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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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古代エジプトの王宮料理パピルス

 エジプト、カイロ。

 イスラム教徒が大部分を占めながら他のイスラム圏の首都と比べて圧倒的に俗世の色が濃く一見すると混沌と無秩序に支配されているようにみえるものの、実はイスラムの教えに従い、お互いを尊重しあい微妙な調和が保たれている人間味溢れるこの都市を異邦人が愛してやまないことは過去も、そして現在も変わりない。

 それはもちろん、その日観光客を装って市場を歩くこの男たちも同じである。

「尾川さん。やはりカイロはいいですね。ここに比べたらアレクサンドリアなど魅力度は数段落ちると思いませんか?」

「櫛橋君。格調高く気品に溢れたその言葉をぜひ大勢のアレク市民の前で披露してくれたまえ。熱狂的に受け入れられること間違いなしだ。ちなみに私は遠く離れた安全な場所からその様子を見守ることにする」

 陽気に話しかけてきた後輩に彼がそう答えると、相手の顔は顔はとみるみる渋みを増す。

「そうして、僕がエジプト人にボコられる様子を世界中の蒐書官に公開するわけですね。この前のように」

「当然だ。実はあれ以来、次はまだなのかという催促の連絡がひっきりなしに来ている。私も櫛橋君もその期待に応える義務があるだろう」

「ありませんよ。そんな義務。だいたい、そんなことで有名になるなど遠慮したいものです」 

「有名になることはいいことだろう。夜見子様にも大うけだったそうだし」

「勘弁してください」


 本気度がかなり高い冗談を言いながらふたりが辿り着いたその場所は、有名なハンハリーリ市場でも観光客はめった入ってこない通りにある一軒のパピルス屋であった。


 とりあえず目が合った瞬間に挨拶はしたものの、その後はやってきたふたりの日本人を眺めているだけでこの市場の住人らしからぬ不愛想な店主だったが、やがて購入する様子をみせないふたりに近づき声をかけた。

「あんたらは中国人か?」

「いや」

「では、日本人か?それとも韓国人か」

「日本人です」

「……なるほど、その日本人がハンハリーリの奥にあるこの店まで何を求めてやってきたのか?」

「パピルス」

「それなら目の前に並んでいる。ツタンカーメン、ネフェルタリ、ネフェルティティ。ヒエログリフもある……」


 ……見ればわかる。


 それは後輩蒐書官の心の声であった。

 もちろん、彼よりも多くの経験を積む先輩は別の言葉を口にする。

「確かにどれも素晴らしいものだ。だが、我々の探しているものではない」

「では、どのようなパピルスを探しているのか?」

「本物」

「これは正真正銘の本物のパピルスだ。バナナの皮でつくられたまがい物ではない。もちろんその分値段は張るが」

「それくらい見ればわかる。僕らの言っている本物はそういうことではない」

 我慢しきれずに漏れ出した後輩蒐書官の言葉は、その言葉以上に恫喝の香りが漂う。

「では、何を……」

 たじろぐ男の耳に冷気を纏ったもうひとりの男の声が届く。

「あなたも薄々気づいているのだろう。我々の目的はあんたが最近手に入れた本物のパピルスであることを」

「何だと……」

 実はこの店主は観光土産用のパピルスを売っているのは仮の姿であり、本業はどこからともなくやってくる上物をその筋の方相手に捌く闇商人であった。

 もちろんこの蒐書官たちもそれを以前から知っている。

 これまでこの店に蒐書官が現れなかったのは単純に彼らの獲物になるような品が入ってこなかっただけであり、今日このふたり突如ここに現れたということは当然そういうことなのである。

 彼の言葉に後輩も続く。

「最近古いパピルスにぎっしりとヒエログリフが書き込まれたものを手に入れたでしょう。僕らが欲しいのはそれ。あるでしょう?」

「……ああ」

 絞り出すような店主の声には先ほどまであった余裕は完全に失われていた。

 そう。

 彼は仲間たちからある情報を聞かされていたのだ。


 ……貴重なパピルスを狙う日本人。

 ……間違いない。

 ……こいつらは奴らが言っていた蒐書官。

 ……こいつらは狙いをつけた商品をどのような手段を使ってでも手に入れる。

 ……つまり、持ち主がそれを拒めば殺される。

 ……いうまでもない。俺が今選べる選択肢は売るか殺されて奪われるかのふたつだけ。

 ……だが、困った。


「売りたいのは山々なのだが、実はすでに手付金を払った客がいる」

「ほう」

「そのめっぽう鼻の利く客とはいったい誰かな?」

「詳しいことは知らないが、ここに来たのは代理人のようだった。その男の話では本当の買い主は美術館ということだった」

「美術館?それがどこかはわかるか」

「わからない」

「本当に?」

「本当に知らない」


 ……知っている顔だ。


 長年の経験から彼はすぐに気づく。


 ……そうであるのなら、口を割らせるなど簡単だ。


「まあ、それを簡単に答えるようではこの商売をやる資格はない。では、このリストにその美術館があるかどうかだけを教えてくれ。ただし、そこだけは嘘なしでお願いする」

 二十ドル札を握らせてから彼はそう言って書きなぐるようにアラビア語を並べた紙を店主に見せると、店主は頷く。


 ……まあ、そうだろうな。


「わかった。ありがとう。さて、ここからは商売の話だ」

「だから、それはもう……」

「三倍」

「はあ?」

「相手がいくら出すと言ったのかは知らないが、そのパピルスが本物ならその三倍を出そう。どうだ」

「……」

「もうひとつ。あんたはそれを奪われたと言って構わない。そうであれば、あんたに落ち度はない。大金が手に入り責任は回避できる。悪い話ではないだろう。それとも……」

 実を言うと、男の耳に届いていた先ほどの情報を流していたのは彼自身だった。

 当然、このままでは殺されると恐怖する男の心中など手に取るほどわかる。

「どうする?」

 念を押すような彼の言葉に男は折れる。

「いや、それ以上は言わなくていい。……わかった。あんたたちに売ろう」

「話が早くて助かるよ。では、商品を見せてもらおうか」

「いいだろう。ついてきてくれ」

 男は店の裏に進み、ふたりも続く。

 続きながら、男には届かぬ声でふたりは会話する。


 ……聞いてもいいですか?

 ……何だ。

 ……さっきの紙には何を書いたのですか?

 ……美術館の名前を八つほど書いた。

 ……それで特定できたのですか?

 ……もちろん。

 ……それだけの数の美術館の中でどうやってひとつに特定できたのですか?

 ……簡単だ。それらしい名前を書いたが実在するのはひとつだけだったからな。

 ……なるほど。それで、どこなのですか、そこは。

 ……もちろん、あそこだ。


 それは店の奥にある小部屋にあった。

「どうだ?逸品だろう」

 情報通りに文字が敷き詰められた古いパピルスだった。

「櫛橋君」

「はい」

 ガラス板に挟まれた状態はいいとは言えないそのパピルスを眺めると、後輩蒐書官は断言した。

「本物と思っていいでしょう」

「理由は?」

「文法の間違いがないこと。この手の偽物は文法の間違いが山ほどありますが、これにはありません」

「複製品という可能性は?」

「私が知る限り、この文章と同じものはありません。というか、これだけ特別な内容が記されたものであれば、確実に知っているはずです。可能性だけをいえば、相当な知識を持ち、さらにヒエログリフに精通した者がこれを書き上げたということも考えられますが、そこまでする理由がありません」

「パピルス本体は?」

「触れてみれば確定できますが、とりあえず見た目だけでいえばかなり古いですね。これ自体だけでも十分価値があるものです。そして、断言します。これが本物のパピルスであれば、そのような貴重なパピルスを使用してこれだけの高品質の模造品をつくることができる工房などこの世界にひとつしか存在しません」


 ……つまり、「すべてを写す場所」か。


 彼は心の中で身内である組織の名を口にする。


 ……ということは、本物。

 ……私も彼と同意見。問題ない。


 彼は後輩が自分と同じ意見であることを確認し、買取り交渉を始める。

「では、これを買うことにする。店主。これはその美術館にいくらで売る予定だったのかを教えてもらおうか?」

「……十万ドル」

 十万ドル。

 それは、日本円で一千万円を超える金額であり、パピルス一枚の値段としては破格値である。

 だが、彼は表情を変えない。

 それどころか、笑みさえ浮かべた。

 そして、口にする。

 その言葉を。

「……そうか。おまえさん。寸でのところで大損するところだったな」

「どういうことだ?」

「これはとても十万ドルで買えるものではない。我々が払う三十万ドルこそがこのパピルスの正当な価値。いや、それでも安いくらいのものだ」

「ほ、本当なのか」

「本当だ」

「くそっ。アメリカ人には二度と売らない」


 ……やはり直接買い付けに来ていたのですね。


 男が思わず口にした言葉に気づかぬふりをしながらふたりはさりげなく目を合わせて笑みを浮かべる。

「まあ、そう悔しがるな。ただ今後は商売相手を良く選ぶべきだろうな。そうだ。せっかく来たのだ。他にもめぼしいものがあれば買ってやろう。見せてみろ」

「お、お願いする」


 それから、一時間後。

 市場入り口にあるカフェにいた。

「あの店主は大喜びでしたね」

 後輩蒐書官にその言葉にコーヒーカップを持ったままで彼が答える。

「そうだろう。三十五万ドルを即金で支払ってもらったのだからな」

「それにしても、気前よく出しましたね。というか出しすぎです。私が見たところ特に価値のあるものではありませんでした。あれ以外は」

「そう言うな。あれは別の意味も込められている」

「もしかして、我々が相手よりも善意の相手と思わせる。口止め料ということですか?」

「そうだ」

「なるほど。ところで、例の美術館はあのパピルスにいくら払うつもりだったのでしょうか?」

「十万ドルと言っていただろう」

「あれは店主の希望価格でしょう」

「まあ、そうだな。おそらくその一割を提示したあとにおまえは盗掘品を扱っているとでも言って相手の弱みに付けこんで最終的には数万ドルくらいで買い叩くつもりだったのではないか。それがやつらの常套手段だからな」

「彼らがケチらずさっさと言い値を出していれば、これは今頃飛行機の中だったわけですね」

「そういうことだ。ただ、奴らはあのパピルスの本当の価値を理解していなかったということも考えられる」

「と言いますと?」

「私が見ても文字ばかり書かれて見栄えがいいものではなかったからな」

「芸術品的価値だけで値段をつけた?」

「その可能性はある。だから、あれを手に入れられなくても案外悔しがることもなく丸く収まるかもしれない。さて、今度はこちらから確認のために櫛橋君に聞いておこうか」

「はい」

「どう思う?」

 そう言って彼が視線をやったのは、大きな箱の上に置かれた大量のパピルスが入れられた袋だった。

 もちろん彼らにとって重要なのは下の箱に入れられたものであるのだが。

 彼に続いてそれに視線を落とす後輩蒐書官が口を開く。

「ここに書かれているのは料理のレシピのようなものですね。しかも、丁寧なヒエログリフを使用されていましたので、貴族ではなく王族、場合によっては宮廷の伝統料理のレシピという可能性だってあります」

「よろしい。では、時代は特定できるかな」

「言い回し等々考えると新王国時代のものではないかと。パピルスもその時代を示しています」

「ということは、ツタンカーメンやアクエンアテンが食べていたもののレシピの可能性もあるということなのか。これはアマルナチームに自慢できるな」

 彼はこの地では有名なベテラン蒐書官の顔を思い浮かべてニヤリと笑う。

「食材などを調べればもう少し詳しくわかるのでしょうが、私はそちらについてはそこまで詳しくありませんので、それ以上はなんとも」

「だが、夜見子様が喜びになる品になるのは間違いないな」

「そのとおりです。本当に古代エジプトの王宮料理パピルスであれば、これはすばらしい発見です」

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