After story Ⅱ 幽霊の正体見たり枯れ尾花
「松が枝」の後日談的話となります
「朝霧さん。ひとつ疑問に思っていることがあるのですが、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
新潟県某所。
すべての仕事が終わりこの地を離れる前にもう一度その眺めを見ようと、その建物周辺を見渡せる高台にやってきた彼に同行した蒐書官のひとりが声をかける。
「もちろんだよ。山越君」
緊張気味に問う男に彼はそう答えると、男が口にしたのはあのことだった。
「今回の情報提供者は、あの建物にはバケモノがいると言っていましたが、朝霧さんはそれについての対策をまったくしていなかったように思えます。その理由について説明をしていただけますか?もしかして、バケモノなど存在しない、幽霊の正体見たり枯れ尾花だと最初からその話を切り捨てていたのですか?」
……なるほど。
彼は目の前にいる若い男が蒐書官のなかでも近接戦の能力が高い者として知られていることを思い出す。
「そういえば、その情報提供者は君と志摩君が拾ってきたのだったな」
「はい」
……熊でも飼っていたと思ったのか。
……まあ、熊を相手にできることなどそうはないだろうから、楽しみにしていたのはわかるが、本当に戦闘狂というは度し難い生き物のようだな。
彼は心の中で笑った。
「わかった。まあ、言葉にしてしまえばまったくもって面白みのないものなのだが、とりあえず説明しよう」
彼が語るその話は神保町の建物でおこなわれた父娘ほどの年の離れた男女が交わした会話に由来するものだった。
「ところで、情報を差し出した男は新潟にある日山のコレクションハウスに盗みに入った兄たちはbバケモノに襲われたと言っているらしいですね。これについてあなたはどう思いますか?」
主であるその女性の言葉に男が応じる。
「人間が襲われてひとたまりもない動物と言われて最初に思い浮かぶのはライオンや熊といった猛獣の類ですが、それをどうやったら番犬代わりに使うことができるようになるのか私には思いつきませんね。それに、おそらく襲われたのは屋内。そんなものが建物内を自由に歩き回ることを許していたら家人はもちろん、肝心のコレクションだってタダでは済みますまい」
「それはそうですね。では、あなたはどう考えますか?」
「番犬代わりではなく、番犬でしょう。その獣の正体は」
「犬?」
「軍用犬ならばそういうことも十分あり得るかと。しかも、これなら制御が利きます」
「ですが、犬ならば鳴き声でそうであると判別できると思います。さすがに犬の鳴き声を聞いてバケモノの声とは言わない気もしますが」
「客人の言葉が正しければ、バケモノと言ったのは襲われた兄の方です。そのバケモノという言葉を刷り込まれた客人が混乱した状況で唸り声を聞いたために犬の鳴き声を未知の生き物の咆哮と勘違いしたと考えられます」
……現にあの美術館は閉館後の館内に大型犬を放っている。
……なるほど。あり得る話だ。
彼女が心の中で納得するのを確かめてから、その男は言葉を続ける。
彼の考えの核心を話すために。
「ですが、これはそのバケモノとは襲ってきた獣を指したものという話が前提であって、そもそも、彼の兄がバケモノと言った対象は本当にその獣だったのかというところも十分な検証が必要でしょう」
「それはどういうことですか?」
「まず、彼の兄はその建物にバケモノがいると言ったのは間違いないでしょう。北添君からの報告で彼は何と言っていましたか?」
「たしか『ここはバケモノの巣窟』と」
「そう。ですが、これは妙な言い方だとは思いませんか」
「言われてみれば。それで?」
「結論を言ってしまえば、彼の兄が言ったバケモノとは建物の主と彼に雇われた屈強な男たちのことではないかと思われます」
……バケモノの正体は人間?
「……さすがにそれは少々飛躍し過ぎで納得しがたいものがありますね」
「いいえ。そのようなことはありません。夜見子様がそう思うのはいつも蒐書官を見ているからです。そうではない者が、その技術とアイテムを持ち、さらにそれらを使って躊躇いなく人を殺そうとする人間を見たら恐怖のあまりそのような表現を使うことはありませんか?」
「……なるほど」
彼女は少々戸惑い、大きく息を吐きだしてから次の言葉を口にする。
「つまり、あなたは本当にバケモノの正体が人間だと考えているのですか?」
「そうです。ただし、それはあくまで北添君が上げてきた情報だけを頼りに構築したものですから、実際に番犬代わりになるような獣がその建物で飼われている可能性も考慮し対策だけは講じるべきでしょう。特に交渉が決裂する可能性がある場合には」
「……ということは、朝霧さんは鮎原さんからバケモノに関するレクチャーを受けていたのですか?」
自らの説明に再び訊ねる若い男の言葉に彼は答える。
「そうなるな」
「それで、朝霧さんが考えたその対策とは?」
「もちろん畠山氏だ」
彼はそう言って他の同行者たちに混ざり談笑するくたびれた風体の男に目をやる。
「彼がバケモノ対策?」
「実を言うと、私も鮎原さん同様バケモノの正体は人間であり、それ自体はそれほど心配することはないと考えていた。それよりも問題だったのは情報提供者である二宮賢人の兄を襲った獣のほうだった。日山議員との交渉決裂の場合は実力行使をでなければならなくなる我々にとっては、その前に獣の正体を知らなければならなかったのだから。そのときに思い出したのだよ。畠山氏が愛犬家だったことを」
「愛犬家である彼なら議員に犬を飼っているか探りを入れられると?」
「そう。そして、もうひとつ。畠山氏には警戒心が強い人間でも彼にはペラペラと重要情報を喋るという驚くべき能力があった」
「そして、今回もその特殊能力が発動したと?」
男の言葉に彼は頷く。
「議員が機嫌よく畠山氏にコレクションを見せているときに、偶然見つけた犬の毛から犬の話でも盛り上がったそうだ。畠山氏が犬を五匹飼っていると自慢したところ議員は鼻で笑い、こう言ったそうだ。私はその三倍の数のドーベルマンを飼っていると」
「……自ら進んで、切り札を晒したのですか」
「まあ、畠山氏はすぐにエサ代の話を始めて相手に余計な話をしたと思わせないようにしたので、議員はことが起こるまでそれを後悔することはなかったようなのだが。とにかく、そういうことで、獣の正体はドーベルマンと確定した」
「たしかに。それがわからず仕事中に突如獰猛なドーベルマンの大群に襲われたら、我々は自衛のため銃を使用しければならない事態になり、結果として仕事に忠実なだけの犬たちを皆殺しにすることになったわけですから、そうならなかったのは本当によかったです。特に犬好きの私としては。ついでにお伺いしますが、飼い主を失ったあの犬たちはどうなるのですか?」
「大部分はお嬢様が住む千葉のお屋敷の住人になるようだが、数匹は畠山氏が飼うそうだ。せっかくだ。犬好きというのなら君も一匹引き取ってみてはどうかな?」
「そうですね。これも何かの縁。では、お言葉に甘えて一番元気があるのを譲っていただくことにします」




