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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story Ⅰ 女狐とゴキブリ

「松が枝」の後日談的話となります

内容的には本編で語られなかった話といったものになりますが

 東京都千代田区永田町。

 不思議なことに実は正式名称はハッキリと決まっていないのだが、総理官邸、首相官邸と呼ばれるその建物の現在の主は名を牟田口薫という。

 私利私欲が服を着たと陰口を叩かれるその男牟田口はこの日朝から不機嫌だった。

 その理由は昨晩ある男からかかってきた電話にあった。


「明日、夜見子がおまえに会いに行くので話を聞くように」


 彼は心の中で叫んだ。

 ……私はこの国の首相。つまり、最高権力者だ。

 ……その私に対して、名も名乗らずにいきなり一方的に要件を押しつけてくるとは無礼千万。


 だが、彼はその無礼な男をよく知っており、さらに自分とその男との力関係が地平線の彼方くらいに差があることも忘れてはいない。

「ですが、明日はすでに多くの予定が……」

 その相手に対して完全な弱者である彼が口にできる最上級のものといえるその言葉に電話の相手が応える。

「つまり、私の指示には従えないというわけか」

 電話口から聞こえる男の声は取り立てて怒りをあらわにしている様子も、あらたな要求をしているわけでもない。

 ……そのとおり。なにしろ私はこの国の最高権力者。当然だろう。

 心の中でそう叫んだものの、彼は知っている。

 現実はそうではないことを。

 そして、一方的な譲歩をしなければいけないのは自分であることも。

 さらに、男の言葉はすべてに優先させなければならないことも。

 彼が口を開く。

「決してそのようなことはありません。ただ、時間だけでも決めていただければ関係部署との調整が容易になるので、できればお願いしたく……」

 たいした仕事をしていないようではあるが、実際に首相には面会者が多く、スケジュール表はしっかり埋まっているので、言い訳に聞こえる彼の言葉は極めて常識的なものだった。

 一瞬の間ののち、男の声が再び聞こえる。

「それはそうだな。では、午前十時から一時間ということにしておく。ただし、あれは時間にルーズだ。少々遅れるかもしれないことは頭に入れておいてくれ」

「かしこまりました。それで、肝心の天野川様の要件は?」

「おまえに折り入って頼みたいことがあるそうだ。詳細は本人から聞いてくれ。では、よろしく」

 わずか数分の会話だった。

 だが、男にとってそれはその何十倍にも思える忍耐力が試される時間だった。

「くそ、女狐め。用事があるなら自分で電話にしろ。だいたい引きこもりの分際でなぜこういうときにだけ巣穴から出てくるのだ」

 誰もいないことを三度確認してから彼はそう叫び怒りを爆発させた。


 そうして、やってきたその日の予定の時刻。

 時間に遅れることなく公式には存在しない地下通路から彼女はやってきた。

 国のトップが緊急時の脱出路として使用するその通路をなぜこの女が知っているのかといぶかしげながら様子をモニターで確認していた彼は彼女に同行しているひとりの男を見つけ、思わず呻く。

「……よりによってあの男まで」

 そう。

 彼はその男を知っている。

 忘れたいが忘れられない苦さと屈辱感に塗れた記憶の中心人物として。

 ……だが、あの男までやってくるということは相当重要な要件ということか。

 ……せっかくだ。タップリと恩を売って、今までの貸しを返してもらうことにしようか。

 彼は心の中でそう誓い、会見場に向かった。


「ようこそお越しくださいました。天野川さん。急に野暮用が入ってしまい待たせてしまいました」

 隣室に控え、訪問者を数分だけ待たせ、さも忙しそうに部屋に入ってきた彼は心中を悟らせないように入念につくり込んだ笑顔で何度も練習したその言葉を口にした。

 ……完璧だ。

 彼は自らの演技を自賛する。

 だが、演者としての彼は二流である政治家よりもさらに出来の悪かった。

「それにしても、あなたのような方が自ら進んでここにやってくるとは思いませんでした」

 言外に彼女を引きこもりだと皮肉るその言葉。

 用意した台本にはなくいわゆるアドリブで口にしたそれはまさに余計なひとことだった。

 入念におこなった準備が水泡に帰した瞬間に立ち会った男は彼の浅はかさを笑い、護衛役として彼女が呼び寄せた同年代のもうひとりの女性はその言葉自体の面白さに吹き出すなか、怒りの色を濃くした彼女が口を開く。

「なるほど。あなたが私に対してどのような感情を抱いているのかはよくわかりました。そのことは当主様にしっかり報告させていただきます」

 ……くそっ。虎の威を借りる狐め。

 当然のようにやってきたその言葉に歯ぎしりし、口から出かかったそれをどうにか飲み込んだ男の言は正しい。

 だが、この事態はこのまま放置してよいものではない。

 ……まずは女狐がそれを実行に移さないようにしなければならない。

 彼は出てもいない汗を拭きながら、彼女の機嫌を直すために知っているかぎりの美辞麗句を並べ立て必死の弁解を始める。

 その様子を彼女に付き添ってきた年長の男は冷ややかに眺める。

 ……まさに口は災いのもと。

 ……だが、これで天秤は完全に我々が有利に傾いた。

 ……では、始めましょうか。

 男が口を開く。

「首相閣下。今日はお願いしたい要件があり参上いたしました」

 一見すると、男の言葉は窮地に陥っている彼に手を差し伸べる助け船に見える。

 ……だが、この男にかぎってそのようなことはない。これは罠だ。絶対に。

 彼は過去の経験からこの言葉の先には何かよからぬものがあると感じる。

 ……だが、この男が用意するものの悪辣な点は、そうとわかっていながら、差し伸べられた手を取らなければならない点にある。

 あらためて彼は先ほどの軽はずみな言葉を後悔するがあとの祭りである。

 ……とにかく、ここはどんなものが待っていようが誘いに乗るしかない。

 彼は覚悟を決めた。


「聞こう」

 心の中でそうは言ってものの、これが口にできる彼の精一杯の言葉である。

 ……たったそれだけの言葉を口にするだけなのに清水の舞台から飛び降りるような顔をしているとは笑わせてくれる。

 ……おおかた罠を疑ったのだろうな。

 ……だが、悪いが、あなた程度の人間との交渉に私は罠など使わない。

 ……まあ、罠自体はたしかに用意されてはいるが、あなたはそれには気づくまい。

 彼の心情を正確に読み取り薄く微笑んだ男に小さな声で促された彼女はいまだ不機嫌さは抜けきっていなかったが、だからといって感情を目的より優先させるほど愚かではない。

 表情を消す。

 そして、言葉を口にする。

「あなたにお願いしたいのは、紹介状を一通書いてもらうことです」

「紹介状?私の?」

「そうです」

 ……橘花グループの幹部であるこの女狐が私からの紹介状がないと会えない人物とはいったい誰だ?

 彼は頭の中で目まぐるしく思考を巡らせる。

「……それで、相手は?」

 複数の候補者は思い浮かんだものの、結局そこから先に思考を進めることができなかった彼が口にした言葉はごく平凡なものだった。

 そして、それに対して彼女が挙げたその名は……。


「国会議員日山宗剛」


「日山宗剛?」

「知り合いでしょう。それとも、同類と言ったほうがいいですか?」

 もちろんこれは先ほどのお返しであり、当然彼は事実無根と憤慨する。

 ……私が日山と同類?冗談ではない。誰があんなゲス野郎と同類なものか。

 ……まったくもって無礼な女狐だ。

 だが、ここで言葉に出してそれを否定したら、先ほどの件を蒸し返される心配があるため、負い目のある彼は話をそらすため彼女の言葉の後半部分は聞かなかったことにし、愛想笑いを浮かべ、別の言葉を口にする。

「もちろん与党議員ですから知っております。それで、彼にどのような用があるのですか?」

 そう言いながら、彼は心の中で呟く。

 ……まあ、聞くまでもないことだ。

 ……奴はコレクター。この女狐も書籍を専門としているがその同類。つまり、あの男が女狐の欲しがる何かを掴んだということだ。

 ……だが、これはいい。

 彼は小躍りして喜んだ。

 日山と女狐。

 このふたりをかみ合わせれば、どちらかが消える。

 ……まあ、消えるのは日山の方だろうが。

 そうなれば、汚れ仕事をやらせ重宝していたものの、最近その言動が鼻につくようになっていたその男を自らの手を汚さずに葬れる。

 ……実に結構なことだ。

 ……だが、これでこの素晴らしきショーを終わりにしてよいものなのか?

 ここで、彼はもう一度思考する。

 ……女狐の情報も日山に流し、よく燃えるようにしてやるのも一興。

 互いに傷つけ合い共倒れする妄想を描き始めたところで、彼は思い留まる。

 ……たしかにおもしろい趣向ではあるが、すでに勝敗が決している勝負に余計な手を加えるべきではない。

 ……常に勝ち馬に乗り続けること。

 ……それがこの世界で生き残るために必要なことなのだから。

 ……余計なことをして藪蛇にでもなったら目も当てられん。

「首相」

 男の言葉で自らの哲学を反芻していた彼は我に返る。

「せ、詮索が過ぎましたね。すいません」

 少しだけ慌てた彼の言葉に男が笑顔を浮かべてかぶりを振る。

「いいえ。紹介状を書いていただくのですから、もちろんご質問にはお答えいたします。日山議員が何やらすばらしい本を手に入れたとのことなので、拝見させていただきたいと思ったのです。ですが、相手は国会議員。しかも、我々には日山議員と接点がまったくない。そこで、首相のお力をお借りしたいと」

 ……その程度のこと、私の手を煩わせなくともおまえたちならできるだろう。

 ……白々しいにも程があるというものだ。

 そう思ったものの、先ほどの件もある。

 もちろん口にしたのはまったく別の言葉である。

「読むだけということですか?」

「もちろん譲っていただけるのなら、それに越したことはありませんが、まずは拝見させていただくということです」

「なるほど。それでその書の名は?」

「残念ながらそこまでは判明しておりません」

 ……つまり、そこは秘密ということか。

 ……まあ、いい。

 ……手間を省くつもりか、すでに接触にしたもののヤツに追い返されて私を泣きついてきたのか知らないが、とりあえずこれで貸しはつくれた。

「承知した」


 ……いや。せっかくだ。ここで終わりにするのはもったいない。

 貸しがつくれたと満足しかかったところで彼は再び思いを翻す。

 ……もう少し付加価値をつけるとしよう。

「ところで、日山議員には色々と噂があるのですが、ご存じかな」

「それは最近巷で話題になっているあの話のことですか?」

 彼の言葉に応えるように男が口にしたのは、ある贈収賄事件の話である。

 そして、その収賄側の人物のひとりとして名が挙がっていたのが日山だった。

 男はさらに言葉を続ける。

「日山議員は多方面に顔が利くようですね」

 もちろん男が口にしたそれは日山が自分には縁のない場所にも顔を出していることへの皮肉である。

 ……まあ、当然そうなるな。

 彼は心の中でニヤリと笑う。

 ……だが、ハズレだ。

「まったくです。彼にはもう少し自重してもらいたいものです。ですが、私が言いたいのはそのことではありません」

「……ほう」

 彼の言葉に男は警戒の色を少しだけ浮かび上がらせた。

「それは?」

「あの男は政界の裏仕事を引き受けています」

「裏仕事?」

「いわゆる口封じというやつです」

「それは初耳ですね。それで?」

「あなたがたには話せますが、我々には国民に知られてはいけない付き合いがある」

 ……もちろんそこにおまえたちも含まれるのだが。

「それが明るみに出そうになったときに火消しのために彼の子分どもが動いているということですよ」

「子分?それは秘書ということですか?」

「いえいえ、言葉どおりです。彼はかなり前から自分のコレクション警護のために警護組織をつくっていたのですが、その経費捻出のためにアルバイトを始めた。それがその裏仕事ということです。ですが、初期はともかくそちらが組織の本業になりつつある最近はそれなりの実力者を雇い入れていますので荒事をおこなう場合には十分に気をつけたほうがいいでしょう」

「……なるほど。それは十分に注意しなければいけませんね。重要な情報提供に感謝します」

 ……うまくいったようだな。

 男の言葉と表情から十分な点数を稼いだと彼は確信する。

 だが、それは大きな間違いだった。

 たしかに、事実を告げたことは評価に値するものだ。

 しかし、その事実を相手が知らなかったかといえば、そうではない。

 ……その程度のことを自慢げに話されても。

 すでに十分な調査をおこない彼が語ったことの大部分を知っていた男は心のなかで苦笑した。


 ……まあ、あなたが我々の犬であることが確認できただけでもよしとしますか。


「鮎原さん。ひとつ伺ってもよろしいですか?」

 首相官邸から先ほどの通路を使って帰る途中、男に声をかけたのは彼女が護衛役として呼び寄せた自分と同じ年齢の女性だった。

「夜見子だけならともかく、あなたが隣にいながらその三下議員に会うのにポンコツ首相の紹介状が必要だったとはとても思えません。私にはあなたが別の意図があって首相に面会を求めたとしか思えないのですが、違いますか?」

 その女性の言葉に呼応するように彼女も口を開く。

「私もその理由は知りたいですね。私があのゴキブリに会わねばならない理由を訊ねたときに、あなたは行けばわかると言いました。ですが、結局わからずじまいでしたから」

「なるほど。では、説明しましょう」

 男は小さく頷くと、もう一度口を開いた。

「まず、おふたりにこの通路の存在をお知らせしたかった。なにしろ、ここは一見さんお断りの場所ですから」

「一見さん?」

「つまり、顔認証システムに登録さえしてしまえば、使いたい放題です。便利ですよ。雨にも濡れませんし」

 ……人目に触れずに首相官邸に入れるというわけですか。

 ……しかも、武器持参で。

「それから?」

「敬愛する首相へのご機嫌伺い」

「なぜ私たちがあのゴキブリのご機嫌伺いをしなければならないのですか?」

「まあ、彼はこの国の首相ですから」

「それは表面上でしょう」

「そのとおり。ですから、時々顔を出して彼に自分の立場を再認識させる必要があるのです。さらに、わざわざ出向いてまで手に入れたかった紹介状は例のバケモノに対する魔除けの意味もあります。さすがに首相からの紹介状を持った相手を予告なしに襲撃することはないでしょうから。そして、一番重要なこと。それは……」


「あの男を今回の件の共犯にすること」


「それはどういうことですか?」

 驚いた女性の言葉に男が少しだけ笑みを浮かべる。

「あの男のことです。どうせ、我々が目障りになった日山議員を始末してくれればこれ幸い。ついでに日山議員と盛大に噛みあえばなおよいなどと虫の良いことを考えていることでしょう。そして、自分は安全な場所からそれを眺める。所謂高みの見物です」

「あのゴキブリが考えそうなことですね。それで?」

「ところが、紹介状を書いたその時点で彼はただの見物人ではなくなる」

「まあ、そうでしょうね」

「目ざとい彼のことだ。一度はつまらぬ妄想をしたものの、すぐに議員が我々に勝てるわけがないと踏み、勝ち馬に乗るために我々にせっせと胡麻を擦った。それが先ほどの情報提供というわけです。ですが、それが彼の限界です」

「と言いますと?」

「たとえば、彼の望み通り『松が枝』を手に入れる過程で我々が日山議員を排除しなければならなくなったときはどうなりますか?」

「わかりません」

「どうなるのですか?」

「もちろん蒐書官の仕事は完璧です。証拠など微塵も残さない。ですが、国会議員が謎の死を遂げた事実だけはさすがに消すことはできません。そして、たとえどのような者であっても国会議員が不審な死に方をしたとなれば、それなりの話題になります。そうなれば、一方に加担した彼は火が自らのもとまで燃え広がらないように必死に消火活動をしなければならなくなる。小心者である彼のことだ。持てる権力をすべて使ってそれをおこなうことでしょう。ですが、実はこれがもろ刃の剣。熱心に消火活動をやった彼はいつのまにか一番の当事者に祀り上げられる。なにしろ彼には日山議員をこの世から消す動機が山ほどあるのですから。やったのは首相という噂が流れれば多くの者がそれを信じることでしょうね」

「……なるほど。そういうことですか」

「さすがです。鮎原」

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