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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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ヴァイキングの航海読本

 北欧諸国のひとつ、ノルウェー王国。

 この北国の中でも北極圏に位置するトロムソは、かなりの北に位置する都市である。

 目の前には海が広がり、そこからも多くの海の幸がもたらされるトロムソだが、極寒のこの時期に多くの外国人がここを訪れる理由は別にある。

「すばらしい光景だな」

「そうですね」

 上空を眺めたふたりが感嘆の言葉を漏らす。

 そう。

 ふたりの目の前にうねるように広がるオーロラである。

「植村君は、オーロラを初めて見るのかい?」

「いいえ。菫川さんは?」

「私が最初にオーロラを見たのはここだったよ」

「そうなのですか?」

「正確にはこの地でオーロラを見ようとして果たせず、ガッカリしながら日本に帰る飛行機の中でだが」

「窓からということですか?」

「そう。だが、その窓は客席のものではなく操縦席ものだ」

「もしかして、乗員を脅して押し入ったのですか?」

「まさか。私が子供の頃は意外に緩かったのだよ。そういうことが。CAにオーロラが出たら教えてくれと頼んでおいたら、気前よくコックピットに入れてくれたのだよ。そこから見たオーロラはまるで夜空を泳ぐ竜のようだった」

「そうなのですか?」

「ああ。君は目の高さで見えるオーロラは知らないだろうが、下から仰ぎ見るものとはまったくの別ものだ」

「それはラッキーでしたね」

「本当にラッキーだった。なにしろそれは例の事件の一年前のことだから。あれ以降はプライベートジェットでもない限りそのような経験はできなくなったからな。そういうことで、私はオーロラを見るたびにあの時のことを思い出す」

「すばらしい思い出話をありがとうございました」

「せっかくいい話を無料で聞かせてやったのに感想がそれだけとは君はつくづくつまらない男だな」

「はいはい、すいませんね。私には菫川さんのようにトロムソに感傷に浸るような思い出がないのでさっさと仕事を終わらせてホテルで寝たいです」

「ますますつまらん男だ。もしかして君はノルウェーにまで来て名物を食べないで帰るつもりなのかい」

「名物?それはスモークサーモンのことですか?それともピンクキャビアですか?もしかしてトナカイですか?」

「甘い。甘すぎるよ、植村君」

「では、何だというのですか?」

「もちろんクジラだよ」

「クジラですか?」

「そう。特にクジラ肉のステーキ。あれは絶品で、しかも世界中旅していても簡単に口にできるものではない。さらにいえば、日本と比べて驚くほど安い」

 長々と続く菫川の思い出話にうんざりしたのは植村だけではないだろうから、彼らがここに来ることになったあらましについて話しておこう。


 それは、約一年前のことだった。

「まったく、こんなときに限って……」

 その国の首都にあるレストランで呪いの呪文を唱えるようなうめき声をあげていたのが菫川だった。

「まあ、とりあえず今後は君の話はすべて嘘だと思うことにするよ。菫川君」

「それはあまりにもひどいですよ。蒲原さん」

「いやいや、蒲原君の意見は正しい。そもそも夜見子様はオーロラが見たいと言ったのであって、食事中に五人のむさ苦しい男が銃を持って乱入するつまらぬ余興を見たいとは一言も言っていない。そのような大事なことも覚えていられないとは、もしかして君は嘘つきというだけでなく頭も悪いのかね」

「だから、これは偶然で……」

「言い訳ばかりが上手な君のような人間が誇りある蒐書官になっているとは蒐書官のレベルも随分落ちたものだな。ところで、夜見子様。菫川君が用意したこのつまらぬ余興のおかげでせっかくの食事が台無しになりました。すぐにでも菫川君に掃除をさせますがいかがいたしますか?」

 その場で一番の年長者であった鮎原がそう訊ねたのは二十代半ばと思われる女性だった。

「いいえ。どう見てもプロでないことから、私たちは偶然人質になっただけでターゲットではないと思われます。外国であまり揉め事を起こしたくありませんので、とりあえずもう少し様子を見ましょう」

「わかりました。だが、いつでも使用できるようにセーフティは解除しておきたまえ。それから各々のターゲットを決めておこうか」

 実は四人は高級レストランで食事中に押し入った武装強盗団に他の客とともに人質になっていた。

 もちろんその気になればすぐに解決する手段を持っていたからこれだけ余裕があったわけだが、その五人の強盗団をじっくりと眺めなおすと女性は小さく呟いた。

「ところで、彼らはこれからどうするつもりなのでしょうか?」

「それはどういうことですか?」

「どうやら、彼らにとってもこれは予定外の事態だったようです」

「そうなのですか?」

「ええ。計画ではこのようなことになるはずではなかったという顔をしています」

「そのようなこともわからないとは菫川君はいよいよ蒐書官失格だな」


 菫川の降格の件は脇に置き、彼女の言うとおり、実は押し入った者たちは予定外の事態に戸惑っていた。

 もちろん結果的にみれば、彼らにとって予定外の最たるものはその場にその四人がいたことだったのだが、まず彼らが直面した予定外の出来事とは「雨が止んだ後にさす傘」、「焼け野原になった後に鳴る空襲警報」などと陰口を叩かれる行動の遅さに関しては折り紙つきの地元警察がこの時に限って驚くべきスピードで現場に到着したことだった。

 素早く仕事を済ませ悠々と逃走するはずだった犯人たちにとって、それは予定外かつ不愉快極まりない事態であったのだが、大部分の客にとってもそれは同様であった。

 このような高級レストランで食事をする客にとっては、たとえ身ぐるみ剥がされてもたいしたダメージにはならず、招かざる客など来ないに越したことはないのだが、来てしまったからにはさっさと仕事を済ませてお引き取りをいただくことこそが彼らにとっても一番だったのだ。


 ……チップ代わりに金を渡して彼らを追いだせば、すぐに食事を再開できたものを。

 ……こんなときに限ってすぐにやってくるとは、まったく空気が読めないやつらだ。


 それが警察の素早い対応への彼らの一致した思いだった。

「完全に囲まれているぞ。これからどうする?」

 成り行きで人質をとってはみたものの、思ってもいなかった事態に狼狽する仲間のひとりに問われた武装集団のリーダーが一瞬の沈黙後こう宣言した。


「男は解放する」


 すなわちそれは女性だけを人質にするということであり、結果的には彼らの運命を決めた一言でもあったのだが、ここでそれとは別の小さなトラブルが起こる。

「妻は身重だ。妻を解放し代わりに私を残してくれ」

 夫婦で食事に来ていたらしい身なりのいい紳士が彼に懇願を始めたのだ。

 もちろんそれは当然のように拒絶される。

「うるさい。とにかく男どもはさっさと店の外に出ろ」

 彼の懇願を無視するように大声で指示が飛ぶ。

 強引に妻と引き離されて打ちのめされるように出口に向かう彼だったが、その直後、彼にとっての奇跡が起こる。


 立て続けに響いた鈍い音とともに、男たちがすべて倒れたのだ。


 ……警察?それとも特殊部隊?


 何が起こったのかもわからぬまま誰もがそう思った。

 だが、それは違った。

 なんと犯人たちに何をさせぬまま撃ち殺したのは店内にいた三人の日本人だった。

「犯人はすべて倒しました。慌てずゆっくりと外に出てください」

 悲鳴と歓声が交差する店内を圧したのは完璧なノルウェー語を操る女性の声だった。

 同じ意味を英語が伝えた後は、すべて日本語だったので大部分の客には理解できなかったのだが、その内容はその場の雰囲気にはまったく似つかわしくないものだった。


「まったく愚かな奴らだ。女性を解放するとでも言えば早死にしなかったものを」

「いやいや、どっちにしても夜見子様の安全が確保された時点で掃除を始めていたのだから、やつらの運命は変わらないだろう」

「それでも数分は長生きできたはずです。ですから、私の言葉は間違っていません」

「なるほど。確かに蒲原君の言葉は間違っていない」

 たった今五人を射殺した者たちの言葉とは思えぬその陽気な会話はさらに続く。

「さて、先ほどの賭けだが、結果を確認してみようか。蒲原君はどうかね」

「私は四発発射全弾命中でふたり仕留めました」

「私も四発全弾命中。見たまえ。額と左胸を撃ち抜くこの芸術的腕前を。それで、菫川君はどうだったかな」

「……三発中二発です。一発外しました」

「では、ディナーは菫川君のおごりということで」

 当然ながら、このあと四人は警察に連れていかれたために、菫川がおごるディナーはお預けになったのだが、女性が口にした「橘花」という謎の一言ですぐさま取り調べは中止され全員がお咎めなしとして釈放されただけでなく、押し入った強盗を客の日本人が射殺したなどという華々しい出来事にもかかわらずその事実は闇から闇に消えていくことになる。

 だが、このときの武勇伝こそが菫川たちをトロムソに呼び寄せるきっかけになる出来事だった。

 それは犯人全員が射殺された直後のことである。

「あなたがたは妻と生まれてくる子供の恩人だ。感謝する」

 そう言って近づいてきたのは先ほどの紳士だった。

 もちろん傍らには腹が少々膨らんだ女性がいる。

「お礼をしたい。ささやかなものだが……」

 彼が取り出したのは小切手だった。

「それは遠慮しておきましょう」

「そうはいかない」

 紳士と鮎原による小さな押し問答が始まると、すぐに割って入ったのは先ほどの日本人女性だった。

「どうせもらうなら、お金ではなく本がいいわね」

「本?」

「そう。それも珍しい本」

「わかりました。では、あなたが欲しいというその珍しい本は何かをお伺いしておきましょうか」

「そうね……せっかくノルウェーに来たのだから、ヴァイキングが書いた文書がいいですね」

「ヴァイキングが書いた文書?」

「そう。たとえば、彼らの航海日誌や航路図とか」

「それはなかなかハードルが高そうだ」

「まあ、そういうことで手に入れたら連絡をください」

「承知しました。時間はかかるかもしれませんが必ず約束は果たさせてもらいます。それから申し遅れましたが、私の名はエドヴァルト・ハーゲンと申します」

「では、楽しみに待っています、ミスター。私の名前は天野川夜見子です」

 もちろん、この時彼女が本気で彼にそのような本を要求していたわけではなかった。


 それから約一年後、夜見子が自嘲気味に語ったこのような言葉がある。


「私は彼がどのような人物かなど知らず、あのときは本当に謝礼を断る理由としてそう言っただけです。そもそもヴァイキングが書いた航海日誌や航路図など残っているなどとは本気で思ってもいませんでしたから……ですが、言ってみるものですね。結果的にこのようなものが手に入ったのですから」


「植村君。一応銃の準備だけはしておきたまえ」

「それはすでに。ですが、それだけまずい人物なのですか?そのハーゲン氏は」

「特にそのような情報は貰っていない。だが、彼も我々と同業者のようなものだから用心したほうがいいだろうということだ」

「なるほど。我々は書籍専門ですが、彼はアンティークコレクター。しかも、冷徹という折り紙つき。近いとは言えませんが同族とはいえるかもしれません」

「さあ、着いた。邸宅と聞いていたが、それほどではないな」

 そこは、郊外の丘に建つ屋敷だった。

 

「お待ちしておりました。天野川夜見子の代理人」

 出迎えたエドヴァルト・ハーゲンはふたりとは対照的に機嫌がよかった。

 すぐに警戒レベルを高めたふたりだったが、彼らを待っていたのは、彼らが考えていたものとはまったく異質の、そして想像をはるかに超える苦痛だった。

「あのときは……」

 笑顔のハーゲンの口からとめどなく流れ出るあの時の思い出と感謝の言葉。

 それが彼らの苦痛の原因だった。

「……疲れました」

「これも仕事だと思って素直に聞きたまえ。もちろん笑顔を絶やさずに。だが、やはりこれは長いな」

 言葉を遮って彼の機嫌を損ねるわけにいかないふたりが相槌を打ちながらそれを聞き続けたため、彼が本題に入ったのはふたりが応接間に通されてから一時間を過ぎたころだった。

「あなたがたとあなたがたの主について少々調べさせてもらったが、あなたがた蒐書官というのは古今東西多くの言葉を理解しているそうだね。では、これは読めますかな」

 修行から解放され安堵するふたりに差し出されたのは大量の羊皮紙だった。

「……これは古ノルド語」

「古ノルド語?」

「読み解けるわけではないが、この地域を担当している以上はその程度はわかる。だが、残念ながら私がわかるのはその文字が書かれたことだけだ。夜見子様なら深いところまで読み解けるのだろうが」

「いやいや、さすが蒐書官。そこまでわかっているのであれば話は早い。知り合いに調べさせたところ、これは我々の祖先であるヴァイキングの一部族が使用していた航海教書のようなものだそうだ。航路設定や危険個所の目印、それに事故に遭わないまじないなども書かれているとか。残念ながら、今回はお望みの航海日誌ではなかったのだが、それでも十分珍しいものではないかな」

「確かに」

 あっさりと頷いた先輩蒐書官に不安げな後輩が声をかける。

「……菫川さん」

「何かな」

「読めないのであれば彼が言っていることが本当かどうかわからないではないですか」

「それについては心配はいらない」

「どういうことですか?」

「我々がここにやってきたのは売買交渉ではなくお礼の受取りのためだ。もし、偽物を夜見子様に礼として差し出すようなことがあれば恥を掻くのは我々ではない。それに本物かどうかは別の方法ですでに確かめた」

「と、言いますと?」

「我々蒐書官の必須技術とは何かな」

 そう言って菫川は親指と人差し指をこすってみせる。

 もちろんそれは、彼らが習得している感触だけで羊皮紙がどの動物の皮を使用しているかだけでなくつくられたおおよその年代まで見分ける特別な技術を示している。

「なるほど」

「だいたい彼の様子を見れば我々を騙す気がないことは明らかであろう」

「そうですね。まったくそのとおりです。では、菫川さんはこれをありがたく受け取るわけですね」

「そのとおり。君も異存はないだろう」

「もちろんです」

 ふたりの評価が決まるのを待っていたハーゲンが口を開く。

 彼はふたりが話す日本語を理解していたわけではないのだが、長年の経験により彼らの表情からそれを読み取ったのだ。

「どうですか。気に入ってもらえればうれしいのだが」

「もちろん気に入っておりますとも。このような大変貴重なものを頂けるとは感謝のきわみ。我が主も同じ感想を抱くことでしょう」

「では、これはお約束の品としてお渡ししますが、それとともにあなたがたの主天野川夜見子嬢への伝言をお願いしてもよろしいかな」

「もちろんです」

「これからも友好関係を続けていきたい。よろしくお願いしますと」

「承知いたしました。主に伝えます」

「それから菫川さん」

「はい」

「あのときに妻のお腹にいた子は可愛い娘としてこの世に生を受けられ妻とともに毎日楽しい日々が送れているのもすべてあなたたちのおかげだ。だから、もう一度言わせてもらう。本当にありがとう」

 それは冷徹なコレクターでなく、愛妻家の、そして我が子を溺愛する父親の顔であった。

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