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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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36/104

レヒニッツ写本

 あの日からかなりの月日が過ぎたチェコ共和国の首都プラハ。

 当地の貴族ホーヘンベルグに呼び出されたふたりの蒐書官たちがやってきたのはヴルタヴァ川の東側にある有名な老舗カフェだった。

「お久しぶりです。ホーヘンベルグ卿」

「こんにちは、ミスター菱谷。そしてミスター田所もお元気そうで何よりだ」

 彼を見つけた蒐書官のひとり菱谷の挨拶にその男はコーヒーカップを掲げ愛想よく応える。

「さて、話したいことは山ほどあるのですが、お互い非常に忙しい身だ。早速要件に入りましょうか」

「はい」

 男の言葉に相槌を打ったものの、実はふたりの蒐書官は顔を顰めていた。

 もちろん、それはホーヘンベルグが飲んでいたコーヒーを片付けることなく商談を始めようとしたからである。

 彼らがおこなう取引は扱うものがものだけに、このようなことはあり得ない。

 蒐書官のひとり田所がそれを指摘しようと口を開きかけたときに、ホーヘンベルグが彼らの表情に気づく。

 だが……。

「ご心配なく。私もその程度の作法はわきまえています。ですが、今日はそこまで気を遣うことはないのですよ。なにしろ私の持ってきたものはこれなのですから」

 彼がカバンから取り出したのは分厚いコピー用紙の束だった。

「それは?」

「見ての通りのコピーです。そして、これの名前は……」

「レヒニッツ写本」

「その通り。さすがミスター菱谷」

 レヒニッツ写本。

 それは発見された場所から取られた未解読文書のひとつにつけられた名である。

 ただし、彼が持っているのはあくまでそのコピーであり、本物はハンガリーの首都ブダペストにある。

「ホーヘンベルグ卿。どういうことか説明していただけますか?」

「もちろんですとも。その前にあなたたちもコーヒーを注文したらいかがですか?ここのコーヒーは絶品ですよ。それにそれ以外にもこの店には美味しいものはたくさんありますからどうぞお試しください」

「そうですね。では……」

 それから十分後、三人の前にはコーヒーのお供と呼ぶには質量とも豊富過ぎる品々が並んでいた。

「どうですか?」

「美味しいです」

「そうでしょう。多くの著名人が通っていたこのカフェは最高です。では、そろそろ話を始めましょうか」

 ひとしきり地元自慢を披露したところで、彼は菱谷たちを呼び出すきっかけとなったこのコピーについての話を始めた。


 それから五分後。

「……つまり、原本は遥か以前からハンガリーにある。それがその理由ということなのですか?」

「そういうことです。聞くところによれば、あなたの主である天野川夜見子は『本は手にとって読むもの』という信念の持ち主だという。ということは、最低一世紀はハンガリー人の手元にあるこれをミス天野川は読んでいないのではないかと私は考えたのです。いかがでしょうか?」

「確かに一理あります」

 そう答えたのは、菱谷だった。

「ですが、あなたと同じように私たちの主もコピーを手に入れて読んだ可能性はあるでしょう。我が主は蒐書家である前に読書家ですから」

「なるほど。そういう可能性は十分ありますね。では、理由をもうひとつつけ加えることにしましょう。それはこれについての噂です。ご存じですか?これについてのよからぬ噂を」

「もちろんです。これは意味のない文字らしきものが書き連ねているだけの偽りの書というものですよね。そちらの意見を支持する専門家も多いと聞いています」

「さすがです。そうであれば、古今東西存在するすべての言語を読み解くという噂のミス天野川でも読み解くことができないわけです。勝負の品としてこれ以上にふさわしいものはないとは思いませんか?」

「……読むことができないものを読み解いてもらう。なるほど。ホーヘンベルグ卿のおっしゃりたいことはよくわかりました。それについてひとつ質問してもよろしいですか?」

「どうぞ」

「なぜそこまで勝負にこだわるのですか?」

「もちろん私のプライドです。つまり完敗したままで勝負を終わるわけにはいかないということです」

 彼の言う完敗。

 それは解読不可能と言われたある手稿を使って夜見子に恥をかかせようとしたものの、見事にそれを読み解かれ、結果として大金を投じて手に入れたその品を彼が手放すことになったあの話である。

「わかりました。それで、今回も我が主が読み解いた場合の報酬はどうなりますか?」

「今は言えません。それをお伝えするのは勝負を受けてもらえるというご返事を頂いてからです。ただし、あなたたち蒐書官もミス天野川も十分に満足できるものであることは保証いたします」

「……そうですか」

 ここから菱谷と田所の思案が始まる。

 当然である。

 前回彼らは目の前にぶら下がっていた美味しいエサに慌てて食いついたばかりに二週間にわたる悶々とした日々を送っていた。

 当然同じ轍を踏むわけにはいかない彼らとしては簡単にこの誘いに乗るわけにはいかない。

 それどころか目の前に差し出された品物が前回以上にいわくつきのものだけに勝負を丁重にお断りするのが彼らにとっての安全かつ常識的な選択といえるだろう。

 だが、やる気満々の相手を前にして勝負を無下に断るのもなかなか難しそうだった。


 ……相手の機嫌を損ねることなくこの場を去る方法はないものだろうか?

 ……そうだ。


「電話一本をかけてもよろしいでしょうか?」


 席をはずした菱谷の電話の相手はヨーロッパ大陸で活動する蒐書官を統括する朱雀景勝だった。


 ……詳細を話せば間違いなく朱雀さんは交渉打ち切りを指示するだろう。

 ……そうなれば我々は朱雀さんの名前を利用して名誉ある撤退ができる。


 彼は心の中でそう考えていた。

 だが、彼の思惑はあっさりとはずれる。

 なんと詳細を聞いた朱雀はこともなげにそれを承諾したのだ。

 それだけではない。

「何を躊躇う。私には君がその商談を躊躇する気持ちがわからない」


 ……私にはそう言う朱雀の方がわかりませんよ。


 さすがに、その心の声をストレートに出すわけにはいかない。

 何重にもオブラートに包み込んだ言葉を口にする。

「しかし、相手が用意したのはあのレヒニッツ写本ですよ」

「だから、何だというのだ。それよりも夜見子様がそれを読み解いた場合の報酬がそれに見合ったものにすることは忘れないようにしてくれたまえ。それから念のために言っておく。この前のように手元で温めることなく交渉終了後すぐに夜見子様に詳細を報告するように」

 上司の男はそれだけ言うと電話は一方的に切られた。


 渋い顔で席に戻ってきた菱谷に後輩が声をかける。

「朱雀さんは何と……」

「勝負を受けろと言われた」

「えっ?ということは……」

「こうなったら受けるしかないだろう。どうせ責任は朱雀さん払いだ。心配するな」

 こうして、ふたりは渋々勝負を受けることになったわけだが、彼らの試練はそこでは終わらない。

 自らの申し出を受けるというふたりの言葉に大喜びする目の前の男に彼が訊ねる。

「ところで、夜見子様が読み解いた場合の報酬はどのようなものなのですか?」

「もちろんレヒニッツ写本そのものですよ。門外不出のあれを四週間貸し出してもらう許可を取っています。それなりの金額が必要となりますが、それは私がすべて支払います。いかがでしょうか?」


 ……全然足りない。


 このときふたりの意見は一致していた。

 だが、心によぎった暗い思いが彼らをその条件を飲ませてしまう。


「よかった。それから言い忘れていましたが、回答期限は二週間後です。では、よろしくお願いします」


 ふたりが口にした承諾の言葉に大喜びしたホーヘンベルグだったが、それが意図したものかはわからぬものの、ふたりにとってはまさに高性能時限式爆弾のような言葉を最後の最後に言い残して去っていった。


 ホーヘンベルグを見送ったふたりはコーヒーをもう一杯注文すると、ホーヘンベルグの前ではできない話を始める。

 競い合うように浮かない顔を突き合わせながら。

「菱谷さん。朱雀さんはどうしてこの勝負を受けろと言ったのでしょうか?」

「知るか。と言うのは簡単だ。だが、それでは我々の進歩がない。少し考えてみるか」

「余裕ですね。もしかして、今回は朱雀さんの命で勝負を受けたからですか?」

「まあ、そうだな。ちなみに、君ならこの勝負受けたかな?」

「断ります。ホーヘンベルグ卿本人が言うように元々読めないものという可能性が高いですから」

「私もそうだ。おそらく大部分の蒐書官もレヒニッツ写本の名前を聞いた時点で交渉を打ち切っていただろう。それなのに朱雀さんは勝負を受けるように指示をした。しかも、間髪入れずに。これはおかしくないか」

「そうですね」

「田所君。君は朱雀さんがそう言った理由をどのように推察するかね」

「考えられる理由は三つ」

「ほう。何かな」

「まず、レヒニッツ写本を知らない。少なくても噂は知らなかった」

「それはないな。田所君ではあるまいし」

「失礼な。それに、私だって一応候補として挙げただけで朱雀さんがそうだとは本気では思っていません」

「わかった。では、ふたつ目は?」

「夜見子様がレヒニッツ写本を読み解けるという確信を持っていた」

「確かにそれはわかる。だが、不遜ではあるが、レヒニッツ写本の噂を考えれば根拠なしに夜見子様の能力を無条件で信じるのはあまりにも危険だ」

「では、レヒニッツ写本が読み解けるものであるという根拠があると?」

「それしかないと言いたいところだが、寡聞にしてそのようなものがあるという話は聞いたことがない」

「私もそうです。ですが、前回の件もあります」

「そうだな。では、これは保留にしておこう。それで、三番目は?」

「私たちを試しているのではないかと」

「試す?」

「そうです。上司を頼るのではなく、自分たちだけで正しい判断を下し問題を解決しろということではないでしょうか?」

「なるほど。朱雀さんなら確かにそう言いそうだな……ん?」

 何かに気づいた先輩蒐書官の顔色がみるみる青ざめる。

「どうかしましたか?」

「もし、そうであれば大変まずいことになるぞ」

「どういうことですか?」

「決まっているだろう。もし、朱雀さんがゴーサインを出した案件を我々が敢えて断るというのが正解だったらどうする?」

「さすがにそれは……」

「そうだとは言い切れないだろう。現に君も私もこれからは手を引くべきだと考えていた。ホーヘンベルグ卿に挑まれた勝負を受けたのは単に朱雀さんの指示があったからだ」

「……つまり、上司からの間違った指示を我々が修正できるかということを見るために朱雀さんはあえてそう言ったと菱谷さんは言いたいのですか?」

「そうだ。だが、我々はそれに気づかず勝負を受けてしまった」

「もしそうであればまずいですよ。で、でも我々は朱雀さんの指示で動いたと言えば……」

「もちろん朱雀さんの責任は大きい。だが、だからと言って我々の責任がゼロになるわけではない」

「……困りました」

「まったくだ」


 ふたりの蒐書官が妄想の森を彷徨っている頃、時を同じくしてベルリンの高級ホテルの一室を住居代わりにしているその男は日本にいる自分の上司にあたる人物に電話をしていた。

「……そういうことで、よろしくお願いします。鮎原さん」

「よろしくされたよ。朱雀君。それにしても、菱谷君たちは蒐書官になってそれほど時間が経っていないのに、次々と珍しいものを引き当てるね。私が知るかぎり彼ら以上に引きが強いのは嵯峨野真紀嬢の旦那くらいだよ」

「……真紀さんの旦那?例の闇画商のことですか?」

「そうだ。あれはバケモノだと彼女も舌を巻いていた。ところで、君の配下がレヒニッツ写本に絡んだことについて君自身はどう思っているのかな」

「確かに少々驚いてはいますが、彼らの担当地域が中欧ということもありますし、あり得ない話ではないと思っています」

「つまり騒ぐほどのことではないと言いたいかな」

「そのとおりです」

「なるほど。それで君は菱谷君たちに自分とレヒニッツ写本との関係を話したのかね」

「いいえ。今回の件には関係ないので何も話していません」

「関係ない?私は大ありだと思うのだが」

「いいえ。ありません」

「相変わらず頑固だな。直接の上司である君がそこまで言うのなら仕方がないのだが、そのおかげで菱谷君たちは今頃かわいそうな事態に陥っているのではないのかね」

「それはどういうことですか?」

「簡単なことだ。彼らは君が自分たちに意地悪をしているのではないかと思い悩んでいるのではないかと言っているのだよ」

「そうであれば、彼らはまだまだ甘いということです。しかも、彼らは一度同じ経験をしているわけですからつまらぬ妄想に耽っている暇があったら私の言葉の中に真実を見つけるべきしょう」

「確かにそうだ。だが、彼らは君と違ってまだ若く経験も少ない。そこまで求めるのは少々厳しすぎはしないかね?」

「いいえ、そのようなことはありません。それに私が厳しければ鮎原さんはどうなるのですか。言っておきますが、私が蒐集官のひとりだったときには私は鮎原さんから今回私が与えたようなヒントさえもらえませんでしたよ。その結果、私はいつも失敗しお仕置きされる。あの頃の悲しい日々を思いだすと今でも涙がこぼれます」

「それは君の大いなる記憶違いではないのかね」

「いいえ、間違いありません。もし本気でそう思っていらっしゃるのであれば同じ質問を新池谷さんや長谷川さんにしてみてください。間違いなく私と同じ答えが返ってくると思いますよ」

「まったく君たちは揃いも揃って覚えていなくていいことばかり覚えているようだ」

 それからふたりの男はお互い顔の見えない相手とともに、会話の内容から想像できないくらいの明るい笑い声を上げた。


 東京都千代田区神田神保町。

 その夜、この地の一角に建てられたその建物の主はひとりの男を呼び寄せていた。

「例の貴族からのあらたな挑戦状が届きました」

「そのようですね」

 自らの言葉にそう答えた男を少しだけがっかりしたように眺めたその女性が訊ねる。

「知っていたのですか?」

「はい。昨日、朱雀君から連絡がありましたから」

「ということは、かの貴族が今回持ち出してきたものが何かも聞いているわけですね」

「はい」

「それは残念です。あなたを驚かせることができると楽しみにしていたのですが。それで、朱雀はそれについて何と言っていましたか?」

「いつもと同じただの通常業務だと」

 男の言葉に彼女は苦笑する。

「……無理していますね」

「私もそう思います。その知らせを聞いて一番喜んでいるのが彼であるのは疑いようもありませんから」

「ところで、私がレヒニッツ写本を読み解いた場合の報酬ですが、これについてあなたはどう思いますか?」

「渋いですね。裕福な貴族とは思えぬ渋さです。レヒニッツ写本を四週間貸し出しされる。それだけで夜見子様に解読不能とされているレヒニッツ写本を読み解かせることに承諾するなどありえないことです。ふたりの蒐書官のこの判断は通常なら罰金ものですね」

「額面通りであれば確かにその報酬としては低いかもしれません。では、そう思ったにもかかわらず、あなたも朱雀もそれを咎めないのはなぜですか?」

「功績に比べてあきらかに低い報酬。それで勝負を受けるということはそれだけ読み解く自信がない。相手にそう思わせることができるからです。もっとも、現地の蒐書官たちは夜見子様が読み解けなかった場合に負う傷を軽くすることを考えてそう判断したのでしょう。なにしろ朱雀君は例の話を彼らにしていなかったようですから」

「なるほど。事情を知らなければそうなるかもしれません。それで、表裏すべてを知るあなたから見て今回の取引の本当の収支をどう判断しますか?」

「もちろん。大幅な黒字でしょう」

「レヒニッツ写本は譲渡ではなく貸し出しでも?」

「もちろん。我々にとってそれは同じ意味なのですから」


「……そのとおりです」


 二か月後。

 ブダペストの観光スポットのひとつであるくさり橋を見下ろす高級ホテルの一室に滞在していたふたりの日本人のもとを知り合いのチェコ人が訪ねてきていた。

「ハンガリー科学アカデミーの真贋確認が終わりました。数度にわたる科学的分析結果により返却されたレヒニッツ写本は本物で間違いないとのことです。長い間ブダペストに留め置きして申しわけありませんでした」

 男の言葉に彼が答える。

「いえいえ、これも仕事のひとつですから我々は一向に構いません。ホーヘンベルグ卿こそお付き合い下さりありがとうございました」


 ……まったくだ。


 心の中でそうぼやくものの、もちろんそのようなことを口に出すはずはない。

 何事もないかのように上品な笑みとともに男は言葉を返す。

「とにかくこれでやっとお役御免でプラハに戻れます。ハンガリー料理も悪くありませんが、私にとってはやはりチェコの家庭料理が一番です」

「それはよくわかります。チェコの料理は確かにおいしいです」


 ……やはり、言っておくべきだろうな。


 日本人の言葉を嬉しそうに聞いた男は心の中でそう呟いた。


 ……あとからそれがバレて、私も共犯などと思われたら面倒なことになるからな。


 大きく息を吐き、それからチェコの貴族はもう一度口を開く。

「さて、安心したところで私はあなたたちに白状しなければならないことがあります」

「何でしょうか?」

「実を言うと私は少々心配していました」

「と、言いますと?」

「レヒニッツ写本が日本に届けられてから少し後に、あなた方の主が本物と贋作のすり替えを計画しているという警告をある機関からアカデミーは受けていたと聞かされていたものですから」


 ……まあ、そう言うことだとは思っていましたよ。


 だが、彼はそのような心の声を表面上どこにも表すことはなく、いつも以上に笑みを浮かべてそれに応える。

「なるほど。ハンガリー側がピリピリしていたのはそのような理由があったわけですね。ですが、今回公的な機関によってそのようなことはただの戯言だと証明していただいたわけですから、ある意味よかったのかもしれません。さて、これで、すべてが終了となります」


「そうですね。得難い知識を買ったと思えば安いものとも言えますが、やはり負けたのは悔しい。必ず再戦を申し込みますのでミス天野川にその旨をお伝えください」


「承知いたしました。ホーヘンベルグ卿」


 その翌々日。

 ベルリンからアムステルダムを経由して日本に帰ってきた男が向かった先は神保町の一角に聳えるその建物だった。

 その一室で彼を待っていたのは建物の主と彼の元教育係の男であった。

「報告します。ハンガリー科学アカデミーはあれを本物と認定したそうです」

「ということは、レヒニッツ写本はふたつ存在することになったわけだ」

「指紋さえ再現する本物より本物らしい『すべてを写す場所』の完全コピーを見破ることなどひとりを除けば不可能なのですから当然そうなります」

 彼の報告に皮肉を交えて感嘆する年長の男の言葉を引き継いだ彼女の言はすべて正しい。

 なにしろこの女性が抱える工房のひとつ「すべてを写す場所」で作成されるレプリカはどんな科学的調査にも耐えるだけの質を誇り、それは以前実験のためにそこでつくられたドル紙幣を市場に流したところ、当局によって偽札として駆逐されたのは実は本物の方だったという笑えぬ話がその質の高さを証明していた。

「もちろん私もそう思っています。ですが、今回の揉め事のきっかけとなったお節介をした者たちの存在は今後注意すべきではないかと思い、あえて報告させてもらいました」

「そうですね。その点は朱雀の言うとおりです。ちなみに鮎原はそのお節介をした相手の見当はついていますか?」

「おそらく例の美術館でしょう。もし、それ以外の組織であれば驚きを隠せません」

「朱雀は?」

「私もそう思います。ただし、彼らもハンガリー側が見破ることができるなど鼻から思ってはいなかったのではないでしょうか」

「では、彼らにはどのような意図でハンガリー科学アカデミーに知らせたのだと思いますか?」

「あれは彼らへの警告というよりも、彼らを介しての我々への警告。つまり、我々はおまえたちの行動のすべてを常に監視をしているぞというメッセージではないかと」

「なるほど。それについて鮎原はどう思いますか?」

「浅はかです」

 浅はか。

 それはやや意外ともいえる言葉だった。

 彼女は年長の男に訊ねる。

「その浅はかとは朱雀のことを言っているのですか?」

「もちろんそうです。もっともらしいことを語っていますが、朱雀君の言葉には根本的部分で致命的な穴があります」

「それは?」

「中欧で我々の監視に人員を割くほどかの美術館には人的余裕がないということです。もちろん彼が指摘したものの可能性がゼロというわけではありませんが、そのような欠陥だらけの前提に基づいた意見を披露する前にまずはもう少し現実的な理由を口にすべきでしょう」

「さすが弟子に厳しい師匠というところですね。では、その現実的な理由とは?」

「我々がホーヘンベルグ卿を通じてレヒニッツ写本を借り出したことに気がついた彼らが根拠もなしに、またはこれまでの経験だけを根拠に嫌がらせの意味でそのような情報を流した可能性のほうが遥かに可能性は高いということです。まあ、どちらにしても、我々の側から情報が洩れていなかったどうかについては一度確認する必要はありそうですが」

「あなたの師匠はそう言っていますが、朱雀の反論は?」

「ありません。確かに最初から監視し妨害する気があれば、レヒニッツ写本が我々の手に渡る前にアクションを起こしていたはずですから」

「どうやら青が藍を超えるのはもう少し先のようですね。ですが、偶然の産物であったとしてもあなたの過去の功績が今回の一件において大いに役だったことは変わることのない事実です」

 彼女の言葉に年長の男が大きく頷く。

「そのとおり。まさか朱雀君が昔手に入れたあれの作者がつくった試作品がこのような形で役に立つとは私も思わなかったですし、それについては感謝しなければなりません。ところで、菱谷君たちの報告ではホーヘンベルグ卿はレヒニッツ写本が読むことができないものと認識して今回の勝負の品に選んだということだったが、これは事実なのかな」

「彼の為人、それから賭けた品物への投資金額から考えて心の底からそう思っていたと思われます」

「愚かですね」

 師匠に問いに対する朱雀の言葉にすぐさま反応したのはその建物の主だった。

「たとえどのような評判があろうとも本の体裁が整っている以上それは読むことができるものと考えるべきでしょう。しかも、彼は前回も同じような失敗をしています。それにもかかわらず彼は再び同じ失敗を犯した。何度でも言います。彼は愚かです。このように二度も同じ失敗を犯す愚かな人間などこの世に……」

「夜見子様。そこまでにしませんか?」

 書というものに対して常人には想像ができないくらい強い想いを持つ彼女の永遠に続きそうな言葉を遮ったのは三人の中で一番年長の男だった。

「……その愚かな貴族様は二度の失敗に懲りることなく再び貴重な本を携えて夜見子様と相まみえることを約束したそうではありませんか。夜見子様に貴重な本を進呈する気満々の気前の良い彼に対して夜見子様はもう少しやさしさをもって接するべきではありませんか」

 男のその言葉は彼女にはすぐに解しかねた。

 だが、少しだけ時間をおき、彼の言葉に隠された真意に気づいた館の主は苦みを帯びた笑みを浮かべながら口を開く。

「そうですね。少し言い過ぎました。人は失敗して成長するものです。一度の失敗は一度の成功で、二度の失敗は二度の成功で取り戻せるものです。もちろん私はこれからも期待していますよ。彼らに。さて、せっかく日本に帰ってきたのです。あなたとあなたの部下の功績で手に入れることができた古い方のレヒニッツ写本を手に取って読んでください」

 男がチェコ貴族の名を使ってふたりの蒐書官をかばっていることに気づいた彼女はそう言って自らの言葉を詫び、ふたりの直接の上司に差し出したのは古びた手帳のような本であった。 

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