After story 闇が知る より深き闇
「枕草子」の後日談的話となります
時系列的には前日談的話ですが
千葉県の田舎にある長い歴史以外には自慢するところがない公立高校の古びた校舎の屋上。
高校の、しかも、公立の学校内では決しておこなわれないであろう豪華な酒宴の用意がされたテーブル。
そこに用意された三つ席のうちふたつはすでにやってきた女性に占められていた。
「すばらしいわね」
周辺の景色に溶け込んでいるとは言い難いそれに視線をやった、その計画の最初期から関わっていた女性の声にその場にいるもうひとりの女性が応える。
「それは目の前に広がる私の城についてのことかしら。それとも私自身のこと?」
……これが本気なのだから、いつものながら本当にしょうがない子よね。
彼女と長い付き合いであるその女性は顔を顰めながら心の中でそう呟く。
もちろん、実際に声に出した言葉もそれに負けないものとなる。
「あなたのわけがないでしょう。それに何よ?私の城って。お嬢様の城の間違いではないの?そもそも、あなたがあそこでやらせてもらえるのはあの施設の一画にある古本屋の店番でしょう。店番ごときでよくそこまで威張れるものね」
「店番とは言ってくれるわね。晶には泣いて頼まれても本は売ってあげないから」
「いらないわよ。……それにしても遅いわね、由紀子さんは」
彼女の恫喝を短い言葉で一刀両断にした女性がついでのように挙げたそれは、ふたりがすでに三十分以上待つもうひとりの女性の名であった。
むろん形勢不利な彼女がそれに乗らないわけがない。
それまでのことが何もなかったかかのように彼女が続く。
「外国暮らしが長いから仕方がないとはいえ、あの娘は本当に時間にルーズよね。まあ、そのうち来るでしょうから始めていましょう」
ほんの少し前にあった出来事が存在しなかったかのようにそう言って、まず自分の、それから、ついでのように友人のグラスにシャンパンを注ぐ。
「あ、ありがとう」
反射的そう言ったものの、その女性の心のうちは不安で一杯だった。
なにしろ、彼女の友人は随分前からテーブルに並ぶ料理を「毒見」と称してせっせと摘まんでいたのだから。
そこに酒が加わればどうなるのかは火を見るよりも明らか。
……このままではそのすべてを彼女ひとりに食い尽くされる。
……ここに並ぶ料理の代金をすべてを出している自分が何も食べないうちに。
……だけど、相手は夜見子。言ってやめるとはとうてい思えない。
……であれば……。
ケチな性分のその女性は渋々だが彼女の言葉に応じる。
「そ、そうね。では乾杯。三人の再会に」
「乾杯。お嬢さまの城と私の領域に」
だが、世間でもよくあることだが、直後、ふたりの待ち人が絶妙なタイミングで現れる。
「あらあら、主賓を待たずに宴会を始めるとは相変わらずふたりとも本当に礼儀知らずね」
自分を待たずにシャンパンを飲み始めている友達がいのないふたりを見つけると、その人物はわざとらしく頬を膨らませ、盛大に自分を美化しながら苦情を申し立てた。
だが、この程度の嫌味を痛痒と思うほどふたりの面の皮は薄くない。
「交渉人」という仕事柄このようなことを言われることに慣れているひとりは聞こえないふりをして済ませたが、もうひとりは律儀にも熨斗を付けた言葉を返す。
「それは全部遅刻して私を待たせた由紀子が悪い。それに由紀子が主賓だったなど今初めて知ったわよ。いつからそのようなものになったの?」
「今よ」
「それなら、誕生日席に座る私こそ……」
「ふたりともそれくらいにしなさい。お疲れ様、由紀子さん。それで、明日の準備は終わったの?」
「警備は完璧よ。それどころか博子様からの命令さえあれば、五分もかからずこの国に巣食う蛆虫どもを腰ぬけSPともども一掃する素晴らしいショーだって見せられるわよ」
その組織の護衛部門の責任者であり、白兵戦の腕を買われて、その学校の体育教師をしながらそこに通う自らの主の護衛もおこなっている女性の言葉にうれしそうに彼女が答える。
「それはいいわね。あなたに貸すために世界中から呼び戻した選りすぐりの蒐書官が政府要人の首を次々と切り落とす様を生で見られるなんてこれに勝る喜びはないわね」
「そういうことなら、サプライズということでやろうかな」
「いいわね」
「その辺にしておきなさい。明日本当に何かあったらどうするの?」
「その時は晶さんがなんとかしてくれるのでしょう」
「そのとおり。何しろ晶は昔から口から出まかせを言って人を丸め込むのがうまいことが唯一の取柄なのだから。そういうことで、よろしく頼むわ」
「ひどっ」
「そうかな。的確な表現よね?」
「うん」
「本当にひどいわよ。夜見子だけでなく由紀子さんまで」
女子高校生の仲良し三人組の会話のようなそれは、竣工式を翌日に控えた夕方、その中のひとり天野川夜見子が間接的なオーナーである十五店にも及ぶ古書店を含む完成したばかりのショッピングモール、というよりパリのオールドパサージュと言ったほうがふさわしい千葉の田舎にはまったく不似合いな外観を持つその施設の全貌を眺めることができる隣に建つ高校の屋上での一コマ。
そして、警備のためその場に立ち会った部下のひとりが彼女たち三人の価値からつけたと言われる伝説の一夜「一千万ドルの女子会」の始まりだった。
そして、その翌日。
すなわち、その施設の竣工式当日。
「随分警備が厳重ですね」
若い男が囁いた相手はこの国の首相であった。
秘書官待遇で随行させた自分の長男が口にしたその言葉に少々気分を害した彼は投げやりな言葉を返す。
「当然だろう」
だが、どうやらそこには触れられたくないという彼の思いは通じなかったようで、彼の息子は目に映る光景を眺め直して常識的にはまちがっていないものの、父の意にはまったく沿わぬ言葉で父親を再び不機嫌にさせた。
「そうですね。与野党問わず県内選出の国会議員が全員集まっただけでなく主だった閣僚までここにいるわけですから警備が厳重になるのは当然ですね。それにしても、献金もできない名も知らない貧乏会社が無理してつくった施設の竣工式にわざわざ来てやったというのに、どこの馬の骨ともわからぬ者を主賓である一国の総理大臣よりも上席に置くとはあまりにも常識のない者たちです。あの非常識な田舎者たちには後で厳重に抗議しておきます」
「いや。……そうだな。そのとおりだ。だが、たいしたことではないので放っておけ。抗議など絶対にするなよ。絶対だぞ」
無邪気に親の権力を振りかざす息子を諫める自分の言葉にさらに不機嫌になった男だったが、思わず出かかったその言葉だけはなんとか飲み込んだ。
……生きて帰りたければ。
彼は見知った顔が並ぶ周囲をゆっくりと見渡す。
……たしかに壮観だな。
……それにしても、その無名の企業グループとやらが運営する千葉の田舎にできた小さなショッピングモールの竣工式ごときに私が政府要人を連れてやってきたことに何か意味があるのではないかと考えられないとは、我が息子ながら情けない。
……いや、裏の事情を……この世の真の理を知らなければそれも仕方がないことなのかもしれない。現に同じように理由もわからず私に顔を売るためだけにやってきた議員どもも我が愚息と同じ顔をしているのだからな。
……もちろんこの物々しい警備は我々に対してのものではない。その証拠にSPも会場内に武器を持ち込むことが許されていない。つまり、ここで警備をおこなっている者にとっては我々も部外者であるということだ。
……そして、言う間もないことだが、ことが起これば、ここを警備している者すべてが我々など放置して駆けつけるのは……。
そう心の中でつぶやいた男は彼らの警備の対象である本当の主賓と彼の随行者たちを改めて眺める。
……この施設の本当の所有者とはいえ、用心深いあれらが巣穴から這い出してこのように公の場で一堂に会すなどそうそうあるものではない。しかも、普段はお互い顔を合わせることなどない橘花の主要メンバーである日野、一の谷、墓下まで引き連れて。ん?あれはたしか世界中の本を買い漁り国会図書館以上の蔵書を持つといわれる天野川夜見子。余程のことがないかぎり外に出歩かないあの引きこもり女までやってきているのか……。
……ここはあれらにとってそれほど大切な場所なのか?
そして、気がつく。
ひとりの少女に。
「あのかわいいお嬢さんが誰かわかるか」
もちろん、訊ねた相手は息子ではなく本物の秘書官である。
「当主の孫のようです。名前は博子。この施設の隣にある学校に今年の春から通っている……」
だが、秘書官の報告を聞いていた彼はそこにはなかった驚愕の事実を発見する。
……娘の席次が父親よりも上だと。
……まさか。
……しかし、それしか考えられない。
……そういえば、あの娘は隣の学校に通い始めたと言っていたな。
……つまり、この施設はあの娘の希望であれらが建てたということか。
……すべてが繋がった。
「どうかされましたか」
「この田舎まで来た甲斐があった。予定よりも長く滞在する。パーティーにも参加するのでこの後の時間を調整してくれ」
……あの歳で父親を飛び超えて次期当主に選ばれた少女。あれらに限って次期当主になる人材を見誤ることはない。ということは、あの娘はとんでもない逸材。これはぜひとも会って話をしなければならないだろう。いや、ツバをつけておくと言ったほうがいいか。ようやくあれらの支配から解放されるいい風が吹き始めたようだ。
その男は心の中でそう呟くと、ほくそ笑んだ。
だが……。
「どうしたのだ。さっきから黙り込んで」
その式典が終わり、乗り込んだ車の中で黙り込む父親に息子が声をかける。
返答がない父に代わってその男に声をかけたのは同乗していた秘書だった。
「どこか具合が悪いのでしょうか?」
「そうではないと思うのだが、さっぱりわからん。とりあえず、この後の行事はキャンセルにするしかないな」
息子と秘書の会話を聞き流しながら男はなおも沈黙する。
……不公平だ。
男の頭の中では運命を呪うその言葉が渦巻いていた。
……なぜ、あのような者があれらの一族に現れ、自分には父の才を引き継ぐことさえできぬ者が与えられたのだ。
……現当主でさえ到底及ばぬあの洞察力と冷徹さ。
……かわいらしい容姿に騙されていけない。
……あれはまちがいなくこの世に存在してはいけないバケモノ。
……しかも、直属の部下たちだけでなく長年現当主に仕える橘花の主要幹部でさえ皆あの娘に酔心している。
……ということは、この時点でもあの娘が命じれば私は地位を失うどころか消されることだって十分考えられる。
……あの娘の目には私はどう映っていただろうか?
……いうまでもない。あの表情からは一ミリグラムも好意的なものは感じなかった。
……なんとかしなければならない。
……だが、どうしたらいい?
……こちらから仕掛けるか?
……いや、それこそあれらの思うつぼだ。
……あれらに手出ししてすべての悪行を暴露され汚辱に塗れながら惨めな最期を遂げた多くの馬鹿どもの同類になるのは御免被る。
……そうなると懐柔か。
……それしかない。
……もちろん、それもあの娘相手では無理だろうが、少なくても私には敵愾心など微塵もないことは一刻も早く伝えなければならない。
……いったいあの娘の歓心を買うにはどうしたらいいのだろうか?
「先ほどの娘が好きなものを調べてくれ。大至急だ。表面的なものでいい。もちろん相手に疑われるような調べ方は絶対するな」
「おい、親父。もしかしてあの娘に惚れたのか?たしかに美人ではあったがまだ子供だ。さすがに妾にするには歳が離れすぎているだろう」
「失礼なことを言うな。殺されるぞ」
「……親父」
「とにかく、おまえは黙っていろ。これしかない。私が生き残るにはもうこれしかないのだ」
同じ頃。
「おまえはどう思う?」
一国の首相を一瞬で凍りつかせた少女の祖父が話しかけたのは、自らの息子であり、少女の父親にあたる男だった。
その組織の現当主である父親に声をかけられた男が口を開く。
「というと?」
「予定を変更してまで向こうからわざわざ博子に会いたいと言ってきたのだ。おそらく博子の地位に気づいたのだろう。当然博子にはその地位に見合うだけの才があるくらいのことはわかっていたはず。それでも会いたいと言ってきたやつの狙いはどこにあると思うか」
「それなりのものはあるとは思っていても、経験の差で丸め込めるとでも思ったのでないか。今のうちから首相という権威を見せびらかしながら手なずけておけば、代替わりしたときには橘花も自分の手中に収められるなどと考えたのかもしれない」
「まあ、そんなところだろうな。ところが、やつの魂胆を見破った博子がチラリと本気を出したので慌てた」
「いや、あれは慌てたどころではないだろう。予想の範囲をはるかに超えていたどころか、自分がその足元にも及ばぬ存在だとわかり打ちのめされた。あのときのやつの顔にはその書いてあったぞ」
「だが、それでもそれがわかるとはさすがは一国の長になるだけのことはある。後ろにいてふたりの会話を聞いていたあの男の息子や取り巻きの大臣どもはそれすらわからなかったのだからな」
「それで、その首相様はどのような手を打ってくるだろうな。俺としては力任せに挑んでくるというのが一番望ましいのだが」
「それはないな。あれもそこまでバカではない。そうなれば滅ぶのは自分だとわかっているだろうし。いつぞやのバカ議員の一件の真相を知っているあの男だ。よもや同じ目に遭いたいとは思うまい」
「残念ながら実は俺もそう思っているし、博子も同じことを言っていた。それでやつは何をしてくる?」
「やれることは少ない。せいぜい博子の歓心を買うことくらいだろう。一国の首相が田舎の女子高校生に媚びを売るなどなんとも情けない話ではあるが、やつはいざとなれば見栄も外聞も平気で捨てられる男であり、ここまで昇りつめたのも、数々の不祥事を起こしながら今まで生き残ってこられたのもそれが理由だからな。ところで、博子が別れ際に口にしたラテン語はわかるか?」
「いや。あれはラテン語だったのか」
「私もわからなかったのだが、博子が教えてくれた」
「博子はラテン語で何と言ったのだ」
「汝、その咎に相応しき報いを受けん」




