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国記

 イングランド中西部に位置するスタッフォードシャー州。

 のどかな田園風景が広がるその場所に建つ邸宅をふたりの日本人が訪ねてきたのは初夏のある晴れた日であった。


「お会いできて光栄です。リザーランド卿」


 応接間に通された永戸と湯木と名乗った日本人が口にしたその挨拶を受けたのは、この館の主でもあるイギリスにとどまらず世界でも有数の蒐書家として知られていた男だった。

 子爵の称号を持つその蒐書家が口を開く。


「こちらこそ。日本で一番の蔵書家である天野川夜見子嬢の代理人となれば、同じ本好きとしては会わないわけにはいかないでしょう」


 だが、友好的な雰囲気を保っていたのもここまでであった。

 形ばかりの挨拶を済ませると、すぐにふたりの日本人は表情を変え、彼らがここに来た目的を口にする。


「早速ですが閣下がお持ちの本をお譲りいただきたい」


 ……そんなことは言われなくてもわかっている。無粋な奴らめ。


 その言葉に男は一瞬だけ顔を歪めるが、すぐに元の笑顔に戻る。

 そして、つくりものの笑顔で彼らの言葉を受け流すように、「本?あいにく蔵書が多くてどれのことを言っているのかわからないな」などとたわいもない言葉を返す。

 だが、もちろん男はわかっていた。

 この世界では畏怖と憎悪の対象である蒐書官という肩書を持つ彼らが自分を訪ねてきたのだ。

 彼らが所望するものが何か。

 相手に合わせるように表情を厳しくした男は不機嫌そうにその言葉を相手に投げつけた。


「……おまえたちの目的はわかっている。だが、私がそれを簡単に手放すと本気で思っているのか?」


 それは返答というより恫喝に近いものであり、大概の者なら震え上がり許しを乞うていただろう。

 だが、ふたりの日本人の表情はまったく変わらない。


 つくりものの笑顔のまま、そのうちのひとり永戸がそれに答える。


「いいえ。もちろん相応の代価を払うつもりでここにやってきました。お伺いいたします。いくらでお譲りいただけますか?」


 恫喝を軽くあしらわれた男の表情はさらに厳しくなる。


「いくら積まれても譲るわけがないことくらいわかっているだろう。それにあれはもう一冊ある」


 さらに一段階ギアを上げたその言葉で応じるが、それでも日本人の男たちの表情は変わることはない。

 嘲りを薄く込めたような笑みを浮かべているもうひとりの口が再び開く。


「もちろん存じております」

「では、そちらをあたれ。もっともやつらが譲るとは思えないが」

「いいえ。我々にとってあちらを手に入れるのはそれほど難しいことではありません。しかし、あちらより閣下がお持ちの、いや、閣下にすり替えられたので本来はあの図書館のものですが、閣下の手元にあるもののほうがはるかに良好な状態なのでそちらを手に入れよと我が主より命を受けています」


 ……知っていたのか。


 男は心の中で盛大に舌打ちをした。

 だが、それを欠片ほども見せることなくさらも毒のある言葉を吐く。


「調査済みか。だが、昨年のオークションで私が狙っていた本をおまえたちの飼い主が破格値をつけて掻っ攫った。それもすでに一冊所有しているにも関わらず。もちろんそれはこの世界に住む者にとって犯してならぬ禁のひとつ『書の独占』を破る許しがたい行為だ。私がそれを忘れたとでも思っているのか。帰れ、犬。そしておまえたちの飼い主に伝えよ。『おまえとは今回も、そして、今後も取引することはない』と」

「それは別の蒐書官がおこなったことではありますが、彼に成り代わり謝罪いたします。失礼いたしました」

「ふん。その程度でなんとかなるとでもと思ったのか」

「では、これと交換ということではどうでしょう。閣下はご存じないでしょうが、こちらも非常に貴重な本です」


 目的の書を手に入れるまでは絶対に席を立たないという噂通り、どれだけ振りほどいても絡みつく彼らに、男は忘れがたい屈辱でもある過去の接点となったある事件を持ち出すものの、そのようなもの些細な出来事でしかないと言わんばかりに形ばかりの謝罪の言葉を述べる永戸に続き、その言葉を口にしたもうひとりが取り出した一冊の本を見た男は驚愕した。

 だが、それも一瞬のことだった。


「この私をバカにしているのか。日本の本ならイギリス人である私の目を欺けると思うとはおまえたちの飼い主も浅はかだな。知っているぞ。表紙に書かれた『国記』と名のつく本は遥か昔に本体は失われ、現在はその名だけが残るものではないか。だいたいそれに使用されている紙は高級なものとはいえ現代の和紙だ」


 怒号に近い男の言葉だが、その内容だけをいえば男の言葉は正しいといえる。

 なにしろ、六百二十年頃に聖徳太子らによって編纂されたとされる「国記」は、大化の改新としても知られる六百四十五年の乙巳の変の際には蘇我蝦夷の邸宅から持ち出されたところで記録が途絶え、現存しない幻の本とされるものなのだから。


 だが、日本人たちはその言葉が返ってくるのは想定していたかのように、冷静そのものという表情で大部分を肯定した感情の籠らぬ言葉を相手に返す。


「さすがリザーランド卿。ご慧眼恐れ入りました。そのとおりこれは現代につくられた『国記』のコピーです。ただし、これは我が主天野川夜見子が閣下のために作成した特別なものではあります」

「いや。それだって絶対にあり得ないことだ。なぜならそれはもうこの世に存在しないからだ」

「たしかに『国記』は千五百年以上前に消失したとされる本です。ですが、実は残っていたとしたらどうしますか?」

「な、なんだと」

「そして、コピーとはいえイギリス人どころか日本人の研究者でさえ目を通したことがない原書を正確に写し取ったものが目の前にある。手に入れたいとは思いませんか?」

「それが事実なら確かに素晴らしいことだ。だが、そんなものが残っていたという証拠がどこにある?」

「では、これをご覧ください」


 それはとても本とは呼べないようなボロボロの紙束が写る写真だった。


「残っていたのです。もっとも我が主のもとにやってきたときにはこの写真のように読むことどころか開くことも困難な状態でしたが。これは修復作業前に撮影した写真から我が主が文字にしたものです」


 ……私の蒐書家としての勘が言っている。

 ……これは本物だと。


 ……さすがですね。

 ……そのとおりですよ。閣下。

 

 すぐに真実に辿り着き、自らの計画に変更を加えるべきかどうかを天秤にかけ押し黙る男の声をその表情から正確に察した日本人の口が開く。


「ご理解いただけたところで、我が主の言葉を伝えます。このコピーと百万ポンド、さらに閣下が落札に失敗した本と交換であの本を譲られたし」

「……あれは二千万ポンドの価値はある」

「もしそうであれば、そのコピーはそれ以上の価値があります。そして、この取引は閣下が現代の人間でこの本を読む三人目となることを意味しています」


 やっとの思いで絞り出した言葉にその言葉を重ねられた男が唸るのも無理はない。

 この日本人が口にした言葉はどこをとっても男にとって一方的と言ってよいほど好条件だったのだから。


 ……悪くない。


 一瞬、いや、三瞬ほど間が開いてから、男の口が開く。

 高貴な者とは思えぬ上品とは程遠い笑みを浮かべながら。


「……まあ、そこまで言うのであれば応じてもよい。もちろん中身を確かめてからではあるのだが。だが、その前にひとつ訊ねる。私より先にその本を読んだという者だが、ひとりはおまえたちの主人であろう。では、もうひとりとは誰だ」

「我が主が仕える方です。本に書かれている見事な字はすべてその方の肉筆です」

「……なるほど了解した。ところで代金は本当に用意されているのか?本だけ受け取り逃げるということはないだろうな」

「我が主は蒐書家としての閣下を尊敬しております。そのような心配はご無用です。代金はすでに準備され我々の宿泊しているホテルに用意しております。そして、閣下が望んでいた本もそこに」


 ……よろしい。


 最後のピースを手に入れた男は決断する。

 その計画を実行することを。


「わかった。そこまで言われては応じないわけにはいかないな。本を譲り渡そう」

「では、交渉成立ということでよろしいでしょうか」

「もちろん。では、本をここに」


 だが、そう言って男が手を叩き招き入れたのは本ではなく銃を持った五人の男だった。

 そう。

 これが男の計画。

 つまり、あのとき味わった屈辱への報復、それに先ほど追加されたさらなる利益の獲得。


 ……これこそ、一石二鳥。


 男は心の中でそう嘯く。


「……リザーランド卿、これはどういうことでしょうか?」


 見事に騙された形のなった日本人のひとり永戸はため息をつき小さな声で訊ねると、余裕綽々と言わんばかりの男が答える。


「私が歓迎の準備をしていないと思ったのか。悪名高き蒐書官も案外甘いな。これは例の取引のお礼だよ。もちろん」


 ……完勝だ。


 すべてが計画どおり、いや、それ以上にうまくいった男はそう確信した。

 だが……。


 ……つまり、我々が来るとわかった段階から準備をしていたわけか。

 ……まあ、情報通りではあるのだが。

 ……だが、銃をもっているとはいえ、素人が五人。

 ……これで我々をどうにかできると考えているとは……。

 ……愚かすぎる。

 ……そうであっても、彼の望んだことだ。

 ……では、こちらも予定通りに。


 これは敗者であるはずのふたりの日本人の心の声。

 そう。

 表面上のものとは裏腹に彼らはこの事態が起こることを最初から知っており、さらにその対策も講じていたのだ。

 対策。

 つまり、それは目の前にいる男を殺す算段。

 そこまで周到に準備をして彼らはやってきていたのだ。

 もちろん、そのようなことを顔のどこにも表すことなく日本人の男はもう一度深いため息をつき、それから口を開く。


「考え直していただけないでしょうか?」


 それは最終手段をおこなう彼ら蒐書官が踏むいくつかの手続きのひとつだったのだが、当然のように男は拒否する。

 さらに続けて嘲りの成分を多分に含んだ言葉をふたりに投げつける。


「さて、そろそろお別れだ」

「リザーランド卿。もう一度言います。我々を害したら我が主が黙っているはずはなく、閣下も閣下の家族もただでは済まなくなります。今ならまだ間に合います。考え直していただければ今見聞きしたことはなかったことにいたしますが」


 もちろんこれが彼らの最後通告だったのだが、すでに勝った気でいる男にはわからない。

 そして、男は自らにとってこの世での最後のものとなるその言葉を口にする。


「命乞いの割には頭が高いぞ。女狐の報復などおまえたちに恩着せがましく言われなくてもわかっているし、対策も講じるつもりだ。まあ、すぐに主もそちらに送ってやるから、主が来るまでふたりで自分たちの無能さを呪いながら待っていろ。では、さらばだ」


「やれ」


 それから三時間後。

 炎に包まれたリザーランドの屋敷を眺めることができる小高い丘に彼らはいた。

 そのひとりは手に持ったスマートフォンに話しかける。


「夜見子様、湯木です。指定の本を無傷で入手いたしました。さらにリザーランドの蔵書から稀覯本を含めて夜見子様の蔵書に加えるべき八冊もあわせて手に入れました」


「……ご心配していただきありがとうございます。思ったよりも抵抗があり手間取りました。ですが、相手は所詮素人。人数も武装も事前に調べたとおりでしたので問題ありません。私は左腕を少々。永戸は両手と右足、それから腹部に軽い怪我を負っただけです」


「リザーランドはもちろん、家中の者はすべて始末しましたので証言できる者はおりません。館もすっかり焼け落ちました。たしかにリザーランドの膨大な蔵書が灰になったのは残念ですが、証拠を残すわけにはいかないのでお諦めください」


「大部分は護衛から奪った銃で射殺しましたので死んだ護衛による犯罪ということで処理されることでしょう。もちろん、こちらの銃は使用していません」


「ささやかな恨みを晴らすために夜見子様の好意を無にするとはまったく愚かな男です。しかし、目の前にある貴重な本を読むこともできずにあの世に旅立つとは哀れといえば哀れです」


「……ところで、夜見子様。せっかく手に入れた本を元の持ち主に返してしまって本当によろしいのですか?」


 報告が終わった男が最後にそう訊ねると、彼のスマートフォンから女性の声が聞こえる。


「……もちろんです。私は手元に置いて好きな時に読めればいいのですから、元々リザーランドが所有していたもので構いません。それに、あなたたちが彼の本棚から持ち出した八冊の本だけでなく、今回の成功報酬としてあの図書館から稀覯本を五冊譲ってもらえるのですから収支は大幅に黒字です。あなたたちはそれを受け取り、あなたたち自身が私に届けてください。凱旋帰国を楽しみにしています」

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