魔女の食卓
天野川夜見子。
古書店街の魔女とも評されるこの有名な蒐書家の食生活は実は極めて質素であった。
必要とする栄養のほとんどはサプリメントから得ており、どうにか食事と呼べそうなものも、おにぎりやサンドウィッチといった軽食がほとんどである。
もちろん、それはすべて読書時間を確保するためである。
いかにも人生のすべてが読書のためにある彼女らしいともいえるのだが、そうでないときもたまにはある。
そして、この日はその特別な日にあたっていた。
「今、夜見子が普通の人のように食事をしていると言っても誰にも信じてもらえないよね。きっと」
本を読まずにせっせとそれに挑む彼女を得体の知れない未確認生命体を見つけたかのようにそう表現したのは、彼女とともに旧山手通り沿いにあるその店にやってきた女性だった。
「あなたはもう少し普段の食生活に留意すべきだと思うわよ。それに女性にとって美味しいものを食べることは義務なのよ。他人よりもお金がありながら、それをしないあなたは義務を放棄しているうえに女性を半分捨てていると言っても過言ではないわね」
もちろん、すべてが嫌味である。
一方のその女性の友人であるが、食事の手を休めることなくその言葉を受け流し、皿の上にあったものをすべて平らげたところでようやくその口を言葉を話すために使い始める。
「ということは、今こうやって三人分の美味しいパンケーキを食べている私は女性を取り戻している最中ということかしら。では、さらに女性を取り戻すためにもう一枚食べようかな」
彼女が手を上げたのはもちろん追加注文のためである。
「今取り戻さなくてもいいわよ。だいたいあなたは私がお金を出すときにこうやって食いだめをしているでしょう。本当に意地汚いわね」
当然のようにやってきたより直接的な表現がたっぷりと乗ったその言葉に彼女はすまし顔で答える。
「意地汚いとは失礼な。それに私は晶がお金を出すときにだけ食べているわけではないわよ」
「違うの?」
「当然でしょう。この前はちゃんと由紀子に支払いをさせたし、その前は一の谷の馬鹿にお金を出させて高級ステーキを食べたから」
「そこかい!」
見当違いも甚だしいその返答に頭を抱えるその女性を追い打ちをかけるように彼女がさらに言葉を続ける。
「それに私は貴重な時間を削って友達のいないあなたが垂れ流すグチを我慢して聞いてあげているのよ。これくらい当然じゃないの」
「まったく。ああ言えばこう言う。昔から変わらずあなたは本当に嫌な子ね」
「それはお互い様でしょう。それに罪のない人を口から出まかせを言って苛め抜き『無敵交渉人』などと祭り上げられている極悪人のあなたに比べればおとなしく本を読んでいる私なんか聖人みたいなものよ」
「そんなことあるわけがないでしょうが」
周りの客、といっても周辺にいるのはふたりの護衛だけなのだが、とにかく周りの迷惑を顧みず夜見子と子供でもしないような口喧嘩を繰り広げるこの女性の名を墓下晶という。
ふたりは同じ高校から同じ大学へ進み、現在はセクションこそ違うものの、ともに橘花グループに属する親友である。
もっとも、彼女たちはお互いに相手がかわいそうなので仕方なくつきあっているただの腐れ縁だと言い張っているのだが。
その言葉で表現するにはこれ以上ふさわしいものはないといえるくらいにじっとりと彼女を眺める自称腐れ縁の女性が諦め顔のままで再び口を開く。
「……それで本当にまだ食べるの?」
「うん」
「……本当によく入るわね」
「うん」
「……とにかく暇人のあなたと違って私は時間がないから、そろそろ本題に入りたいのだけどいいかしら」
「仕方がないわね。お姉さんが特別に聞いてあげるから、あなたが抱える他の人には決して言えない恥ずかしい悩み事を言ってごらんなさい。イデっ」
「図書館?」
「そう」
友人が語ったその話のあらましはこうである。
ある地方の公立図書館が水害に遭い大きなダメージを受けて使用不能となり建て替えをおこなうことになった。
当然美味しい事業であるその建て替え工事には多くの建設会社が名乗りを上げたわけなのだが、その中のひとつの関係者が彼女の今回の依頼者なのだという。
その会社の社長は典型的な職人気質で裏取引などに応じることのない実直な性格なのだそうだ。
もちろんそれは賞賛に値するのだが、おそらくそれが影響してのことだろう。
技術はあるにもかかわらず、なかば公然とおこなわれる談合で決められるその地方の入札では彼の会社は負け続け、長い間大口の仕事を手にすることができなかった。
仕事は減り会社の先細りを心配していた彼の娘が今回の入札に際し思い出したのが大学の先輩だった彼女の存在だった。
曰く、先輩助けてください。
「そこで、あなたは一の谷と組んであなたを頼ってきたかわいそうな後輩一家を食い物にしようとしているわけね。だけど、あなたがどれだけ他人から恨まれようが私には関係ないことでしょう。そのような自慢にもならない自慢話に私を巻き込まないもらいたいものなのです」
「いくらなんでも金の亡者である一の谷などと一緒にするなんてひどすぎるでしょう。それに話は最後まで聞くものよ。一応話が来た時に調べてみたのよ。確かに彼女の父親が営む会社はそれなりにしっかりした仕事をしていることがわかった。それに比べて今回の入札でも有力と噂される業者は地元議員のコネだけで仕事を取っているいわゆるポンコツ。しかも毎回手抜き工事が囁かれているものの天の声でもみ消されているのよ」
「そのようなことは、あの蛆虫が首相になってから国レベルでも顕著にあるらしいから、当然地方に行けばさらに露骨なものがいくらでもあるでしょう。それで、それと私がどう関係あるのよ」
「その契約を落札して私が後輩の願いを叶える素晴らしい先輩というところをみせながら、あなたのために地下に秘密の書庫をつくってあげましょうかと言っているのよ。知っているわよ。あなたがまた新しい本の保管場所を探していることくらい。先日当主様の口利きで国会図書館のワンブロックをあなた専用の書庫として使えるようにしてもらったばかりだというのにね」
確かに友人の言うとおり世界一の蔵書家ともいわれる彼女のもとには毎日のように大量の本が届くためそれを保管するための書庫は慢性的に不足していた。
それを解消してやろうというその申し出は一見すると友達思いの涙が出るくらいにいい話のように思える。
だが……。
……絶対裏がある。
そう睨んだ彼女に視線を向けられたその友人は慌ててあらぬ方向顔を向ける。
……確定だ。これはやはり何かある。
そして、彼女のその直感は当たる。
「確かにそれは悪くない話です。でも、それをその偏屈爺さんが了承するとは思えない。しかも、それをおこなうためには相当ハイレベルの技術と機材がいるでしょう。田舎の建設業者ごときが単独でそのような工事をおこなうのは本当に可能なの?」
疑わしそうに投げかける彼女の問いかけに親友が頷く。
「確かにあなたが欲しがっている最低五万冊が収納できる地下書庫をつくるのは難しいでしょうね」
「やっぱり」
「でも、そういうことが得意な別の爺様をあなたは知っているはずよ。いるでしょう。偏屈の程度なら誰にも負けない人が」
一瞬、いや、十瞬後。
口にしたくないが、やむを得ないという感情がありありと伺える彼女が口を開く。
「……もしかして日野誠?」
「寡聞にしてあれ以上の偏屈爺さんを私は知らないわね」
「はあ~」
自らが口にした男の名を肯定されると、彼女は小さくないため息をつく。
「そこには同意するけど、私はあんな生きた化石に借りをつくるなんて嫌よ。まして、頭を下げてお願いするなど御免被る」
やってくると確信していた彼女の言葉に親友がニヤリと笑う。
「そう言うと思った。そこで、あなたにとって耳よりな情報を教えてあげる」
「何?」
「先日、日野誠はあの引きこもりに借りがあるなど一生の不覚と嘆いていたわよ」
「それはいつの話なの?」
「あなたがサボったこの前の幹部会議。ちなみにあの爺さんが言った引きこもりというのはあなたのことでしょう?」
「まあ、そうでしょうね」
「私にはあの爺さんが言うその借りとやらが具体的に何かを指すかはわからないけれども、とにかく日野誠はあなたとの取引で負い目を持っている。そこで、今回あなたはそれを返してもらうことにする。あなたは頭を下げずに爺さんに書庫増設工事をさせることができ、爺さんは無事負債を返すことができる。誰にとっても悪い話ではないでしょう」
いかにも「橘花グループ主席交渉官」の肩書を持つその女性らしい理路整然とした物言いである。
だが、これこそが疑わしい証拠だと思うのは晶と長年腐れ縁の関係である自分だからこそなせる業だと心の中で呟いた彼女が口を開く。
「言いたいことはそれだけ?」
「そ、そうよ」
「わかった。では、今度はこちらから」
そう言うと、彼女は誰にでもわかるくらいのあからさまに疑わしそうな表情をつくり目の前にいる人物を眺めながら口を開く。
「それで、あなたは私に何をさせたいの?」
彼女が言ったのはこのひとことだけだった。
だが、それだけで十分だった。
今度は友人のほうが大きく息を吐きだす。
「……やっぱりわかった?」
「当然でしょう。損得だけで生きている晶が親切の押し売りをしてきたら、誰だって何かあると思うわよ。さあ、バレたからには観念してさっさと悪事をすべて白状しなさい」
それから三十分後。
「……なるほど」
「それでどうなの?」
「確かに入れ物をつくっても肝心の本がなければただの箱でしかない。そこでそこに納める十万冊の本も寄贈という形で特典としてつける。晶にしてはいい発想だわね。でも、その程度のことならあなたにだってできるでしょう」
「もちろんできるわよ。でも、それではインパクトがまったく足りないし、他の業者も同様なことを考えるかもしれない。同じ十万冊でも他の誰にも考えつかない。いや、考えついても実現できないような品揃えにしたいのよ」
「つまり、誰でも飛びつきたくなるような切り札をそこに加えたい。そういうことね」
「そう。それに私たちが落札すればあなただって大きな本箱が手に入れられるのだから損はないでしょう。とにかく、あなたにしかできないものを考えてよ」
「なるほど」
もちろん女性はそれがすぐにやってくるとは思っていなかった。
当然である。
聞かされたのがたった今なうえに、目の前の人物はこういうことに関して普段の言動からは信じられないくらいに慎重だからだ。
……鮎原さんに相談してとなるでしょうね。
彼女が抱える優秀な相談者の名を出して女性はそう予想した。
だが、それははずれる。
一瞬の沈黙の後、彼女の口が動く。
「……承った。そちらについては心配しないで。その代わりに必ず落札しなさい」
女性は予想外の即答に少々慌てながらもそれをどこにもみせることなく答える。
「もちろんよ。それではまず例の爺さまの攻略だね。でも、これが難問だよね。もしかしたら、ここが一番の難関かも……」
「いや、それも私がやる。あなたも一の谷の馬鹿も日野の爺さんを苦手にしているでしょう。その点、私はあの爺様の扱いは慣れている」
……やる気十分。
……というよりも、やりたくて仕方がないという風ね。
言動だけで彼女の心情を完全に読み取った親友は心の中で呟く。
「それは助かる。では、それ以外は全部任せて。ところで、もう目玉にするものは決まったような顔をしているけど、それは何?」
「ひ・み・つ」
それからわずか四か月後。
公立図書館というよりも巨大な本箱のような驚くほど窓が少ない完成したばかりのその建物を眺めるふたりの女性の両脇には知り合いの男ふたりが加わっていた。
「どうだ?これだけのものをわずか四か月弱で完成させるなど私以外にはできないことだろう。しかも、見栄えばかりを気にする俗物の意見を撥ねつけ、本にとって百害あって一利なしの窓を極限まで排除したこの機能美のすばらしさ」
すべてが自慢で出来上がったその言葉を口にしたのは四人のなかで圧倒的に年長の男だった。
「まあ、気に入らない部分はある。最初から最後まで私に任せればより完璧なものになったのだが、今回はあくまで助っ人。これでよしとすべきだろうな」
「あら、珍しい」
男を嘲るようなその言葉は彼の隣に立つその建物の地下につくられた秘密の書庫の所有者となる女性からのものだった。
「いつもなら完璧ではないと怒り狂っているのにどういう風の吹き回しなのでしょうか。それはよほど相方の偏屈爺さんと気が合ったということかしら」
「失礼なことを言うな。だが、あの男はしっかりした技術と理念があり少なくても金儲けしか考えていない馬鹿な一の谷よりははるかに評価できるというのは事実だ。夜見子よ。そういうおまえだって実はそう思っているのだろう?」
「偏屈爺様の意見に賛成するのは甚だ不本意なのですが、残念ながらそれについてはまったく否定できないわね」
「アハハ。これだけ盛大に噂されれば、一の谷もどこかでくしゃみをしているでしょうね」
「……自己主張の塊である幹部三人が関わる事業が滞りなく完了したのは私が調整に奔走したからですし、この図書館がこれから健全な運営ができるような完璧なシステムをつくりあげたのも私ですよ。深夜まで無賃で働かせておいてその評価とはあまりにもひどいです」
自分が目の前にいるにもかかわらず、存在そのものを無視されたうえに、他の三人に堂々とこき下ろされたその男のよく聞こえる独り言を無視し老人が言葉を続ける。
「さて、最後の仕事である式典も終わったのでここにはもう用事はない。そろそろ東京に帰るとするか。夜見子。あの偏屈爺さんに作業は楽しかったと言っておいてくれ」
「偏屈爺さんが偏屈爺さんにとは最後まで笑わせてくれるわね」
「うるさい。とにかくこれでお前に対する負債はすべて返却したからな。それから一の谷。せっかくだから貴様をバラスト代わりに特別に東京まで無料で運んでやる。感謝しろ」
「ありがとうございます。……でも、こういうことを本当のありがた迷惑というのでしょうね」
「何か言ったか?一の谷」
「……いいえ。よろしくお願いします。日野さん」
男たちは去っていってから一時間後。
ふたりはまだ残っていた。
「それにしても相変わらず傲慢だね。日野の爺さんは。一の谷もあんな偏屈爺さんと同じ車に乗せられるなんてかわいそうなことだわね」
「晶。そういうことは本人がいるときに言いなさいよ」
「言えるわけがないでしょう」
「ところで……」
彼女は目の前に広がる光景を不思議そうに眺めながら親友に声をかける。
「この辺には娯楽施設と呼べるものはないの?」
「そういうことはないと思うわよ。駅前にいけば色々あるだろうし。なぜ今ここでそんなことを聞くの?」
「あれよ」
そう言った彼女の視線の先にはこの地方都市の全人口を上回るのではないかと思われるくらいの気が遠くなるような長い行列があった。
「ほかに娯楽施設があるのなら、新しい図書館ができたぐらいでこれだけ人が集まりはしないでしょう。いくらなんでもあれは多すぎでしょう」
……なるほど。たしかに多い。
女性はその言葉に納得する。
……でも、それは当然のことなのよ。
「あの大行列の先には彼らの目的のものがあるのよ。それに、あそこにいる人の多くはおそらくこの町の住人ではない」
「そうなの?それで、こんな田舎に遠くからわざわざ遠征するほどの目的のものとは何?もしかして、数量限定の記念品?」
「違う。あの人たちの目的のものとはもちろんあなたが用意したアレよ」
友人の言葉は正しい。
確かに彼らはそれを読むためだけに日本中からやってきていた。
もちろん遥々やってきた彼らにとってそれはそれだけの価値があったのだ。
そして、日本中から人を呼び寄せることになった彼女がこの図書館のために用意したもの。
それは多くの人が知る物語の古い写本。
そのレプリカだった。
その数、実に千冊。
「もちろん、いつもの完全再現よりはここに相応しいレベルを落とすようにと私の工房である『すべてを写す場所』には指示をしました。和紙自体もそれらしく見せてはいるものの耐久性を持たせたものを使用しています。それでも、ガラス越しに眺めるだけだったものを実際手に取って読めるのですから、確かになかなか味わうことのできない経験にはなるでしょう。用意されたのは当然写本の存在が一般に知られているものだけですが、それでも満足してもらえたのならうれしく思います」




