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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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28/104

古代エジプトの王名表

 エジプトの首都カイロ。

 その中心部から三十キロほど南に下るとエジプトの古都メンフィスがある。

 当時はエジプトのもっとも重要な都市と言われていたメンフィスだが、現在はナイルがもたらした肥沃な土にそのすべてが隠され当時の賑わいなど想像すらできない。


 だが、このメンフィスはある種の人間にとっては今でもホットスポットといえる場所であった。

 そして、そのある種の人間とは……。

 それはもちろん考古学者と盗掘者である。

 考古学者は本格的調査を始めてから百年以上知識を求めてその地を掘り続け、彼らの天敵でもある盗掘者はさらに昔からお宝を探して同じ行為を繰り返しおこなっていた。

 さて、考古学者よりも前からここを掘り続けている盗掘者であるが、当然ながら彼らが苦労して掘り当てたものもそれを買い取る相手がいなければただの汚い石ころでしかない。

 そう。

 昔も、そして今も、盗掘の元凶とは彼らが掘り当てた品を高価で買い取る者の存在である。


 そして、現在そのようなものたちの元締めをしている人物こそエジプト周辺の蒐書官を束ねる新池谷勤だった。

 その彼が現在この地での最優先ターゲットとして探し求めているもの。

 それが古代エジプトを統治した王たちの名前を記した王名表であった。


 きっかけは最近この地でそれを掘り当てた盗掘者から買い取った玄武岩の欠片だった。


「君はこれをどう見るかね」


 それを最初に目にしたときに新池谷がそう訊ねたのは持ち込まれた数多くの盗掘品の真贋鑑定をおこなう部署の責任者である清水和也だった。

 この清水という蒐書官は非常に珍しい経歴の持ち主だった。

 学生の頃から「将来間違いなく日本のエジプト学会を背負って立つ逸材」と評されるほどの圧倒的な才を持っていた一方で、彼はその遠慮のない言葉が原因で先輩たちと度々トラブルを起こしていた。

 そして、ある時、翌日の発掘方法を巡って和也は所属する発掘チームの長である日本エジプト学会の中心人物される教授と激しい舌戦を繰り広げ、圧倒的な勝利と引き換えに発掘チームをクビになった。

 本人の言葉によれば、辞めさせられたのではなく、「馬鹿の下で働くほど馬鹿なことはないので自分から辞めた」そうなのだが、とにかく、そういうことで異国の地で突然無職になったしみは自分が深刻な問題を抱えていることに気がついた。

 それは……金がなかったことだった。

 もちろん少ないが和也には給料というものは支払われてはいた。

 だが、その少ない給料はほぼすべて資料代に消えており、蓄えというものがなかったのである。

 まあ、たとえ口座に金がなくても働いて稼げばよいわけなのだが、和也の場合それが思うようには進まなかった。

 当初自分の能力なら引く手あまたであり簡単に他のチームに移籍できると思っていた和也だったが、部下たちの前で恥を掻かされた教授から現代の「奉公構」ともいえるお触れが回っていたため和也を受け入れるところはひとつもなかった。


「……仕方がない。風が変わるまで考古学とは無縁の職業で飢えを凌ぐか」


 一度はそう考えてはみたものの、これまで遺跡調査に没頭していた和也が過酷な肉体労働に耐えられるはずはない。

 では、観光客を相手にガイドをして日銭を稼ぐという日本人留学生がやるごく簡単な錬金手段はどうかといえば、「馬鹿な奴には自分が馬鹿だとしっかりと教えてやることを信条にしている」親切な和也には素人相手に愛想よく話をするなど到底できそうになかった。


「……考古学者というのはつぶしが利かない職業なのだな」


 和也の自嘲の言葉通り、発掘現場を飛び出して僅か三日で八方ふさがりとなり、やりたくはないが、生きていくためには大げんかした教授に詫びを入れるしかないと和也が思い始めたときに、援助を申し出たのが新池谷だった。

 もちろん胡散臭いとは思ったものの、相手は同じ日本人であり何よりもその日の食事にも困っている無一文に近い和也にその申し出を断る選択肢などあるわけがなく、ありがたくそれを受け入れ、和也はしばらく優雅な食客暮らしを始める。

 やがて、新池谷は和也を自らの組織に誘う。

 自室に和也を呼んだ新池谷は問うた。


「考古学に携わっている者は最低限のモラルというものは必要だと私も思う。だが、今の君は考古学者ではない。だから、誘う。どうだ?我々とともに働かないか?我々の側からは考古学者では決して見ることができない素晴らしい風景を見ることができるぞ」

「見ることができない風景?たとえば?」

「こういうものだ」


 新池谷はそう言ってそれを覆っていた布を取った瞬間、和也は息を飲む。

 それは和也がこれまで見た中で最高の芸術品であった。


 ……美しい。

 ……世界中の美術館を探してもこれを超えるものはないと断言できる。

 ……だが、いったいこれは何だ?


「知識が豊富な君に語る必要はないだろうが、世界中の専門家にも知られていないものだ。我々はこのようなものを扱っている」

「もしかして模造?いや、これは間違いなく本物だ。……ということは盗掘品?つまり、あんたは盗掘品の売買をしているということか」

「そうだ。そして、もう一度問おう。清水和也。我々のグループに加わらないか?」

「それは犯罪に手を染めるということか」


 それはきわめて常識な返答だった。

 だが、その言葉を新池谷は鼻で笑いながら言葉を続ける。


「犯罪?それが何を指しているのかはわからないが普段は大きなことを言っていても、所詮君も巷に溢れるごく普通の人間か。少々期待したのだが気が失せた。帰りの旅費は出してやるので負け犬として日本に帰るといい。ただし、ここで見たこと聞いたことは口外しないように。漏れたら必ず殺す」


 和也に手渡されたのはファーストクラスで日本とエジプトを数往復してもお釣りが来るくらいの札束だった。

 和也に背を向けた新池谷は最後にこう言った。


「これはもうすぐ闇市場に流す。そして、二度と日の当たる場所には現れない。君も彼女と会うことはないだろうから、帰る前にエジプトに来た記念によく見ていくといい。古代エジプト芸術の本当の最高峰。ラメセス二世王妃ネフェルタリの彩色立像を」


「ま、待ってくれ」


 結局清水は残り、現在もこの場所にいる。

 そうして、今日も彼は自分のオフィスに飾られたそれを眺めながらこう嘯くのだ。


「これこそやっと見つけた私の天職。かつての仲間は誰ひとり味わったことのない美しい彼女に見つけられながらのこの素晴らしい生活。これぞ天国。パラダイス」

 そう。

 あの日、和也はひとつの条件を出していた。


「これを……これを私の手元においてくれるのなら、私のすべてをあなたに捧げることを約束する」


 そろそろ話を戻そう。


「……君はこれをどう見るかね?」


 新池谷にそう訊ねられた和也は即答した。


「おそらく王名表の一部」

「理由は?」

「この小さな石板にこれだけの王の名前が刻まれているのは王名表以外にないでしょう。一部分ですが、治世年数を示す文字もありますし。ですが……」

「どうしたのかね?」

「惜しいです」

「闇市場に流すのは惜しい品だということかな?」

「当然そうです。新しい王名表になる可能性がある考古学的にも貴重な品なのですから。ですが、それよりも私が気になるのはここに記されているのは第十八王朝初期の三人の王の名ということです。私が改めて説明するまでもなくこの石板はトトメス二世以降が失われているわけですから、もしこれに続くピースが残っていれば……」

「アビドスの王名表では省かれていたハトシェプスト女王の扱いがどうなっているかを知ることができたということかな?」

「そのとおりです。もちろんアマルナ時代の諸王についても同様です」

「確かにそうだな。そういえばお嬢様はアビドスの王名表からはふたつのことがわかると言っていたそうだ」


 お嬢様。

 それは、彼らの主である天野川夜見子の雇い主兼スポンサーである立花家の次期当主である少女のことである。


「そのふたつとは?」

「ひとつはハトシェプスト女王やアマルナ時代の王が王名表から省かれたのはあくまでセティ一世やラメセス二世の解釈であり、彼らにはそうしなければならない理由があったことが読み取れる」

「もうひとつは?」

「治世年数も短く記念建造物すら残っていない第六王朝ウアセルカラーのような王が王名表に名を残していることから、少なくてもセティ一世の時代にはまだ公的な王名表が存在したはずであると。私が夜見子様から聞いたのはこのふたつだ」

「なるほど」

「これについて元エジプト学者である君の意見を聞こうか?もちろん、これはここだけの話であり、何を言おうが蒐書官としての君のキャリアに傷がつくことはない。それで、どうかね」

「……そうですね」

「遠慮はいらない。率直な意見を言いたまえ」

「なんというか、両方とも実に納得できる話です」

「どういうことかな」

「はい。特に二番目のものについてはそう思わずにはいられません。たとえ墳墓や記念建造物などに王の名前は残っていてもそれだけでは順番まではわかりません。それではどうやってセティは歴代王の即位順まで知っていたのか?いうまでもありません。アビドスのふたつの王名表もそれも基につくられ、そのときに自分たちにとって不都合な王を削除した」

「それがハトシェプスト女王やアクエンアテンというわけだ」

「そこに第二中間期の王たちも加わります。実際に『トリノの王名表』には彼らの名もあるわけですから」

「そうだったね。ところで『トリノの王名表』というものについてはどう考えるかね?」

「ヒエログリフで書かれていないことから正式なものではないものの私的なものというよりは公文書に近いと思われます。もうひとつ。パピルスの耐久年数を考えれば原本はあくまで石材に刻まれステラのような形で永遠に残されるものとしたのではないでしょうか」

「その一部が今回手に入れたこれであると言いたいのかね」

「十分に考えられます。それにしても、博子お嬢様の見識は驚くべきものです」

「まったくそのとおりだ」

「それはそれとして、こうなってくると、やはりこれが完品でなかったのが悔やまれます。……もう少し探せば残りのパーツが出てくるということはないでしょうか……」


 もちろんこれは、彼自身の願望を口にしただけだったのだが、そのひとことにより事態は急変する。


「そうだな。まったくそのとおりだ。……では、やるか」


 予想もしない上司の言葉に和也は驚く。


「い、今なんと?」

「君の意見を採用し大規模な捜索をすることにすると言ったのだ。メンフィスの担当をしている胡桃沢君と甘草君に連絡を取ってくれたまえ」

「本当に?本当にやるのですか?」

「当然だ。メンフィスでこれがみつかった。オリジナルなのかコピーなのかはともかく、この地に新しい王名表の破片がまだ残っている可能性は十分にある。金と労力をかけてもそれに見合うものが出るかどうかはわからない。だが、探す価値があるだろう。それから、念のためにアマルナで惰眠を貪っているあの男にも連絡しておいてくれたまえ。『まもなく出番が来る。そのときに作業チーム全員を連れて駆け付けられるように準備しておくように』と」

「承知しました。早速手配します」


「ボス。ミスター新池谷から連絡がありました」


 若い男がその情報を持ってきた相手は、見るからにアメリカ人といえる男だった。

 彼の名はスコット・ジェームス。

 蒐書官とはライバル関係にあるあの美術館の闇組織で主席交渉官の地位にあり、カイロを中心に活動している。

 その男は部下が持ってきた情報を嬉しさの欠片もない顔で受け取る。


「新池谷?蒐書官の親玉か。それで奴は何と言ってきた?」

「近々蒐書官たちがメンフィス周辺で大規模な作業を始めるとのことです」

「それだけか」

「はい」

「わかった」


 つまらそうに思案するジェームスに大急ぎで飛んできたのは彼の新しい副官としてロンドンから着任したばかりのふたりの交渉官だった。


「奴らは何かを見つけたのでしょうか?」

「さあな。それよりも、周辺で活動しているエージェント及び作業員にメンフィスから離れるように指示を出せ。大至急だ」

「いいのですか。……その……」

「そうです。せめて、当局に連絡して奴らの妨害をさせるべきではないですか?」


 彼らの提案は間違っていない。

 ただし、エジプト以外ではという条件がつくのだが。

 そして、唯一の例外であるエジプトではどうなるかといえば……。


「馬鹿か。いや、この場合は死にたいのかと言ってほうがいいか」

「どういうことですか?」

「決まっているだろう。新池谷がわざわざ連絡してきたのだ。それはつまり邪魔するなということだ。そして、これは警告でもある。何かあれば苛烈な報復をおこなうという」

「ですが……」

「おまえたちは赴任してきたばかりだから知らなかったのだろうが、エジプトでは他地区と違い我々は奴らと良好な関係を保っている。それに実際のところ、我々は奴を通してかなりの数の盗掘品を手に入れている。ここで奴らの邪魔をすれば我々は商品の重要な入手ルートを失うことになるのだ。だいたい我々が最初に目をつけたものならともかく、何を探しているかもわからない状況で手を出すなど愚か者のすることだ。厳命する。手出し無用」

「……承知しました」

「不満そうだな。だが、しばらく待っていろ。奴から素晴らしいプレゼントが届くはずだ。命を張らないどころか金を労力も使わず貴重な遺物が手に入るのだ。これほど楽な商売はないだろう」

「そ、そうなのですか?」

「ああ。ここエジプトは我々にとって非常に居心地のよい天国のような場所なのだ」


 数日後。

 メンフィス近郊のローカルレストランにそのふたりはいた。


「ざっと眺めただけですが、本当にいませんでしたね。一週間前にはあれだけ兵隊アリがいたのに」

「新池谷さんが直接手配したのだ。当然だろう。だが、もうひとつの障害はまだ仕事を続けている」

「もうひとつの障害?」

「各国の正式な発掘チームのことだよ。さすがに隣でいつもどおり作業されてはこちらの仕事は予定通りには捗らないだろうな」

「そちらについても新池谷さんに当局に手をまわしてもらい作業を中止させたらどうなのですか?」

「確かにそれは有効な手段だ。だが、それが使えるのは一回だけで、しかもその効力は二週間だ。だから、それは目的の品の姿が見えたときに使用すべきであろう。おそらく新池谷さんもそう考えたから、調査チームには手をつけなかったのではないだろうか」

「なるほど。では、その間は地道な努力が必要ということですか?」

「そういうことだ」


 胡桃沢と甘草というふたりの蒐書官の言葉通り、このあとの作業は遅々として進まなかった。

 当然である。

 なにしろ胡桃沢たちがおこなっていたことは正真正銘の盗掘であり、白昼堂々とやるべきものでも、できるものでもなかったのだから。

「今日も出ませんでした」

「何事も忍耐だよ。とにかく結果が出るまではやるしかないのだよ。甘草君」

「そうですね。でも、いつまで続くのでしょうね。この昼夜逆転生活は」


 事態が動いたのはそれから二週間後のことだった。

 三日前にアマルナから送り込まれた彼ら蒐書官が抱える中で最高レベルの技術を持つとされるエリート作業員たちが黒い石の欠片を次々と掘り出したのだ。


 もちろん、その情報はすぐにはふたりのもとに伝えられる。

「現在のところヒエログリフが刻まれているものはないようだが、見つかったものは確かに玄武岩だ。さて、ここで君に問う。希望の玄武岩の破片が出てきた。君はこの事実をどう読む?」

「可能性はないとは言いませんが、残念ながら文字が刻まれているものが見つかっていない以上はこれらが探し物の一部であるとも断定もできません。簡単に判断するのは難しいです。ですが、新池谷さんには連絡をすべきでしょう」

「そのとおりだ。新池谷さんには私が連絡をするので、君は作業員を集中投入して、石をすべて回収するように指示をしてくれたまえ」

「わかりました。ですが、たとえこれが目的の品だとしてもこれだけ細かく砕かれているものを組み合わせるのは大変そうですね」

「まったくだ。とても我々に手に負えるものではない。だが、我々の近くにひとりだけいるだろう。そういう作業が得意そうな人間が」

「そういえばいますね。蒐書官の肩書はあっても蒐書官らしい仕事をまったくしない暇人が」

「そうだ。こういう時くらい彼は寝ずに仕事をしなければ蒐書官を名乗る資格はないと私は思うのだが、君はどう思うかね?」

「まったくそのとおりです。しっかりと働いてもらいましょう。彼に」


 その翌々日。

 メンフィスで発掘をしていた複数の発掘チームに当局より突如作業中止の指示が入り、現場への立ち入りが禁止された彼らがカイロへ引き上げるのと入れ替わるように、エジプト各地に散らばっていた蒐書官が選りすぐりの盗掘師を伴ってメンフィスに姿を現す。

 そして、そこから始まる彼らの作業は、のちに蒐書官たちの間で「歴史的偉業」と評されるほど、もはや盗掘とは呼べないくらいの大規模なものだったのだが、その凄まじさを表すある蒐書官の言葉がある。


「人間の限界など実は存在しないのではないか。人海戦術だけで地球の裏側まで掘り起こしてしまいそうなあの光景を見た時に私は本当にそう思ったものだ。そして、こうも思った。これだけのことをできる人間という生き物ならギザに建つピラミッドなどいとも簡単につくりあげたに違いない……」


 二週間後。

 そこは昨日までの喧騒が嘘のようにいつもの静けさを取り戻していた。

 だが、ようやく許可が下り、調査を再開するために戻ってきた発掘チームのメンバーはその光景を目にしたとき、自分たちがここから遠ざけられた理由が何であったかを悟らざるを得なかった。

「これは……盗掘か?」

「もし、これがそれ以外の目的でおこなわれていたのなら驚きだ」

「そうだな。そのとおりだ」

 ため息をつく彼らの目の前に広がっていたもの。

 それは、きれいに埋め戻され今にも耕作が始まりそうな見事に整地された広大な土地であった。

「我々を遠ざけてまで何を探していたのだ」

「さあな。だが、これだけ大規模に掘り返していたのだ。その何かがここにあると確信を持って探していたのだろう」

「だが、誰だ。こんなことができるものとは」

「考えるまでもない。当局を動かして盗掘ができる組織などこの世にふたつしか存在しないだろう」

「そのとおりだ」

「それで、今回のこれはどちらの仕業だろうな」

「そういえば、我々がここを離れている間に現場を歩く日本人を何人も見かけたという情報があるな」

「では、噂の蒐書官ということか」

 

「……甘いな」


 それは、話に強引に割り込んできた見慣れぬ顔の作業員のものだった。

 先客である男のひとりが問うように言葉を返す。

「甘い?甘いとはどういうことだ?」

「よく考えろ。ここにあいつらが欲しがるような本があると思うか。古代エジプトの遺物であいつらが欲しがるものは唯一パピルスだ。ここにそこまでしてまで彼らが欲しがるパピルスがあったと思うか。しかも、この規模だ。パピルスを探すにはあまりにも大きすぎるだろう」

「確かに」

「そうなると、もうひとつということか……」

「だが、現場に日本人がいたという話はどうなる?」

「それはもちろん罪を蒐書官に擦り付けるための工作だ」

「なるほど。世界が自分たちのためだけに回っていると勘違いしているあの悪党どもなら十分にありえるな。……それにしてもやってくれたものだ。あれだけ掘り返せば、あそこ一帯にはもう塵ひとつ残されていないだろうな」

「日本ではこういう光景を『つわものどもが夢のあと』と言うらしい」


 ……正確には意味は違いますが、この風景にはふさわしい言葉ではあります。


 それからしばらく経ったある日の午後。

 あの美術館のカイロオフィスのトップであるスコット・ジェームスがやってきたのは、彼が属する組織が手に入れた品を保管する倉庫だった。

 そして、そこに並べられた大量の荷物。

 もちろんそれらの送り主はまったく聞き覚えのない名前だったが、その本当の送り主が誰かを知っているジェームスは平然と開封を命じる。

 やがて現れたその中身に驚く部下たちに、少なくても表面上はさして驚く様子を見せずそれを眺める彼がつまらなそうに言葉をかける。

「これが以前話した蒐書官からのプレゼントだ。噂によると、相当大規模に掘り起こしたそうだから、これくらいは当然出るだろうよ」

 ジェームスの言葉に部下のひとりが言葉を返す。

「なるほど。ですが、完品の末期王朝時代のステラに、破損しているものの中王国時代と新王国時代の石像が二体まであるとは驚きです。これを我々に明け渡すということはこれ以上のものを奴らは手に入れたということになりませんか?彼らはいったい何を手に入れたのでしょうか?」

 興奮気味の部下の言葉にジェームスはそっけなく答える。

「さあな。それに奴らは欲しかったものが手に入らなかった可能性もある」

 そう言いながら、ジェームスは心の中ではまったく別の言葉を口にしていた。


 ……やつらがこれだけ大規模に動いたのだ。

 ……当然確信があった。

 ……つまり、失敗などありえん。

 ……つまらんことだが。


 さらに心の内など欠片ほども見せない言葉を加えて、さりげなく話題を変える。

「なにしろ掘ってみないうちは何が出てくるのかわからないのがこの業界だから。まあ、それはともかく、奴らが目的のものを手に入れられたのかどうかはわからないが、どのようなものを掘り出したのかはすぐにわかる」

「どういうことですか?」

「近いうちに新池谷が主催する闇オークションが開かれる。当然そこには今回掘り出したお宝も出品される」

「なるほど」

「そこで我々は労せずさらに良いものを手に入れることができる。つまり奴らは我々のために盗掘をおこなった、いや、おこなってくれたのだ。悪い話ではないだろう」

 自らの預かり知らぬところで盗掘団の頭に祀り上げられていたその男はそう言って満足そうに笑みを浮かべた。


 一方、本当に盗掘をおこなっていた組織の長であるが、その男新池谷勤はあれ以降ある場所に頻繁に出かけるようになっていた。

 彼が足繁く通う場所。

 そこはカイロ近郊にある巨大倉庫だった。

 床一面に黒い絨毯のように六桁は下らない数の玄武岩の破片が広げられていたそこに新池谷は事件が起こってから二週間が経った今日も訪れていた。

「楽しそうだな。清水君。これから気が遠くなるような作業をおこなわなければならない者とは思えないな」

 やってきた新池谷が声をかけたのはその広い作業場を楽しそうに飛び回るかなり年下の男だった。

 その男が新池谷の言葉に答える。

「厳密にはまだ作業をおこなっていませんので、楽しみというほうが正しいのかもしれませんが、これを眺めているだけでわくわくします。ですが、大昔に捨てたはずの技術がこのような形でこの組織で役に立つとは思いませんでした」

 元エジプト学者の苦みを帯びた言葉に彼の上司にあたる男は少しだけ笑みを浮かべる。

「今までも君が前職で身につけた技術は十分役に立っていた。それに、君は大昔と言ったが、たった二年前のことだろう」

「それでも、私にとっては大昔です」


 ……つまり、それが君の願望というわけか。


 男のそれは触れられたくないという言外の言葉に気づいた新池谷はさりげなく話題を変える。

「……ところで、君はこれをどれくらいの時間でくみ上げるつもりなのかな」

「エジプト学の常識ならこの大きさのものの復元には最新の技術を使っても数年、普通なら五年から十年はかかるといったところでしょうか。ですが……」

「ですが?」

「これだけすばらしい機材と優秀なスタッフが揃えば半年。遅くても一年もあればそれなりのものになります」

 彼自身、これが復元されるには数年は必要だと思っていたため、その半分以下でできるという男の言葉は意外であり、驚きは隠せないものだった。

「殊勝な物言いだ。それでも、やはり君は優秀だな。なにしろ、いくら機材やスタッフが優れていても、それだけでは宝の持ち腐れの見本になるだけだから。そのような君を簡単に放り出すとは、以前君が仕えていた大教授とやらは余程人を見る目がある人物とみえる」

「彼には申しわけないのですが私もそう思います。それに彼が欲しがっていたのは、優秀な者ではなく、自分の指示に無条件で従う犬のような人間でしたから」


 ……本音だな。

 ……おそらく、それは事実なのだろうが、簡単にそれを口にしてしまうところはまだまだ甘い。


 新池谷は元エジプト学者の恨み節を聞き流しながら、心の中でそう呟いた。


 ……そして、それは相手だけが悪いとは限らない。


 ……やはり、ひとこと言っておくべきだろうな。


「なるほど。それでは君は基準からはずれるな。もっとも君は協調性を重んじる多くの組織では最も嫌われる常に自分が正しいと主張するタイプの人間なのだから追い出されても仕方がないと言えなくもないだろう。そして、そこにつけ加えておくならば、君は我々はそのようなことを排除した徹底した実力至上主義の組織だと思っているかもしれないが、そのようなことはない。それどころか、他の組織以上にそれが重要視されているといってもいいだろう。それだけは心してくれたまえ」

「……はい」

 もちろん、男は自分自身でもその自覚はあった。

 だが、ここまで的確にそれを指摘されたのは初めてであり、とても多少とはいえないほど動揺をした。

 もちろん彼がそれを見逃すはずがない。


 ……十分説教の効果はあったようだな。

 ……これくらいでいいだろう。


 目の前の男の様子に満足すると、自らの心の声を表情のどこに表すこともなく言葉を続ける。

 たった今自らが口にした言葉が存在しなかったかのように。

「ところで、君がこの特大ジグソーパズルの完成が半年でできると断言した理由は機材やスタッフ以外にもあると思うのだが違うかな?」

 もちろん男は戸惑う。

 だが、話がそちらに進むことに異存はない。

「……そのとおりです」

 こちらも心の内をそっと隠してその言葉に答え、話は進む。

「では、聞かせてもらおうか。その理由を」

「ひとつは、思っていたほど細かく砕かれていなかったということです。さらに、これが王名表とわかっている以上、パズルの位置がある程度予測できるということも素早く仕上げることができる理由になります。ちなみに、完成予想図がこれです」

 彼が手渡されたもの。

 もちろん完璧とは程遠いものの、興味がある者にとってはそれだけで十分に楽しめる代物だった。

「これはいい。完成を楽しみにしているよ。ところで、例の部分の作業を優先的におこなうということは可能だろうか。実を言うと、博子お嬢様に催促されたらしい夜見子様からそのような要望が出されているのだが」

「もちろん可能です。私自身も一番知りたいところですから」


「……実を言えば、私もそうだ」


 それから五か月後。

 それは千葉の田舎に建つ古びた洋館にあった。

 やってきたそれを嬉しそうに眺めるのはこの館の実質的主である少女。

 そして、その隣には少女の元語学教師でその運搬を指揮し品物と一緒にこの館を訪れていた天野川夜見子。

 ふたりは、ほぼ完ぺきに復元されたそれを満足そうに眺めていた。

 やがて、少女の口が動く。

「予定より随分早く組みあがりましたね。一年はかかると思っていたのですが」

「そうならないように日本にいる『すべてを癒す場所』の主力も機材とともにエジプトに送り込みましたから」

 すべてを癒す場所。

 それは彼女が抱える修復技者集団のことである。

「それでも、やはり早いです。修復作業の指揮をとった者は余程の才覚者であると言わざるを得ません。新池谷の陣頭指揮で作業をおこなったのですか?」

「いいえ。もちろん修復は『すべてを癒す場所』の技官たちが仕切っていますが、今回は清水という者もそこに加わっています。彼は元エジプト学者ですから今回の修復作業に関わるにふさわしいと新池谷が判断したようです」

「清水?彼は確か現地採用でしたね。蒐書官の肩書を持つ者としては珍しかったので覚えています」

「新池谷がどうしても採用したいというもので仕方なく。もっとも彼には蒐書官に必ず持つべきあの才がありませんから蒐書官というより技官に近いのですが。それよりもこれを見てどう思いますか?」

 夜見子の言葉とともに、ふたりの視線はそれに注がれる。

「素晴らしいものです。ですが、完成されたこの王名表を見ると色々と考えさせられるものがあります」

「と言いますと?」

「確かにこれはこれまで見つかっている王名表とは比べようがないくらいの内容になっています。なにしろ第一中間期、第二中間期の諸王の名前も含んだ神話時代から第二十二王朝までの王名が記されているわけですから」

「お嬢様が気にしていたハトシェプスト女王、アクエンアテン。それにツタンカーメンやアイの名前もありますし」

「それだけではありません。第四王朝だけでもアビドスの王名表に含まれないふたりの王が加えられています。第十八王朝では……」

「まさかネフェルネフェルウアテンまで加えられた王名表を目にする日がやってくるとは思いませんでした」

「まったくです」

「それで、お嬢様が気になることとはどのようなものなのですか?」

「確かにこれは古代のものです。しかも、劣化の具合、それから字体や彫りも微妙に違うことから、ある時代に一気につくられたのではなく、王の即位ごとに名を付け加えられていったように思えます」

「ということは、やはりこれが公式な王名表ということになるのでしょうか?」

「一見するとそう思えます。ですが、そうでない可能性も考慮に入れる必要はあるでしょう」

「どういうことでしょうか?」

「第十五王朝の王のあとに、第十六、第十七王朝の王名が続いています」

「それが何か……あっ、なるほど」

「そうです。十五の次に十六が来るわけですから現代の人間にとってはどこもおかしくありませんが、これは時系列的に考えれば大変おかしなことです。なにしろ第十五王朝と第十六、第十七王朝は同時期に南北を分割支配していたのですから。そこから考えられることは、これはメンフィスの支配者の名前が刻まれている可能性があるということです。もちろんエジプトが統一されている頃はメンフィスの支配者イコールエジプトの支配者だったのですが、エジプトが南北に分割されてしまえば、メンフィスに住む者たちにとって支配者とはすなわちメンフィスを支配している者になります。もし、そういうことであれば、エジプト再統一後、勝者である第十八王朝の祖先であるふたつの王朝の名前がこのように書き加えられても筋は通ります。そして、そうやって見ると、納得できる部分がもうひとつあります」

「もしかして、ヘリホルやピネジェムの名前がないことでしょうか」

「さすがです。彼らは上エジプトを支配していましたが、その支配地域にメンフィスは含まれていなかったために、ここに名前が刻まれなかったと思われます」

「セティやラメセスの時代にこの石板に刻まれたアクエンアテンやツタンカーメンの名前が残されたのはなぜでしょうか」

「それこそ、これがアンタッチャブルの存在であることを示すものなのかもしれません。ですが、そこから新たな問題が出てきます。それはこれを管理していたのはいったい誰だったのかということです。まあ、これは今日一日で解決できる問題でも解決すべき問題でもありません。私たちには解明するための資料も時間もあるのですから、ゆっくりと、そして楽しんでそれをおこなっていきましょう」

「はい」

「それから、先生にお願いしたいことがあります。このコピーをふたつ作製してください」

「それはもちろん構いませんが、いったいどこへ送るのですか?」

「もちろんひとつは先生のところへ。もうひとつは今回の功績として清水へ渡してください。……残念ながらこの大きさのままでは建物に入れることも設置することもできませんからサイズダウンをしたものとなりますが」

「ありがとうございます。もちろん清水も喜ぶことでしょう。では、さっそく『すべてを写す場所』に発注します」

「そうしてください。よろしくお願いします」

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