軍師・郭嘉
郭嘉は潁川郭氏の系統で、後漢書には同族の郭躬がいる。陳・辛・鍾・荀の潁川四氏には見劣りするが、それなりの出自がある。これは出身地が同じ陽翟だからであって、他の地域出身の郭氏は別の来歴を持った赤の他人になる。
郭躬伝には、郭氏が代々法律を伝え、多くの者がそれなりの高官に登ったという。一族には郭鎮、郭賀と郭禎、郭禧、郭鴻の名が見える。
郭嘉は彼らよりも下の世代だった。そして郭嘉に法律家という側面は見えず、20歳の頃に隠棲するようになり、また196年には司徒の役所に召されるも辞去している。
当時の司徒は蜀郡趙氏の趙温であり、長安から許に都を移したばかりだった。朝廷に召される機会が得られたのは趙温に地盤を築く意図があったからだろうか。陽翟と許は同じ潁川郡にある。辞去した理由は、当時の潁川郭氏の中に袁紹陣営に就く郭図が居たからというのと、彼が許へと都を移した主導者ではないということが誰の目にも明らかだったためだろう。
郭嘉は一旦隠棲し、袁紹陣営を訪れた後、荀彧の推挙を受けて曹操陣営に属し、司空軍祭酒となった。
同族だろう郭図とは袁紹の下へ赴いたときに出会っているが、任官を蹴った。その理由は十個の袁紹批判の中に見出せる。
郭嘉の事跡は建安元年(196年)末の劉備受け入れが初出で、建安12年(207年)に38歳で病没する。
その出仕前には陳宮と張邈の造反があり、また没後には赤壁の敗北があったから、郭嘉の貢献が下支えしていたことは否定できない。
郭嘉伝の注釈には傅子が多用される。傅子は晋の傅玄の著作で、晋書に列伝がある。前漢代より現れた北地傅氏の子孫で、遠縁の同族に傅嘏がいる。傅玄は王沈・阮籍・荀顗らと共に勅撰魏書の製作にも携わっていたから、魏書の内容の異同が傅子の中に盛り込まれたのだろう。
傅子自体は歴史書ではなく思想書の傾向があり、内容は事実の描写というより理念的な内容になる。郭嘉伝の他に管寧伝や劉曄伝に多く引用されているが、その傾向が強いように見える。ここでの劉曄の扱いは同書の禰衡並に上げ下げが激しい。司馬氏の政敵となった息子の劉陶と違って、人格上の理由だろう。
魏書の書かれた当時は魏の末期で、内容は司馬氏の権威に寄り掛かりつつ大事から小事まで纏めたものだといい、魏略と共に陳寿の魏の記述の大本となった。
196年に劉備が呂布に敗れて曹操の下に来たときの処遇には魏書と傅子から二つの説を挙げていて、前者は受け入れるように訴え、後者は受け入れに反対している。
このとき程昱や董昭が受け入れを反対しているのが見える。郭嘉は曹操に仕官して間もない頃だったから、許に移って糧食不足を解消する為に屯田を始めたばかりの実情まで理解していただろうか。
すぐ後には張繍が造反する。記述に従うと張繍は曹操が族父の妻を妾にしたのを恨み、賈詡の勧めで族父を殺した劉表に属したという。これはかつて張繍が董卓の傘下に居たとき、陳留郡・潁川郡を族父の張済に付き従って攻略したことと関係しているかもしれないが、今の話とは関係ない。
魏書と傅子の温度差は、前者が蜀漢に対して厳しい態度なのに対して、後者は劉備や諸葛亮を高く買っている所に見られる。このときの処遇の違いも、ただ劉備の扱いの差によって現れた異同なのだろう。
張繍反乱に対応できなかったことを見ると、まだ郭嘉にとって曹操陣営の実情把握は不十分で、後の成り行き、郭嘉自身の立場などから結局のところ反対していたように思うが保留しておく。
軍事面において郭嘉は強行軍を好み、198年の呂布との戦いでは疲弊した軍に強いて攻城戦の継続を要請し、206年の烏丸攻めのときは輜重を置いて軽装の軍隊に数百キロの行軍を薦めた。
ただし呂布との戦いでは荀攸も戦闘の継続を薦めている。ほかに荀彧も郭嘉同様とにかくまずは呂布を撃破するようにと言っているから、彼ら三人の意見は一致していた。
また烏丸攻めのときは董昭の海路による物資輸送と、田疇の道案内が重要な役目を果たした。
強引な継戦は軍略上の都合だけでなく屯田を含む補給手段の確立とも関連付けられる。
荀攸との計略の兼ね合いは、203年に袁尚・袁譚を相手にしたときにも窺える。
郭嘉伝には、このとき諸将が勝ちに乗じて徹底的に叩くべきだと訴えるのに対して、郭嘉は放って置けば互いに争いあうので南征する振りをして何か変化が起きるのを待つべきと主張している。
また荀攸伝には、郭嘉の策通り袁譚が救援要請をしたとき、諸将が劉表を優先して袁尚・袁譚を放っておくべきだと訴えるのに対して、荀攸は袁尚・袁譚が和睦か併呑によって勢力を一つに纏め上げることを危惧して、袁譚に協力すべきだという。
諸将の意見が一転して逆張りをしているように見える。
そもそも曹操は勝ちに乗じて袁尚・袁譚を攻め、203年2月に黎陽を落として203年4月には鄴まで到達すると、攻めずに、或いは袁尚の迎撃を受けて黎陽に撤収している。曹操が劉備の動きに応じて南へ転進するとき黎陽に張遼と楽進を留め置いていて、両者はその後で陰安を攻め落としているから大敗と言うわけではない。鄴の堅固さは204年の包囲戦から見ても明らかだったが、攻め手が無かったわけではないから継戦が望まれた。
ところで袁紹伝には鄴の黍を奪ったとも書かれているが物資輸送に難が有ったのだろうか。黍の収穫期は夏場だから旧暦4月だと多分少し早い。となると李典らが南進に付いて行った為に、李典らの行っていた水路による物資輸送が滞った後のことなのだろう。
袁譚は黎陽を攻撃しようとするが、袁尚はそれを許さず、袁譚と袁尚は争い始めた。
また袁譚の使者辛毗から救援を求められたのは203年8月に荊州最前線近くの西平に居たときで、劉表側の北方守備には文聘傘下の劉備が居る。文聘は漢水流域の守備をしていたというから大体襄陽辺りを守っていて、劉備の居た新野はその北になる。
さらに北の宛は張繍の降伏後には空白地域だったようで、後漢代の宛は重要な地域だったにも関わらず、どちらの郡守も置かれていないし、両者の攻防は描写されない。後の208年の戦いでは曹操が先んじて宛を抑えた為に劉備が撤退を決めていることを見ると、宛にはどちらの守備も置かれていなかった。
博望はそのすぐ近くにあり、東に数十キロほど進むと西平がある。博望の戦いは西平からの撤収後のようだが、劉備が北進して博望で守りを固めているのはこの頃だろう。
袁尚・袁譚を放置して南征して荊州まで至り、相手側の劉備が防備を構築し始めているというところで、諸将は何もせず再び取って返して袁尚・袁譚と戦うことを望まなかった。
郭嘉は大雑把に変事が起きると言っていたのだが、荀攸は袁譚からの使者を大きな機会と受け止めた。
傅子によればこのような軍略だけでなく、河北平定後に四州の名士たちを取り立てたのは郭嘉の計略の成果だという。この時期に登用されただろう河北の士人には田疇、王脩、劉放、李孚がいるが、郭嘉によって招聘されたとは明言されていない。また高幹や李孚の例を見ると、降伏した者にはそのまま統治を委任したようである。
そのほか郭嘉は袁紹との戦いの際に孫策が匹夫に殺されるので許襲撃を起こり得ないと断言しているが、これは裴松之に単なる偶然だと言われている。
郭嘉が提起した袁紹に対する曹操の優位性十点は、武帝紀で曹操が言っていることと似ている。
また劉備が200年に反旗を翻したときも、袁紹が動くことはないから先に劉備を攻めるべきだと言っているが、こちらも武帝紀で曹操が言っている。
袁紹を官渡で破った後も、郭嘉は荊州を先に取るように薦めるのだが、荀彧伝に引く荀彧別伝にはこのとき曹操が荊州を取ることを望んでいたとある。
さらに烏丸攻めのときも劉備は攻めてこないだろうと言っているが、張遼伝に引く傅子ではこれも曹操自身が言っている。
この四点は、郭嘉が曹操の意に適うような発言をしていただけと看做される由縁だろう。
ところで確かに203年頃には博望の戦いがあったが、曹操が烏丸を攻めているとき劉備は後方の樊城に移されている。だから劉備が動けない理由はある。
少なくとも記述に見える限りにおいて、郭嘉は細かな作戦を練るようなことが無かった。そして何処の誰を相手とするか、戦うか戦うべきでないか、を適時論じているように見える。
その内容は曹操の意見と一致しているが、行軍では騎馬を同じくし陣営では天幕を同じくしていたという話があるので、曹操自身の発案と入り混じっていて不鮮明ということにしておく。
細かな作戦は他の策士が練っているが、それと曹操の間を取り持つ役割もあっただろう。
軍事的な大計を練る者には、郭嘉の他には劉曄がいる。策の内容も具体的だったというから、緻密な作戦を練ることができた。しかし劉曄は恐らく漢王家の一族という立場から徒党を組まず、そのために意見程度は求められたが、進言は殆ど容れられなかった。
あと郭嘉は南方に行けば自分は死ぬだろうと言っていたが、二度目の荊州攻めへ行く前に死んだ。司空軍祭酒は董昭が引き継ぐ。間もなく曹操は司空から丞相になり、新たに丞相軍祭酒が置かれるが、その職務は丞相府の設立と共に大きく変わる。打ち倒す対象だった袁家が潰えたことから、軍祭酒の董昭は曹操の地位を引き上げ、漢王朝を崩す策謀を練るようになった。
また未だ存命にも拘らず荀攸の記事も207年で唐突に終わる。荀攸の中軍師という地位はこのとき新たに作られたように見える。他に前軍師鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠がいる。後軍師は魏には見えないが、代わりに征南軍師楊俊が居る。征南将軍曹仁(任期209-220)に属したのだろう。
通典には軍師が軍政、人員の抜擢、刑罰を担当したというが、大体これは自ら万事行った軍師将軍諸葛亮についての注釈だろう。魏の軍師は何でも行うわけではないように見える。
例えば曹仁には211年に仮節が与えられているから、刑罰の執行は曹仁の監督下にあり、楊俊はその地域の軍政に携わっていたように見える。一方、鍾繇は元司隷校尉で、軍政と刑罰の権限が以前から与えられていた。毛玠は任官の前後に人員の抜擢だけしている。同様に涼茂は211年に五官将長史となって名目上の五官将曹丕に付いて人員の抜擢をしていて、後に軍師となった。
荀攸は214年の南征には、かつて荀彧がしたように軍政のために赴いたのだろうが、既にこのとき魏の尚書令である。
207年頃、叔父の荀彧は漢の尚書令で献帝の居る許に居たが、荀攸の軍師職は曹操の傘下なのだから曹操の居た鄴に居ただろう。征南軍師という名義がある以上、他の軍師は鄴を拠点にするのが妥当のように思う。
曹操は207年頃に軍師職を設置したのだが、実際その職は軍事関係というより内政を務めるもので、丞相となった曹操の片腕となって鄴で魏の官僚機構を構築するための手段だった。
策士許攸の職務は内政に割かれ、208年以降は太中大夫(後漢書孔融伝によると閑職)賈詡や、揚州別駕(刺史の属官)蒋済がその精緻な献策によって貢献するに至り、213年に魏王国が立てられると軍師職の成員は全員転任する。荀攸は最高官職の尚書令になり、その他も栄転する。つまり職務の名実はこのとき一致した。
wikiに書かれているような軍師の組織化は恐らく無く、当時荀彧よりも遥かに忙しかっただろう荀攸や董昭には策を求めることができなかった。誰も頼りにすることが出来ない中、従えたばかりで統率に不安しかない荊州水軍を用いて赤壁で敗れた。
このとき江東へ行くべきでないと言った賈詡と、合肥陥落の危機を救った蒋済が見出された。
それから後には呉方面向けと蜀方面向けの、軍師がそれぞれ一人ずつ置かれるようになる。
蒋済が呉方面から都に移り、そこで217年に華歆が軍師となってから呉は降伏する。このときは孫権の降伏を受け入れる役目として任命されたようで、仕事を終えるとすぐに解任され、栄転した。以降、呉方面の軍師は一時的にだが廃される。
他方、蜀には成公英が軍師として置かれて220年頃まで職を務めたが、職務内容や芳しい成果は見えない。
222年の軍制改革(都督諸軍事の設置)以降、軍師は蜀・呉との戦争が迫ると設置され、曹休・曹真・司馬懿の傘下に置かれる。その慣習は230年代まで続くが、本来の軍師としての貢献はあまり見えてこない。
辛毗伝には、234年に辛毗が軍師として五丈原に訪れると軍規が引き締まったという話はあるが、これは元々高位の将軍や辺境担当の将軍に加官されていた使持節に任じられたためだろう。司馬懿に出陣させないようにするという命令は明帝から与えられたもので、注釈の魏略によれば司馬懿はそれを無視することも出来たという。
また晋書宣帝紀にて230年に、軍師杜襲が、翌年には諸葛亮が攻めてくるから予め穀物を隴右に輸送しておくべきと明帝に進言している。杜襲は献策を容れられなかったものの、この後、司馬懿の元へ赴き、温恢伝に引く魏略によれば、司馬懿の使者として諸葛亮に書簡を届けている。
だから軍師の職務は連絡係に過ぎず、その必要性は失われつつあったと推定する。
実際、策謀の士はむしろ将軍の中に見出せるし、軍政は都督諸軍事の手中にあった。また方面軍の総大将は使持節である。人材の抜擢にはすでに法律があるし、領土の拡張によって新たな人材を確保するという時代ではなくなっていた。
240年代になり、幼少の皇帝が立つにあたって、とうとう魏において軍師の肩書きを持つ者は居なくなった。