ロガエスの書
東京都千代田区神田神保町。
その日、その少女はそこに住む自らの語学教師を務める女性を訪ねていた。
いくつかの要件を手早く片付け、ふたりにとって一番楽しい時間である紅茶を飲みながらの書籍談義になったところで、少女はある人物の近況をこう訊ねた。
「先生。例のチェコ人から新たな挑戦状は届きましたか?」
少女の言う例のチェコ人とは、もちろん二度にわたって無謀な挑戦状をたたきつけた挙句、彼女の蔵書を増やすことに協力することになったあの男のことである。
黒い笑みを浮かべた彼女が口を開く。
「いいえ。さすがに彼もそれが金の無駄以外のなにものでもないことに気がついたのではないでしょうか。なにしろ前々回ほどではないにしろ前回も相当な金額のお金をつぎ込んだようですから。もう一度やったら破産するかもしれません」
もちろん彼女は本心からそう思い、少女も自分と同じ考えを持っているものだと思っていた。
だが、少女から返された言葉は彼女にとってはやや意外なものだった。
「……本当にそうでしょうか」
少女のその呟き。
それは彼女が語学教師の言葉に懐疑的であることを示していた。
年上の女性はおそるおそる教え子である少女に訊ねる。
「つまり、お嬢さまはそう思っていらっしゃらないのですか?」
彼女の問いに少女は頷く。
「はい。そのとおりです。彼は近いうちにまた勝負を挑んでくると私は思っています。それに彼の資産はまだまだ余裕があります」
根拠もなく少女がここまで断言することはない。
それを知る彼女の語学教師は少女の顔を眺め、あることに気づく。
「……もしかして、お嬢様は彼が次に用意するものもすでに予測しているのではないのですか?」
彼女の予想は当たっていた。
少女は言葉では肯定も否定もしなかったものの、その嬉しそうな表情は前者であることはあきらかだった。
彼女はさらに訊ねる。
「ちなみにそれは何だと?」
「天使の言葉です」
「天使の言葉?それはエノク語のことですか?」
「さすがですね。そのとおりです」
エノク語。
それは十六世紀に突然この世に降臨した言語のことである。
「私の予想では次に彼が用意する課題はこれになると思います」
少女はそう言ってから、少しだけ間を開けて囁くようにひとつの手稿の名を挙げた。
彼女は疑問の言葉を投げかける。
「……ですが、あれは確かBM……大英博物館が所蔵しています。ハンガリー科学アカデミーが緩いとは言いませんが、BMはさらに個人による持ち出し基準が厳しいのではないでしょうか?」
「大丈夫です。どのようにしてあれだけのコネクションを形成したのかは知りませんが、彼のネットワークは強力です。間違いなく大英博物館から持ち出してくると思います。それよりも、せっかくそれに関係する多くの資料を持っているのですから、先生は彼とのゲームをより楽しむためにその前に予習しておくべきだと私は思うのですがいかがでしょうか」
少女はそう言うと軽く微笑んだ。
自分の語学教師が遅れをとることは絶対にない。
少女の笑みはそう語っていた。
もちろん彼女自身も同じ気持ちだ。
だが、ひとつ腑に落ちない点がある。
彼女が再び少女に訊ねる。
「ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「ヨーロッパに溢れる多くの言語の中で彼が次回の勝負の品としてエノク語を選び出すとお嬢様が判断した理由は何でしょうか?」
「彼の目的は『すべての言語を読み解ける』という先生の肩書を引きはがすことだと聞いています。彼がその錦の御旗を下す気がなく、彼の活動拠点であるヨーロッパの中でそれに相応しきものを本気で探せばエノク語に辿り着くことは疑う余地がないからです。私が彼の立場ならすぐにでもイギリスに飛びます」
「なるほどそういうことですか。ですが、そういうことなら、今回も勝負の女神は彼に過剰な負担を強いることになります。胸が痛みますね。本当に」
そう言って彼女は笑った。
もちろん少女も。
それからしばらく経ったロンドン。
少女の予想通りその男はこの地に訪れていた。
アイル・オブ・ドッグズにあるコーヒーが美味しいことで知られていたその店をコーヒー好きの彼との待ち合わせ場所に選んでいたのは同じくコーヒー好きのふたりの日本人だった。
「お初にお目にかかります。ホーヘンベルグ卿。プラハでは同僚が大変お世話になったとのことであらためてお礼を申し上げます」
「こちらこそ。ミスター永戸。それからミスター湯木も」
型どおりの挨拶をしながら、彼すなわちホーヘンベルグは初めて会うふたりの日本人を入念に吟味した。
……ふたりとも菱谷よりも五歳ほど年上というところか。
……だが、年齢以上に経験の差を感じる。
……つまり、このふたりは相当のやり手であり、菱谷たちより格上の存在ということか。
ホーヘンベルグのこの見立ては正しい。
彼の前にいるふたりの蒐書官はともに彼らが「バクダッドの宴」と呼ぶイラク戦争時にライバルたちを出し抜きイラク各地の博物館から所蔵品を根こそぎ盗み出した蒐集官チームのメンバーであり、それ以降もそれぞれがエースと呼ばれるにふさわしい赫赫たる実績を挙げていた。
そのような優秀なベテラン蒐書官によるペア。
これはベテランと新人が組み合わせられることが標準とされる蒐書官チームのなかでこれは異例のことではあるが、もちろんそれには理由がある。
彼らの直接の上司であるイギリス地区の統括官蒲原は一分の隙も許されぬ相手に対しては必ず彼らを呼び出し交渉にあたらせていた。
つまり、そういうことなのである。
もっとも、今回がそのような危険な状況なのかといえば、それを肯定する要素は少なく蒲原が彼らを担当にあてたのには別の理由があった。
「蒲原さんの指示であればもちろんやらせていただきますが、なぜ我々がこの程度の仕事することになったのですか?」
「もしかして、裏仕事込みということなのでしょうか?」
「いやいや、そのようなことは一切ない。その男はチェコで若い蒐書官たちを散々弄んでくれたので、そのお返しをしてやろうということだよ。だが、これは朱雀君の依頼を受けた夜見子様の指示によるものであるから失敗はもちろん手抜きも許されない。では、夜見子様からのお言葉を伝える。プラハの仇をロンドンで討て。以上。エース蒐書官の実力をその男に存分に見せてやってくれたまえ」
ふたりの蒐書官のひとりである永戸が口を開く。
「さて、ホーヘンベルグ卿。我々ロンドンの蒐書官に何やらお願いしたいことがあるということでしたがご用向きを教えていただきましょうか」
もちろん彼らは目の前にいるチェコ人がどのような目的でロンドンにやってきたかを知っている。
それにもかかわらず、そのようなことを訊ねる理由とは自らの目でおこなうこれから対峙する相手の値踏み。
それだけである。
だが、相手はそうは取らなかった。
……横の連携が取れていないのだな。蒐書官という組織は。
ほんの少しだけ油断した男が口を開く。
「大陸で活動しているお仲間から伺っているとは思いますが、私は時々あなたがたの主ある天野川夜見子さんとゲームをしております。たまたま今回のゲームで使用する品がロンドンにあるものでミスター菱川に相談したところ、彼があなたがたを紹介してくれた。そういうわけです」
その言葉に頷いた蒐書官がさらに一度訊ねる。
「なるほど。承知しました。それで、早速ですがそのゲームの品はどのようなものなのでしょうか?」
「ある錬金術師が書いた未解読の魔術書の翻訳」
……情報通り。
……さすが夜見子様。
もちろんそこでも彼らは表情では何も語らない。
それが何かなど見当もつかないふうを装い、さらにもう一歩男を用意した罠に誘引する。
その書が何かを確認するために。
「魔術書の翻訳?失礼ですがホーヘンベルグ卿はそちら側の方なのですか?」
彼の言葉に男が答える。
「いや。私はその方面に知識はまったくありません。ただ、今回のゲームにうってつけの題材だというだけです」
「なるほど。それで、我が主がそれを読み解いた場合の報酬はどのようなものをご用意されているのでしょうか?」
「現在大英博物館に収蔵されているその魔術書である『ロガエスの書』の貸し出し許可」
つまり、その魔術書を読み解くことができた場合には、このチェコ人が賃料を支払って貸し出される魔術書の原本を数週間にわたり手に取ることができるというものである。
だが……。
「……足りません」
それが日本人の回答だった。
「何と言いましたか?」
「その程度では全然足りないと言ったのです。君はどう思う?湯木君」
「私も永戸君に同意見だ。申しわけなのですが、ひとことで言えば話にならん」
男の言葉に素っ気なく答えた永戸は隣に座るもうひとりの日本人に声をかける。
当然返ってくるのはそれに相応しいものである。
「だが、それを借り出すための費用は私が出すわけで……」
「それはそちらの都合です。まあ、その程度しか用意できないというのであればこの話は進めることはできません。私はそう思うのだが、湯木君。君の意見は?」
「君と同意見だよ。非常に残念だが仕方がない。今回の件はなかったことにするしかないようだな」
「そのようなことを……ん?」
門前払いか、けんもほろろの見本のような彼らに対してその言葉を口にしたところでホーヘンベルグの頭にはあることが閃いた。
……報酬が低いことを口実にして依頼を断る。
……つまり、私が次に用意するものはやはり難攻不落。それを察したふたりは主が傷つかないような形で逃げを打ったというわけだ。
……ベテランらしい潔さともいえるが、それは裏を返せば主は勝てないと彼らは踏んでいる。
……ということは、勝負に持ち込みさえすれば、私の望みは叶うということだ。
……そういうことなら……。
「では、どのような条件ならば受けていただけますか?もちろん私にはどのような条件でもお受けできる準備は整えてありますのでなんなりとお申し出ください」
……どうです?これなら逃げられませんよ。
そう。
ホーヘンベルグは蒐書官たちの逃げ口上を逆手にとったその言葉によって相手を泥沼に引きずり込もうとしたわけなのだが、実際に泥沼に引きずり込まれたのは彼の方だった。
……私たちはその言葉を待っていたのです。
待ちわびた言葉を手に入れ、会心の笑みを浮かべた男が口を開く。
「そう言っていただけると思っていました」
「えっ?」
簡単に乗ってくるとは思っていなかったためにあっけに取られるホーヘンベルグを置き去りにして、その会心の、いや最高級の黒い笑みを浮かべた永戸はそこからさらに言葉を紡ぐ。
「では、お言葉に甘えて、そこに大英図書館に収蔵されているグーテンベルク聖書と金剛般若経をつけていただきましょうか」
「永戸君。マグナ・カルタとベーオウルフの古写本も忘れてはいけない」
「そうだった。では、それらを加えた計五冊を今回の報酬とさせていただきましょう」
ふたりの蒐書官が目の前にあるビュッフェメニューから料理をチョイスするかのようにあっという間に積み上げたもの。
いうまでもなく、それは言葉ほど軽いものではない。
というよりも、このような場面で口にできるものではない。
「き、君たちは自分たちが何を要求しているのか本当にわかっているのかね。それはすべてイギリスどころか人類の宝だ。それを……」
焦る貴族はなんとか取り繕うとするものの、後の祭り。
蒐書官たちは自分たちだけで話にケリをつけてしまう。
「安心してください。あくまで読ませてもらうだけです。いつもと同じです。主が読み終わったらすぐにお返しします。もちろん傷ひとつつけず完璧な形で」
「そうそう、まったく問題ありません」
「だが……」
「あなたならできます。信じていますよ。ホーヘンベルグ卿」
「……とにかく準備ができたらご連絡をください。では、お会いできるのを楽しみにしています」
以前どこかで聞いたことがある捨て台詞にも似たその言葉を残してふたりは悠々と去っていった。
「まったくやってくれるものだな」
彼が口にしたそれは彼らに貴重な本を奪われた者たちの多くも口にした呪詛に等しい言葉だった。
「だが、まだゲームは始まってもいない。そもそも奴らは私が勝負の品として何を用意するかも……」
そこまで言ったところで、伝えなくてもいい情報まで流してしまった自らの言葉に気づいた彼の顔が歪む。
「少し喋りすぎたか。まあ、いい。どちらにしても今度こそ彼女が掲げるたいそうな肩書が偽りであることを証明できる。まあ、費用はかさむが、それ以上に勝利によって得る名誉は大きい」
そう割りきることにした彼はそれからの二週間表裏両面で精力的に活動し、驚くべき速さで目的の本すべての貸し出し許可を手にする。
「よし。これでゲームの準備が完了した」
だが、その言葉とは裏腹に彼の心中はとても晴れやかとは表現できる状態ではなかった。
「……これでは今回も私が負けることを前提にしているようではないか。しかし、準備なしにゲームに臨んだら、もしもの時に醜態を晒すことになるうえに、イギリス人に足元を見られて賃料も跳ね上がるのは確実なのだから、こうしてあらかじめ準備せざるを得ない。だが、やはり納得できない。この矛盾に満ちた問題を一気に解決する名案はないものだろうか」
深い悩みの森に迷い込んだ彼にその名案を提供したのはパブで出会い、思わず悩みを打ち明けてしまった大英図書館の交渉相手だった副館長ブライアン・エリオットだった。
「そういうことなら商品を先渡しすればよいではありませんか」
それがすべてを聞かせられたエリオットの言葉だった。
「ですが、それではゲームの勝ち負けに関係なくミス天野川は貴重な本を読むことができるではないですか」
当然のことを当然のように問う彼の言葉に副館長が答える。
「確かにそうなりますが、閣下がゲームに勝った場合には、閣下が大英図書館と大英博物館に支払ったすべての経費を敗者が支払う契約をすればいいのではないでしょうか。場合によっては少し上乗せして。こうすれば、閣下の懐はまったく痛むことはない。加えて閣下の願いも成就するわけですからそれくらいは大目に見てもよろしいのではありませんか」
「し、しかし……」
言いかけたところが、彼の気は変わる。
「得られる果実もより甘く、そしてより多い。たしかに素晴らしい提案だ。ところで、なぜあなたはそこまで私に肩入れしてくれるのですか?」
「もちろんそれは私たち大英図書館も彼らにひどい目に遭わされているからです。それに、そうしていただければ大英図書館は勝負の行方に関係なく確実に大金が手に入る。しかも、この取引は公式なものではないため、手に入れたレンタル料はいわゆる裏金として秘密工作資金に回ります。つまり、これは閣下以上に大英図書館にとって有益な案なのです」
「なるほど。なかなかどうしてあなたは相当な策士であり優秀な商人のようだな。だが、それでもそれが私にとっても十分採算がとれる策であることには変わりない。特に勝つ可能性が高い今回の勝負では悪くない策でもある。あなたの策を使わせてもらおう」
「恐れ入ります。とにかくこれですべての準備が整ったわけですね。あとはゲームを始め、閣下が勝利報告を聞くだけとなりました」
「そのとおり。では、前祝いといこうか。まもなくやってくる我々の勝利に乾杯」
「……乾杯。閣下の明るい未来に」
数時間後ほろ酔い気分のホーヘンベルグを見送ったその男はおもむろにスマートフォンを取り出した。
すぐに男の声が響く。
「どうやら終わったようですね。近くで様子を窺っていたスタッフからも今連絡がありました。それで首尾は?」
「完璧です。ご指示通り大英図書館に賃料を全額支払い、五冊すべてを借り出すように誘導しました。どうやら明日行動を起こすようです」
「ありがとうございます。ですが、私ならそんなに都合よく大英図書館の幹部職員と鉢合わせするはずがないとその状況を疑ってしまいますが、彼は疑問を持っていませんでしたか?」
「さすが田舎貴族のお坊ちゃま。それがまったくありませんでした。ゴールまで誘導するためにそれなりの準備をしていたのですが何ひとつ使うことなく少々拍子抜けしました」
「それはよかった。とにかく副館長。あなたのおかげでことは思い通りに捗りそうです。ありがとうございました」
「いえいえ、いつぞやの御恩を考えたらこの程度のことはお安い御用です。何よりも我々も受益者側なのですからまったく問題ありません。そういうことですので必要がありましたらまたご連絡ください。永戸様」
……まあ、正確にはあなたがたも最終的には被害者側の一員になるのですが。
あれから三か月後のロンドン。
その日チェコ人貴族はふたりの日本人とともに大英図書館に姿を現した。
三十分後、三人の姿は併設するカフェにあった。
「……これでお借りしていたすべての本を大英図書館にお返ししたことになります。我が主天野川夜見子は貴重な本をいくつも読めたことを非常に喜んでおりました。そして、今回も尽力をしていただいたホーヘンベルグ卿には言葉で言い表せないくらい感謝していると伝えるようにと言われております」
笑顔の日本人の言葉に対して、チェコ人は苦り切っていた。
「それは感謝の言葉というより私に対する最大限の嫌味にしか聞こえないな」
「いえいえ、そのようなことはございません。それにそれは我々も同様。どのような経緯であれ主に貴重な本を届けるという私たちの仕事に協力してくださったホーヘンベルグ卿には私も永戸も心から感謝しております」
「ふん。大金を失った私を慰める言葉ならもう少しましなものがあると思うのだが」
「そうは言いますが、ホーヘンベルグ卿は一方的に損をしたというわけではありません。確かにあなたは大英図書館と大英博物館に莫大な額のレンタル料を支払いましたが、そのかわりに天界の言葉を理解できた数少ない人間になれたのですよ。お金には代えがたいものを手に入れたあなたは人が羨む身の上になったのは間違いないのですから、もう少しお喜びになったらいかがですか」
「だから、君たちの言葉はまったく慰めの言葉になっていない。だが、勝負は勝負。潔く負けを認めよう。完敗だ」
「ありがとうございます。ところでホーヘンベルグ卿」
日本人のひとりがコーヒーカップをテーブルに置くと言葉を繋ぐ。
「あなたが私たちの言葉程度で宗旨替えをするとは思えませんが、あえて提案させていただきます。そろそろよりよい道に進まれてはいかがでしょうか?」
それは彼が暗にこのゲームから撤退せよと言っていたのは明らかだった。
「それはどういう意味かな」
「あなたは人間的にもすばらしい人であり、なによりも本来の意味で我々の敵ではない。ですから……」
そこまで言ったところで彼の言葉が途切れたのは、ホーヘンベルグが右手を上げてそれを制したからである。
「ミスター永戸。その言葉には感謝する。だが、そういうわけにはいかない。ここでやめることは私の矜持に反する」
「ホーヘンベルグ卿……」
「それに言葉を飾らず率直に話をすれば、お金がかかるという難点はあるもののこのゲームは実に楽しい。そして君たちが言うように得るものも大きい。だから、気遣いには感謝するが簡単にはやめられないのだ。今回は、いや今回も残念な結果になったが近いうちに私は再戦を申し込むつもりだ。そして、ミス天野川に伝えてもらいたい。次こそは必ず勝つと」
そこまで言い終えたその男は懐中時計をちらりと眺める。
「もう少し話をしたかったのだが、そろそろ時間のようだ。帰りの飛行機に間に合わなくなるのでこの辺でお暇することにしよう。見送りは不要だ。では、さらば。蒐書官諸君」
深々と頭を下げるふたりの日本人を背にして、どこまでも優雅にその場を立ち去るチェコの貴族であった。
「夜見子様。蒲原君より連絡がありました。大英図書館への品物納入が無事完了したそうです。これで正式にあれらすべてが夜見子様のものとなりました。大英博物館納入分を含めて計五冊の貴重な書があらたに夜見子様の書庫に収まったことになります」
その男が報告をしていたのは、ロンドンとはこの時期八時間の時差がある神保町に建てられた建物の一室だった。
「さすがの大英図書館も『すべてを写す場所』の完全コピーには手も足も出ずというところでしょうか」
彼女はそう言って薄く笑った。
男が応える。
「当然です。それとともに、今回はかの者のいつも以上の協力に深く感謝しなければならないでしょう。なにしろ彼のコネがなければあれらを持ち出すことは叶わなかったのですから」
彼の言葉は正しい。
英国の宝であるそれらを個人で借り出せるものなど世界中探してもほんのわずかしかいない。
もちろんそこには彼女の援助者である立花家の人間も含まれるのだが、「蒐書のために金は出し名前も知恵も貸すが力だけは貸さない」ため立花家の口添えが得られない夜見子にはそれは不可能だったのだから。
「ところで今回の顛末を夜見子様はどう総括されますか?」
コーヒーをひとくち含んだ男の問いに彼女が答える。
「そうですね。彼の敗因は私が持っているかもしれないと思ったものが『天使の鍵』までだったことでしょうか」
「と言いますと?」
「おそらく、二度の失敗の教訓によって彼は私がその言葉の参考書的なものを所有していることまでは予想したと思います。今回のエノク語でいえば『天使の鍵』がそれにあたるわけです。おそらく彼は事前に『天使の鍵』を眺め、こう確信したと思います。これだけでは絶対に読み解けない」
「なるほど。もし、本当にそういうことであれば、彼は正解の前までは辿り着いたことになります」
「そうですね。まさに彼が立ったのは正解の入り口。ですが、彼はそこがゴールだと勘違いをした」
「鍵はあくまで鍵であり、鍵穴がなければそれ自体は何の役にも立たない」
「いい表現です。彼は用意した『ロガエスの書』がその鍵穴だと思ったのかもしれませんね。しかし、実際には違った」
「あれは言ってしまえば扉。そして、本当の鍵穴とは……」
「私たちの目の前にあるこれということですね。ですが、私は昔あなたが手に入れたエノク語を読み解く方法が書かれたこれこそが『天使の鍵』の名に相応しいものだと思います」
彼女がそう言って手に取ったもの。
それは一冊の古い書だった。




