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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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闇画商 Ⅱ 物羨みの中将

 木村恭次。

 彼は東京都の住宅街に建てられた周りより少しだけ広い家に美しい妻とともに暮らす男である。

 だが、ごくありふれた生活を送っているかのように見えるこの男には知られてはいけない裏の顔があった。

 いや、どちらかと言えば、そちらこそが表の顔で、近所の住人たちと愛想よく話す姿がこの男の裏の顔と言えるのかもしれない。

 そして、その彼の生業。

 それは闇ルートを利用して世界各地で盗まれた絵画などを仕入れ、日の当たらない場所での取引で顧客に売るいわば闇画商であり、彼はそこで莫大な利益を上げるその世界では非常に名の知られた人物であった。

 もっとも、あることがきっかけとなり、最近では絵画よりも古文書の取引に力を入れているという噂も流れているのだが、その真実はごく一部の者を除けば知られてはいない。

 

 今回はそんな男にまつわる話である。

 その日、彼が最近手に入れたある絵画を求めて外国人を含む少なくない数の顧客が彼の家を訪ねていた。

 彼らの目的であるその絵画のタイトルは「Poppy Flowers」といい、日本では「ビスカリアのある花瓶」とも呼ばれているあの天才画家ゴッホ晩年の作品である。

 もちろん、そのような有名画家の手になる作品が闇画商である彼のもとにあるからには、それがいわくつきのものであることには間違いないのだが、それが彼のもとにやってきた経緯については、やはり少々の説明が必要であろう。


 今から十年ほど前にカイロの美術館から盗み出されたそれは、当局の必死の捜索にもかかわらず結局発見されないまま月日を重ねていたのだが、実はそこにはひとりの男が関わっていた。

 新池谷勤。

 日本に戻った前任者からその職を引き継いで在エジプトの蒐書官たちを束ねていた人物である。

 そう。

 首尾よく盗み出しには成功したものの、当局の威信をかけた包囲が予想外に厳しく身動きが取れなくなった犯人たちが頼ったのが、この地域の盗品売買の元締めであった新池谷だったのだ。

 そして、すでにその絵画盗難の情報を手に入れていた彼は一千万ドルというその絵の価値を考えればバーゲンプライスでそれを買い取り、エジプト国外に持ち出すと二千万ドルを上乗せして闇ルートに流したのだが、その絵画の辿り着いた先が彼の母国になるというのは大いなる皮肉である。


 話を本題に戻そう。

「……どれほどの値がついたかな」

 客たちが引き上げ、ひとりになった彼は心躍らせながら二十枚近くの紙が押し込まれた入札箱をあけた。

「五十八億、六十億。いいな。さすがゴッホ。……ん?何だ、これは……」

 恭次が目を止めたその紙には金額の代わりに意味不明の言葉だけが書かれていた。

 もちろん、彼にはその言葉に心当たりはない。

 以前の彼なら、当然その紙はゴミ箱に直行し、そこに書かれていた「幻の書 梅壺の大将」という言葉もあっという間に忘却の彼方に送り込まれていたのだが、それが驚くべき大金になることを知っている今は違う。

「君はこれを読んだことがあるかい」

 妻に幻の書という肩書がつけられた「梅壺の大将」と書かれた紙を見せながら、彼は訊ねた。

 本来ならば「知っているか」と聞くところであろうが、自分には想像できないくらいの圧倒的な知識を持って彼女に訊ねるにはこちらの方がふさわしい。

 それが彼の考えだった。

 だが、妻である真紀の答えは彼の希望するものとは対極にあるものだった。

「ないですね」


 ……つまり、ガセか。


 もちろんそれは彼を落胆させるものであったのだが、真紀が続けた言葉は再び彼の中に流れる闇商人の血をたぎらせるには十分なものだった。

「なにしろ、それは存在したことはわかっているものの、現在は原書どころか写本すら見つかっていないものですから。ですから、そこに書かれた幻の書というのは間違いではありません」

 妻の言葉はさらに続く。

「それで、どうしますか?私としては前に進むべきだと思いますが」

 ……まあ、そのようながあるのなら絶対に読みたいと思う君ならそう言うだろうな。

 彼は皮肉交じりに心の中でそう呟くと、その理由を口に出して訊ねる。

「というと?」

「もし、それが本物なら国宝級の価値のあるものになるかもしれませんので」

「なるほど」

 だが、彼女の言葉に相槌を打ちながら彼はそれとは真逆のことを考えていた。

 ……そうは言っても、偽物であった場合には六十億円以上の価値のある絵画をただで相手に渡すことになり、残るのは絵を買い取った時にできた四十億円の借金だけとなる。


 ……それに、たとえ本物でもたいした内容でもない可能性もある。

 ……そういうことであれば……。


「いいえ。その点については心配ありません」

 彼の表情からそれを読み取ったらしい彼女は「やはり、そのようなものに関わらないほうが良さそうだ」という彼の口から出かかった言葉をあっさりと否定した。

 その言葉があまりにも簡潔だったために言外で彼女が何を言いたいのかが掴めなかった彼が訊ねる。

「どういうことかな。とりあえず、それは誰も読んだことはないのだろう」

「いいえ。読んだことがないのは現代の人間の話です。その時代の人間は読んでいます。しかも、その中には有名な人物もいます」

「そうなのかい」

「はい。では、これは知っていますか?」

 そう言って、真紀が披露したのがこの言葉である。


「……春はあけぼの」


 その言葉に彼は苦笑する。

「文学に無縁な私でもそれくらいはさすがに知っている。清少納言の枕草子だろう」

「そうです。その清少納言が枕草子のなかで、この物語を紹介しています。それを見もしないうちから駄作と断言するのは、知性と教養のある勇気溢れる者の行動と言えるのではないでしょうか。ですから、問題はそれが本物かどうかということ。その一点だけです」

「だが、それこそが難問ではないのかな」

 彼が言っていること。

 それは誰も読んだことがないものを本物かどうか見分けるのは難しいのではないかということである。

 だが、彼女はそれについても否定する。

 それが実に簡単なことであるかのように。

「それなら問題ありません」

 彼が重ねて訊ねる。

「博学の君を信用しないというわけでないのだが、できればその根拠を教えてもらいたい」

「はい。それは多くの古典を読み込んでいる私の目です。別の物語の一部を写したものであれば当然すぐにわかりますし、自らがつくりあげたものであれば、余程のものではないかぎり偽物かどうかは判明できます」

 彼女が口にしたそれは聞く者によっては傲慢と思われかねない言葉である。

 だが、多くの実例を間近で見ている彼は妻の言葉を疑わない。

 すぐさま肯定の言葉を口にする。

「それはそうだ。君の目をごまかせるものが書けるのであればつまらぬ偽物づくりに精を出さずに物書きになればいい」

 夫の言葉に妻は頷き、言葉を続ける。

「とにかくその『梅壺の大将』を見せてもらうことにすればよろしいでしょう。結論はその後でいいのではないですか?」


「……わかった。君の意見に従おう」


 それは彼にとって色々な意味で心地よい敗北の言葉だった。

 一方、勝者となった彼女だが、心の中では彼に見せたその嬉しそうな表情とはまったく別の言葉が語られていた。


 ……まずはこの男を使って所有者に近づき真偽を確かめる。

 ……ついでに買い取りまでさせればこれ幸い、たとえこの男が買い取りに失敗しても所有者が判明すればどうにでもなる。


 もちろんその心の声を口に出すことはなく、彼女はこの言葉で会話を締めくくった。

「あなたのお役に立てるようならうれしいです」


 数日後助手席に妻である真紀を乗せた彼はスポーツカータイプの乗用車を走らせ山道を登っていた。

「今から向かう家の主人はどのような方なのですか?」

 窓から入る風に髪を靡かせる妻の言葉に彼が答える。

「菊池啓二。いくつかの会社を経営していたが、奥さんを亡くしてことをきっかけにそのすべてを息子に任せ自らは山奥に引きこもり集めた絵を眺めているらしい」

「なるほど。ということは、引退後の趣味が蒐集ということなのですね」

「それは違うと思う。なにしろ私がこの世界に入ったときには彼はすでにコレクターとして知られていたからな。だが、本格的に裏ルートで絵画を熱心に物色し始めたのは最近のことだ」

「ところで、菊池氏のターゲットというのは絵画だけではなく芸術全般なのですか?」

「というと?」

「幻の書である『梅壺の大将』を、しかも、本物であれば、手に入れるためには相応のお金が必要です。つまり、そのようなものに手を出すには、お金だけではなくそれなりの知識もなければできないことだと思われますので」


 ……たしかに。


 今度は妻の言葉に彼は心の底から相槌を打つ。

「そうだな。私だって君がいなければこの取引に応じるのは難しかったのだから、購入するには本人か、側近が余程の知識がなければならない。だが、彼が絵画以外のものも買い入れしているという話は聞いたことはないのも事実だ。その辺は本人に聞いたほうがよさそうだな」


 やがて、二人の目の前に現れたのは館と表現すべき大きな建物だった。


 玄関でふたりを出迎えたその男は、どうやらふたりが来るのを待ちくたびれていたようで応接間に通すと、ろくな挨拶もせぬまま商談が始めた。

「……では、そういうことでしたら、まず『梅壺の大将』を見せていただきましょうか」

「これがそうだ」

 促されるままに彼が口にしたその言葉に、ためらいもなく、いや、どちらかといえば、待っていましたと言わんばかりに男がテーブルに置いたのは古びた紙束だった。

「では、拝見させてもらいます。お願いできますか」

「はい」

 その紙束はまず手に取った夫からすぐに妻に渡されると、彼女は数度紙を撫で、小さく頷き、それから黙々とそれを読み始める。


「……ほう。そういうことか」


 それは男の口から漏れ出した言葉だった。

 

 それから約一時間後。

 読み終えた真紀の口が開いた。

「この物語は内容から考えて本物でまちがいないでしょう。作者がわからないために写本か原本かは不明ですが。ただし、これは『梅壺の大将』ではなく、『梅壺の大将』と同じく現在は写本も残っていない『物羨みの中将』です。表紙のタイトルも『物羨みの中将』と書かれています」


 ……どういうことだ?


 妻が語る真実に彼が驚くのも当然である。

 これが偽物ということなら理解はできる。

 だが、別の名を持つ本物というのは、そうする理由が彼の頭の中では思い浮かばないからだ。

「……どういうことでしょうか?」

 男が少しだけ笑みを浮かべ口を開く。

「たしかに奥様の言葉どおり、それは『物羨みの中将』です。どのような経緯かはわかりませんが、先祖がこれを手に入れて代々家宝として扱うことになっていました。ですが、あなたもご存じのとおり絵画専門の私はこのようなものにまったく興味がない。そんなある日、あなたがあの絵を手に入れたという情報を得ました。あの絵が欲しい。だが、購入するだけの資金が少々足りない。そのときに思い出したのです。あなたは最近古文書に熱を上げているという話を。ただし、興味がないといっても家宝は家宝だ。表紙に書かれた『物羨みの中将』も読めない輩には譲れない。『梅壺の大将』の名はあなたが古文書に関してどれほどの目利きなのかを試すために使っただけです」


 ……なるほど。自らに枷を設けたのか。


 彼は男の複雑な心情を理解した。


 ……さすがにこの状況で嘘をつくとは思えぬ。

 ……その言葉はすべて真実と思ってよいだろう。


 彼は隣に座るかの妻に目をやる。

 彼女が返す笑みが自分と同じ思いだと確認した彼がその言葉を口にする。

「……ですが、いいのですか。祖先から引き継いだ家宝を手放しても」

「もちろんです。先ほども言いましたが、私は手放し気があり、あなたにはそれを受け取る資格があるのですから。それよりも、この『物羨みの中将』は『ビスカリアのある花瓶』に釣り合うものなのでしょうか?」

「君はどう思う?」

 迷いのない男の言葉に彼は頷き、それから隣の女性に声をかけると、彼女は答えとなる言葉を口にする。

「貴重なものであることは確かですし、いいお話を聞かされた後で申しわけないのですが、さすがに六十億円は厳しいのでは?その四分一から三分の一程度が適切な値ではないでしょうか」


 ……少々渋いな。売るあてもあるのだ。私なら三十億円は……。


 そう思ったところで、彼は気づく。

 あえてその値を口にした妻の配慮を。


 ……さすが真紀さん。では、お言葉に甘えて……。


 妻に心の中で感謝した彼は何事もなかったかのように彼の査定額を言葉にした。

「そういうことであれば、あと三十五億円は現金でお願いします」

 つまり、妻が示した額よりも五億円ほど上乗せした額で買い取る。

 彼の言葉はそう言っていたのだ。


 ……さて、ここからがあなたがたの本番ですね。


 もちろんそれはその言葉を心の中で口にした彼女だけでなく隣の男も覚悟していたことだった。

 だが、ここで予想外のことが起こる。

「もちろんこちらはその額で異存ありません。では……」

 その言葉を残して立ち上がると、男はそそくさと席を外し金の用意を始めたのだ。

 ……なるほど。相手は私たちが交渉を打ち切るのではと心配しているということですか。

 男の様子からその心情を読み切った妻は夫に声をかける。

「……ですが、あの額でよろしかったのですか?」

「……構わないよ。あとは天野川嬢から回収する。もちろん彼女の恩は忘れていない。五億円だけ上乗せする」

「……そうですか」


 ……結構です。

 ……そこが私にとっては一番重要なのですが、まあ、悪くないといったところでしょうか。

 ……さて、もうひとつのやるべきことも手早く片付けてしまいましょう。


 札束を載せた台車を押して戻ってきた男に彼女は優しく微笑んだ。


「ところで、菊池様。交渉成立の前にもうひとつ条件を追加させてください」

「何でしょうか?」

「彼が手に入れた『物羨みの中将』の価値を下げないためにどのような形のものでも『物羨みの中将』に関するものはすべて引き取りたいということです。こちらもそれなりの出費をする以上申しわけないのですが、これは譲れない条件です」


「夜見子様。手に入れたのは『梅壺の大将』」ではなく、『物羨みの中将』」でした。そして、木村恭次は手に入れた『物羨みの中将』を夜見子様に三十億円で売却するつもりのようです。

「なるほど。ですが、私はそれがどのような金額であろうともちろん購入します。ところで、実際に読んだ感想はいかがでしたか?」


「すばらしい。そのひとことです」

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