源氏物語について語る紫式部の手紙
紫式部。
ある程度の年齢以上の日本人なら誰でもその名を知るくらいに彼女は有名な人物であるものの、実際のところその実像はよくわかっていない。
もちろんわかっていることもある。
そう。
彼女があの「源氏物語」の作者であることだ。
ただし、この時代の物語には珍しいことではなかったのだが、「源氏物語」も後世の者が自らの感性に従った添削をおこないながら伝えているため、そこに書かれた文章のすべてが紫式部オリジナルというわけではない。
いったい現存する源氏物語の、どの部分が紫式部のオリジナルで、どこが後世の編者が手直しした部分なのか。
そして、紫式部オリジナルの「源氏物語」とはいったいどのようなものだったのか。
それを多くの人が知りたいと思っていることだろう。
もちろん、それについては、多くの専門家が自らの研究結果を基にしてそれぞれの意見を述べてはいるのだが、それが本当に正しいのかは結局オリジナルと見比べるしかない。
だが、肝心のオリジナルは残っていない。
つまり、その答えは永遠に謎のままとなる。
もっとも、それは日の当たる世界での話。
その真実に近い者たちが住む別の世界ではそれについて少し違う言葉が語られている。
茨城県守谷市。
源氏物語とは縁もゆかりもなさそうなこの地方都市に「古書店街の魔女」こと天野川夜見子配下のベテラン蒐書官藤見坂と彼とペアを組むアプレンティスと呼ばれる訓練生から蒐書官に昇格して半年となる鷲江が姿を現したのは夏の暑さをようやく感じなくなった頃だった。
「藤見坂さん」
チェーン店が幅を利かせる当地では珍しい個人営業の喫茶店で後輩蒐書官である鷲江がコーヒーカップから立ち上る湯気越しに先輩の顔を眺めながら声をかける。
「闇オークション。その質は問わなければ世界どころか日本でも各地で行われているのでそれ自体驚くほどことはありませんが、我々に招待状が届くというのはどうなのでしょうね」
「……つまり、君はこの誘いは胡散臭いと言いたいのかね」
「まあ、簡単に言ってしまえばそうなります」
あっという間に戻ってきた先輩からの核心を突く言葉に鷲江は鼻白む。
その表情を一瞬だけ楽しんだ先輩蒐書官は畳みかけるように言葉を重ねる。
「たとえば、それが鷲江君宛てに届いたのであれば、たしかにそれはこのうえもなく胡散臭いと断言できるし、そんなものに誘われて出かけるなどどれだけ金を積まれようが断固お断りだ。だが、幸いなことに招待状の宛先は夜見子様だ。そして、招待状を受け取った夜見子様から我々にオークションに出向くように指示が下ったわけだが、それでも君は我々が出かけることに異議を唱えるというのかな」
「いいえ。その気など全くありません」
蒐書官にとってこれ以上はないといえる理由を最後に口にして後輩を黙らせた先輩蒐書官の言葉はさらに続く。
「ついでにいえば、これはオークション主催者の飼い主ともいえる者からの紹介によるものだ。出された商品の真贋はともかくオークション自体については心配あるまい」
「……桐花武臣ですか」
先輩が根拠として挙げた紹介状を書いた人物の名を後輩蒐書官が口にする。
「ですが、その男は……」
「橘花の敵だから信用できんと言いたいのか?」
「当然でしょう」
桐花武臣
後輩蒐書官が、自分たち蒐書官が属する巨大組織を示す誇り高き言葉「橘花」の敵であるとしたその名は日本という国が歴史に登場してから現代まで続く闇組織の現当主のものである。
そして、彼を頂点とするその一族は、江戸時代末期の開国と時を同じくして日本に突如出現すると一気に裏世界を飲み込んでいった橘花グループのオーナーである立花家とは常にライバル関係にあるのもこれまた事実である。
だが、藤見坂は後輩の言葉を一蹴する。
「ないな」
「こ、根拠は」
自らがおこなっている日頃の教育の成果ともいえる後輩蒐書官の瞬発力のある問いに薄く笑みを浮かべた藤見坂が答える。
「まず現在の桐花家当主は橘花に対峙する組織を統べる者にふさわしい器の大きい人物とされている。そのような者がこんなところでつまらない罠を用意するわけがない。さらにいえば……」
先輩蒐書官はそこで言葉を切り、コーヒーカップに手を伸ばす。
まず香り、それから味を楽しむように店主自慢のコーヒーに口をつけた彼がカップを持ったまま口を開く。
「鷲江君も聞いたことがあるとは思うが、桐花家当主桐花武臣は夜見子様に本気でほの字だ。そして、書に関する案件であるここで恩を売るのは夜見子様の気を引くのには絶好の機会である。そのような場で夜見子様の僕である我々を罠に嵌めるなどという愚かな行為をおこなった場合、単にその希望が消えるというだけではなく、それ以上のお返しが待っていることは桐花家当主だってわかっているだろう。ついでにいえば、我々と武器を使った戦いで勝てるのは軍だけだ。だが、我々と戦うとは立花家と敵対するということであり、それはその国家が終わるということと同義語だ。立花家がどのような存在なのかということを前任者からの申し送りで伝えられている各国の指導者がそのような愚かな行為をするとは思えんな」
「たしかに。主義主張にかかわらずそれはありませんね」
後輩蒐書官が同意したのは、言葉どおり話の後半部分だけなのか、それともそのすべてなのかは不明だったが、藤見坂は拘らず話を進める。
「それに、鮎原さんによれば桐花家当主の紹介状にはこう添えられていたということだ。『ただし、本品については出品者がそう主張しているだけで確たる証拠なし。これがその主張通りの品かどうかについては、門外漢である当方は預かり知らず。購入の際は自らご確認を』。つまり、情報提供はするがそれ以上の責任は持てぬと彼ははっきりと宣言している。ここまで言われてはどんなハズレを引こうが相手の責任にはできない。まして、オークション会場に現れた我々に対して物理的な攻撃でもしないかぎり罠などとは言えんだろう。まあ、先祖伝来の品が実はまがい物だったということはよくある話だ。確認してハズレであればいつもどおり我々は金を払わず手を引く。残念ではあるが、ただそれだけのことである。だが……」
そこまで言ったところで先輩蒐書官の表情は黒味を帯びたものに急激に変わる。
「……夜見子様にオークションを紹介した桐花家はそうはいかんだろうな。桐花家当主桐花武臣は一見すると物腰は柔らかく温和に見えるがプライドが高く、さらに自分に楯突いた者は絶対に許さない。そして、その本質は冷酷で残忍。側近の男たちの狂暴性は言うまでもない。そのようなことになれば出品者本人だけではなく一族すべてが消えていなくなるだろうな。それがどれほどの名家であっても」
「そういうことであれば、本物であることを願うしかありませんね。各方面の明るい未来のためにも……」
「そうだな」
「一応、ここにある資料では……」
あらたにやってきた少し苦めのコーヒーをひとくち含んだ後輩蒐書官が手に持ったのは比較的厚い紙束だった。
「今回のオークションに出品されるその商品とは『紫式部の手紙らしきもの』とされているようですが……」
そう。
その言葉どおり彼は疑っていた。
その事実を。
「真偽はともかく、紫式部の手紙ならそういえばいいでしょう。わざわざそうと思われるなどと書くのでしょうね」
「それが事実だからに決まっているだろう」
後輩の疑念をあっさりと払いのけた藤見坂の言葉はさらに続く。
「たとえば、そこに署名があれば紫式部の書簡となる。だか、それがないのだ。仕方あるまい」
「そうであれば……」
「だが、そうであっても、そこに書かれている内容が『源氏物語』の著者である紫式部以外は知り得ないことだからということなのだろう。おそらく非公式ではあるだろうが、紙の年代を調査し裏は取っているのだろうし」
「ですが、そんなことはこの資料には……」
「書いてあるだろう。間接的ではあるが」
そう言いながら藤見坂が差し示すオークション主催者から得られた資料の一か所に後輩蒐書官が目をやる。
……削除された部分についての苦情に似たものが延々と綴られ……。
……なるほど。そういうことですか。
たしかに深読みしなくても、それなりの意識を持ってさえいれば十分にそこに辿り着けた。
流し読みした自分と先輩との差を感じた鷲江はそっと話題をずらす。
「表の世界にバレないように調査をしたということは、出品者はそれなりの人物ということですか?」
もちろん彼の意図はすぐに先輩蒐書官の知るところとなるが、男はそれに触れることなかった。
代わりに少しだけ長い時間、後輩の顔に目をやった。
自分がそれに気づいていることを示すように。
それから、ゆっくり口を開き、こう呟く。
「そうなるな」
それが何を意味するか理解した後輩蒐書官は、心の中でもう一度反省してから、話を進める。
「藤見坂さんには相手に心当たりは……」
「当然ある」
「それはどこに?」
後輩蒐書官の言うとおり、資料には出品者についての言及はないどころか、それを匂わすものさえ記されていない。
……今度こそ何もない。それをどこから読み取ったというのでしょうか?
藤見坂が口を開くと、後輩蒐書官が心の声として放った疑問がまるで聞こえたかのように答える。
その問いに。
「これだけのものを抱えて名が出てこないコレクターなど日の当たる世界の住人であるわけがないのは当然であるが、そうであっても、それを抱えていられるとなれば、その対象人数は極端に狭まる。そこに加えて、鷲江君の指摘どおりそれに誰にも気づかれず年代調査ができる組織の一員。さらに今度の裏オークションに商品を出させることから実質的なオーナーである桐花家の信用がある者」
……なるほど。そういうことですか。
……さすがです。
むろん、これだけの根拠を挙げられれば、経験が少ない者でも凡その推測をして、該当する組織を導くことはそう難しいことではない。
……ということは……。
「つまり、桐花家に関係する者ということですか?」
鷲江が口にしたのは最も可能性がある者であり、この場合の正解にあたるものに思えるものでもあった。
だが、鷲江が眺める先輩蒐書官の顔はあきらかに不満を表情として表している。
その表情を変えぬままの先輩蒐書官の口が開く。
「その可能性は十分にある。だが、そこに日本国内の書だけを蒐集する特別な趣味を持つという一項目をつけ加えると別の人物の名が浮かび上がる」
「誰ですか?」
「冬桜クスミ。言うまでも四季家の一員で有名な書のコレクターでもある。私としては最後の一項目は君自身に気づいてもらいたかったものだな」
四季家。
それは古くからこの国の闇を支配し桐花家とともに現在まで消えることなく存在している一族の名である。
そして、彼らはそれがわかる者だけのみに自らの存在を誇示するからのように所属する家を表す四季のひとつに花名を加えたものをその名としている。
ただし、彼らの多くは世間と関りを持つことを避けているので、闇オークションとはいえこのような表舞台に姿を現すことはほとんどないのだが、藤見坂がその名を口にした女性だけは例外だった。
なにしろ自らのコレクションを増やすために度々闇オークションに顔を出しているその世界では有名人だったのだから。
「ですが、冬桜女史は典型的な蒐集家。自らが持つ貴重なコレクションを売りに出すなどあり得ることなのですか?」
後輩蒐書官の言葉はもっともである。
特にクスミのように一度手放せば二度と取りもどすことができないようなものばかりを抱えているような特別な蒐集家ならばなおさらである。
先輩蒐書官が口を開く。
「その冬桜女史だって本当はそうはしたくなかったのだろうな」
「では……」
「だが、そうせざるを得なくなった。そういうことなのだろう」
「どういうことですか?」
「おそらく理由はこれだ」
疑念の山を抱えた後輩蒐書官の言葉に答えた藤見坂が人差し指で示したのはオークションカタログに並ぶ出品リストのひとつだった。
「……知られていない厩戸皇子の手による教典写し。なんですか?これは」
「まあ、書いてあるとおり表の世界では存在さえ確認されていない聖徳太子の直筆の仏典だろうな。これが出品されることを知った桐花武臣が裏世界では有名な書のコレクターである冬桜女史に声をかけた。もちろん女史は大喜びして参加を決める。だが、問題があることに気づく。それとも、その際に桐花家当主から伝えられたのかもしれない。どちらにしても彼女は知ったわけだ。その問題を」
「なんですか?その問題とは」
「もちろん我々だよ。冬桜女史だって我々の資金力を知らないわけではないだろう。これまではこのような場でぶつかることがなかったが、それはお互いに相手の縄張りに入らないようにしていたからだ。だが、今回は違う。正面から激突だ。さて、ここで鷲江君に質問だ。どうしても欲しい聖徳太子直筆の書。だが、強力なライバルがいるため、オークションに勝ち、それを手に入れるためには相当の金を用意しなければならないが自分のサイフにはそれを身合うだけのものは入っていない。君ならどうする?」
「諦めるという選択肢がないのなら、自分が抱えているもののうち優先度の低いものを売りに出し軍資金を増やす」
「そういうことだ。そうして、熟慮した結果紫式部の手によるものと伝わる例の書が選ばれたというわけだ。そして、桐花武臣に頼み込み自らが用意したその品を狙いの品の前にセリにかけられるように手配した。こうすれば、ライバルである我々のサイフを軽くできるうえに、自らの支払い上限を上乗せできる。それから、もうひとつ。このことから、彼女は紫式部の筆跡を知らない。もちろんそれはこの書が完全な偽物ではないという前提があるが」
「……書かれた内容を考えれば常識的には女史がその手紙を手放すはずがない。ですが、それを売りに出すことに決めたのはそれと匂わすものはあっても確定できるだけの証拠が手元にない。彼女にとっては筆者が特定できるもののほうがそうでないものより上。たとえ内容が劣ったとしても。ということですか?」
「そうだ。そこにある程度の知識がある者なら絶対に食いつきそうなものという一項が入る。我々を相手にして勝ち、絶対に欲しい聖徳太子直筆の書を手に入れるためには日の当たる場所において落札された絵画の最高金額くらいは用意しなければならない。だが、彼女の手元にはあるのはおそらくそれには程遠いもの。だから、それを補うために最低でも十桁後半、できれば十一桁を我々に支出させるものでなければならない」
十一桁。
つまり、百億円前後ということである。
「いくつか疑問があります」
「聞こう」
先輩蒐書官の流れるような説明をすべて聞き終えた鷲江が呟きに似た疑問の言葉を口にすると目の前の男は鷹揚に応じる。
ひと呼吸分の間を取った後輩蒐書官が口を開く。
「まず時系列がおかしいこと。さらにどう見ても式部のものより格が上の聖徳太子の書が我々の主要ターゲットになっていないのもおかしいことのひとつです。それからその出品者も同様です」
「なるほど。一応理由も聞いておこうか」
「最初は時系列ですが……」
「冬桜女史はオークションに我々が参加することを知り、我々に勝ち聖徳太子の書を確実に手に入れるための軍資金をつくるために紫式部の手紙を売ること決めたとのことでしたが、我々は紫式部の手紙が出品される情報を手に入れ、オークションに参加することになった。これはあきらかに時間的な矛盾があります」
「なるほど」
「次のオークションにおける主要ターゲットですが、我々が指示を受けたのは紫式部の手紙。もちろん他に珍しい書が登場すれば獲得に動きますが、聖徳太子の書と紫式部の手紙。これは同格または前者がやや上。それにもかかわらずそちらを手に入れる指示がなかった」
「両方手に入れろという指示があって然るべきということか。まあ、前者が出品される情報を我々が事前に手に入れてなかったとなれば当然式部の書のみを手に入れる指示となるが、言いたいことはわかった。それで、最後の出品者に関する疑問とは?」
「聖徳太子の書。こんなものを誰が持ち、そして、なぜ売りに出すことになったのかという単純な疑問です。それこそ冬桜女史や桐花家が持っているべき品でしょう。状況から冬桜女史の所有ということは当然ないのだから、残りは桐花家の一族の所有物と考えるべき。そうなるとこれを相対ではなくオークションという形でなぜ売りに出したのかという疑問も追加されます」
「なるほど。どれもこれもそれだけを聞けばなるほどと思う話だな」
「そうでしょ……」
「だが、実際にそれが起こっているのだ。鷲江君はそれを否定するのではなく、どうやったらそれが可能になるのか考えるべきだったな」
すべての項目を肯定しながら、最後に言いかけた言葉を遮られてバッサリと斬り捨てられた自らの意見。
少しだけ不満気な後輩蒐書官はその表情を隠すことなく口を開く。
「ということは、藤見坂さんは見当がついているのですか?」
それに対して、藤見坂はあっさりとこう答える。
「まあ、そうなる」
実をいえば、彼は後輩には知らされていない情報を主の代理人である男から事前に聞かされていた。
当然そこには後輩の言う矛盾を解き明かす要素も含まれている。
だが、彼は後輩にそれを伝えていない。
もちろんそれは彼が教育係として担当している鷲江の成長のため。
蒐書官は特別な例外を除きベテランと若手がペアを組むのはこのようにして経験を積ませるという理由があるのだ。
藤見坂は後輩蒐書官をじっとりとした目で眺め、それからもう一度口を開ける。
「では、問おう。どのような条件のときにそれが成立すると思う?」
……一番簡単なのは、これまで組み上げてきた事実のどこかが間違っているということだ。
……たとえば、我々の存在に関係なく、資金不足に陥っていた女史が魅力的ではあるが確実性の乏しい式部の手紙を売り払って聖徳太子直筆の書を購入するための軍資金を手に入れようとした。
……それを知ったオークション主催者に近い桐花武臣が彼女の軍資金確保に協力するため夜見子様に知らせた。
……これなら、最初の問題はクリアできる。
……だが、これでも第二、第三の疑念は答えることはできない。
……そもそも、夜見子様はなぜ聖徳太子直筆の書を欲しがらないのだ。
……それは藤見坂さんも同様だ。
……ここに来るまでこのような大物が出品されていることを知らなかったということ自体今回のオペは鮎原さんが直に差配していることを考えればありえないことだが、たとえなんらかの事情によりそれが起こったとしても、蒐書官ならそれを見つければ予定を変更してでも手に入れようと動くはずなのに、藤見坂さんが食指を動かしているようにはまったく見えない。
……この様子では本気で取る気はないと考えるのが妥当。
……では、なぜ手に入れる気がないのだ?
ここまで考えたところで、彼はコーヒーとともにあらたに注文したリンゴがたっぷりと入ったアップルパイを頬張る先輩蒐書官を眺める。
……これほどの大物が目の前にありながら手に入らなくても問題にならない理由とはなんだ?
……考えられるのはそれを出品したのが夜見子様本人だった場合ぐらいだが……。
……夜見子様がそれを手放すことなど……。
……いや、ある。
……そういうことか。
「わかりましたよ。藤見坂さん」
その翌々日の東京都千代田区神田神保町。
その一角に聳える書籍の大敵紫外線を防ぐため極端に窓が少なくされた建物の一室でその建物の主は届いたばかりのそれを眺めていた。
「いかがでした?夜見子様」
その建物の主天野川夜見子に声をかけたのは彼女よりふた回りほど年長の男だった。
満面の笑みの彼女がそれに応える。
「なかなか興味深いですね」
「と言いますと?」
「まず、『源氏物語』は彼女が生きていた時代に大幅な校正がオリジナルに対しておこなわれた。さらに、ここから読み取れるのはどうやらそれを彼女自身がおこなった。そしてもうひとつ。彼女の言葉からその理由は彼女自身のなかにあったわけではないということ」
「なるほど」
「わかることはまだあります。そのおこなわれた校正の内容とはあきらかにオリジナルからある部分をそっくり削り落としたというものです」
「ということは……」
男が言外に示したのは空白期間にあたるあの部分についてである。
もちろんそれがどの部分を示しているのかを誰よりも知る男の主は頷く。
「まあ、常識的にいってそういうことなのでしょうね。そして、彼女自身はそれを残すべきだとはっきりと述べています。さらに、この手紙では彼女自身が自らの手元用として写本をつくっていたことにも言及しています。もちろんそれは削ることになった部分を含めて自身がふさわしいと思っているほぼオリジナルの形で。どうやら、これはそのための紙を用意してくれた者への礼状のようですね」
「それは例のパトロンへのということですか?」
「そういうことになります」
「ところで……」
「……話はまったく違いますが、彼は気づいてはいないでしょうね?」
重要な部分が大幅に省略された夜見子の言葉。
だが、男にとってはそれで十分だった。
すべてを承知しているかのようにそれに答える。
「それはもちろんです。彼くらいの洞察力のある人間なら夜見子様が国宝級の書を、なにかもわからぬものを手に入れるためのエサにするということに大きな疑念を持つのは当然のことです。ですが……」
「たとえ何かあると疑っていても、どんな科学的調査でもクロ判定が出ない本物より本物に似せたものをつくりだす『すべてを写す場所』の完全再現を見破ることができる者はこの世にたったひとり、究極の才を持つあの方しかいないというこの世の理が破られることはありません。しかも、彼はすべての面において非常に有能。そして、ここではその有能さが返って仇となり、事前におこなった科学的調査でシロとなれば、さらに疑うことなく彼は目の前にある事実を追認し、それがおこなわれるためにはどのような状況が必要なのかを考えます。その結果、我々が彼の疑いを晴らすために必要だったその理由は彼自身が勝手につくりあげていきます。妄想によって」
「妄想?それはどのようなものですか?」
「実際にどのようなことを考えていたのかは彼自身に聞くしかないのですが、例を挙げれば、我々が実は冬桜女史が吐き出すものを知っていたとかそのようなものになるでしょう」
「なるほど」
……つまり、あなたはそこまでのことまで織り込んで今回の策を桐花武臣に持ちかけたのですか。
……こうなってくると、あなたは、彼女の財政状況だけではなく、実は本当に冬桜クスミが「源氏物語」にかかわる式部直筆の書を所有している情報まで手に入れており、それを売りに出させるためにすべてを手配したのではないかと思いたくなります。
「わかりました。桐花家傘下の闇オークションを舞台として桐花武臣と手を組んだ冬桜クスミ所有の書を差し出す策略。とりあえず第一段階は成功ということですね。まあ、何が出てくるのかわからなかった私は、まさか彼女がこんなものを持っていたのかと驚いています。本当に」
これぞ苦笑い。
夜見子のそれはまさにそう表現するにふさわしいものだった。
彼女の顔からその笑いが消えるのを待ってから、今回の大仕掛けのすべてを考えだした男が口を開く。
「ですが、これで彼女自身とその周辺が持参している式部の書はこれ一品ということが確定しました。彼女ほどの目利きなら式部直筆の書をどこかで目にしていればこれが本物とすぐに確定できるわけですから」
……たしかに。
「……一方、私たちは彼女実筆の書を多数所持しているため、真贋を見極めるなど容易いこととなります。これもすべて立花家の二代様のおかげです」
「そうとおりです。ということで、すべて終了です」
「いいえ」
「なにか問題でも?」
男の問いに、夜見子が表現に困る表情をして口を開く。
「いうまでもなく、その問題とは桐花武臣は本当にあれで満足していたのかということです。鮎原。あなたの提案であれをお礼の品としましたが、どう考えても今回の大掛かりの仕掛けに協力させた。それどころかほぼ共犯とのいえる役割を演じさせたものとしてあれはさすがにささやかすぎたのでないでしょうか。私はオークションに出品した聖徳太子直筆の書と同等のものを要求されても文句は言えないと思いますが」
「それについてはまったく問題ありません」
それが夜見子の、実にもっともな疑念に対する男の言葉だった。
「夜見子様の手作りパイ。彼にとってはどんな国宝を手に入れるより貴重なものだったと思います。それに、これについては事前に成功報酬を示したうえでのまっとうな交渉をおこなっていますので騙し討ちというわけではありません」
「桐花武臣は納得していると?」
「そのとおりです。あれは彼にとって十分にペイするに値するものだということです」
「……そんなものなのですか?」
「そんなものです。男とはそれくらい単純な生き物なのです。いや、ここは敬意を表して純粋な生き物といっておきましょう。とにかく、この程度の品で仕事を引き受けたなどと我々に恩を売った気でいるのは部下たちだけで、桐花家当主は微塵にもそのようには考えていないでしょう」
「……わかりました。そういうことなら、機会を見て、またつくることにしましょうか。さすがにあれひとつでは相手が桐花武臣であっても申しわけなさすぎますから」




