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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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源氏物語

 東京都千代田区神田神保町。

 その日の夜、この地にある有名な建物の一室である重要な決定が下されようとしていた。


「……つまり交渉は完全に失敗したわけですね」

「はい。そのとおりです。夜見子様」


 建物の主であるその女性の問いに簡潔にそう答えた彼女よりふた回りほど年長の男の言葉はさらに続く。


「もっとも、死にたくないのならおまえが所有している源氏物語の写本をすべて渡せと言ったわけですから、プライドの高いあの男が拒否するのも当然でしょう。まあ、予定通りではあるのですが」


 男の言葉に薄く笑った彼女が呟くように言葉を紡ぐ。


「確かにあの者にとってあれは自らがこの世に存在する意味と同義語ですから、それを失うということはすなわち自らの死を意味します。同じ死ぬならプライドを持った死に方をしたいということなのでしょう。ですが、これで私たちは最後の義理は果たしたわけですね」

「そのとおりです。夜見子様。では、予定通り第二段階に入ります」

「よろしくお願いします。……ところで、鮎原」

「はい」

「第二段階と言いましたが、第三段階はあるのですか?」

「いいえ。第二段階が終了すればすべてが終わり、平安時代から続いた貴族の血を引く者がこの世から消えることになります。そして、彼が持つすべてのものは夜見子様の手に入るわけです」

 そこに並ぶ幹部たちをひととおり目をやった彼女は頷き、もう一度口を開く。

「ただちに準備を。いや、あなたのことです。すでに準備は終わっていますね」

「はい。内通を申し出ている者もおりますので、まずは順調かと」

「わかりました。では、美奈子に命じます。いつも通りすべてを手に入れ、すべてを闇へ」


 その日から約二か月前の同じ場所。


「ということは、鮎原は例の男が所有しているという源氏物語は青表紙本ではなく、藤原定家が所有していた最初の源氏物語の写本だと言いたいのですか?」


 その場所で女がすごい剣幕で捲し立てていた相手は年長の男であった。


「いったい何を根拠にそのようなことが導き出せるのですか?鮎原」


 永遠にも思える女の罵声はなおも続く。

 だが、男にとってそれはいつものことであり、うんざりした顔で嵐が通り過ぎるのを待ち、やがてそれがやってくると、つまらなそうにその言葉を投げ返した。


「彼の言い分をそのまま聞けばそうなるでしょう。正確を期して言えば、彼は青表紙本以上に価値のある源氏物語を所有しているということです。もちろん彼自身がそれを持っていると言ったわけではありません。ですが、今回彼が出した条件を考えればそれ以外には考えられません。少しでも頭を働かせればそこに行きつくのは自明の理というものだと思いますが」

「そ、それはいったいどういう意味ですか」


 淡々と語る男の言葉だったが、誰が聞いてもはっきりとわかるそこに含まれる嘲りの成分はまさに火に油を注ぐためのものであり、女の怒りが頂点に達する。

 その時だった。


「どうやら美奈子は鮎原の主張に賛成しがたい様子ですね。では、その続きについては私が説明しましょう。構いませんね。鮎原」


 それは男の言葉に怒りが収まらない女を宥めるように口にしたふたりの上位者でこの建物の主でもある女性の言葉だった。


「ご随意に」


 男はその言葉を恭しく受け入れることを身振りと言葉で表し、女も大きく頷く。

 ふたりの主ある天野川夜見子は少しだけ間を置き、それから再び口を開く。


「まず、相手が出してきた条件とは、一般には知られていない日の当たる場所における現存される最古の写本とされる定家自筆の青表紙本『桐壺』と『夕顔』を譲る。そして、それと交換で私たちが手に入れた『輝く日の宮』をコピーさせろというものでした。では、美奈子。ここから読み解けることは何だと思いますか?」

「あの男は『輝く日の宮』を持っていない。そして、夜見子様が持っている『輝く日の宮』は本物と認識し、どうしてもそれを手に入れたいと思っている」

「その通りです。ですが、原本を手に入れるのではなく、それをコピーするために青表紙本、しかも定家直筆のものを差し出すというのはあまりにも不自然だと思いませんか?」

「確かに。こちらから要求したわけでもないのに有名な源氏物語コレクターであるあの男が貴重な青表紙本を簡単に手放すというのはどう考えてもおかしいです」

「では、どのような場合にそのようなことが起こると思いますか?真紀」


 夜見子が訊ねたのはテーブルの右に座りふたりの言い争いを楽しんでいたもうひとりの女だった。

 わざとらしい咳払いをした後にその女が答える。


「……偽物を差し出すということも考えられますが、私たち相手にそのようなことをすればどうなるかを知らないわけではないでしょうから、それは本物と思って間違いないでしょう。そうなると考えられるのはまだ予備を持っている。または、それを補うものを持っている。しかも、それは差し出したものより上位である」

「当然そうなります。それが先ほど鮎原の言ったものとなります」

「つまり……」

「そういうことです」

「ということは、夜見子様は例の話を本当だと思っているのですか?」

「例の話?……ああ、あれのことですね」


 女性のひとりにそう問われ、ようやく思い出した夜見子の記憶の片隅に眠っていたらしいその話。

 それは源氏物語にかかわる遠い昔の出来事だった。

 少しだけ時間をあけてから、彼女の口が開く。


「……そうですね。私は信じてもいいものではないかと考えています。なにしろ彼は確かに貴族の末裔です。それに、これだけ源氏物語に執着しているうえに未確認ながらコレクターと呼ばれるのに相応しいだけのアイテムを揃えている。ですが、噂通りであれば彼一代どころか数代を費やしてもそれを揃えるには莫大な労力と途方もない額の資金が必要となりますし、相当無理をしなければなりません。当然噂にもなりますし、どこかで私たちとも衝突する。ところが、これまでそのようなことは一度も起こっていません。つまり、コレクションが事実であるならばそれらの大半は以前から揃っていたと考えるべきです。そこから導きだせること。それは定家の館から世間一般では原本に一番近いと考えられているあの源氏物語の写本を盗んだのは彼の祖先である」


 彼女の言葉に女性が頷く。


「なるほど夜見子様の丁寧な説明ですべてわかりました。それで、夜見子様はそのコソ泥からの要求についてどのような対処をするおつもりなのですか?」

「もちろん拒否です。確かに定家の直筆本は欲しいのですが、それでも盗人の子孫などが自分より先にいい夢を見る手伝いをする義理は私にはありませんから」

「そのとおりです」

「私も賛成です」

「では、そういうことで……」


「ちょっとお待ちください」


 結論がまとまりかけた女性三人の会話に口を挟んだのは先ほどの男だった。


「せっかくですから、この商談に乗ってみたらいかがですか?」


 だが、彼のこの言葉には当然のように反論者が現れる。 


「何を言っているのですか、鮎原。それでは源氏物語コンプリート競争で夜見子様がコソ泥の子孫に後れを取ることになるではありませんか」


 もちろんその言葉を口にしたのは先ほどまで彼と激論を交わしていた女性である。

 そして今度はそこにもうひとりの女性も加わる。


「そのとおり。私たちがコソ泥に負けるなど許されません」


 ふたりはなかば本気で怒っていた。

 だが、男の表情は変わることはなく、嘲りを含むその笑みを浮かべたまま挑発気味の言葉を並べ始める。


「まずハッキリと言っておきます。そのようなことは起こるはずがありませんのでおふたりの心配はまったくの的外れです」

「言ってくれますね。では、鮎原にはそこからコソ泥を出し抜く妙案でもあるのですか?」

「もちろんあります。当然でしょう」

「では、聞かせてもらいましょうか。その妙案とやらを」

「……いいでしょう」


 そこからまるでその言葉を待っていたかのように彼は語り出す。

 その計画の一端を。


「根幹は今言ったとおり彼が望む交渉には快く応じる。ただしコピーを許す条件は変更します。つまり、彼に差し出させるものを彼自身が申し出たものから大幅に上乗せする。そして、我々が要求するものとは……」


「定家が持っていたとされる源氏物語の初期の写本フルセット」


 男の言葉を遮るように入ってきたのはもちろん彼の主の声だった。


「そういうことです。さすが夜見子様。もちろんこれは法外な要求であり当然彼も拒否するでしょう。ですが、その言葉によって彼が持っているものの正体がはっきりと掴むことができます。その後に我々がどうするのかはいうまでもないこと。結局我々は失うものはなく方針を決めるために必要な情報を得られることになります。いかがでしょうか?夜見子様」


 それから数日後。

 それは届く。


「くそっ。女狐め。調子に乗りやがって」


 送りつけられたそれを読み終わると、その男の怒りは爆発した。


「どうかされましたか?」


 いつもどおり冷静なこの家の執事の声に落ち着きを取り戻した男だったが、それでも怒りは収まらない。


「先日『輝く日の宮』をコピーさせろと女狐に伝えたのは知っているとおりだ」

「女狐とは天野川夜見子のことですね。噂通りであれば確かに彼女の狡猾さは女狐と呼ぶにふさわしいものです。その彼女がいかがいたしましたか?」

「コピー代として、青表紙本二巻をくれてやると書いたのも知っているな」

「もちろんです。過分すぎる条件を提示したものだと思っていましたが、それがどうかされましたか?」

「あの女狐はそれでも満足してはいないらしい。これが女狐の回答だ。読んでみろ」


 乱暴に手渡されたそれを見る。


「……こ、これは」


 唸る執事を横目で見ながら男は言葉を続ける。


「私は『輝く日の宮』そのものをよこせと言ったわけではない。それなのにこれだ。まったく無礼極まりない話だとは思わないか」

「……まったくです」

「だが、困った」

「と、申しますと?」

「決まっている。このままでは『輝く日の宮』を読むことができない。なにしろ現存している『輝く日の宮』は女狐のもとにあるものだけなのだから」


 ……なるほど。


 源氏物語に異常なほど執着している主がそれを欲していることを知っている男は心の中でそう呟く。


 ……いつもなら、この手紙を引きちぎり罵声を浴びせて終わるところを、困ったと言うのはそういうことですか。


「やはりありませんか?」


 執事は心の声を封印し問いかけの言葉を紡ぐと、彼の主は渋さを増した表情でそれに答える。


「あるかもしれない。あるかもしれないのだが、いまだ痕跡すらつかめていない。女狐はあれをどのような方法で見つけ出したかは知らないが、相当な金と労力をつぎ込んだに違いない。さすがの私でもあるかないかもわからないものを探すためにこれ以上の大金を叩くわけにはいかない」

「なるほど」

「とにかく、あれだけのものの対価だ。女狐は本来なら現物を差し出さなければならない。だが、そうはいかないことくらい私にもわかっている。そして、今優先すべきことはあれを手に入れ、そして読むことだ。だからコピーを頼んだ。だが、さすがにこの条件は飲めない」

「では、どういたしますか?私としては潔く諦める、少なくても交渉を延期させることが現在の最良の策であると思いますが。それよりも、例の男との交渉を優先させたほうがいいのではないでしょうか……」


 執事が口にした例の男。

 それは長野県に住み「輝く日の宮」と同じく源氏物語の幻の一巻「桜人」を所有している者だった。

 だが、彼の主はその提案を拒むように首を横に振った。


「それがそうはいかないのだ。女狐が『輝く日の宮』を手に入れたという話を聞いてからというもの、私はあれのことばかり考えている。ここで諦めるという選択肢はもはや私には存在しない」

「ですが、あの女が手に入れたという『輝く日の宮』は本物であるという保証はないのでしょう。それに、例の男が持っているというものを手に入れれば、交渉の切り札に使えます。そうすれば、貴重な書をむざむざ手放さなくてもよくなるではありませんか」

「おまえの言いたいことはわかっている。たしかに本物かどうかはそれを読んで見なければわからない。それに、あれを手に入れコピーを差し出せばよいという策も悪くはない。だが、優先すべきは女狐との交渉だ」

「なぜでしょうか?」

「同封された写真を見るかぎり本物の可能性が高い。それだけではない。これがその写真だ」

 手渡された写真に写るものは本というよりは古い紙束と表現したほうがよいものだった。

「言われて見れば確かに本物に見えます。もしそうであれば、これは抹殺される前に書き写された写本ということになるのですか?」

「そう思うか?」

「違うのですか?」

「実は最初は私もそう思った。だが、今は別の見方をしている」

「と、言いますと?」

「ここに書かれた文字をよく見ろ。これはあきらかに女の字だ」

「もしかして、彼女が持つ『輝く日の宮』は紫式部本人が書いたものだと言いたいのですか?」

「私が持つ定家の写本とも公開されているものとも字体が明らかに違うのだが、手元に比べるものがないから私にはそこまでは言えない。だが、あの女狐なら紫式部自筆の書のひとつやふたつ隠し持っていても不思議ではない。つまり、これが紫式部の手によるものかどうかをあの女狐ならわかるということだ。そして、これ見よがしにこのような写真を送りつけてくるということは……」

「十分考えられると」

「そういうことだ。とにかく何としてもあれを手に入れたい。いや、私は手に入れなければならないのだ。さらに青表紙本を積み上げて女狐と交渉する。これは決定だ」

「……そこまで言うのでしたらもう何も申し上げません」

「よろしい。そもそも、私はあの無礼な男が嫌いだ。やつのボロ屋敷まで出向いたやった私に黙ってあれを差し出せばよいのに生意気にも頭を下げて頼めなどぬかしおって。無礼にも程があるというものだ」


 ……なるほど。そういうことですか。


 執事は先ほどの主の言葉に抜けていた彼女との交渉を優先する本当の理由をようやく理解した。


 ……客観的に見れば、やはり最初に手に入れるべきは「桜人」であると私は思う。

 ……だが、すでに決定は下された。

 ……だから、私はそれに従わなければならない。


 自分の感情を押し込めるように執事は小さく頷いた。

 彼の主がもう一度口を開く。


「安心しろ。あの男が持つ書もいずれ手に入れる。女狐との交渉が終わったあとに落とし前をつけにやつのボロ屋敷にもう一度行く。そのときにあれを頂く」


 そして、それからまた一週間ほど経ったある日。

 男は自らが仕える女性のもとを訪れていた。


「お呼びということでしたが、どのような御用でしょうか」

「決まっています。美奈子さんたちが言うコソ泥の子孫からの返信が届きました。別件もありましたので、今日はあなただけに来てもらいました」

「なるほど。では、まず結果について伺いましょうか。彼の手紙には何と書かれていましたか?」

「あれは紫式部本人の手によるものではないのかという一文がありました」

「さすが当代一の源氏物語コレクター。写真だけでそこまでのことに思い至るとはたいしたものです。それで、こちらの要求に対する返答は?」

「聞くまでもないでしょう。NOです」


 そう言って彼女は笑った。

 もちろん男も。


「それで我々が知りたかった肝心の内容は?」

「さすがにそれは受け入れられないと。他に代案を出して欲しいとあります」

「つまり存在そのものは否定していないわけですね」

「そういうことです」

「そういうことであれば決まりですね。彼が隠し持っている最も価値のある源氏物語。その本来の所有者は藤原定家です」

「これだけでそこまで断言してもいいものでしょうか。それに持っているフリをしている可能性だってあるでしょうに」


 彼女が提示したその疑問に男はかぶりを振る。


「普段ならもちろんその可能性も考慮します。しかし、今回に限って言えばその必要はありません」

「理由は?」

「簡単です。どんなに無謀で愚かな人間でも天秤が一方に傾いたままのこの交渉でその手は使えないことくらいはわかりますから」

「本人にはそのような自覚はないと思いますよ」

「自尊心の塊である本人のためにはよいことではないですか。ですが、『輝く日の宮』をどんなことをしてでも手に入れたいという心があるかぎり彼は交渉で我々の上位には立てません」

「なるほど。さすが長谷川や一の谷の師匠というところでしょうか」

「彼らは天賦の才の持ち主です。私はその長所を伸ばすのを少々手伝っただけですよ」

「ご謙遜を。ところで、あなたにひとつ聞きたいことがあります」

「何なりと」

「かの者にだけ届くように『輝く日の宮』を私が所有しているという情報を囁いたのはあなたですね」


 一瞬より少しだけ長い沈黙後、男が答える。


「……さすがです。よくわかりましたね。そろそろあの男が持つ源氏物語を手に入れる頃合いだと思い、手を打っておいたのですが、どこでそれが私の仕業だとわかりましたか?」

「それはもちろんあなたの言葉。それから態度です」

「参考のためにどの辺のことを言っているのか教えていただいてもよろしいでしょうか?」


 先ほどより数段階冷気を帯びた男の声がもう一度訊ねると、彼女はそれに答える。


「情報管理に厳しいあなたなら自分の預かり知らぬところでそのようなことが起これば、直ちに内部監査をおこない情報漏洩者を探し始める。ところが、今回はスルーだ。普段のあなたを知っている者がそれを見れば、当然あなたがそのことに関わっていると考えます。しかも、この流れは以前あなたが私に語った通りではないですか」

「……なるほど」


 彼女の言葉に男は一礼する。

 その洞察力に感服するように。


「今後の参考になる実に素晴らしいアドバイスでした。それから、貴重な書を無断でエサに使ったことは申しわけなかったと思っています。ですが、あれが奪われることは絶対にありませんのでその点はご安心を」


 男の声に彼女は頷き、答える。


「あなたがそう保証してくれるのであれば安心です。今回もいい結果が得られることを期待しています」

「過分なお言葉ありがとうございます。では、改めてお伺いいたします。終わりの始まりのために作業を開始してもよろしいでしょうか」

「お願いします」


 そして、その数日後。

 前回よりさらに無礼な手紙を受け取った彼は怒っていた。


「こいつらは交渉というものを知らない。そうは思わないか」

「そうですね。しかし、これによって彼らが考えていることがようやく想像できるようになりました」


 それはいつも以上に冷静な執事の言葉だった。


「……一応おまえの意見を聞いておこうか」


 怒りの矛先を言葉の主に向けるように彼はそう言いながら目の前にいる男を睨みつけるが、相手はまったく動じない。


「私にも信じられませんが、どうやら彼らは例の青表紙本を必要としていない。もう少し言うならば、それは『これを所有しているのは世界で自分ひとりだけ』というコレクターにとって甘美な響きを持つ状況を崩してまで『輝く日の宮』を義詮様に見せるほど欲しいアイテムではないということを示しているのではないでしょうか?」

「……なるほど。そういうことか。確かに立場が逆なら私もそう考えるかもしれない」

「そして、これはさらに恐ろしい可能性を示しています。そして、その場合には義詮様が手持ちの青表紙本をすべて吐き出してもこの状況は変わらないでしょう」

「ん?それはどういうことだ?」

「彼らは青表紙本以上に価値の高い源氏物語のいくつかを所有し、現在も集めているということで、しかも、状況から考えてその可能性は非常に高いということです」

「ちょっと待て。それはおかしい。多くの青表紙本は私が所有し、かつて定家が所有していたものは先祖からそれを引き継いだ私がコンプリートしている。それ以上のものなどこの世に存在しない」

「そうでしょうか?私にはひとつだけですが思い当たるものがあります。それは義詮様だって同じはずです。ご自身が所有している源氏物語の写本よりも上位にあたるもの。そう言われて義詮様は何を思い浮かべますか?」

「……まさか。……おまえは女狐が持っているものは写本ではないと言いたいのか」

「彼女のこの強硬さから想像できるものなどそれしかないです。おそらくその難易度の高さから彼女のコレクションは完璧には揃ってはいないのでしょう。そこを補完するものこそ義詮様がお持ちのもっとも原書に近いと言われる源氏物語の写本ということになります。そう考えたときにようやく彼らが執拗にあれを要求する意味が理解できます」

「信じられん。あの女狐は源氏物語の原書を持っているなど……」


 だが、そこで男は思い出す。

 「輝く日の宮」の写真を見た時にふと漏らした自らの言葉を。


 ……ありうる。

 ……ということは、やはりあれは……。


「……認めん」


「そんなことは絶対に認めない。喉から手が出るほど欲しかった源氏物語の原書。一巻、いや一枚でもいい。この世に存在しているのならどうしても手に入れたい。私はそう思っていたのだ。だが、あの女狐はすでにそれを持っているだと。そのような……そのような不条理な話を私は絶対に認めない。もういい。交渉は打ち切りだ。こうなったらそれをすべて奪い取ってやる。あいつらを呼べ」


 それからしばらく経った東京都千代田区神田神保町。

 その一角にある有名な建物からほど近い場所に闇が支配するその時間がよく似合う三人の人影があった。


「決行の三時までどれくらいだ」

「あと十五分といったところでしょうか。それにしても、今回の相手は随分大物ですね」

「その分やりがいがあるというものだ。だからこそ我々十八人が集まったのだろう」

「それに今回はきれいな仕事でなくてもいいという許可も得ている。つまり武器の使用も許可されているのだ。心配なかろう」

「フルメンバーでの仕事は久しぶりですね」

「だが、悪名高き蒐書官の総本山に乗り込み、相手を排除し、手早く目的のものを見つけなければならない。本当にこの数で十分なのか」

「十分かどうかは知らないが、これが我々の最大戦力なのだから仕方がないだろう。と言いたいところだが、実は大丈夫だ」

「なぜだ」

「どうやら、蒐書官どもは仕事に出かけているようで、警備についている人数は非常に少ないそうだ。しかも、まだ交渉中ということで相手は我々が仕事をするとは思っていない。油断したわずかな警備兵など簡単に排除できる。品物はそのあとにゆっくりと探せばよいだろう。それに我々はあの方直属のプロだ。与えられた条件で最高の結果を出さなければならない」

「それはそうだ」

「……ところで」


 一番若いひとりが回りを見渡しながら言った。


「ほかの連中の配置は随分遅いですね」

「まったくだ。もしかして最終打ち合わせ後に何か変更があったのか?」

「三十分前にやったのだぞ。それに、そうであれば我々にだけ連絡がないのはおかしいだろう」

「防諜のために携帯や無線は使わないことになっているだろう」

「だが、やはりおかしい」


 三人の胸に不安の渦が高まり始めたその時。


「こんにちは。ミスター」


 背後からかけられたその声は女性のものだった。

 反射的に全員が隠し持っていた銃に手をかけながら振り返る。


「ハ~イ」


 そこに立っていたのは体の線を強調した服を着て笑顔を振りまくふたりの美しい女性だった。


「素人だ。手を出すな」


 仕事直前に無関係の素人を相手に余計なトラブルを起こすわけにはいかない。

 出しかかった銃から手を放す。


「もしかして俺たちに用があるのか?」

「もちろん」


 そのわずかな会話中三人の目は目まぐるしくふたりの女性を行き来していた。


 ……アラサー?それともアラフォー。だが、いい女であることには違いない。

 ……服装から完全な商売女には見えないが、この時間にこうやって男に声をかけてくるということはそれなりということか。

 ……ふたりはおそらく右の女だろうが俺は左の女が好みだな。


 それぞれ口には出せない恥ずかしいことを思い描いていたものの、すぐにその妄想を吹き払う。


「悪いが俺たちは今取り込み中だ。おまえたちと遊ぶ暇はない」

「そういうこと」

「じゃあな」


 残念そうに男のひとりがそう口にし、手で追い払う仕草をすると、残りのふたりも続く。

 それで話は終わり、彼らはもうすぐ始まる任務に集中するはずだった。

 だが……。


「悪いわね。こちらにも事情があってそうはいかないのよ」


 女のひとりがほんの少しだけ冷気を帯びた声でその言葉を吐きだす。


「何だと」

「彼女の言うとおり。私たちには仕事を全うする義務があるのよ。だから、ここを立ち去るわけにはいかない」

「仕事?どういうことだ」

「実はお仲間からメッセージを預かってきたの」

「メッセージ?」

「そう。今からするお仕事について。聞きたくないと言うのなら私たちは構わないけど、本当に聞かなくていいのかしら?」

「いや」


 もちろん、彼らには他人を介しておこなうこのような連絡手段はない。

 だが、携帯での連絡ができないため、窮余の策として用いたことは考えられる。

 そして、なにより「これからおこなう仕事について」と言っている以上聞かねばならない。

 三人は目を合わせ、そして頷く。


「済まなかった。では、聞かせてもらおう。彼らからのメッセージ」

「よかった。では、伝えるわ」


 美しい笑顔のままで女の口が動いた。


「先に行っている。あの世で会おう」


「何だと。今何と言った?」

「先に行っている。あの世で会おうと彼らは言ったのよ。ミスター」

「ふざけているのか。貴様」

「いいえ、ふざけてはいないわよ。これが彼らからの最後のメッセージ」

「そういうこと。さて、用事は済んだ。では、お別れね」

「おまえたちは、いったい……」


 問いただすための言葉は鈍い発射音とともに途切れ、何が起こったかもわからぬまま至近距離から額を正確に射抜かれた三人はそれ以上の言葉を発することなく倒れる。


「甘すぎる。怪しいと思ったら相手が誰であろうとすぐに撃ちなさい」


 倒れた男たちを冷たい眼差しで見下しながらふたり分の眉間を撃ち抜いた女のひとりがスマートフォンを取り出す。


「私です。業務終了。問題なし。粗大ごみの回収をお願いします」

「……了解。お疲れ様でした。由紀子様。真紀様。直ちに回収に向かわせます」


 一方、相方であるもうひとりは男たちの懐をまさぐりながらつまらなそうに呟く。


「そんなことを言っても狙撃チームが怪しい動きをしたら即座に撃つ準備をしていたのだから、どっちにしても彼らが私たちに危害を加えるチャンスはなかったのでしょう」

「まあ、そのとおりだけど。ところで、あなたはこんな夜中に出歩いても大丈夫なの?あの男の世話はどうしたの?」

「女友達と遊んでくると言って出かけてきたから大丈夫。実際にこうしてあなたと遊んでいるわけだから嘘は言っていないでしょう」

「確かに。アハハ」


 そして、その場所からほど近い建物の一室。

 仕事を終えたばかりの先ほどの女性との電話を切ると男は目の前に女性に声をかける。


「夜見子様。清掃作業はすべて終わりました。報告します。十八人すべて排除。こちらの損害なし。パーフェクトゲームです」

「ご苦労様。ですが、せっかくこのために呼び戻した蒐書官の大部分は何もせずに終わってしまいましたね。鮎原」

「それでよいのです。それに、近いうちに彼らの出番はありますから」

「それにしても、浅はかな男ですね。あの程度の兵でこの建物を本当に落とせると思ったのでしょうか?」


 彼女の素朴な疑問ともいえそうなその言葉には男の極上なともいえる黒い笑みが応える。


「確かに我々のレベルから考えればお粗末なものです。ですが、そうは思わせぬように情報を流し、我々の姿を見せていたのですから、やってきた彼らも、そして彼らの雇い主もあの程度の力でも成功すると思っていたのは間違いないでしょう」


 ……なるほど。


 男の言葉に彼女はすべてを悟る。

 相手は勝ち目のない戦を仕掛けさせられたのだということを。

 そして、ここから起こることは一方的な出来事になることも。


「攻める口実を得るために相手の暴発を誘い、先制の一撃を撃たせる。だが、それはすべて自分の掌の上での出来事で納める。よくできたシナリオです」

「ありがとうございます。ということで、これでようやく本格的な交渉に入れます」


 ……あなたはどこまでも表現にこだわるのですね。


 心の中でそう呟いた彼女は心の声以上に皮肉を込めたその言葉を口にする。


「交渉ですか。その言葉も随分広義な意味を持つようになったのです」

「いいではないですか。我々のような力を持つ者は自制の義務があるのですから形だけでもそのようなことが必要なのですから」

「強者の行動には大義名分が必要だと」

「そのとおりです。特に自らの手で相手を滅ぼすというようなときには」

「それで、これからどうするつもりなのですか?」

「まずは今回の件について雇い主である彼の責を問い詰め、然るべく詫び料を請求します」

「詫び料?それはもう一度彼の持つ源氏物語を要求するということですか?」

「そのとおりです」

「相手がそれを拒否した場合には?」

「当然の報いを受けてもらいます。我々はあくまで平和的解決を望む。しかし、それを彼が望まないのなら仕方がないではありませんか」

「わかりました。さて、その仕上げですが、あなたはまず何から始めるのですか?」

「当然かわいそうな部下たちを雇い主の元に返してやることです。ただし、全部は経費がかかるので返すのは一部となりますが」


 ……一部?


 さすがに男の言葉を解しかねた彼女が訊ねる。


「全員ではないと?」

「いいえ。全員です。一部というのは体の一部ということです。ということで、送り返すのは彼がひと目で自分の部下だとわかる部分となります。それが届けば、我々の本気度がわかるというものでしょう。もちろんそれによ

ってこれ以上我々に歯向かえば自分の家族も同じ運命になるということも理解してもらえますから」

 ……目的のためにはどのような冷酷なこともおこなえる。

 ……いつも温和な顔をしているが、これがこの男の本質か。


 彼女は目の前にいる男の恐ろしさを改めて感じた。


「……ここまでやる必要があるのか」


 交渉相手から届けられた十八人分のそれを見て彼は唸った。

 もちろん、彼の執事も生まれて初めて見るそれに今すぐにその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、執事であるという義務感だけでそれをなんとか抑えつけ、彼の言葉に応える。


「ですが、仕掛けたのは我々です。それに我々も彼女が持つ『輝く日の宮』を手に入れるために建物にいる全員を殺害するつもりだったのですからお互い様だったと言えます。それよりも、問題はこれからです。これからでどういたしますか?」

「どうすると言われても……」

「ちなみに、彼女からはその後何か要求はありましたか?」

「交渉中に交渉相手を強襲するなど信義にもとる行為である。心から謝罪をし、その証として手持ちの源氏物語のすべてを差し出すべしと言ってきた」

「状況を打開するつもりが、さらに悪化させてしまったわけですね。それで、彼女の要求にどのような返答をするおつもりなのですか?」

「このような要求を飲めるわけがないだろう。拒否だ」

「つまり、一戦交えるということですね。ですが、我々には彼女の私兵である蒐書官に抗う力は残っていません。ここは彼女の要求を受け入れるべきではないでしょうか」

「できるか」


 吐き捨てるように言った言葉を聞いた彼は大きく息を吐き、それから自らの考えを口にする。


「あえて言わせていただきます。このままでは当家は滅びます」

「そんなことはわかっている」

「わかっている?つまり、それでも受けて立つということなのですか?」

「そうだ。このまま女狐の命じられるままに源氏物語を差し出して命を長らえるなど私のプライドが許さん」

「あくまで源氏物語は彼女には渡さない」

「当然だ」

「つまり彼女に渡すくらいなら自分の命とともに源氏物語もこの世から消し去るということですか?」

「そのとおりだ」


 その時初めて彼の中にある感情が芽生えた。


 ……こんな男の道連れになって死ぬなどまっぴらごめんだ。


 だが、実際に口にしたのは別の言葉だった。


「頼もしいお言葉です。ところで、それについてひとつお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「何だ」

「ふたつとない品をご自身の名誉のためだけにこの世から滅しても本当によろしいのですか?」

「当然だ。あれは私のものだ。私がどのようにしようと構わないではないか。それともおまえはこの私に女狐にあれを差し出し這いつくばって命乞いをしろとでもいうのか」

「いいえ。私が申し上げたいことはあの源氏物語の希少性についてです。たとえばあれを然るべき場所へ寄贈すればよろしいのではないでしょうか。そうすれば、あれは彼女の手の届かぬ場所に移され、彼女がここを襲う理由がなくなります。万が一彼女が報復のためここを襲い当家が滅びることになってもあの源氏物語はこの世に残ります」

「執事の分際で小賢しいことを言うな。だいたいそんなことをしてしまったらどこの誰だかもわからぬ者が漁夫の利を得るだけではないか。私の源氏物語は誰にも渡さない」

「……そうですか。わかりました。では、その件は承知しました。そういうことであればさらにもうひとつお伺いいたします」

「何だ」

「もし、熱望していた源氏物語が失われた場合には彼女が激怒することは間違いありません。その怒り狂った彼女が義詮様の首だけでそれを許すとは思えませんが、それについてのご配慮はされているのでしょうか?」

「……何が言いたい」

「彼女の刃がお子さんやお孫さんにも向くことも考慮に入れたうえでそのようなことをおっしゃっているのかとお聞きしています」

「おまえはあれが手に入らなかった場合は女狐が報復として一族全員を殺すと言いたいのか?」

「はい。彼女の残虐性はそこに並ぶ彼らの生首であきらかではありませんか。まちがいなく彼女は蒐書官を使って探し続けます。この世にあなたの血を受け継いだ者がいなくなるまで」

「だが、これはいわば私と女狐の私闘だ。女狐がいくら悪逆非道でも幼い子供まで巻き込むことはないだろう」

「いいえ。最近では奈良の史家忠一の一族がそれにあたりますが、過去に彼女と対立した旧家がいくつも一族そっくりこの世から消えています。。おそらく彼女が配下の蒐書官を使って抹殺したのでしょう。このままいけば当家も同じ運命を辿ることになります」

「……そ、そういうことなら、今のうちに孫は親とともに安全な場所に逃がしておこう。そうだ。そのときにあの源氏物語を持たせておけば、たとえ女狐がここを襲っても奪われなくて済む。そして、我が一族の財として残るのではないか」

「それはやめたほうがいいでしょう」

「なぜだ」

「彼女のことです。すでにすでに見張りを配置しています。少数でここを脱出すれば蒐書官の餌食になるだけです」

「では、残っている兵をすべて護衛としてつけるのは……」

「目立ちすぎます。とにかく、ここから外に持ち出せば源氏物語は簡単に奪われます。そうなれば蒐書官たちは心置きなくこの屋敷に火を放つことでしょう」

「では、どうしたらいいのだ」

「義詮様の選択肢はふたつだけです。ひとつは先ほども言いましたが彼女の要求を飲み、謝罪して源氏物語を明け渡す。こちらについては交渉次第では彼女が元々望んでいた定家が所有していた例の源氏物語の写本だけを手放せば済む可能性があります。ですが、その選択を捨てるのであれば残りはひとつだけ」

「……それは?」

「悪あがき程度の一戦をおこない、いくらかの蒐書官を道連れにして一族が滅びることです。一族を救うために恥辱に塗れるのか、それとも己の信念を貫き滅びの美学に身を委ねるのか。私の将来にも関係することですからぜひ教えていただきたい。義詮様はそのどちらをお選びになるのですか?」


 そして、その日はやってくる。

 深夜一時に始まったそれは、戦いというよりも一方的な虐殺だった。

 当然である。

 装備、練度、そしてそもそも数が圧倒的に違うのだ。

 みるみるうちに終局が迫る。


「おまえたちの思い通りに運んでいると思っているだろうが、そうはいかない」


 だが、追いつめられた状況にもかかわらず、彼は不敵な笑みを浮かべていた。


「これだけ時間があれば、宴の準備は完璧にできるというものだ」


 彼の秘策。

 それは……。


「奴らの目の前で、この家にあるすべての源氏物語を跡形もなく吹き飛ばす。それで終わりだ。我々も。そして、女狐の野望も」


 蒐書官たちの足音が彼の一族が集まるその部屋に迫る。


「覚悟はいいな」


 当主である彼が一族に声をかけた直後、大きな扉が乱暴にあけられ、蒐書官たちが現れた。


「待っていたぞ。女狐の子分ども。……お、女?なぜ女が」


 芝居がかったそのセリフは用意されたものだったのだが、それを台無しにしたのは蒐書官を率いていた女性の姿だった。


「もしかして、おまえが天野川夜見子なのか?」

「まさか」


 皮肉たっぷりの言葉どおり、彼女はあきらかに夜見子よりの年長の女性であった。


「残念ね。私は夜見子様配下の上級書籍鑑定官北浦美奈子。夜見子様からあなたを狩る部隊の指揮を仰せつかっています」

「女が指揮官。蒐書官とやらも女にこき使われるとは案外だらしないのだな。まあいい。とにかく動くなよ、女。動けばすぐにこれを起動する。そうすれば私の後ろにある源氏物語は吹き飛ぶぞ」


 気を取り直した彼はスイッチを見せびらかしながら何度も練習した言葉を口にする。

 彼としてはこのあとに慌てふためいた蒐書官に好条件を提示させ、それを拒否したうえで起爆し、自らの幕引きを華やかに演出するつもりでいた。

 だが、彼の目論見は大きく崩れる。

 どういうわけか蒐書官たちも彼らを率いる女性指揮官も慌てるどころか彼の一世一代の演説に嘲笑で応えたのだ。


 ……こいつらは馬鹿か?

 ……それとも、私が本気ではない。そのうち命乞いを始めるに違いないと高をくくっているのか?

 ……無礼者め。


 彼は沸騰する怒りを言葉として口にする。


「貴様。私の言葉を理解しているのか?言っておくが私は本気だ」

「それくらいのことはわかっています。要するにあなたが言いたいのは追い詰められたので今から自殺するということでしょう。死にたければ勝手に死ねばいい。ですが、あなたの自己満足に貴重な書を巻き込むとはまったくもってナンセンス。耄碌するとその程度のこともわからなくなるのでしょうか」

「貴様。女の分際でどこまで私を愚弄するつもりだ?」

「それ相応のことを自分がおこなっていることを自覚しなさい。だいたい先祖が千年以上守り抜いた源氏物語を灰にすることにあなたはうしろめたさを感じないのですか?」

「私だってこの書を愛している。もちろんそのような気持ちがないわけではない。だが、貴様たちの主人に渡すくらいなら私があの世に持っていったほうが百倍マシだ」

「なるほど。夜見子様の敵らしい立派なセリフです。まあ、いいでしょう。一度だけチャンスを上げます。ここで投降しなさい。そうすればあなたの後ろで震えているものたちは助けてあげましょう」


 ……助かる。


 美奈子の言葉に空気は揺らめく。

 だが、それ制したのは彼の罵声だった。


「断る」


 一瞬だけ差し込んだ生への希望を目の前で摘み取られてがっくりとうなだれるものたちの様子を冷ややかに見渡すると彼女はその言葉を口にする。


「なるほど。あなたの決意のほどはわかりました。では、確認します。命乞いはしない。それはあなただけではなく全員の総意だと」

「当たり前だ。我々は千年以上続く名家。おまえたち下賤の者たちとの違いをこれからみせてやる。さらばだ。女」


 そう言って彼は手に持ったスイッチを押す。

 それですべてが終わるはずだった。

 だが……。


「ん?」


 二度、三度と押すが何も起きない。


「どうかされまれましたか?ミスター」


 再び起こる嘲笑。


「こんなときに故障か。仕方がない。おまえが持つ予備のスイッチを押せ」


 隣に立つ彼の後継者になるはずだった息子に指示する。

 緊張に震えるその指が動く。

 だが、それでも何も変わらない。


「どうやら、機械の方はこの世に未練があるようですね。ミスター」

「うるさい。しかし、なぜ起爆しないのだ。あれだけ確認したのに」

「……当然です」


 焦る彼にかけられたその声は蒐書官の後ろから現れた人物のものだった。


「私がさきほど起爆装置をすべてはずしました」

「姿が見えないと思っていたら……貴様が裏切ったのか」

「裏切ったのではありません。これは源氏物語を守るための正しい道への回帰です。あなたが先祖から受け継いだこの書は未来に残すべきものです。その程度もわからぬとはあなたはつくづく愚かな人だ」

「ふざけるな。貴様ごときに私の高貴な思考を理解できるはずがない。と、とにかく恩知らずの貴様はこの場で死んで詫びろ」

「死んで詫びなければならないのは自分の自己満足に貴重な書だけでなく家族まで巻き込んだあなたの方ですよ」

「何だと」

「あなたは人の上に立つ器などない。そのような人に半生を捧げたのかと思うと自分の愚かさを呪いたくなります。本当に無駄な時間を過ごしたものです。幸いにも私はここで正しい道へ戻ることができましたので、これからは有意義な時間を過ごすことになるのですが」

「貴様……よくもそこまで」


「ミスター。まだまだ元部下と語り合いたいところでしょうが、そろそろ時間です」


 ふたりの会話に割って入ったのは女の声だった。


「……この場に及んでの命乞いをしないのは愚かではありますが潔いともいえます。それに免じて、あなたもあなたの家族も苦しまずにあちらへ送り届けてあげましょう」


「始めなさい」


 それから二時間後。


「美奈子様。付属資料も含めてすべて回収完了です。大収穫です」

「ご苦労様。あとはこの館を焼却処分するだけですね。もうひとつ焼却しなければならないものが残っていますので点火は少しだけ待ってください。さて、ミスター」


 蒐書官の報告を受け取ったその女性が話しかけたのは彼女の影のようにつき従う一人の男だった。


「まだお礼を言っていませんでしたね。あなたの裏切りのおかげで貴重な書物が救われました。ありがとうございます」

「いえいえ。とにかくこれで貴重な源氏物語の写本が灰にならずに済みました。本当によかったです」


 その時彼女は彼の表情を確かめるように一瞬だけふり返った。


「……なるほどね。ということは、本物ということなのですね」


 彼女はそう小さく呟く、さらに辛辣さを加えた言葉を紡ぐ。


「ところで、あなたは自ら鮎原に裏切りを申し出たそうですね」

「それは少々違います。私から貴重な書を守ることに協力していただきたいと申し出たというのが事実です」

「つまり自分が助かりたかったからではなく、本を守りたかったから私たちを手引きしたのだと言いたいのですか?」

「そういうことです」

「なるほど。では、あなたの目的は十分に達成できたのではないですか。それなのに、あなたはなぜまだ生きているのですか?」

「これは手厳しい。ですが、せっかく拾った命。これからは自分に相応しい上司に仕え、満足できる時間を過ごしたいと思っています。そういうことで、これからご指導のほどよろしくお願いします。北浦様」

「……ものは言いようですね。ところで、参考までに教えてもらいたいのですが、長年に仕えた主人への忠誠心をあなたはどうやって簡単に消し去ることができたのですか?」

「間違いを犯した主人は部下に見捨てられて当然なのです。そのことに気がつけば誰もが簡単に正しい道へと戻ることができます」

「それはこれまでどれほど恩を受けてもできるものなのですか?」

「もちろんです。まあ、私の場合は能力に見合うほどの恩は受けていませんが」

「たいした自信ですね」

「それほどでもないです。ですが、夜見子様のお役に立つ自信はあります。それは今回の件で証明できたのではないでしょうか」

「よくわかりました。さて、最後にもうひとつ聞いておきたいことがあります」

「なんでしょうか?」

「あなたは主を裏切って助かり、幼子を含めてあなたが長年仕えていた一族は私たちに殺されたわけですが、泣き叫びながら殺される子供たちの姿を目の当たりにして自らのおこないを後悔する気持ちは起きませんでしたか?」

「それはまったくなかったです。それにその責を負うのは間違った判断で一族を不幸にした愚かな当主だと思います。少なくても私ではありません」

「なるほど。どうやらあなたが持つ最大の能力は自己弁護のようですね」

「恐れ入ります」


 彼女は薄く笑った。

 彼もそれを冗談だと思い笑った。

 だが……。


「あなたの為人はよくわかりました。やはり、あなたとはここでお別れすることにしたほうがよさそうです」


 前を歩いていた美奈子がふり返りざまに放った二発の銃弾は彼の額を正確に貫いた。

 さらに倒れた彼の胸に三発。


「これがあの男の執事であったあなたの最後の仕事です。主とその一族に殉じなさい。ミスター。……いや」


「クズが」


「裏切ったと見せかけて私の命を狙っているものを思っていましたので、わざと背中を晒していたのですが、まさか本当に自分可愛さに主を裏切っているとは思いませんでした」


 死体になった元執事を蔑むように眺める由紀子に蒐書官のひとりが心配そうに声をかけた。


「ですが、第一の功労者であるこの男を殺してしまってよろしかったのですか?」

「功労者?確かにそうですね。しかし、彼のやったこととは何ですか?助かりたい一心で最後の最後に主人を裏切った。それだけです。彼がいなくても同じ結果を得るのはそれほど難しいことではありませんでしたよ」

「彼の手引きのおかげで我々は短時間に、しかも無傷で源氏物語を手に入れられたのではないのですか」

「その通りです。ですが、ただそれだけとも言えます。そもそも身を挺してでも主の暴走を止めることが執事の重要な務めですし、たとえ間違ったことであっても一旦主人が下した決定には最後まで従うことは執事の第一の義務です。たとえば……ように」


 彼は知っている。

 彼女が口にし、彼の耳には届かなかった夜見子の傍らに立つその男の名を。

 彼は頷く。


「そのとおりです」

「ですが、この男はそのふたつとも果たせませんでした。このような無能な男は生きていても夜見子様の役には立ちません。不要です」


 彼女はその蒐書官の表情を確かめ薄く笑う。


「不安ですか?ですが、心配する必要はないです。鮎原からはこの男の処遇は私が決めていいと言われていました。そして、これが私の下した結論です」

「……一度裏切りの味を覚えた者はそれを何度も繰り返す」

「そのとおり。だから私は裏切り者を決して許さない。そのことを知っている鮎原がこのオペの指揮を私に任せたということは、鮎原もこうなることを望んでいたのでしょう。もちろん夜見子様も」


「……やはり持っていたのは定家のものだけでしたか」


 その日の夜。

 あの一族が所有する源氏物語が自らのものになった一連のできごとにおける本当の第一の功労者に彼女は声をかけていた。

 その男が彼女の言葉に応える。


「この世に存在していないはずの貴重な書を大量に手に入れたというのに夜見子様ががっかりしているように見えるのは私の気のせいでしょうか」


 そう言って男は笑う。

 もちろん彼女も。


「いいえ。もしかしたら紫式部直筆の源氏物語も何冊かは持っているのではないかと思っていたものですから、つい……」


 彼女の本音とも思える言葉に、男は諭すように言葉を添える。


「物事はそう思い通りには進みません。それにあまり欲をかくべきではないでしょう。欲をかきすぎれば身を亡ぼす。それは今回の件で改めてわかったと思うのですが」

「そうですね。そのとおりです」


「ですが、これであの者によって削り落とされた巻を含めたオリジナルの源氏物語の姿にまた一歩近づきました」

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