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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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もうひとつのユカタン事物記

 東京都千代田区神田神保町。

 ここにある古書店街の一角に建つ周辺では有名なその建物の一室に彼女はいる。

 天野川夜見子。

 世界有数の蒐書家である。

 そして、この日、その彼女のもとに中米を担当している神林と遠藤というふたりの蒐書官が訪れていた。

 実を言うと、これは彼らの日常において非常に珍しい光景だった。

 というのは、蒐書官が休暇以外でその任地を離れることは稀なことであり、それだけで重要な要件があることを伺い知ることができるということなのである。


「ただいま到着いたしました。夜見子様」

 年長の男のその言葉に夜見子は笑顔で応える。

「おかえりなさい。あなたたちがこうやってきたということは、首尾は上々だったと思ってもいいのでしょうか?」

「もちろんです。これをどうぞ」

 そう。

 挨拶も早々に男から手渡されものこそ彼らがこうして日本に戻ってきた理由だった。

「……なるほど。これはすばらしいものです」

 マヤの絵文書。

 それが彼らが持ち込み、それを手にした夜見子が感嘆の言葉を上げたものの総称である。

 メキシコを中心とした中米の密林地帯で発展したマヤ文明だったが、十六世紀にこの地にやってきたスペイン人によってそのすべてが徹底的には破壊された。

 もちろんこの時にスペイン人がおこなったことすべてが暴挙以外のなにものでもなかったのだが、その中でも後世のマヤ文明研究に大きなダメージを与えたのが焚書だった。

 この蛮行により当時のヨーロッパよりも進んでいたとも言われる多くの知識は失われ、現在にそれを知らしめているのは石材に刻まれた文字が語るわずかに残されたものだけとなり、文書として残されているのは奇跡的に残った数えるほどの絵文書だけなのである。

 その貴重な絵文書の、しかもまだ知られていないものをふたりはメキシコとグアテマラで見つけ出し持ち帰ってきたのだから、夜見子が笑顔で出迎えるのは当然と言えば当然なのである。


「それにしても焚書とは無教養の野蛮人の所業と言わざるを得ませんね」

「そうかな?」

 それを熱心に読み込む夜見子女を前にして熱弁を振るう遠藤の怒りの要素が濃い言葉に反対の意を示したのは彼の師匠でもある先輩の神林だった。

「では、神林さんは焚書を肯定するのですか?」

「いや」

「では、どういうことなのですか?しかも、夜見子様の前でそのようなことを……」

「いいのですよ、遠藤。私も神林の意見に賛成なのですから」

「えっ」

 誰よりも書を愛する夜見子のものとは思えぬその内容に驚く年少者の表情を十分に楽しんでから彼女は言葉を続ける。

「もちろん、焚書そのものは憎むべき行為ですし、そのような行為をおこなった者たちは当然軽蔑すべき輩なのですが、それと焚書をおこなった者たちが常に教養のない蛮族かどうかとは別の話なのです」

「と言いますと?」

「神林に語ってもらってもよいのですが、せっかくですから私から話しましょう。その地を奪ったあとにそこに住む民を手っ取り早く従わせるにはどうしたよいのでしょうか?答えはもちろん恐怖による支配なのですが、それではやはり火種は残ります。短期的な搾取が目的ではなく長期的で安定した統治をしようとすれば、やはり同化という道を選択せざるを得ません。その時に邪魔になるのがまず言葉。それから歴史や文化、その支えとなる知識といったものになります。そして、その根源と伝承のためにあるものとは何でしょうか?」

「……なるほど。文書の価値をそれだけ理解していたから焚書をしたということであり、焚書が単純で無教養の野蛮人がおこなう行為とは断言できないということなのですね」

「そういうことです。もっとも、当時のスペイン人が中南米でおこなったことは、自分たちとは違う思想や価値観は一切認めないという狂信者が神の名の下に略奪を繰り返したまさに蛮行と言ってもよいものでありますから、その一環であるかの地における焚書は野蛮人の行為と言ってもまったく問題ありませんが」


 ……まあ、すべてがお嬢様の受け売りなのですが。


 その日の夕方。

 常に紅茶とともにある彼女の部屋にもう一度現れたのはひとりだけだった。

「彼は私の言葉を理解したと思いますか?」

 夜見子のその問いかけに男は即答する。

「もちろん。遠藤君は優秀ですから」

「……なるほど」

 夜見子は少しだけ微笑む。

「彼を信頼しているわけですね」

「そのとおりです。あとはもう少し視野を広く持つこと。それから自らの正義が万人のものではないことを理解することが必要でしょうか。そのうえで仕事をこなせるようになれば彼も一流の蒐書官の仲間入りです」

「要するに彼があなたの域に達するまではもう少し時間が必要ということですね。ところで、彼のような純粋な若者はこれを書いた者をどう評価すると思いますか?」

 そう言って夜見子は古い書をテーブルに置いた。

 もちろん神林はその書を知っている。

 そして、それがここにある理由も。

「ユカタン事物記ですね」

 男の言葉に夜見子が頷く。

「そう。著者のディエゴ・デ・ランダは、マヤの歴史のすべてを否定し文化を破壊した。しかし、一方でこのようなものを残している」

「なるほど。彼がどのように答えるかは私も興味がありますね」

「ちなみにあなたはどう評価するのですか?」

「彼の罪を憎み、彼の功を称えます」

「さすが蒐集官時代から次期エースと言われていただけの完璧な答えといったところでしょうか。ところで、ユカタン事物記には知られていない別の物語があることを知っていますか」

「それはユカタン事物記の原本ということですか?」

「いいえ。この世には存在していないと思われている原本と、そのための多くのメモ書きはあなたたちの尽力によりすでに私の手元にあります。ですから、それとは別のものということです」

「つまり別の作者による同類の文書があるということですか?」

「そのとおりです」

「確かにランダと同じことを考えついた別のスペイン人や、自分たちの文化の源が消えることを憂い後世のために密かに文書を残したマヤ人がいた可能性は十分にあります。では、それが次回に目指すものとなるということでしょうか?」

「いいえ。実はつい最近それが手に入ったのです」

「いったいどこで……」

「わかりませんか?」

「皆目見当もつきません。なにしろ私の耳にはそのような話、一度も入っていなかものですから」

「……では、中米から遠く離れており、また一見するとマヤ文化とは縁もゆかりもなさそうに思えますが、直接ではないにしろ実はその滅亡に深く関わった者たちの後継者が住む場所といえばどうでしょう」

「もしかして……自称神の代理人」

 自称神の代理人。

 それは彼ら蒐書官がある組織を指すときに使う言葉である。

 神林の言葉に彼の主が頷く。

「さすがですね。そのとおりです」

「ですが、かの場所は我々蒐書官でもそう簡単に踏み込める場所ではありません。しかも、交渉相手は神の代理人となれば交渉はさぞ大変だったのではないですか?」

「ところが、実際にはそうではなかったのです」

「と、いいますと?」

「まず、あの文書は確かに貴重なものではありますが、彼らにとってあれは本来持つべき書とは言えず、封印という形でこれまで内密に保管してはいたものの、できれば人知れず処分をしたい。しかし、その歴史資料的価値や入手経緯、そして、理由はどうあれこれまで前任者たちが大切に保管していたことを考えれば自分の代で簡単に廃棄するわけにはいかない。いわば手に余るものであったのです」

「なるほど」

「ですから、この世界の最高権威機関のひとつがそのような怪しげな品を隠し持っていると公表されることと、そのような忌まわしき書を手放し、その代わりに彼らにふさわしいものを手にすることを天秤にかけなければならなくなった時にどちらを選ぶかなど火を見るよりも明らかなのです。名誉は守られ圧倒的な利益も得られる。私たちだけではなく彼らにとってもこれは悪い商談ではなかったということです」

「ですが、その交渉もかの場所に長い間隠されていた文書の存在を我々が知らなければできなかったことで、どこでそれを……もしかして」

「そういうことです。彼らが私たちにだけ届くように故意に情報を流した。つまり、彼らのほうから私たちに交渉を持ちかけてきたのです。ですから、先ほどの神林の問いに私はそれほど苦労しなかったと言ったのです。なにしろ、もっともやっかいな作業である相手を交渉のテーブルに着かせる手間が省けたのですから。……ですが」

「どうされたのですか?」

「私たちをエサでおびき寄せたまではよかったものの、その後の交渉は彼らの思い描いていたものとはまったく違うものになりました。なにしろこちらの窓口は……」

「これほどの大物が相手なら新池谷さん。いや、もしかして……」

「そういうことです。最終的には彼らが欲しかったものは差し上げましたが、対価として彼らは予定以上のものを差し出すことになりました。本来は出すはずではなかったものまで巻き上げられることになったのですから。日本が誇る辣腕商人に」

「それは相手があまりにも悪すぎました。ご愁傷さまといったところでしょうか。しかし、それだけ一方的な交渉ということになれば彼らは席を立つことも可能だったのではないですか?」

「……そうですね。しかし、彼らはそうしなかった。いいえ。できなかったと言ったほうがいいでしょう」

「ということはこちらが用意したものは圧倒的に不利な状況になっても彼らを席に縛りつけるくらいに魅力的だったということになります。自尊心の塊である彼らが屈辱に耐えてまで手に入れたかったものとはいったい何だったのですか?」

「死海文書の裏側。いや、それでは表現があまりにも悪いです。正確にはまだ一般には知られていない闇について語られた死海文書の一部です」

「確かにそれならば、彼らにとっては是が非でも回収し、封印を兼ねて自分の手元に置かなければならぬ品ではありますね。それほどのものなら私も一度目を通したかったものです」

「……そうですか。では、どうぞ」

 夜見子は無造作に古びた羊皮紙の束を脇にある机の引き出しから取り出しテーブルに載せた。

「こ、これは?」

「実は彼らと交渉するにあたって工房で精巧な複製をつくらせたのですが、間違って彼らにはその複製を渡してしまいました」

「……間違って?」

「はい。間違って」


 ……ないな。


 神林はそう断定した。


 ……本来ならとんでもない失態にもかかわらず夜見子様は平然としている。

 ……それが意図的にフェイクを渡した証拠だ。


 心の中でそう呟きながら、神林はある男の顔を思い浮かべていた。


 ……このようなことを考え実行に移すのは、我々蒐書官がおこなう大規模な企てに必ず関与しているあの人以外に考えられない。


「では、仕方がありませんね」

 神林が笑いながらそう言うと、彼の主も同じように意味ありげな笑みを浮かべる。

「ですが、さすがは私の工房の職人たちです。いまだ彼らからのクレームが届いていません。もっとも本物がどのようなものかを知らない彼らに国会図書館の鑑定官たちでさえ欺く工房作成のフェイクを見抜ける術などあるわけなどないのですが」


 ……当然でしょう。


「ですが、相手にフェイクを渡したということは……」

「あなたの目の前にあるものが本物です。そして、こちらが交換で受け取った彼らの隠し持っていたもうひとつのユカタン事物記です。実際にはもうひとつどころではなかったのですが……」

 そう言って、夜見子はもう一度笑った。

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