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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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27/104

ナポレオンの自叙伝

 イギリスの首都ロンドン。

 この都市を根城としているふたりの蒐書官高遠と神永にその指示が届いたのは今から二年前のことだった。

 だが、「ナポレオン・ボナパルトの自叙伝を手に入れよ」という在イギリスの蒐書官を束ねる統括官蒲原を通じておこなわれた夜見子からのその指示はあまりにも簡素なものだったために、それを受け取った彼らは困惑した。

「ガセであるということはないのですか?そのようなものが存在したという話は聞いたことがないですから。というか、それにすでに出ていますよね」

 後輩の言葉に高遠が答える。

「夜見子様を愚弄する今の君の言葉は特別に聞かなかったことにしておくが、とりあえず君が言っているのはマルローの著作のことだろう。だが、そもそも彼らはいつの時代の人物か君は知っているのかな」

「ナポレオンはもちろん十八世紀から十九世紀、マルローは二十世紀に活躍した人間です」

「そう。そして、これがそのマルローの本だ」

 自らの問いに答えた後輩の言葉に彼はそう言って、先ほど古書店で五ポンドを出して購入してきた一冊の本をテーブルに放り投げた。

「ナポレオンの自伝などと言っても、所詮は他人が日記や資料をまとめ書き上げたものだ」

「つまり、これではないと?」

「当たり前だ。おそらく夜見子様はナポレオン本人が記した自叙伝が存在する情報を手に入れたのだろう」

「……そうであれば、もう少し情報を……」

「それを調べ、そして手に入れるのが我々の仕事だ。それに、夜見子様自体もこれ以上の具体的情報を持っていない可能性も十分に考えられる。まあ、我々は他の蒐書を続けながらその捜索をすればいいだろう。だが、ここでもうひとつ重要なことがある」

「それは?」

「この指示がイギリスの統括官蒲原さんにだけ出されているということだ」

「それはイギリスにある可能性が高いということですか?」

 ここは紅茶の国であるという世間の評判に抗うように常にコーヒーカップを手にしている高遠が後輩蒐書官の問いに答える。

「少なくても、夜見子様はそう考えているのだろう。そうでなければこれだけの代物だ。同じ指示がヨーロッパ地区の統括官である朱雀さんにも出ているはずだろう」

「たしかに」

「それから……」

「何ですか?」

「蒲原さんが我々にこの仕事を振った件だが、相当暇そうに見えたのだろうな。君が」

「それは少しひどいですよね。我々だって頑張って……ん?今何と言いました?」

「蒲原さんの目には君が仕事をサボっているように映っていると言ったのだ。ちなみに私はしっかり仕事をしているのでそこに含まれない。パートナーである私に迷惑をかけないように君はもう少し仕事をしてくれたまえ」


 それから二年が経った今。

 それは突然やってきた。

「神永君」

「はい」

「蒲原さんのところに夜見子様からの督促の連絡が来たそうだ」

 あの話をなかば忘れていた相方に、それよりは少しだけそれを覚えていたもうひとりが夜見子から間接的に届いたその連絡を伝えた。

 その連絡。

 もちろんそれは……。


「今月中にあれを手に入れ、私のもとに届けよ」


 もちろんふたりは慌てる。

 なにしろそれに関しての探索はまったく進んでいなかったのだから。

「どうしますか?」

 後輩の言葉に苦り切った高遠が答える。

「どうするも何も羊皮紙代わりになりたくなければ、他をキャンセルしてでも探し当てるしかないだろう」

「ですが、あと二週間しか……」

 その時、後輩蒐書官のスマートフォンがけたたましい音が鳴り響く。

「くそっ。この忙しいときに誰だ。とにかく今は取り込み中だ。私は邪魔が入らないように電源を切ってある。君もさっさと切りたまえ」

「はい。あっ……それが……」

「どうした?そんなに青ざめた顔をして。いったい誰からだ」

「その……蒲原さんからです」

 蒲原。

 フルネームを蒲原誠一郎といい、イギリスの蒐書官を統括している人物である。

 そして、その男が持つふたつ名こそ彼が一瞬で凍りついた理由である。

 絶対零度。

 彼は常々「自分に厳しく、部下にはさらに厳しく、敵には最高級の厳しさであたる」と豪語しており、彼の一睨みでロンドン中の蒐書官たちは震え上がる。

 そのような存在なのである。

 そんな相手からの電話を無視する勇気など持ち合わせている者などそうはいない。


 数分後、話が終わり恐縮しながら電話を切る後輩に高遠は声をかける。

「聞きたくはないが、蒲原さんは何と言ってきているのかな」

「自分も手伝うと……それから……」


「明日、会いたいと」


 そして、翌日。

 ロンドン名物ビッグベンがよく見えるカフェに三人の日本人がいた。

「……つまりほとんど進展はないということでいいのかな」

「はい。申しわけありません」

「私に対する謝罪などいらない。ところで、私からその指示を受けてから君たちは何冊の本を手に入れたのかね」

「三十四冊です」

「高遠さん。三十五冊です」

「そうだった。三十五冊です。現在も二冊の稀覯本の交渉をおこなっています」

「なるほど」

 三十五冊。

 蒲原の問いに答えた彼の言葉に含まれるそれは少ない数とは言えなかった。

 彼らとしては、これだけの書籍を手に入れており決してサボっていたわけではないということを主張したかったわけである。

 だが、それを聞いた蒲原の表情はそれまで以上に厳しくなる。

「高遠君。君に問う。私が君たちにこの仕事を任せた意味がわかるかね」

「……いいえ」

「まあ、どうせ自分たちが仕事をしていないと思われているなどと考えていたのだろう。だから、いつも以上に張り切って本を手に入れていたのだろうが、ハッキリ言おう。君たちは大いなる勘違いをしている」

「勘違い?」

「そうだ。私もそれについて君たちにもう少し説明すべきだったと反省しているのだが、特定チームに蒐書を指示した場合は、そのチームはそれに主に行動しなければならない。つまり、それはそれだけ困難なミッションだということも示している。たとえばニューヨークで活動している月島君たちなどパピルス一枚を手に入れるのに一年以上かけている。ところが、君たちは……」

 続きは言われなくてもわかる。

 その重要な仕事を他の蒐書の片手間にやっていた。

 傍から見ればそう見えるし、実際もそのとおりである。

「……大変な勘違いをしていました」

「いや。先ほども言ったとおり半分は私の罪であり、夜見子様への謝罪は私がした。だが、この失態は言葉ではなく形として取り返さなければならない。つまり、君たちは、いや。我々は指定された本は期間内に必ず手に入れなければならないということだ」


 その日の夜。

 すでに十杯以上のコーヒーとともに時間が過ぎていた。

「神永君。君はどう考えているのかね」

 あらたなる一杯とともに高遠がそう訊ねると、問われた意味を解しかねた後輩蒐書官が言葉を返す。

「私たちが調べた時にはナポレオンの遺稿はベルトランがすべて受け取ったということになっていました。それ以外のものもすべて所在はあきらかになっています。そこで我々は行き詰ったわけですが、高遠さんはそれ以外に自叙伝と呼べるような遺稿が本当に存在していると思うかということを聞きたいのですか?」

「いや。今はそれがあるかないかを議論している時間などない。問題はその遺稿がなぜフランスではなくイギリスにあるかということだ」

「例の看守が持ち帰ったのでしょうか?」

「それ以外にはベルトラン以外の側近がこっそりと手に入れ、それをイギリス人蒐集家に売ったことも考えられる。だが、これも持ち逃げした犯人探しが目的ではない。あくまでそこからターゲットを絞るための参考にするだけだ。だが、それでも足りない。ん?……もしかして」

 天啓。

 のちに高遠はこの時のことをこう語った。

 もちろん本当にそれが天啓だったのかはわからない。

 なにしろ彼は無神論者。

 そのような罰当たりな者に導きを与えるなど色々な意味で問題があるだろうから。

 まあ、その真偽についてはひとまず脇に置き、とにかく彼自身の言うところの天啓により、遂に正解への糸口を見つけた高遠はさらに言葉を続ける。

「ひとつ思いついたことがある。それを話す前に君に問う。今回のようなまだ知られていない本の存在を我々が知るきっかけとはどういうときかな?」

「ひとつはそれが売りに出るとき。もちろんオークションも含まれます。次に、彼らコレクターの性である同好の士にそれを見せ自慢したとき。とりあえずここに鑑定依頼時に存在が判明したときも加えておきます。大別すればこのふたつでしょうか」

「素晴らしい見識だ。そして、今回はそのどれに当たると思うかね?」

「三番目ですね」

「つまり、わからんということか。理由は?」

「ロンドンにいる我々の情報網にその存在が引っ掛かっていないからです。それに蒲原さんからいただいた情報にも痕跡すらありませんでしたし。それで高遠さんはどう考えているのですか?」

「君が挙げたふたつのうちのひとつ目の色が濃い。しかも、夜見子様が手に入れたその情報はイギリス以外から得たもの」

「その理由は?」

「先ほど君が指摘した通り近くにいるはずの我々が得られる情報がなさすぎる。夜見子様の指摘通りイギリスにそれがあるのなら、そのようなアクションが起これば確実に煙が立つはず。それもないということは、夜見子様がロンドン以外のルートから何らかの情報を手に入れたものと考えられる。つまり、相手は海外の者だ。そして、イギリスに住む所有者が海外の誰かと密かにやることといえば売買交渉のほうがより可能性が高いというわけだ」

「なるほど。ですが、そうであれば二年間のロスは大きいということになりませんか」

「普通はそうだ。だが、発表はないということは……」

「商品はまだ動いていないということですか?」

「正確には動いていなかったとなる。つまり、夜見子様の催促が今になって突然来たということは、最近になって動きが活発になってきたことを示しているのではないのだろうか。そして、それに気づいた夜見子様が急いで手に入れるように指示をしてきたということは、夜見子様はその相手が簡単に手を出せない組織だと考えている。だが、そうであればもう少し情報を知らせてくるはず。ということは夜見子様も交渉相手はともかく所有者についてははっきりとは掴んでいない」

「なるほど。辻褄はあっています。それで我々が手を出せないその組織とは?」

「決まっている。個人や裏組織ならともかく、公的機関に買い取り成功の発表をされてしまえば、さすがの我々でも簡単には手が出せない」

「つまり、相手は政府または博物館。もしかして……」

「これだけの大物を扱える者は限られる。しかも、ロンドン周辺でこれだけ秘密裡に交渉をおこなっているのだ。そのようなことをやってのける海外の組織など我々以外にはほんの一握りしかない。つまり、そういうことだ。そして、そこから導かれる結論。我々の失敗は入り口からゴールを目指したこと。つまり、ゴールすなわち交渉相手である彼らの痕跡を追えば必ず持ち主のもとに辿り着く。いや、彼らが我々をそこまで導いてくれる。神永君。蒲原さんに連絡を」


 ロンドンの一角にあるオフィスビル。

 その一室で、不機嫌そうな五人のアメリカ人が顔を合わせていた。

「先ほどケンジントンのお方の承諾はまだ取れないのかというニューヨークからの催促のメールが届いた」

 その輪の中心にいるこのグループ、だけではなく、彼らが属する組織のこの国の責任者であるトム・ピーターソンがその言葉を口にすると、他の男たちは一斉に不機嫌さを増す。

「こちらの苦労も知らないで好き勝手言ってくれる」

「ロンドンで遊んでいるとでも思っているのか」

「それにしても、駆け出しの頃だってこれだけ交渉が進まなかったことはなかったぞ。交渉継続を認めてもらうのでさえ一苦労だなんてありえないだろう」

「言いたいことはわかる。だが、さっさとケリをつけなければならないのも事実だ」

 不平を並べていても埒が明かぬと会話を強引に切り上げたその男はもう一度口を開きその言葉を口にすると、隣の男が重々しく彼の意図を引き継ぐ。

「そのとおり。ぐずぐずしていると近くにいる女狐の子分どもに気づかれるぞ。いや、それだけでなく大英博物館だって動くだろう。そうなればことは収拾がつかなくなる」

「いっそのこと、交渉していることを発表するか」

「バカを言え。それではやつらが堂々と交渉に参加するだけではないか。そうなればどちらが相手でも我々に勝ち目はない」

「そもそも内密にというあのお方の意向に背く。その時点で我々との交渉は打ち切られる。そして、その後に席に着くあいつらが悠々と交渉をおこないそれを手に入れる。それでは我々はただ宝のありかをあいつらに教えただけになる」

「まさに噛ませ犬だな」

「それだけではない。我々は信用を失い今後一切闇ルートで商品を仕入れることができなくなる。そうなれば我々の組織自体が不要となる」

「だが、我々はすでに定められた上限金額より一割も多い額を提示している。これ以上を提示するには上の許可がいる。それで上申した返答はどうだった?」

「聞くな」

「つまり状況は良くないということか」

「決まっているだろう。上はこの件で大揉めだそうだ」

「だが、ナポレオン自筆の自叙伝だぞ。こんなものはそうそう手に入らない」

「そうは言っても我々はその価値から地平線の彼方ほどかけ離れた金額を要求されているのは間違いない」

「うむ。八億ポンドはあまりにも高すぎる」

「まったくだ。八億ポンドも出せばどんな有名絵画でも買い取ることができるからな。まあ、これの買い取りに八億ポンドもの大金を投じたら最低でも五年間は自分たちの予算に悪影響が出る絵画部門の連中が猛反対するのも理解できる」

「だが、どうする?相手はまったく折れる様子がないぞ」

「売ってやってもよいという姿勢もまったく変わっていない」

「それが厄介なのだ。いっそののこと、売らないと言ってくれればよいものを」

「蛇の生殺しだな」

「まったくだ」

「金も困っていないうえに相手が相手だけに脅しも通じない。なにか打開策はないか」


「……仕方がない。こうなったら最終手段を使うしかない」


 長い沈黙後リーダーであるピーターソンが口にしたそれがどのようなものかはもちろんその場にいる全員が知っている。

 だが、やはり確認すべきだと思ったひとりがそれを口にする。

 それをおこなった場合の「副作用」を加えて。

「それは特殊工作班を動かして強奪するということか。だが、手に入れたことを公表した段階で必ず揉めるぞ」

 男の疑念にピーターソンは答える。

「だから、揉めないようにする。あるだろう。その方法が」

「つまり、殺すのか?あのお方を」

「本人だけではなく屋敷にいる全員だ。そうすればそれの存在を知っているものはいなくなり、所有を公表しても問題は起きないと考える。では、これについての皆の意見を聞こう」

 そう言ったピーターソンが右隣の男に視線を向けると、その男が口を開く。

「すべてが終わったあとに適当に元の所有者をでっちあげればいいわけか。悪くない」

 続いて隣の男も。

「私も賛成。せっかく女狐よりも先に宝を見つけたのにおめおめ引き返すなどあり得ないことだ。付け加えるならば、やつらに気づかれぬうちにケリをつけるべきだろう」

「あれは我々が絶対に手に入れるべきものだ。だが、先方が望む八億ポンドも出せない。そうなればやるしかない。私も同意」

「このまま金額に折り合いがつきませんでしたと手ぶらで帰れば我々第十三交渉部の廃止が俎上に上がるのは間違いない。それを避けるためにもどのような手段を使ってもあれを手に入れなければならないと考える。同意だ」

 全員が賛成の言葉を口にすると、ピーターソンは大きく頷く。

「これで規定どおりスタッフ五人全員が賛成した。では、上に許可を取ったら即作戦を実行する。工作チームを呼び寄せておいてくれ。だが、現場はロンドンのど真ん中だ。派手なドンパチは避けなければならない。必要最低限の人数で実施するように念を押しておく必要はあるな」


 同じ頃、ロンドンにいるひとりの日本人の男は地球の裏側にいる女性と携帯電話で話をしていた。

「……そろそろナポレオンの自叙伝の持ち主がわかりましたか?蒲原」

「……はい。夜見子様。高遠君たちが交渉先であるあの美術館から辿り所有者を突き止めました。私も確認しましたが、所有者はケンジントンに住む老人で間違いないです。探りを入れたところ、現在老人と奴らとの交渉は相当難航しているようです。今からでも十分に間に合います」

「……結構です。ですが、買い取り交渉の前にやってもらいたいことがあります」

「……と言いますと?」

「……その老人一家の警護。近々銃とナイフで武装した強盗団が「ナポレオンの自叙伝」を奪うためにその屋敷を襲うそうです」

「……もしかして……」

「……そういうことです。その老人の前で自らの罪を喋らせるためにできればひとりは生かしておいてもらいたいのですが、最優先はパーフェクトゲームです。こちらの損害は一切認めません。そのために動員できる最大限の人員の確保と最高の準備をおこなうように。もちろん夜戦用フル装備で。由ロンドンにいる由紀子の部下たちにも手伝ってもらってください」

「……承知いたしました。今回も完勝をお約束いたします。もちろん老人にもその家族にも指一本触れさせませんのでご安心を」

「……そうなれば、おのずと目的の品は手に入れられることでしょうから、よろしくお願いします」


 それから三日後の夜。

 その屋敷の敷地に侵入した八人の男が四方向からその館に近づいていた。

「マイク。もう一度確認しておくが銃は最終手段だ。部下たちにも念を押しておいてくれ」

「心配はいらない、トム。我々はプロだ。素人の家を襲撃するのにそのようなものは必要ない」

「苦労をかけるが、素人の強盗に襲われたように見せる必要があるのでよろしく頼む」

「わかっている。それよりも、商品の見極めはおまえたちに任せる。なにしろ我々はその品物を見たことがないのだから」

「その点は心配ない。そのために我々三人も参加しているのだ」

「そういうことだ。ところで、計画では裏側から侵入したアランが館に侵入して我々が待つ玄関の鍵を開けることになっているが一階には誰もいないというのは間違いないのか?」

「大丈夫。住人はすべて二階と三階だ」

「警備装置は?」

「大丈夫。すでにこの辺は停電だ。さて、着いた。全員配置に着いたか?」

「右OK」

「左OK」

 すぐにふたりから返答があったものの、裏側から侵入予定のアラン・ケネディと、館全体が見える場所で監視するジョン・ボイドからは返答がない。

「聞こえるか?アラン。ジョン」

「……今配置についた」

「いつでもOK」

 だが、やや遅れて届いたふたりからの声は雑音が多く聞き取りにくい。

 心なしかその声も彼らとは違うようにも聞こえ、特殊工作班リーダーのマイク・ジョンソンの心に得体の知れない不安がよぎる。

「心配したぞ。ところで雑音が多いがどうした?」

「わからない。だが、問題ない。やってくれ」

「こちらもいつでもどうぞ。そちらこそ声が震えているが何か心配ごとでもあるのか?マイキー」

 マイキー。

 それは彼とつき合いの長いジョン・ボイドだけが呼ぶ特別な言い方だった。


 ……どうやら、俺の勘違いだったようだな。


 彼は自分の疑いを心の中で笑い飛ばした。

「笑わせるな。この程度の仕事でビビる俺ではない。一分後に作戦を開始する。簡単な仕事だが、手抜きはするなよ」

「了解」


 そして、その一分後それは起こる。

「作戦開始」

 隊長であるマイクが作戦開始の指令を出した瞬間、それが合図であったかのように三発の銃声が響き三人の男が倒れる。

 もちろんマイクも。

「おい、マイク」

 声をかけたものの、頭を撃ち抜かれた彼が即死であることは明白だった。

「さ、作戦失敗だ。撤収する。ヘンリーに車を回すように連絡しろ」

「了解」

「待ち伏せだと。どういうことか?」

「知るか。それよりも今はここを脱出することが先決だ」

 死んだ仲間を置き去りにして逃げようとする三人だったが、仲間の悪夢はすぐに彼らのもとにもやってくる。

 先ほどの倍する数の銃声はふたりの死体とひとりの重傷者をつくる。

「くそっ。動けない」

 両足を撃ち抜かれた痛みに耐えながら車両で待機しているはずのヘンリーに連絡しようとする唯一の生存者トム・ピーターソンは近づいてくる男たちの気配に気がつく。


「動けば射殺する」


 それは自分たちのものとは違う英国なまりの強い英語だったが、目の前にいるのは見間違えようもない日本人だった。

「貴様ら……蒐書官」

「我々をご存じとは光栄のきわみ。持ち物をあらためたまえ。高遠君」

「はい」

 にじみ出る敗北感に打ちのめされる彼に更に追い打ちをかける言葉が投げかけられる。

「気になるだろうから最初に言っておきましょう。いくら待っていてもヘンリー君ともうひとりのお仲間は迎えには来ないです」

「……どういうことだ?」

「今頃真っ先にあの世に行ったアラン君とジョン君に会っていることでしょう」

「……何?」

「向こうで君を待っているということですよ。ついでに言えば、このパーティーが始まる前にあなたがたと話をしていたのはここにいる永戸君と湯木君です。そういうことで残りはあなたひとりです。だが、感傷に浸る暇はありません。唯一死ななかったあなたにはやってもらわなければならない大事な仕事がありますので」

「な、何だ」

「決まっているだろう。懺悔だ」

「いいね。懺悔」

 その場に起こった複数の嘲笑が彼の傷口を突き刺す。

「どういうことだ?」

「もちろんあなたが殺そうとした相手に自分の罪を告白してもらうということです。その後彼に命乞いをするかどうかはあなた次第ですが、悠長にしていると出血多量で死ぬことになりますから仕事は手早くやったほうがいいと思いますよ。ミスター。いや、第十三交渉部通称アウルのイギリス地区責任者兼主席交渉官トム・ピーターソン殿」

「……私を知っていたのか?」

「もちろん。あなたほどの有名人を私たちが知らぬはずがないでしょう」

「では、行こうか」


 後ろ手に手錠をされ引きずられるように連れてこられた先に待っていたのは館の主だった。

 老人は地面に転がされた男を冷ややかに眺め、ゆっくりと口を開く。

「おまえアメリカ人は金と暴力ですべてが自分たちの思い通りになると思っている。だから私はアメリカ人が嫌いなのだ」

「……」

 その後いくつかの言葉が交わされたものの、主は固い表情を変えぬまま館へと踵を返した。

 それは彼が人生の中で最も重要な交渉に失敗したことを意味していた。

 うなだれながら彼は問う。

「最後に聞きたい。おまえたちはあの年寄りといつから共闘していたのだ?もしかして、値を釣り上げて我々の暴走を仕組んだわけではあるまいな」

 心身ともに打ちのめされた男の言葉にこの場を支配する日本人が答える。

「まさか。あなたたちが取り引きしていたことに我々が気づいたのはそれほど昔ではないですよ。そして、我々が最初にここを訪れたのは、あなたたちがこの館の住人すべてを殺そうと決め上申した直後ですね」

「も、もしかして……」

 ……内部通報者?

「さあ、真相は私も知りませんし、もちろんこれから消えゆくあなたが知る必要もないことです。さて、お別れの時間が来たようです」

「ま、待て。知りたいことがあれば何でも話す。おまえたちの犬になってもいい。だから……」

「申しわけありませんが、その申し出はお断りしておきます。神永君。やりたまえ」

 直後、この日最後の銃声が轟いた。


「命を救ってくれたことには感謝するが、あれを売り渡すこととは別のものと考える」

「公爵様のおっしゃるとおりでございます。お譲りいただけるのであれば、我々は公爵様のおっしゃる金額を支払わせていただきます。よろしくお願いします」

「それならよろしい。それでは、商談に入ろうか」


 翌朝、その事件を指揮していた男は、地球の反対側に住む主の代理人と、このような会話を交わしていた。


「……鮎原さん。『ナポレオン自筆の自叙伝』を手に入れました。もちろん館の人間も全員無傷です」

「……ご苦労様でした。それで、こちらの被害は?」

「……死者はもちろん負傷者もありません」

「……スコアは?」

「……全部で十です」

「……すばらしいです。さすがは蒲原君といったところか」

「……ありがとうございます。ところで、夜見子様はどうやって「ナポレオン自筆の自叙伝」の存在を知ったのか、鮎原さんはご存じですか?」

「……存在そのものはある筋からの連絡によってイギリス上流階級の間にそのような噂が流れている情報を掴みました。ただ、その時はそれ以上のことはわかりませんでした。具体的な話が出てきたのはアメリカからです。買い取りを持ち掛けたところとんでもない大金を要求されていると。アメリカには多くの美術館や博物館がありますが、それだけの多額のお金を動かせることができるのはひとつしかありません。そこで彼らの動きを秋島君に見張らせていたところ、あの話が聞こえてきたわけです。ですから、私も夜見子様もあなたがたとほぼ同時期に所有者を知ったことになりますね。それにしても、舞台がロンドンでよかったです」

「……そのとおりです。そうでなければ、中倉様直属の狙撃チームの支援は得られませんでしたから。ところで、今後のことですが、少々心配が……」

「……それはかの美術館からの報復についてですか?」

「……はい。油断していたとはいえ、あれだけの手練れをひとり残らず仕留められたのですから、当然我々の仕業とわかるでしょうし、彼らとしてもさすがにやられっぱなしというわけにはいかないではないでしょうか?」

「……もちろん私たちも油断は禁物です。ですが、私たちに対して直接的な報復をおこなうほど彼らも愚かではないので、それに対しての過剰な警備をする必要はないでしょう」

「……それは私も同じ意見です。しかし、彼らがケンジントンの老人に対して苛烈な報復をおこなうことは十分考えられます。トム・ピーターソンなる男が死に際に言ったように、彼らはかの老人が最初から我々と手を組んで自分たちをだまし討ちをしたと疑っている可能性はありますから」

「……なるほど、そういうことですか。それで、老人からは今後の保護要請はあったのですか?」

「……いいえ」

「……そうであれば、たとえそうであっても、そのようなことは私たちの預かり知らぬことであるです。かの老人は私たちにとっては本を買った相手。ただそれだけなのですから」

「……では、放置ということでよろしいですね」

「……もちろんです。ただし、保護要請があればそのかぎりではありません。もっとも、プライドの高いあの老人にそれができるとは思えませんが」

「……ということは老人の運命は決まったということですね。まあ、その辺が今回の落としどころなのでしょうが」

「……そういうことです。本人が望むか望まないかにかかわらず、人にはそれぞれ相応しき役割があります。そして……」

「……あの年寄りにはそれが相応しき役割であるということですね」


「……そのとおりです」

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