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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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本能寺の変の理由を語る斎藤利三の書状

 東京都千代田区神田神保町。

 ここには世界一とも言われる古書店街がある。

 そして、その一角に建てられた本の大敵である紫外線対策のために極端に窓が少なくされた建物。

 その建物の主が世界有数の「古書店街の魔女」という異名を持つ蒐書家天野川夜見子である。


 その夜見子であるが、この日は朝から落ち着かない様子でエサを待つ動物園の猛獣のように部屋をうろうろしていた。

 いや、実際には食事も喉に通らないのだから、この場合の表現にはそれはまったくふさわしいものではなく、恋人を待つ乙女とでも表現したほうがまだいいのかもしれない。

 本ばかり読んでいるイメージの彼女にはまったく似つかわしくないように思えるそれだが、実は側近の者にとってそれはそう珍しい光景ではなかった。

 そして、自分たちの主がこのような行動をおこなうのは、何かとてつもなく重要な書が届く前触れと決まっていた。

 その日、彼女の様子を眺めながら蒐書官たちはこう囁きあっていた。


「夜見子様は何を待っているのかな」

「丹波の山奥で見つかったという例の手紙ではないのか」

「なるほど。だが、それはそんなに大物なのか」

「ふたりの上級書籍鑑定官が呼び出されているというからな。間違いないだろう」


 さて、その彼女が待ち焦がれているものだが、それはひとりの戦国武将が妻子に宛てた書状だった。

 そして、その差出人の名は斎藤利三。

 本能寺の変を起こした明智光秀の家臣である。

 その彼が本能寺の変直前に家族のひとりに宛てて書いた書状が手に入る。

 これは彼女でなくても待ちきれないのではないだろうか。


「こんなことなら、私が現地にいけばよかった」


 そのようなことをブツブツと呟きながら彼女は、自らの膨大な書籍購入費の大部分を用立てている立花家の次期当主である少女が以前本能寺の変に理由について語ったことを思い出していた。


 曰く、「光秀には私心などなく、ただ天下安寧ために本能寺の変を起こし信長を討ったなどということは絶対にありえません」


 もちろん、彼女はその理由を問うた。

 それに対する答えはこうであった。


「もし、そうであれば、信長を打倒した時点で目的が完遂しているはずです。なぜその後にのうのうと生きていたのですか?」


 少女はそう言って斬って捨てるようにそう言い切ると、そのあとに多くの陰謀説も次々に否定していった。


 そして、話は最近人気の「四国攻め説」にも及ぶ。


「もし、本当にその理由であの日に信長を討ったのなら、明智光秀という人物は軍事的には実に愚かな武将となります」


 そう断言する少女に夜見子は当然のように訊ねる。


「どうしてでしょうか?」


 待っていましたといわんばかりに、少女の口が動く。


「信長を討つタイミングがあまりにも悪いです。四国攻めの主力を四国に送りたくない。その一点であれば、それは確かに正しいです。ですが、自らの軍と同規模の四国遠征軍の主力がまだ畿内に残っている状況でことを起こせば、三男信孝を旗印に主人殺しの大罪人に対する復讐戦を挑まれることは免れません。勝負はどちらが勝つかはわかりませんが、光秀軍もかなり消耗したことでしょう。そのような状態で次々に引き返してくる追討軍と戦うのですか?山崎の戦いが起きなくても光秀の運命はそう長くはなかったことは必然です。そのようなこともわからないのですから愚か以外の何物でもありません」


「では、光秀は効果的に長曾我部を助けるためにはどのようにすればよかったのですか?」


「主力を四国に渡らせてから信長を討つのがベストでしょう。しかも、あと数日待てばそれは可能になったはずです」

「しかし、それでは肝心な信長に逃げられてしまう可能性があります」

「それでも中国に行く信長を護衛すると称して兵を向かわせて討つなど方法はいくらでもあります。もちろんそうなれば、四国に渡った信孝軍は根無し草のごとく崩壊し、結果的に長曾我部を救うことになります」


「では、お嬢様は本能寺の変はどのような理由で起こったと考えていらっしゃるのでしょうか?」


「まず考えられるのは長曾我部救援など関係なく、光秀はいずれ訪れるであろうある状況を待っていた。そして、それがやってきたのであの日に実行に移した」

「状況?」

「柴田、丹羽、滝川、そして羽柴。主な家臣が近くにいないこと。それからこちらがより重要なのですが……」

「それは?」


「跡継ぎである信忠も少数の兵とともに信長の近くにいること」


「それは信長の代わりに天下を獲ることが真の狙いだったということですか?ですが、それでは先ほどの説と矛盾するのではないでしょうか?」

「確かにそうです。ですが、絶対条件である信長と後継者である信忠を一度に討ち取る機会を先ほど述べたリスクよりも優先したのではないでしょうか。実際にその後の織田家の状況を見ればその見立ては正しかったように思えますし」

「なるほど」


「ですが、本当のことはわかりません。当事者たちの言葉が残っていませんから。つけ加えておけば、この件について残っている第一級資料はあてになりません。理由はわかりますね」


「味方になってもらうために書く書状に光秀が謀反を起こした本当の理由が書かれているとは限らない」


「まったくそのとおりです。せいぜいそう言ったという事実がわかる程度に留めるべきでしょう。人殺しが自らの犯罪を正当化するのは古今東西常におこなわれていることであり、その言い訳をそのまま鵜呑みするなどお人よしにも程があります。それはそれとして、実は私が推薦したい説がもうひとつあります」

「まだあるのですか?」

「はい」

「それはどのようなものでしょうか?」

「斎藤利三」

「斎藤利三?光秀の家臣の」

「そうです。その斎藤利三です」

「彼が……もしかして稲葉家文書にあるという彼が稲葉良通の家臣を引き抜いたという話ですか?」

「そうです。それを聞いて怒り狂った信長に大事な家臣を切腹させられる日が迫っている。おたおたしているうちに目の前に信長と跡継ぎの信忠が少数の兵と共に目の前に現れた。しかも、周りには邪魔する者は誰もいない。『今なら信長の代わりに殿が天下を獲れます。利三も死ななくて済みますしこれぞ一石二鳥。これは天が我らに与えもうた好機でございます』などという悪魔の囁きに視野が狭くなっていた光秀が乗り、後先考えず兵を動かして信長親子を討ってしまった。そして、考えなしに動いたその行動の結果があの三日天下というわけです。どうです?実に人間らしい素晴らしい話だと思いませんか?」

「ですが、歴史ロマンが好きな者にとっては、天下のためでも己の理想社会を目指すための天下獲りでもなく、大局観の欠片もないそのような理由で本能寺の変は起こり、歴史が激変したことになれば大いに失望するのではないでしょうか」

「まったくそのとおりです。しかし、歴史は多くの人が思い描くようなロマンではなく、もっと矮小で短絡的な理由で動くものなのです。なにしろ、それを動かしているのがとても利己的な生物である人間なのですから」


「さて、お嬢様の説が正しいのかどうか。今日届く書状であきらかになるわけです。ロマンが勝つか、それとも人間の利己主義が勝つか。これは実に楽しみです」


 その日の夜。

 やってきた自身より十歳ほど年長のふたりの女性を前にした夜見子が口を開く。


「さて、ふたりに来ていただいたのはほかでもありません。実は、驚くべきものが見つかりました」

「古い手紙とは聞いていますが、どの時代のものなのでしょうか?」

「戦国時代。具体的には天正十年」

「もしかして、本能寺の変にまつわるものなのでしょうか?」

「はい。そのとおりです」

「もしかして、密談の相手とのやりとりなのですか?」


 天野川夜見子に呼び出されてやってきた上級書籍鑑定官嵯峨野真紀と北浦美奈子は、夜見子の言葉に気色ばむ。

 彼女たちの専門は本能寺の変よりもかなり遡った時代である。

 それでも、それを黙って見過ごすことはできない。

 本能寺の変とはそれほど謎の多い出来事なのである。


「これからふたりにもそれを読んでいただくことにしていますので内容についてはお話をしませんが、舞い上がってしまう前にふたりにやっていただきたい仕事についてお話したいと思います」

「は、はい」

「お願いします」

「そのやってもらいたいこととは、もちろんその書状が本物かどうかを鑑定していただきたいということです。先ほども言いましたが、この書状には本能寺の変に関する非常に重要な事実が書かれています。もちろんこれを世間に公開する予定はありませんが、当然お嬢様にはお見せします。万が一にも偽物をお嬢様にお見せする失態を犯すわけにはいきません。慎重のうえにも慎重に期して検査することをお願いします」

「わかりました。ですが、夜見子様がそこまでおっしゃるということは、その書状の内容には疑わしいところがあるのですか?」

「……そういうところは特にありません」

「では、紙質や墨に問題があるのですか?」

「それについても別段怪しいところがあるわけでもないのですが……」

「内容にも紙質にも問題がないにもかかわらず、夜見子様はその書状が偽物ではないかと疑っている。お伺いいたします。その疑いの源は何なのですか?」

「……あまりにも話が出来過ぎている。ということでしょうか」

「出来過ぎている?」

「そうです。まあ、それはともかくこれは精巧につくられた偽物で、これを信じた私たちを笑いものにしようとしているのではないか。私はそう思っているのです」

「わかりました。そういうことであれば細心の注意を払って調査をします」

「ですが、いったい誰が我々相手にそのようなこざかしい真似をするのでしょうか」

「心当たりはひとりいるのですが、それはそれとして、まずはお願いしたことにとりかかってください」

「承知したしました」

「よろしくお願いします。では、これがその斎藤利三の書状です」


 それから二時間後。


「どうでしたか?」


 夜見子の言葉に年長の女性のひとりが頭を振る。


「紙や墨も含めて怪しいところは見つかりませんでした。美奈子は?」

「私も怪しいところは見つけることができませんでした。夜見子様が疑問を投げかけていなければそのまま信じてしまいそうな出来です」

「……そうですか」

「では、すぐに科学的調査を回すことに……」

「……書に触れただけでそれが書かれた凡その年代までわかる蒐書官たちが持つ能力。その最高峰を技術所有者であるあなたたちふたりがかりで見つけられないのであればそこまでやる必要はありません。それよりも、書状を読んだ感想はどうですか?もちろん中身についてですが」

「驚きです」

「というよりもガッカリ感が大きいですね」

「まったく。光秀ファンとやらもこれを見たら幻滅すること請け合いです」

「なるほど。実は私もそう思いました。まあ、それはともかくふたりにもわからないということは、フェイクではないかという私の疑いは間違いだったようです。これは本物であるとしてお嬢様に書状について連絡することができます」


「……ところで、夜見子様」


「夜見子様が偽物を作成して私たちを笑いものにしようとしていると思ったその不届き者とは誰なのですか?」

「……わかりませんか。美奈子さんはどうですか?」

「私にも見当がつきません」

「私たち三人にも怪しまれないフェイクをつくることができる場所などひとつしかありません。そして、そこを管理している私たちが知らぬ間にその作業を指示できる人物などこの世界にひとりしかいないでしょう」

「……もしかして」

「そういうことです」


 ……それにしても、この書状を前もって読んでいたかのようなあの推理。本当にあなたは過去も、そして未来も知り尽くしているようですね。


 ……お嬢様。

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