心の平穏を取り戻してからもう一度口を開く。
「君の貧困な記憶力に期待した私が間違っていた。場所はメンフィスだ。そこで君は何を探していたのかを思い出したまえ」
「メンフィス?あれは最近のことではありませんが……とにかくそうであれば探し物は王名表ですね。つまりこれは王名表を記したパピルスの一部ということですか」
「そうだ。治世年ではなく治世年数をこのように王名とともに書き残すものはほかには思いつかない。私はカイロに連絡する。君はこれを売りにきた密売人を今すぐ呼び出したまえ」
「どうするのですか?」
「決まっている。これを掘り出した場所を聞き出す。もちろんこのパピルスの残りの有無を聞き出すことが最優先なのだが。ということで、いよいよ君の出番だ。葛葉君と並ぶ拷問のプロ。金平大輔君」
さて、時間を三週間後の今に戻し話を進めよう。
清水と共に空港から直行した新池谷がやってきたのは、ルクソール東岸にある民家の敷地だった。
「……ここなのか?」
彼に案内され、その場所を見た男の表情はみるみる険しくなる。
……この大量に水分を含んだ土壌で部分的であってもパピルスが残っていたのは奇跡であり、当然今後発見されるものも良好な状態であることは期待できない。
男の沈黙はそう語っていた。
もちろんそれについてまったく同じ意見を持つ彼が口を開く。
「金平君がかわいそうな密売人から例のパピルスを掘り出した場所がこの家の地下であることを聞き出し、その後この家だけでなく周辺を含めた一区画は杉江さんがすべて買い取りましたので、あとは作業を開始するだけになっています」
「昨日試掘をおこなったそうだが、その結果は?」
「この見た目から想像できないくらいに上々です。いくつかの遺物も発見されましたし、日干し煉瓦製の遺構も確認できました。もしかしたら、この辺りは第十七王朝時代の官庁街だったのかもしれません」
「なるほど。それで例のものについてはどうかな?」
「残りの部分も見つかる可能性は十分あります。ただし……」
もちろんそれに続くのは否定的な言葉であることは十分に承知しているその男は彼の言葉を待たずに自らの言葉を語り始める。
「まあ、そうだろうな。だが、出ることを前提に準備はしなければならない。すぐに『すべてを癒す場所』に連絡をしておこう。ところで、西野君はもう来ているか?」
「昨日アマルナから乗り込んできましたが、今は河合君をつれてルクソール博物館に行っています。見たいものがあるのだとか」
男は頷き、再び口を開く。
「西野君にものちほど伝えるが、まず君にも伝えておこう。明後日から始める商品掘り出しの総指揮は西野君に任せる。作業開始前に指揮の引き継ぎを滞りなくおこなってくれたまえ」
それは自分がこの仕事の指揮を執るつもりでいた彼にとって予想外のものだった。
無言の時間に続き、彼が口を開く。
「……それで私はこれから何をしたらよろしいのでしょうか?」
「出てきた品物の検品及び査定と保管。それから西野君のサポートを頼む。不満か?」
「そういうわけではありませんが……」
「彼はエジプト人との付き合いが長いし、なにより彼は優秀な作業員を多数抱えている。君にはそれが足りない。それが彼に指揮を任せる理由だ」
「承知しました」
冷静を装いそう言ったものの、この時彼が目の前にいるその決定を下した男の指示に不満だったのは事実である。
……西野さんは先輩だし実績もある。
……だが、この仕事の指揮は私の方が適任だ。
……つまり、私の指揮下で西野さんは働くべきだ。
……もちろんこれはうぬぼれでなく、客観的な事実だ。
……それなのに、いつもなら適材適所を貫く新池谷さんが今回に限って取ってつけたような理由で西野さんに決めた。
……納得できない。
彼の中で高まった疑念。
そして、その中心にあった新池谷の不可解な決定。
その決定の意外な理由は新池谷がカイロへ戻った翌日から始まったその作業の冒頭に判明する。
「さて、作業を始めようか」
「……はい」
それが一方的な妬みに基づいた微妙な雰囲気を漂わすふたりのこの日最初の会話だった。
「ところで、清水君はこのプロジェクトの責任者が君から私になった理由はわかるかな」
薄く笑みを浮かべた西野が口にしたそれは清水にとって今一番触れて欲しくない話題だった。
「それは……」
「それは?」
「西野さんはエジプト人の扱いが慣れており、なによりも西野さんは優秀な作業員を多数抱えているからで……」
「違うな」
新池谷のそれをそのまま引用した彼の言葉が終わらぬうちに西野はそう断言した。
「もっともらしい言葉を並べているが、それは新池谷さんがその場の思いつきで言ったものだ。だが、聞き方が悪かった。では、君はどうしてだと思う?」
「……西野さんはベテランですし、新池谷さんとは付き合いが長い。おそらく、そのような理由で……」
「率直な意見だ。だが、はずれてはいない。私にとっては非常に迷惑な話なのだが。もっとも、話はそこで終わりではない。なにしろ、その後からがこの話の肝の部分なのだからな」
ため息をひとつ入れたあとに西野はそう言った。
「どうせ君は新池谷さんが私に功績を立てさせるために自分の地位を召し上げたなどとつまらぬことを考えているのだろうが、ハッキリ言って私は被害者だ。そして、一番の受益者は清水君。君だ。つまり、新池谷さんは君のために今回の件を差配したということだ」
そう言って先輩蒐書官は彼の表情を眺める。
当然その目には困惑の表情を浮かべる彼がいる。
「わからないようだな」
そう言って西野は少しだけ考え込み、それから口を開く。
「新池谷さんにとっては不本意であろうが、このまま君に勘違いをさせたままでは問題が起きるかもしれない。やはり真実を話しておく必要がありそうだな」
そう言って、少しだけ表情を厳しくした先輩蒐書官は言葉を続ける。
「よく聞きたまえ。まず君は元エジプト学者だ。本来は保存すべき遺構が我々の作業のために破壊されることは本心では我慢ならないはずだ。しかも、長であればそれを自らの指揮でおこなわなければならない。今回の件はその葛藤から救ってやろうという新池谷さんの暖かい心遣いだ」
確かにそれは大部分について間違ってはいない。
だが、それが理由で責任者の座を外されたというのは彼にとっては不本意の極みと言わざるをえない。
「……そのような気持ちがないというわけではありません。しかし、私も蒐書官です。己の仕事としてそこは割り切っています」
彼からの返答を査定するかのように西野は何度も頷く。
「簡単に弱みを見せないのは蒐書官としていいことだ。では、もうひとつ聞こう。消えていくその遺構を記録に残したいという気持ちはないか?」
さすがにこれは明確に否定できない。
黙り込む清水を眺めながら西野は言葉を続ける。
「わかったかな。これは新池谷さんから君へのささやかなプレゼントということだ。遺構破壊を指揮する者がそれをおこなうのは難しいが、たまたま現場にいた暇人がそれを記録するのは作業の邪魔であるもののたいした問題ではない。それに君が元有能なエジプト学者であることは大部分の人間は知っている。君が副業に勤しんでいてもみんな大目に見てくれることだろう。そして、何より大事なのがたとえそれが原因で何か問題が起きてもその責任は君ではなく君を放置していた総責任者である私が負うということだ」
……なんと……。
彼はここでようやく上司の自分に対する気遣いと、すべてを知りそれが己には不利益となることだけだと知りながら汚れ役を快く引き受ける先輩蒐書官の度量を理解した。
そして、そのようなことも知らず浅はかな知識としがらみだらけの過去を絡めてつまらぬ妄想をしていた自分の器の小ささも。
「……私は今回の決定には何か釈然としないものがありましたが、これで疑問はすべて氷解しました。西野さん。お気遣いありがとうございました」
「その言葉は私ではなくカイロに戻ってから新池谷さんに言うべきだろう。ついでに記録したものを見せるといい。新池谷さんも遺跡調査の報告書を読むのが好きだから」
「はい。そうさせていただきます。……ところで、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「君の聞きたいことはだいたい想像できるが、まずは君の話を聞くことにしよう。言いたまえ」
「先ほどの話は新池谷さんから聞いたのですか?」
「調査報告書が好きなことかな?」
「いいえ。その前です」
目の前の男はいたずらが成功した子供のような笑みが浮かべる。
「もちろん答えはノーだ。新池谷さんがそのようなことを言うわけがないだろう。私が言われたのは急で悪いが清水君の代わりに君が穴掘りの指揮をとってくれ。それだけだよ」
「では、なぜそのようなことがわかるのですか?」
「それこそ、さっき君は言っただろう。私は新池谷さんとは長い付き合いだからだ。あの人はああ見えて気配り名人なのだよ。メンフィスでは時間の制約があってできなかったが、今回はそれがない。だから、準備をさせた君を責任者の地位から解放した。遺構のなかを自由に飛び回れるように。とにかく今はまだわからないかもしれないが、君もあと十年も新池谷さんとつきあえばあの人のよさが……おい、清水君。君はなぜ泣いているのかね?」
「いや。その……新池谷さんや西野さんのような人がいるこの組織に入って本当によかった……本当に、本当にありがとうございました」
あれから三か月。
ルクソールの朝はアザーンが街中に響くところから始まる。
そこからゆったりとした時間が流れるこの町にとって異物のような昼夜を問わず大掛かりな作業を続けていた日本人たちは数日前に消えて、ようやくこの町のいつもの光景が戻ってきたと言ってもいいだろう。
そのルクソールから約五百キロ北にあるエジプトの首都カイロ。
その中心部に位置するホテルの一室を自宅として使用していた彼のもとに訪ねてきたのはルクソールから戻ってきたひとりの蒐書官だった。
「今日は作業完了の報告に参りました」
「ご苦労……おや、清水君ひとりか。西野君はどうした?」
本来彼とともに報告するためにやってこなければならない男の所在を訊ねられた清水の顔には困惑した表情が浮かぶ。
もちろん彼はその男がこの場にいない理由を知っている。
だが、その男が言ったその理由をそのまま口にするわけにはいかない。
……さて、何と言っておくべきなのか?
言葉に詰まる彼を眺める彼の上司はすべてを察したように苦笑いを浮かべながら、言葉を紡ぐ。
「どうせカイロは埃っぽいので嫌いだの、おいしいタマルヒンディーが飲みたいなどとつまらぬ駄々をこねて愛するアマルナに戻っていったのだろう。彼は」
「……ご存じだったのですか」
「もちろんご存じではないが、君の苦り切った表情と、単純な西野君の思考パターンを考えればそれくらいのことは容易に想像できる」
もちろんアマルナをこよなく愛しているものの、その男がここにやってこなかった本当の理由はそのようなものではないことくらいわかっていたのだが、ふたりの上司にあたる男はそれを口にすることなく話を進めた。
「では、仕方がない。君と西野君からの定時報告は受けていたが最終的な結果はどうなったのかを君から報告してくれるかな?」
「はい。では、報告します。回収できるものはすべて回収しました。ただし、残念ながらどれも健康状態がよくありませんでしたので、『すべてを癒す場所』に入院させました」
彼は入院という微妙な言葉を使ったが、もちろんそれは人間ではない。
それどころか、生き物ですらない。
だが、彼にとっても、そして彼の上司にあたる目の前にいる男にとっても現状を表現するにはそれがもっとも相応しい言葉であった。
男は小さく頷く。
「なるほど。それが君の判断であるのなら間違いないだろう。それで患者は回復できそうかね」
男の言葉に彼の表情が歪む。
「実は同じ質問をギザの女主人、いや『すべてを癒す場所』の工房長の如月女史にしたのですが……」
「何と?」
「あなたは私を信用できないのですかとお叱りを受けました」
……まあ、あの人にそのような言い方をすればそうなるだろうな。
男は、当代随一と評される驚くべき修復技術を有し、その技術を駆使した数々の功績に彩られたその人物の為人を思い出す。
……慎ましい表現だが、これは確実に相当やられたな。
男は彼のまだ痛む傷口に触れないように少しだけ話題を変える。
「つまり、問題ないと。だが、すべての点において発見されたあの場所はパピルスを保管するにはよい場所ではなかったと思うのだが」
「私もそう思います。実際に引き上げた遺物は皆ひどく損傷していましたから」
「それでも大丈夫だと」
男の言葉に彼は頷く。
「まあ、女史がそこまで言うのなら問題ないのだろうな。そちらについては女史に任せておくことにして、肝心の速報についても聞いておこうか」
「はい。すぐに読める部分だけでしたので情報は断片的なものになりますが、やはりあれは王名表です。ただし、おそらく写本的な意味合いが強いものと思われます」
「写本?」
「写本という表現が悪ければ管理者が持つ予備的な王名表とでもいっておきましょう」
「その根拠は?」
「書き込みがいくつかありました。正本であればそれは絶対にありえないことです」
「なるほど。あとは?」
「発見されたのはイアフメスまでです。それ以降の王のものはまったくありませんでした」
「それは興味深いな。そこから君はどう推察するかね」
「第十七王朝の王たちが当初から自らの正当性を主張していたのかはわかりませんが、少なくても南エジプトの支配していた王の一族という認識は持っていたことがわかります。それから……」
「まだあるのかね」
「イアフメスは彼らの王ということです」
「彼が第十八王朝の王ではなく第十七王朝の王であると言いたいのかね」
「そういうことです。ただ王朝区分など後世の歴史家がつくりだしたものであり、当時の王たちがそう意識していたはずはありませんが。それから、せっかくですからこれに関連してアビドスの王名表についてもひとことつけ加えておきましょう」
「アビドスの王名表?あそこでは第二中間期の王たちの名がそっくり落ちていたのだったな」
「そのとおりです。ですが、実際にはその間にも王は存在し、王としての活動記録が残っているわけです。エジプト統一を進めるための北部侵攻もイアフメスの数代前から始まっていたわけでエジプト再統一も彼一代の功績ではありません。それにもかかわらずセティやラメセスに自分だけが功労者として祭り上げられ、彼らの王名表に名を載せられてはイアフメスにとってはいい迷惑だったことでしょう」
「なるほど。やはり君の話は非常におもしろい。パピルスの修復が完了したらもう一度話を聞かせてもらうことしよう」
「承知しました。それからこれは私から新池谷さんへのささやかなお礼となります」
彼が差しだしたのは一冊の手稿だった。
「これは?」
「私がまとめた第十七王朝時代の官庁街についての簡単な調査報告書です。もっとも今は遺構自体が影も形もなくなっていますから最初で最後の調査報告書ということになりますが」
「それは貴重なものだ。あとでじっくり読ませてもらうことにするが、そのあとに夜見子様やお嬢様にもご覧いただくことにしよう。貴重なものとしてきっとお喜びになる。場合によっては正式に献上することにもなるかもしれない」
「ありがとうございます。そして、よろしくお願いします」
「それからそれとは別に、いや、それと関連して、と言った方が良いかもしれないが、とにかく君にとって重要な質問だ。心して答えたまえ」
「承知しました。それでその質問とは何でしょうか?」
「もちろん君にエジプト学者に戻る気があるのかどうかということだ。ここに来てからの君をじっくり見せてもらった。やはり君は優秀だ。君のような人材を手放すのは惜しいが、エジプト学発展のために君は学者に戻るべきだと判断した。もちろん私個人として君を全面的に援助するので露頭に迷うことはない。つまり君はつまらぬしがらみに邪魔されることなく研究に専念できる。どうかな?」
……やはり来たか。
それは今回の一件から彼がいずれ来ると予想していた問いだった。
「……確かにそれは私にとっては重要なことですし、新池谷さんの提案は魅力的なものでもあります」
そこで、彼は大きく息をした。
「お言葉感謝します。実を言いますと以前の私は研究の道に戻りたいという気持ちを常に持っていました」
「うむ。それはわかっていたよ」
「ですが、今は違います」
「今は違う?それはどういうことかな」
「つまり……そのお話はたいへんありがたいことなのですが謹んでお断りするということです」
「いいのかね。今すぐ返事をしなくてもいいのだが。もう少し考えて……」
「いいえ。いくら時間がかけようとも私の決心は変わりません。新池谷さんの下で働く蒐書官のひとりとして生きていく。それが私の願いなのですから」




