香本
現在三十路の二歩ほど手前の年齢である古書店街の魔女こと天野川夜見子が大学を卒業して一年後。
つまり、今から五年ほどの前のある日。
彼女ために改組された橘花グループの一部門を率いるようになって六年の月日が過ぎ、グループ内でも確固たる地位を確立していた夜見子のもとを、ある依頼をするためひとりの女性が訪ねてくるところからこの話は始まる。
当初彼女の話を面倒くさそうに聞いていた夜見子だったが、そこに日本で一番有名な物語の名が出てきたところでその状況は一変する。
「源氏物語?それは本当に源氏物語なの?それで古いものなの?」
夜見子の熱を帯びた声が矢継ぎ早に飛ぶ。
「かなり古い。いや、古く見えた。というか私は達筆すぎて字が読めなかったので源氏物語かさえわからなかった。そう言ったのは一の谷で……これは源氏物語の一巻『柏木』だと」
「なるほど。確かにそれを無知なあなたに聞いた私が馬鹿だった。それは私が直に確認する。それで、それを見つけた経緯を詳しく説明してよ」
「わ、わかった」
彼女の勢いに気圧されるようにしてその女性が話したあらましはこうである。
その女性、そして、彼女の友人でもある天野川夜見子が属する橘花グループはある建設プロジェクトを進めていたのだが、開始直前に同様の計画を進めていた別のグループからの妨害が入る。
もちろん相手の企業グループは有力政治家の後ろ盾もあり、各方面からの支援を受け十分な勝算をもってこの戦いを仕掛けたはずだった。
だが、その知らせを聞いたプロジェクトリーダーの一の谷は慌てるどころか待っていましたばかりに嬉しそうに黒い笑みを浮かべるとすぐさま反撃の行動を開始する。
まるで、それが起こることを知っていたかのような入念な準備のもとで。
それから相手の身に何が起こったのかは言うまでもない。
傘下の企業は次々に不祥事が発覚して脱落し、甘い汁を吸うつもりで後ろ盾になっていた議員にも見捨てられたその企業グループの社長が白旗を上げるまでに要した日数はわずか一か月。
その後さらなる転落人生を甘受することを余儀なくされ、一の谷に文字通り身ぐるみ剥がされたその社長は住んでいた屋敷も手放すことになったのだが、一宮の部下たちが調査のために屋敷に入ったところで発見されたのがその源氏物語らしきものなのだという。
しかも、そこには「柏木」だけでなく、同様のものが相当数あったのだという。
「それにしても、そこになんであなたがいたの?もしかして、お金に釣られて一の谷の子分になったということ?」
「失礼なことを言わないで。立ち合いの法的責任者をさせられていただけよ」
「本当に?」
「本当に決まっているでしょう」
「まあ。今はそういうことにしておいてあげる。それで一の谷の馬鹿はそれをどうすると言っていたの?」
「知らないわよ。とにかくそれは鑑定も兼ねて専門家である夜見子に見せるべきだと主張して、それを差し押さえたうえでここに飛んで来たのよ」
「なるほど。気の利かない晶にしては上出来だと褒めておきましょう」
「何よ。その言い方。あなたはもっと私に感謝すべきでしょう」
「感謝もお礼もそれを実際に手に取ってからタップリしてあげる。では、さっそく行きましょう」
「どこへ?」
「もちろん、それが発見されたその屋敷に決まっているでしょう」
その日の午後。
その屋敷を訪れたふたりをひとりの女性が待っていた。
「お待ちしておりました。夜見子様。そして、お初にお目にかかります。墓下様。この度、上級書籍鑑定官に任じられました北浦美奈子でございます」
「真紀さんは?」
「まもなくやってくると思います。ですが、僕でありながら主を待たせるなど分をわきまえぬ行為と言わざるをえません。真紀に代わって深く謝罪させていただきます。夜見子様」
ふたりより十歳ほど年上に見える北浦美奈子と名乗ったその女性はそう答えると深々と頭を下げた。
だが、夜見子はその謝罪を拒絶するように笑顔で応える。
「私たちが予定より随分早く来たのですから謝罪の必要などありません。では、庭を散策して真紀さんを待つことにしましょう。彼女が来たら呼びに来てください」
「かしこまりました」
女性はふたりから離れ、再びふたりになると夜見子は友人に声をかける。
「ところで、晶。さっきは源氏物語のことで頭が一杯になって聞き忘れたけど……」
「何?」
「一の谷はライバルグループがこちらのプロジェクトを妨害しようとしていることを本当に気がつかなかったのかな」
「……その話ね」
夜見子の問いをうんざりするような顔で聞いた友人が吐き捨てるようにその言葉を口にした。
「あの男に限ってそんなことがあるはずがないでしょう。あれは自分たちに楯突いた相手を潰し飲み込む口実を得るためにわざと最初の一撃を撃たせたのよ。わずか一年だけど、あれの仕事を見ていればそれくらいはわかるわよ」
「そうだよね。橘花のエースと呼ばれる男がそのようなヘマをするわけがないものね」
「そういうこと」
「そのようなえげつない男から口だけで私の本を守るとは晶もたいしたものね」
「ペテン師が働いた悪事のような表現で褒めることはやめてもらいたいわね。私はわずか一年で橘花に七人しかいない次席交渉官になったのよ。それくらい当然でしょう」
友人は薄い胸を張ってそう自慢した。
確かにそれはすべてが事実であったのだが、それを聞き流した夜見子は相手によく聞こえる独り言の形をした正反対のベクトルの言葉を呟いた。
「……晶が次席交渉官か。橘花も相当な人材難ということなのね。それとも誰でも簡単になれるものなのかな。その次席交渉官とやらは」
もちろんその言葉が耳に届いた相手は黙ってはいない。
「失礼なことを言うわね。それはつまりそれだけ私が優秀だということでしょうが」
だが、夜見子が待っていたのはこの言葉だった。
ニヤリと笑うと隠し持っていたその言葉を口にする。
「へ~。そんなに優秀な人なら卒業した後に働く場所がないから助けてよと高校からの知り合いというだけの私に泣きつく事態にはならないと思うのだけど」
友人も夜見子のそれまでの言葉がここに誘い込む罠だったことにようやく気がついたものの時すでに遅し。
あとは坂道を転げ落ちるだけだった。
「そ、それは私の潜在能力を見抜くことができない愚かな人事担当者ばかりだったというか……わかった。わかったわよ。夜見子には本当に感謝しているわ」
「素直でよろしい。では、特別に許してつかわすが感謝の証しとして三回まわってワンと……いだっ」
脳天の痛みに耐えながら勝ち誇る夜見子の脇でうろたえしどろもどろになり最後に白旗を掲げる醜態を晒してうなだれるその友人であったが、彼女が語った言い訳がましいその言葉は必ずしも完全な誤りというわけではなかった。
確かに就職先が見つからず夜見子の口添えで彼女と同じ橘花グループに入ることができたその友人だが、一年後であるこの時点ですでにその能力の一部を開花させ、さらに数年後には表の世界だけでなく裏の世界でも知らぬ人のいない「無敵交渉人」となるのだから……。
それから三十分後。
指定された時間よりも十五分前に来たにもかかわらず同僚の女性に歴史に残る大遅刻魔という汚名を着せられたもうひとりの上級書籍鑑定官嵯峨野真紀も含めた四人は夜見子の友人の案内で屋敷の中に入る。
「ここを退去するときによくその本は持ち出されなかったものですね」
「本当に。おそらくこの屋敷の主は本の価値を認識していなかったのでしょう。愚かなことです」
「いいえ。そういうことではないのよ」
ふたりの上級書籍鑑定官が辛辣な言葉に答えたのは案内役を務める女性だった。
「それはつまりどういうことなのでしょうか?」
「簡単なことよ。一の谷がそれを許さなかったということ。あの男は敵に対しては一切の容赦をしない。その本どころか箸の一本さえ持ち出すことを許さなかった。文字通り着の身着のままで幼子もいた一家はこの家から追い出した。まさに悪魔の所業」
「しかも、あの気持ちの悪い笑顔を絶やさずにそれをおこなう。一の谷は悪党の鑑だね」
「おふたりともそれはあまりにもひどくはありませんか」
友人の言葉を引き継いで夜見子がそう言ったところで、四人が入ろうとした部屋からその声は響いた。
「一の谷和彦……さん」
「こんなところで何をしているのですか?一の谷」
本人の前で堂々と悪態をついていた形となったふたりが声を上げる。
その名を呼ばれた男がそれに答える。
「それはもちろん夜見子さんがここにやってくると聞いて盛大に歓迎しようとお待ちしていたに決まっているではありませんか。それなのにこの言われよう。傷つきます。それに、それではまるで私がこの世で一番の悪人のようではありませんか」
「悪人のようではなく、あなたは間違いなく悪人でしょうが」
「ですが、夜見子さん。あなたの言う悪人である私のおかげで貴重な本が発見されたのですよ。少しは私の功績を認めてもらいたいものです」
「ものは言いようですね。とにかく、あなたの役目は終わっているし、歓迎もお断りします。すぐにこの部屋から出ていきなさい」
「そうはいきません。この屋敷とそこにあるすべてのものを管理しているのは私なのですから、あなたは私の許可なく指一本ふれ……」
勝ち誇ったような一の谷の言葉を止めたのは彼の左耳をかすめた一本のナイフだった。
「まだ喋りますか?一の谷」
「やめておきましょう。私はあなたが有名なナイフ使いであることも後ろに控えるふたりが常に銃を携帯している銃の達人であることも知っています。この続きをあの世で話すことになるのは御免被りたいので退散することにいたしましょう。ただし鑑定結果の報告は必ずしておこなってください。それから、それの所有権は私が持っているのですから、手に入れたければ必要な手続きをお願いします」
内心では殺される恐怖と戦っていたはずなのだが、それを表情のどこにも見せることなく、最後まで夜見子の言う「気持ちの悪い」笑顔を消すことなく一の谷は部屋を出ていった。
「ねえ、夜見子。大丈夫なの?」
「もちろん。私は相手が誰であろうと蒐書活動を邪魔するものに対して武器を使用して排除してもいいことになっている。それに一の谷は年長というだけで同格なのだからあの程度の脅しならたいした問題にはならないし、一の谷もそれくらいわかっている。それよりも、あなたも一の谷と対等に話をしたかったら早く上がってきなさい。そうでなければいつまでもあの男に頭を下げなければならないわよ」
「よし。邪魔者はいなくなった」
窓を覗き、存在そのものが人を不快にさせるためにあるようなその男が屋敷からも出ていったことを確認すると、とたんに元気を取り戻した夜見子の友人はその書が収められていた壁の裏につくられていた隠し書棚の前まで走り寄る。
「よかった。もしかして、一の谷に接収されたかもしれないと思ったけどそのままだった。そして、これがその源氏物語。どう?」
手際よくそれを動かした友人が書棚から取り出し夜見子へ差し出したのはその物語の一冊だった。
だが、正確に言葉で表現することが難しい微妙な色合いの表紙が装丁されたその古びた書を手にとった夜見子は小さな驚きの声を発した後は何かを考え押し黙る。
「どうしたの?」
心配そうに顔を覗き込む友人の言葉には何も答えず、夜見子は振り返り、後ろに控えるふたりに言葉を投げかける。
「……真紀さん。そして、美奈子さん。あなたたちはこれをどう思いますか?」
真紀と呼ばれた女性は夜見子からそれを受け取るとすぐに主と同じ結論に辿り着き小さく呻き、やがて震える手で同僚に手渡す。
同僚もまたしばらく沈黙し、よくやく口を開くと小さくその言葉を口にする。
「……もしや香本」
「それしかないでしょう。紙質は鎌倉時代よりも前のものを示しているし、なによりもこの表紙が……」
「私もふたりの意見に同意します。保存状態もいいです。ですが、まさかこのような場所から香本が見つかるなんて……」
「香本?表紙?」
三人と違い感触だけで紙の年代が特定できる特別な能力を有していないため唯一事情を呑み込めないでいる友人の問いに夜見子が訊ねる。
「晶。この表紙は何色?」
「……黄土色かな」
「違う」
確かにその色は赤色を帯びたくすんだ黄色とでも表現するしかないものであり、しばらく考えたうえ彼女が導き出した黄土色もそう遠い表現ではない。
だが、夜見子はかぶりを振ってそれを否定すると、一瞬だけ間を開けてからあまり知られていないその色名を口にした。
「これは香色という」
「香色?」
「そう。そして、そこからこれは香本と呼ばれている」
「もしかして、これは源氏物語ではなく香本というものだったの?」
いまだ事情を呑み込めない彼女の素朴な疑問に夜見子の代わりに答えたのはふたりの上級書籍鑑定官だった。
「いいえ、これは間違いなく源氏物語の一巻です。そして、香本とは簡単に言ってしまえば、源氏物語の古い写本のひとつにつけられた名前です」
「しかも、それはただの写本ではありません。香本は古い時代に失われたはずの有名な写本なのです」
「なるほど。でも、そんなものがここにあるのかしら」
「それはこっちが聞きたいわよ。晶。この屋敷に住んでいた一家の居所はわかっているの?」
「もちろん」
「では、この元の持ち主にその辺の事情を聞くことにしましょう。美奈子さんは手すきの蒐書官を連れてすぐにそこに向かってください。やることはわかっていますね」
「当然です。すべてを吐かせます」
「相手はすでに橘花の敵と確定した者たちですので遠慮は不要です。あなたが仕事をしている間に私と真紀はこの部屋に残されたすべての香本の確認と屋敷内の捜索をおこないます。それから、一の谷の馬鹿からこの本たちの買い取りするための交渉に入るようにと鮎原に連絡を……いや。晶。それはあなたにお願いする」
「私?」
「守銭奴の一の谷のことだ。どうせ嫌がらせを兼ねて高額な売値を設定してくるに違いない。グループ内の金のやり取りだから本来はいくらであっても構わないのだけど、私はあの拝金主義者の鼻を明かしてやりたい。任せたわよ。晶」
それは今の彼女にとってあきらかに身の丈に合わない大役だった。
なにしろ相手は橘花グループのエースであるあの一の谷和彦。
彼の実績、そして為人を知って、なお進んで彼と対峙しようと思う者などそうはいない。
それくらい相手は大きく、困難な役であった。
……夜見子様。それはいくらなんでも相手が悪すぎます。
……さすがにこれは無理だ。ご不興を買ってでも私たちが夜見子様を止めるしかない。
夜見子の後ろに控えるふたりの上級書籍鑑定官は心のなかでそう呟いていた。
だが……。
「わかった。頑張る。私、一生懸命頑張るから」
それが彼女の出した結論だった。
そして、それは現在へと繋がる彼女の未来への一歩でもあった。
それから五日後。
神田神保町の古書店街に建つその建物の一室にその書は集められていた。
「これを読んだあなたたちの感想を聞きましょうか?」
その建物の主である天野川夜見子が年長の女性ふたりに問いかけた。
「写本ごとにある文章の微妙な違いがこの本でもあることは当然だとして、ここでまず指摘しなければならないのは、香本は編者以外のふたりの手によって書かれていることです」
それは同僚に遅刻魔呼ばわりされた女性からのものだった。
夜見子は小さく頷き、それからもう一度問いかける。
「そのようですね。それで、それについて真紀さんはどう考えますか?」
「香本と呼ばれるものは実は複数存在したのか、編者がふたりの人物に書かせたものなのか?それとも、失った部分をのちに補ったものなのかは判断がつきかねます」
「美奈子さんの見解は?」
「紙の劣化が同程度であること。それから同時期におこなわれたと思われる同一人物による朱入れがあることから、ふたりの書き手がいた可能性の方が高いように思えますが、やはりこの時点での正確な判断は難しいです」
「なるほど。やはりもう少し読み込む必要がありそうですね。とにかく、偶然の産物とはいえ消えたはずの香本のフルセットを手に入れられたのは大きな収穫だったといえます。それで、これの買い取り手続きはいつ完了できそうですか?鮎原」
夜見子はその場にいる唯一の男に声をかけた。
「墓下様のご尽力によって当初の要求よりも大幅に値引きされましたが、それでもまだ双方が主張する金額には大きな差がありますので、もうしばらく時間が必要になりそうです」
「そうですか。そちらについてはどうしたらよいでしょうか?」
「相手が根を上げるまでもう少し待つべきかと」
「遅い」
「私も美奈子の意見に賛成です。もう十分成果が上がっているのですから交渉を打ち切って支払いをすべきではないでしょうか。そうすれば、小うるさいあの男から届く朝晩二回の返却要求も来なくなります」
「そのとおり」
ふたりの上級書籍鑑定官は早期妥結を提案する。
だが、男はその言葉を斬り捨てる。
「墓下様は夜見子様の期待に応えるべく奮戦し難敵相手に勝利間近のところまで来ている。一の谷氏から催促の連絡が頻繁に来るのは交渉において彼が追い込まれているという証拠です。そのような状況においてこちらから握手を求めるなど一の谷氏の思惑に乗り彼を喜ばすだけです。そして、彼はこう考えるでしょう。天野川夜見子は甘い。当然今後同様の事態が発生したときには彼はまた同じ手を使い、我々はまた交渉を下りる。まさに悪夢の連鎖です。それからもうひとつ。こちらがより重要です。夜見子様は墓下様に交渉の全権を委任した。それにもかかわらず途中で夜見子様が交渉に打ち切る。そのことがどういうことかを考えるべきでしょう。我々は手にしかかっていた勝利を彼女から奪い墓下様の顔を潰すだけでなく、交渉の基本もわからない愚かな集まりとして今後グループ内で格下として扱われ誰にも信用されなくなる」
「そうは言っても相手はあの一の谷氏です。状況がいつどうなるかわからないのではないでしょうか。それなら今のうちに……」
「いや。ここはやはり鮎原の言っていることが正しいでしょう。それに、あの一の谷相手に晶がどれくらいやるのかを見たいという気持ちもあります。とにかく、今回は勝ち戦のようですから、もう少し辛抱し晶から届く吉報を待ちましょう。ふたりともよろしいですね」
「承知しました。それから配慮が足りないことを申し上げたことを心より謝罪いたします」
「申しわけありませんでした」
「あなたたちも私のために意見を述べたのですから気にしないでください。それよりも……」
夜見子はテーブルに積まれた古い書の山に目をやる。
「やはり、香本があの屋敷にあった理由はわからずじまいなのですか?」
「なにしろ肝心のあの男が最後まで口を割らなかったもので……申しわけございません」
「美奈子に締め上げられ息をしなくなるまでシラを切り続けたとも思えませんし、そもそもそれが命を賭してまで守るべきものとも思えません。やはり自分が子供の頃にはすでにあったが出どころについては知らないというあの男の言葉は本当だったのではないでしょうか」
「わかりました。そうであれば仕方がありませんね。ですが、彼の家にどのようにして香本がやってきたのかを知りたかったので残念な気持ちでいっぱいです」
「夜見子様」
その諭すような声はこの部屋にいる唯一の男のものだった。
「さきほど夜見子様ご自身がおっしゃったように、残っていないはずの香本のフルセットが手に入った。今回はそれだけで満足すべきではないでしょうか。一度に多くのものを手に入れようとすると結局すべてを失うというこの世界の格言がありますことをご留意ください。それに夜見子様がお望みなら我々が草の根を分けても探し出してみせますのでご心配なく。それから」
「まだ何かあるのですか?」
「今回の件はある可能性を示しています」
「可能性?それはどのようなものですか?」
「遠い昔に失われたと思われていた香本がこうして我々の前に完璧な形で現れたということは他の写本、それどころか原書、つまり他者による書き換えがおこなわれていない紫式部本人の手によるオリジナルの源氏物語がフルセット残っている可能性だって十分にあるということです」
「……なるほど。それはすばらしい。すばらしいことです」
香本
現在はそのすべてを失った源氏物語の写本。
鎌倉時代から室町時代の源氏物語の注釈書においてその名前が確認できることからその当時には存在していたことが確認できる。
香本に言及する資料が多いことから当時の有力な写本のひとつと考えられていたとも思われる。
なお、香本という名前は青本などと同じく表紙の色から取られている。
また、名前の由来となった香色とは香辛料の原料となる丁子などの煮汁からつくられる染料の色で黄みがかった明るい灰黄赤色、赤味がかったくすんだ黄色などと表現される。




