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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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37/104

アトランティスの真実を記したプラトンの知られざる一冊

 アトランティス。

 それはかつて存在したとされる大陸の名である。

 もっとも、現在は多くの学者が多くの根拠を示してその存在を否定している。

 だが、それにもかかわらず現在でもその存在を信じて疑わない者も多い。

 そして、その根拠としているのがプラトンの言葉なのだが、彼らを含めてこの世に生を受ける大部分の者は知らない。

 その真実が記された名もなき書があることを。


 アメリカ、そして世界の中心でもあるニューヨーク。

 その郊外に建つ邸宅に一人の客が訪れたのは夏がやってくる少し前のことであった。

 彼の名前は長谷川博仁。

 ペルーを拠点にして南米とオセアニアで活動する蒐書官を統括する立場にある男である。

 その長谷川がニューヨークまでやってきた理由。

 それはある人物との交渉をおこなうためである。

 実はこの統括官は優秀な交渉人として知られ、他の統括官だけでなく彼らの主である天野川夜見子も重要な交渉をおこなう場合、自らの代わりとしてこの男を代表としてその会場に送り込むほど能力を信じていた。

 もちろん、今回の例外ではない。

「お手数かけます。長谷川さん」

 やってきた彼に礼を述べたのは、彼を招いた人物でもあるこの館の主で北中米地区を担当する統括官秋島新である。

「構わんよ。ところで、君が手に負えないほどの難敵だという今回の交渉相手というのはどのような人物なのかな」

「エリオット・エマーソン」

「ほう」

 むろん彼が知る名である。

「それはたいした大物だ。だが、あの男がかき集めたオカルトグッズの中に夜見子様の書棚に納めるべき書籍があったとは驚きだ。いったいそれは何なのかな」


「アトランティスの真実が記された書」


 彼らの会話に登場したエリオット・エマーソン。

 それはオカルト関連の品を専門に蒐集することで知られるコレクターの名前である。

 だが、彼を有名にしているのはその蒐集物の異質さだけではない。

 エマーソンが数多くいる同類の蒐集家と一線を画しているのは、彼自身が自他共に認める極度のオカルト嫌いだというところにある。

 そして、もうひとつ。

 彼が多くのコレクターとあきらかに違うこと。

 それは徹底した秘密主義であり、自らのコレクションを他人の目に触れさせないことだった。

 通常、コレクターは同好の士に自らの蒐集物を自慢し快感を得ているのだが、彼の場合にはそれがない。

 そのため、オークション等の購買活動を根拠にそのすべてがオカルトや超自然現象といったものを否定する証拠になるものばかりだとは言われているものの、彼がどのようなものをどれだけ抱えているのかについて正確なところを知る者がいない謎多きコレクターなのである。


「あの秘密主義者の所蔵品にそのようなものがあることがよくわかったものだ。今後おこなう蒐書活動の参考にしたいので、その方法を是非ご教授願いたいものだ」

 五人の統括官のなかで格上のふたりのうちのひとりである長谷川の言葉に恐縮しながら、最年少の統括官が答える。

「長谷川さんに教授するようなものを私は持ち合わせていませんよ。理由は簡単です。情報を売りに来たものがいるのですよ」

「相手は身内か使用人ということかな?」

「いいえ。外部の人間です。信じられないでしょうが、例の美術館の関係者です」

 年少者の以外すぎる言葉に男は「ほう」と感嘆の言葉を上げる。

「……それは本当に信じられないな。アメリカの、しかも自分たちのホームタウンであるニューヨークでそのような情報流出など。罠の可能性はないのかね」

 例の美術館。

 それは、彼らが蒐集官と名乗っていたころから、世界中で競争を繰り広げてきた彼らのライバルの関係にある組織のことである。

 しかも、彼らの本拠地はこのニューヨーク。

 長谷川がそう思うのも無理からぬことである。

 だが、その言葉を待っていたかのように人が悪そうな笑みを浮かべた秋島が口を開く。

「長谷川さんを呼んでおきながら初心者のようなミスは犯しませんよ。その辺は抜かりありません」


 ……まあ、そうだな。

 ……他の者ならともかく彼であるのなら。


 長谷川の呟きは間違っていない。

 なにしろ、目の前の男はそれを表す言葉「石橋を叩いて渡らぬ」くらいに慎重さが身上なのだから。

「では、君が調べたその事情を詳しく説明してもらおうか」

 彼の言葉に年少の男が頷く。

「まず、原因を最初に言っておけば、どうやら、彼らがおこなっていたエマーソンとの交渉はもともと難航中だったようなのですが、何らかの事情により中止命令が出たらしいのです。かといって交渉官にたちすればせっかく高額を支払って手に入れた情報をこのまま無駄にするわけにもいかず、思案した挙句、渋々ではあるものの我々にその情報を高く売って資金回収を画策した。これが真相のようです」

「ということは、上も黙認しているということなのか?」

「というか、それが上層部の指示のようです。誰の入れ知恵かまではわかりませんが、情報を転売し、ついでに自分たちと同じように我々が交渉失敗をする様子を遠くから見物して日頃の鬱憤を少しだけでも晴らそうというなかなか凝った趣向も透けて見えてきます」

「なるほど。だが、正当な手続きで情報を手に入れたのであれば、それは我々のものだ。金を払ったうえにわざわざ奴らの望みどおりに喜劇の主役を演じてやる必要はないだろう。ところで奴らがどうやって情報を手に入れたかはわかったのかね」

「そこまでは。まあ、いつものように色仕掛けを使ったのでしょうが」

「相変わらず芸のない奴らだな。さて、本題に戻ろう。最初に言っておく。今回の交渉はかなり厳しい」

「長谷川さんが交渉前から弱音を吐くとは珍しいですね」

「金がある病的なコレクターが交渉に応じるのはこちらが自分の望むものを持っている場合に限られるが今回はまさにこれに該当する。噂によれば奴のコレクションはオカルトや超自然現象、神秘主義を否定するものに統一されているというが交渉カードとして使えるそのようなものを我々が持っているかといえば、答えはノーだ」

「つまり有効な手札なしで臨む今回の交渉はきついということですか」

「そういうことだ。失敗したということは例の美術館はいつものスタイルで札束を見せびらかして買い取り交渉したのだろう。だが、我々も状況は変わらない。奴の欲しいものを聞き出すまでは私の仕事だが、それを調達するのは君の仕事だと思ってくれたまえ」

「承知しました」


 翌週の深夜。

 長谷川の姿は秋島の屋敷からは車で二時間はたっぷりかかるその建物の前にあった。

「異常だな」

 彼の言葉どおり同じニューヨーク州とは思えないうっそうとした緑の中に佇むその建物の外観は異様だった。

「窓がまったくないとはそれこそオカルト映画に出てきそうな屋敷ではないか。これだけで屋敷の主の為人がわかるというものだ」

 皮肉交じりに口にした彼のこの言葉。

 それが正しかったことはすぐに判明する。

 応接間で彼を待っていた年齢は長谷川よりも一回りほど年長の目つきの鋭いその男はコレクターというよりも深淵を覗き込んでしまった学究の徒と表現した方が良さそうな風貌だった。


 ……これは難敵だ。


 ひと目でこの男の異才を見抜いた長谷川は心の中でそう呟いた。


 ……心してかからないとこちらの情報を吸い上げられるだけで終わる。


 だが、そこは蒐書官随一の交渉人、その心の声を表情のどこにも表すことはなく、営業用として使ういつもの笑顔を浮かべるとその言葉を口にする。

「お初にお目にかかります。そして、面会を許可していただき感謝しております。エマーソン様」

「うむ」

 一方、長谷川の型どおりの挨拶をつまらなそうに受け流すと、その男は人を不快にするためだけにつくりだされたような冷気を帯びた声でその言葉を吐きだす。

「要件については書面で通知されているので承知している。本題に入る前に聞いておきたいことがある」

「なんなりと」

「おまえはオカルトや超常現象についてどう思っている?」

 それは彼が商談相手に必ず問うものであり、彼がオカルト嫌いであると知る相手の返答はいつも同じである。


「そのようなものはすべてつまらぬ妄想の類です」


 もちろん彼らの大部分はそのようなものを信じてはいないのも事実である。

 だが、その言葉は彼の気分を害さないためのものであり、もし彼が熱狂的なオカルティストであればおそらく正反対の言葉を口にしたことであろう。

 もちろん彼もそのようなことは十分承知している。

 承知したうえでその問いを口にするのは相手の器を測るためである。

 そして、その結果は決まっている。


 ……つまらん男だ。


 だが、この日の相手は少々違った。


「世の中には常識と思われた物事を別の視点で見ることができる者がいるものだと感心します」


 ……ほう。


 男のその返答に館の主は心の中で感嘆の声を上げる。


 ……おもしろい。


 老人の問いかけは続く。

「つまりオカルティストを否定しないということか?」

「公共の福祉に反しなければ、黒を白だと言い張る人間がいてもいいのではないかという程度に」

「辛辣だな。では、おまえ自身は彼らの主張を肯定するか?」

「大部分は否定します」

「大部分?」

「彼らの主張を明確に否定できる根拠を持っているものという意味です。それは、あなたも同じではないのですか?」

「堂々と言ってくれるものだ。だが、そのとおりだ。奴らの主張は滑稽だが、明確な根拠を示さずにそれを否定するのはフェアではないからな。もっとも、やつらはそれを示しても自説を取り下げることはない」

「だから、せっかく手に入れた貴重な品を公開しないわけですね」

「そうだ。狂信者どもに正しい道を示してやっても恨みを買うだけで良いことなど何もない」

「確かにそうですね。ただし、信者はともかく彼らの教祖のほうは自らが口にした言葉を自分自身が本当に信じているかは疑わしいと私は考えています」

「それはどういうことだ?」

「彼らにとってオカルトはビジネスだからです。いわばオカルトや神秘主義は彼らにとって金のなる木なのです」

「なるほど。確かにそれはいえる。おまえはなかなか面白い男だ。せっかくだ。では、もうひとつ聞いておこう。アトランティス大陸についてどう思う?」

「ロマンはあります」

「だが、存在は信じていない?」

「それこそ、それを信じている者たちが我々を納得させるような物的証拠を示すべきでしょう」

「言葉のトリックではなく科学的裏付けがある証拠で自らの主張を証明するとなれば彼らにそれができるはずがない。いや、彼らだけが納得できるようなものは提示できるだろうが、万人が納得できるものは提示できるはずがないと言うべきだろうな」

「彼らにとって一番の根拠はプラトンの言葉ですね」

「確かにプラトンの言葉は重い。だが、プラトンが語ったアトランティスに関しての事柄は彼が実際見たものではなく、あくまで伝承だ。しかも、彼が伝えたかったのはアトランティスそのものではない」

「そのとおりです。そして、あなたはプラトンがのちに語ったアトランティスの真実を記した本を所有している。つまりあなたはアトランティス大陸が実際はどのようなものかを知っているこの世でただひとりの人物なのです」

「そこまでわかっていながら、なぜおまえは私の宝のひとつであるあの本を所望するのだ?」


「それはもちろん我が主がそれを望むからです」


 東京都千代田区神田神保町。

 その一角に聳えるその建物に住むこの建物の主に呼び出された側近たちが顔を揃えたのはあの日から数日が経過した夜のことだった。

 だが、いつもなら顔を合わせたとたんに開始される舌戦はこの日に限ってまったく起こらず部屋は静まり返っていた。

「お久しぶりです。お嬢様」

 彼らが次々に慇懃な挨拶をおこなう相手。

 彼らの主の右隣に座る小柄な少女の存在こそが彼らを黙らせ緊張させている理由であった。

 その少女を招いて始まったこの日の会議の議題。

 それはもちろんアメリカからもたらされた急報に対しての検討であった。

「さて、これに対してどう対応したらよろしいか、意見を聞かせてください。鮎原」

 彼女に指名されるとこの部屋で一番年長の男が口を開いた。

「この連絡で一番重要なのが、北中米地区を担当する統括官である秋島君だけでなく、長谷川君も名前を連ねているところでしょう」

「どういうことなのですか?」

「つまり、ターゲットに接触し、交渉をおこなったのは長谷川君だということです」

「ということは、この途方もない要求を持ち帰ってきたのは長谷川だということなのですか?」

「そうなります」

「交渉の達人が聞いて呆れる」

「まったくです。このような無礼な要求に応じる必要はありません。すぐに蒐書官を動かすべきです」

「そのとおり」

「そうはいきません」

 上級書籍鑑定官の地位にあるふたりの女性はいつものように強硬論を主張するのだが、それとは真っ向から対立する意見を述べる者がいた。

 もちろん蒐書官たちの元締めに当たるこの部屋で最も年長の男である。

「ふたりともよく考えてから言葉を口に出してください。これは元々例の美術館が抱えていた情報を譲られて始まったものです。普段なら右手に拳銃、左手に札束を握りしめて交渉をおこなう彼らが対した交渉もせずに早々に撤退しました。それはなぜか?簡単です。それはエマーソン氏が最終行動を起こしてよい相手ではなかったからです。万事慎重派の秋島君だけでなく硬軟使い分けるあの長谷川君も傍らにいながら蒐書官を動かさなかったのは彼らも例の美術館の不可解な行動からそれを感じたからでしょう」

「それはその男が優秀な私兵を抱えているからということなのですか?」

「いや。その程度なら血の気の多い例の美術館の奴らがこうも簡単にあきらめるはずはないでしょう。夜見子様。私は今回の交渉相手であるエマーソン氏は例の美術館にとってアンタッチャブルな存在ではないかと考えます」

「アンタッチャブルな存在?それはどういうことなのですか?」

「つまり彼はそれに手を出したら美術館自体が潰されるようなアメリカにおける非公式権力組織の一員である可能性があるということです。そうであれば彼らは通常の買い取り交渉が失敗した時点であっさりと撤退を決めたということも十分納得できます」

「なるほど。では、彼らがライバルである私たちに情報を流したのは?」

「秋島君は資金回収が目的だと思っているようですが、私は我々がエマーソン氏を襲撃し、そこから二者が食い合って共倒れすることを期待して彼らが情報を譲り渡したと考えます」

「それで、鮎原はどうすべきだと考えているのですか?」

「もちろん我々も通常の交渉に徹するべきです。少なくてもエマーソン氏が完全な白であると判明するまでは」

「そうですね。私もその意見に同意します」

「ありがとうございます。さて、秋島君の報告によれば『どうしてもということであれば譲らないことはない。ただし、これに見合った品を対価とすべし。それ以外の取引には応じない』と言ったとあります。難攻不落の要塞からここまでの言葉を引き出したのはさすが長谷川君というところなのでしょうが、言葉通りであれば彼が持つ書を手に入れるためには我々も抱えるもののうち彼が喜びそうなものを差し出す必要があります。この件をどのように対処すべきか。ここが一番の問題になるでしょう」

 彼の言葉にすぐさま反応したのはふたりの女性だった。

「生真面目に本物を渡す必要などどこにもありません。そのための『すべてを写す場所』です」

「私もそう思います」

 それに対して反論しようと男が口を開きかけたところで右手を上げてそれを押しとどめたのはこの館の主だった。

「そうですね。私も最終的には『すべてを写す場所』の作品を渡すことも考慮すべきだと考えますが、まずは私たちの手札のうち最も有効なものはどれかということを考えなければなりません」


 その後二時間ほど続いた会議が終わり、三人の側近が帰った部屋には建物の主である女性と彼女が招いた少女、それから会議中には部屋にいながら議論の輪に加わらず、コーヒーを飲みながら冷ややかにその様子を眺めていた少女の警護主任の女性が残っていた。

 部屋の近くに人の気配がないことを確認するとコーヒーカップを置いたその女性が口を開く。

「夜見子。明日も学校がある博子様をわざわざ呼んだのはあんな茶番を見せるためではないでしょう。そもそも頼み事があるならあなたがお嬢様のもとを訪ねるべきではないのですか。それを夜中に呼びつけるなんて無礼極まりない非常識な行為だと思わないの?」

 友人でもある彼女のその言葉は実に痛いところをついていた。

「……由紀子に言われなくてもそれくらいのことはわかっているわよ」

 言い訳がましい言葉を並べ立てると建物の主である天野川夜見子は少女に向き合い言葉を続ける。

「お嬢様。まずお嬢様を呼びつけた無礼を謝罪いたします。それからすでに察しはついていると思いますが実はお嬢様にお願いがあります。たいへん申し上げにくいことなのですが……」

「あなたの言いたいことはわかっています」

 会議中には一言も発することなくこの建物の主天野川夜見子とその側近たちの討論を熱心に聞き入っていた少女は右手を上げて彼女を制しその言葉を口にした。

「場合によっては自分が所有する本を手放すことになると言いたいのですね?」

「正確にはお預かりしている本を手放す許可を頂きたいということです。先ほどはあのように言いましたが相手がもし本当に鮎原のいうような者であればフェイクを渡すのは危険だと思われますので不本意ながらそのようなことになるかもしれません」

「どのような科学的調査もすり抜ける『すべてを写す場所』の完全コピーであってもということでしょうか?」

「私の前にはそれをいとも簡単に看破する方がいらっしゃいます。万が一彼がそのようなことができる人間であった場合には取り返しがつかないことになります」

「用心深いことですが、勢いだけで事を進めて失敗するよりもはるかにいいことですのでもちろん許可します。もっとも、あなたが管理している書籍をあなたがどのように扱おうが、それはあなたの裁量のうちにあると私は思うのですが」

「いいえ。あれはすべてお嬢様の所有物です。私はあくまで管理を任されているだけの僕です」

「あなたの気持ちはよくわかりました。そういうことであればあなたたちが苦労して集めた『私の本』を奪われないためにあなたに策をひとつ授けることにしましょう。安っぽいペテンの類ではありますが、今回の相手が本当に特別な能力の持ち主なら案外そのようなもののほうが有効だと思われます。とりあえず交換品が決まりましたら『すべてを写す場所』の完全コピーを二組用意してください」


 二か月後。

 異様な雰囲気を醸し出すその館の一室で、南米担当統括官長谷川博仁はその男と対峙していた。

「……大ピラミッドの設計図が描かれたパピルス。しかも、ほぼ完品。本当にこのようなものが残っていたのか」

「これは数年前にカイロ近郊で発見されたもので現在は我が主天野川夜見子の秘蔵の品となっております」

「なるほどこれは古代エジプト人には大ピラミッドの建造ができる能力などあるはずがないというあの馬鹿どもの主張を完全に否定できる証拠となる。それだけではなく多くのエジプト学者をも凌駕できるだけの驚くべき知識を得ることもできるというまさに私のコレクションにふさわしい逸品だ。だが……」

 長谷川の持参したその品におおいに満足し絶賛の言葉を口にしたあとに、男は表情を変えて再びそれらに目をやる。

「これはどういうことだ?」

 彼の鋭い視線が見つめる先にあったのは長谷川が持参した二組のパピルスの束であった。

「なぜ、同じものが二組あるのだ」

「それはもちろんどちらかひとつは我々の保存用としてつくったレプリカだからです。ただし、精巧につくられているのでどちらが本物なのか判別は難しいのですが」

「つまり私を試そうということだな」

「我が主より預かった言葉を伝えます。もちろん名高いコレクターであるエマーソン様にとってはどちらが本物かを見分けるなど簡単なことでしょうが、どうぞ私が用意したささやかな余興をお楽しんでください」

「なるほど。おもしろい。その勝負を受けようではないか。ちなみに、おまえはどちらが本物か知っているのか?」

「いいえ。理由は定かではありませんが、主は私にもどちらが本物かを伝えませんでした。ですから、同じように丁重に扱ってまいりました」


 ……なるほど。

 ……精巧なレプリカをつくり最悪でもそれを保有する。あわよくば、レプリカを私に握らせ本物を確保しようという算段か。考えたな。

 ……確率は二分の一。

 ……確かに試すに値するだけの勝算だ。

 ……だが、残念だったな。おまえの言葉のとおり私にとってどちらが本物かを見分けるなど容易いことなのだ。

 ……もちろん遠慮などしない。本物をありがたく頂かせていただく。


 男は心の中で呟きニヤリと笑うと、一方を指さした。

「では、こちらを頂くことにしよう」

「承知しました。では、どうぞ」

「うむ」

「……ところで、ひとつよろしいでしょうか?」

 エマーソンが指し示した右側のパピルスを差し出しながら、長谷川は男に問いかける。

「何だ?」

「これは個人的興味によるものなのですが、お伺いしたいことがあります」

「ん?それはどういうことだ?」

「私も仕事柄品物の鑑定には自信がありますが、これはどちらが本物なのかまったく区別がつきません。ところが、あなたはあっさりとこちらに決めました。何か根拠があると思われますが、後学のためにそれを教えていただくことは可能でしょうか?」

「研究熱心だな。そういうことなら特別に教えてやろう。おまえにはわからないだろうが、実はこちらには特別の香りがついている。それが理由だ」

「特別な香り?」

「そうだ。このパピルスを熱心に読み込んだ者がおまえの主以外にもうひとりいる。そして、その者は特別な才がある。あまり知られていないがそのような者は特別な香りを発するのだ」

「なるほど。あなたはその香りを感じることができるので科学的調査をしなくても真贋判定ができると」

「そういうことだ。せっかくだからついでに教えておこう。先ほどの言葉に付け加えるならばその才を持つ者はかなり若い女性だ。どうだ。ここまで言えば、主の傍にいるそのような人物におまえは心当たりがあるのではないか?」

 もちろん彼には思い当たる人物がいる。

 普段なら言葉を濁して逃げ切るところだが、ここまで言い当てられてはさすがの長谷川でも言い逃れはできない。

「……はい。ございます。それ以上のことは申し上げられませんが」

 存在をあっさりと肯定する長谷川を満足そうに眺めながら、男はさらに饒舌になる。

 もちろん長谷川は知らなかったが、男がこれだけ楽しげに話をするのは久しぶりのことだった。

「いずれにしてもなかなか凝った余興だった。おまえの主に楽しい時間を過ごすことができたと礼を言っておいてくれ。さて、おまえが用意したものと交換にこちらから渡すものがこれになる。この書の後半部分でプラトンは弟子の問いに答える形をとってアトランティスの真実について詳しく語っている。おまえたちのような気の利いた余興を用意していなくて申しわけないが快く受け取ってくれ」

 上機嫌のエマーソンが長谷川の前に置いたのは羊皮紙製の古びた書だった。

 ……年代も正しい。本物だ。

 さりげなくそれを確認し、心の中で安堵する長谷川に男は言葉を続ける。

「少々書き込みをしてあるが、そこは勘弁してほしい。それから最後にひとつ約束してもらいたいことがある」

「この場で私がお約束できるものであればいいのですが、とりあえずお伺いいたします」

「お互いに交換した書に書かれている内容、それからこの取引の詳細を公表しないこと」

「その点に関しては問題ありません。我が主に代わり私がお約束します」

「よろしい。それでは取引成立だ。今回は実にいいものを手に入れることができた。今後もよろしくとおまえの主に伝えてくれ」


 それからしばらくした神田神保町の一角に聳え立つ建物の一室。

 その日、そこにはあの時と同じ三人が揃っていた。

「お嬢様。これがプラトンの言葉によってアトランティスの真実が語られた例の書となります」

「……ありがとうございます」

 建物の主が恭しく差し出した羊皮紙製の古びた書を眺める少女はその表紙を眺めながら、呟くようにその言葉を口にする。

「それにしても随分皮肉なタイトルですね」

「まったくです。プラトンは後世自分の言葉が発端となって起きるアトランティス大陸騒動を知っていたかのようにさえ思えます」

「本当ですね」

「……博子様。よろしいでしょうか」

 その書を挟んで交わされるふたりの楽しげな会話に口を挟んだのは彼女の友人で少女の護衛責任者でもあるこの部屋にいるもうひとりの女性だった。

 会話を邪魔された女性はあからさまに自分が気分を害したことを表情で示したが、少女の方は気にする様子もなく小さく頷く。

「ふふっ」

 悔しがる友人に小さな笑い声とともにしたり顔を見せつけたその女性が続けて言葉を口にする。

「例の美術館はこちらの交渉を覗き見していたと聞き及んでおります。それにもかかわらずあのコソ泥どもは手出しせずに長谷川の帰国を見送ったのはなぜなのでしょうか?なけなしの騎士道精神を使ったということなのでしょうか?」

 だが、皮肉交じりの彼女のその疑問に答えたのは少女ではなかった。

「そもそも由紀子の言うところの騎士道精神など皆無の存在である彼らに限ってそれはあり得ないでしょう。理由は別よ。やれやれそのようなこともわからないとはやはり脳筋……」

 もちろん先ほどのお返しとばかりのわざとらしいアクションつきである。

 当然相手も黙ってはいない。

「では、夜見子。あなたにはそれに心当たりがあるのというの?」

「もちろん」

 友人の問いに彼女は勝ち誇ったように大きく頷く。

「エマーソン氏は帰る長谷川に揉め事は何も起こらないと太鼓判を押していたそうよ。もちろんこちらはその言葉を鵜呑みにせず最大限の警護をしていたけど、結局何も起きなかった。つまり……」

「その男があらかじめ例の美術館に釘を刺したということ?」

「そうでなければ目の前で獲物を掻っ攫われた彼らが嫌がらせのひとつもせずに出国させることはなど考えられないでしょう」

「ということは、あの男はやはり特別な存在ということになるわね。なるほど。それは了解した。せっかくだから頭のいいあなたにもうひとつ質問がある。その偉いお方はなぜ長谷川が持参したパピルスが両方とも偽物ではないかと疑わなかったのかしら」

「それは……」

「それについては私が説明したほうがよさそうですね」

 友人のさらなる問いに今度は言葉を詰まらせる彼女に代わり回答者の役を引き継いだのはふたりの上位に立つ少女だった。

「まず、あの策について説明しましょう。私もあの時点ではエマーソンがどのような人物かはわかりませんでした。そこで大きくわけてふたつのトリックを用意しました。まず、このような大きな取引で、しかも同じものをふたつ用意した以上どちらかは本物だと思わせる簡単な心理トリックを使ったもの。交渉にあたる長谷川にも真実を伝えていなかったのはエマーソンが相手の表情で正解を読み取る才がある可能性を考慮したものです。そして、彼が本当にオカルトじみた特別な感覚の持ち主である可能性を考慮したのがもうひとつの仕掛けです」

「エマーソンは特別な香りがすると言ったというあれのことですか?」

「そうです。実際に彼が選んだパピルスは私が用意した『本物』の方でしたので、彼には間違いなく何かしらの能力があると思われます。ただし、こちらの事情を調査して私の存在に気がついた可能性もありますので詳細までを本当に嗅ぎ分けられるのかはわかりません」

「ですが、それでもその男はやはり『すべてを写す場所』の完全コピー自体を見破ることはできませんでした。そういうことであれば二組の完全コピーを用意してわざわざこちらの手の内を晒すようなことをしなくてもよかったのではないでしょうか」

「結果だけいえばそう言えるかもしれません。しかし、それはあくまで結果論であって特別な存在である今回の相手は私と同程度の能力を有していると仮定して準備をすべきだったと思います。それに一組だけであればあなたが呈した疑問のようにまずこれが本物かどうかを疑います。ですが、それに目の前に二組が出され選択の余地が与えられたらどうなりますか?」

「……どちらが本物かを考える」

「そういうことです。二組を用意したのはそういう意味もあったのです。しかも、そのうちの一組には特別な人間だけが気がつく仕掛けが施されていた。そして、それに気づいた彼は私の術中に嵌ったというわけです」

「なるほど。さすがお嬢様。お見事です」

「それで、博子様が用意したふたつ目の仕掛けとは何でしょうか?」

「彼の言う香りを意図的につけたのです。いわゆるマーキングと呼ばれるものです」

「マーキング?それはどのようなものなのですか?」

「用意したもののうち片方だけを読み込みました。熱心に」

「そ、それだけですか?」

「それだけです。ですが、鼻の良い犬には効果的だったようですね。そのおかげで私たちは大切なものを失うことなく貴重な書を手に入れることができました。ですが、確かにレプリカではありますが、それを知るのは私たちだけですし、なによりも記されていること自体は真実なのですからあれは彼のコレクションにふさわしいものであることには間違いないです。ですから今回の取引は彼にとっても収支は必ずしも赤字というわけではないのです」

「そのとおりです」

「それから……」

「何か?」

「彼と、それからこれからお目にかかるかもしれない彼のバックにいる組織と良好な関係を保っておけばアメリカにおける蒐書活動にプラスになりますので今回手に入れたプラトンの書のレプリカを作製し渡してください。もちろん見た目だけはそっくりですが、羊皮紙は新しいものを使用してあきらかなコピーとわかるようなものを。その意味は説明しなくてもわかりますね?」

「もちろんです。前回のハズレもこのようなものだったのかとエマーソンに思い込ませるようにするということですね」

「そのとおりです。では、よろしくお願いします」

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