転校生
日本の、北の隅のほう。
電車は一応通っているけれど、2両編成。
商店街は寂れていて、最近郊外にショッピングセンターが出来てきている。
田舎。
日本のよくある田舎。
7月。もうすぐ暑くなるのだろうか。
テレビでは「東京は猛暑」なんて言っていたけれど、北のほうはまだ上着が手放せない。
くたびれた薄手のカーディガンに袖を通して、学校へ向かう。
空き家が目立つ住宅街を抜け、田んぼが広がる平地を抜けると、学校。
家から自転車で10分。
何も、変わらない朝。
普段と、同じ朝。
……ここまでは同じ朝だった。
「架穂!おはよう!」
「美月かー、おはよー」
「ていうかさ、聞いた?」
「ん?何を?」
昇降口で内履きに履き替えながら聞き返す。
「転校生!転校生が来るんだって!」
「は?こんな時期に?もうすぐ夏休みだっていうのに」
「私も最初はまじで!?って感じだったんだけどー、どうやら本当みたい!」
「へー」
2階にある教室に向かって階段を登る。
「何、その無関心な感じ!転校生だよ!」
「んー、無関心というか……高2のこんな時期に転校してくる人なんて、何か前の学校で問題でもあった人なんじゃないの?」
美月のように「転校生」というワードには特に心は躍らなかった。
ただ、高校2年生の夏休み前のこんなに区切りが悪い時に転校してくるなんて、なんだかワケありの人のような気がしただけだった。
「えっ、まあ、そう言われれば確かに……こんな中途半端な時期に転校なんてね、なんだろうね」
「美月さ」
「ん?」
「期待してたでしょ」
「……え?」
「高身長なイケメン君かもしんない!……って期待してたでしょ」
「……ば、ばれた……?」
顔中に「図星」と書いてあるような顔で美月は答えた。
「イケメン君かもしれないよ」
「や、やっぱり!?」
「でも、転校生は男だとは限らないよね」
「あ」
美月はあからさまにがっかりしたような顔で、机に荷物を置いた。
「だってさー、普通さー、転校生と言ったら、めっちゃかっこいいイケメン君が来て、みんなして「キャー!!」みたいなの想像しちゃうじゃん!」
「……美月、少女漫画の読みすぎだね」
「……えへへ」
席が隣同士の私たちは、そろって席に着く。
「おーい、ホームルーム始めるぞ~」
始業のチャイムとともに、担任の男教師が教室に入ってきた。
なんでもない。
空はいつもの様に青くて、そこに白い雲が浮かんでいて。
北国だから、7月だけど、まだ暑くはない。
でもそれだって、毎年同じこと。
今日だって、日が昇って沈んで、月が出て星が出て、私たちは眠りにつく。
特段変わったことは、ない。
な、い。
「なんだか噂になっとるようだが今日から転校生が来ました」
クラスの人数がひとり増えるだけ。
女の子だったら友達になるかもしれない。
男の子だったら、どうだろう。
無関心、と言ってしまえば嘘になるが、その噂の転校生とやらに特別な関心は抱いていなかった。
普通に授業があって、部活があって、また来た道を自転車で帰って、一日は終わる。
「……まあ、さっさと本人から自己紹介をしてもらった方がお前らも興味抱くだろう。というわけで、岩佐。入って来い」
ちょっと古びた引き戸が音を立てて開く。
クラス全員の視線が、扉に向いていた。
私も、一応、向けていた。
「やば、なんか素敵……」
「すげー都会な匂いがする」
「なんかちょっとかっこよくない?」
「背も高いしー、なんか大人っぽ~い」
クラスメイトのひそひそ声が響いていた。
岩佐、と呼ばれたその男の子は、担任教師の方へ向かって歩き、教壇に立った。
別に、ゆっくり歩いた訳ではないのだろう。
けれども、私には、扉が開いてから、彼が出てきて、教壇に立つまでの時間が、スローに感じた。
スローに感じるような、何かを、彼は纏っているように見えた。
「何か」……それにはまだ、気づかなかった。
一瞬では、わからなかった。だけど、何かを纏っていた。
「初めまして。岩佐宏文といいます。東京から来ました」
ひとつも訛りのない、これぞ標準語という話し方で、彼は言葉を発した。
とうきょう。
一度修学旅行で行ったことがある。迷路みたいなところだ。
「トーキョー!うっわ、まじで!?なんでこんな田舎に??」
クラスのムードメーカー、森永慧が「東京」の単語に反射するように大声で問いかけた。
「あー……まあ、親の仕事の都合、ってとこかな」
「やっぱりトーキョーと比べてこっちって田舎?」
「……失礼かもしれないけど、2両編成の電車は初めて見ました」
うわーまじかよー!
都会人きたー!
そう言われればなんか岩佐くんってお洒落な感じする~
どこのワックス使ってんだべ?
「転校生」にクラスはざわめいていた。
「東京」から来た「転校生」をみんなは物珍しそうに見ていた。
私だって、そりゃちょっとは珍しいなあ、と思ったけど……
幽霊じゃなくて、彼の後ろにあるもの。
服じゃなくて、彼が身に纏っているもの。
そして、彼はどこを見つめているんだろう。
心を奪われたわけじゃない。
ただ、なんだか、彼は私たちにないものを持っている気がした。
それが気になった。
大人っぽい?
ニヒル?
かっこいい?
お洒落?
……ダメだ、言葉では言い表せない……
でも、とにかく、彼の眼に、私たちやこの田舎はどう映っているのか……
「架穂!架穂!」
美月がひそひそと小さな声で私を呼んだ。
「何?」
「期待してたイケメン君ではなかったわ」
「あー……確かに、特別顔が整ってる訳ではないね」
「でもさ」
「?」
「でも、雰囲気がイケメン」
雰囲気イケメンな……なるほど。
その表し方はあながち間違いではない気がした。
「友達になれるかな?」
「うーん、どうだろう。でも、優しそうではあるよね」
「なんか大人っぽくていい感じ~。話してみたいなあ」
美月はそう言うと、ほわんとした表情で、また彼の方に視線を向けた。
「なあなあ、やっぱり、シブヤとかハラジュクとかで遊んでたの?」
休み時間。
慧は東京からの転校生に、田舎者丸出しで質問攻めをしていた。
「うーん、渋谷原宿はそんなに行かなかったかな。俺は下北沢らへんで遊んでた」
「シモキタザワ!お洒落~!!」
そして殆どのクラスメイトが、転校生の周りを囲んで、渋谷だの下北沢だの東京の地名が彼の口から出る度に感嘆の声をあげていた。
へえ、下北沢。
行ったこともないけど。でも聞いたことはある。
都会なんだろうな、東京。
それに比べてこの場所は……田んぼばかり。
嫌いじゃないの。寧ろ自分の生まれたこの土地は好き。
だけど、同じ日本の中に、こんな田んぼだらけの土地もあれば、見上げるほど高いビルの群れの街もある。その事実が、転校生がこの教室に来たことによって、なんだか不思議なように思えていた。そして、そんな不思議なことは、私が考えなくてもいいような、どうでもいい考え事だということに、気づいていたけれど、ただただぼんやりと、頭を巡らせていた。
「そういえば、岩佐くんって何か部活入るの?」
「吹奏楽部、入ろうと思ってる」
……え?吹奏楽?
「まじ!?このクラスに吹奏楽部の次期部長いるんだよ!」
「架穂!架穂!岩佐くん、吹奏楽部入るって!」
急に転校生の取り巻きから私の名前が挙がった。少し離れていた席の私を、転校生が見る。私も転校生を見る。目が合った。
普段の私ならば、ここで「よろしくね」の一言くらい言えたのだろうけど、何も言えなかった。彼の視線で身体が固まった気がした。
「……次期部長?」
彼は私に向かって、問いかけた。その問いかけでとりあえず固まりは解れた。
「あ、うん、一応……岩佐くんは経験者?」
「経験者といえば経験者かな」
……なんだそれ。
「ま、まあ、第2音楽室が部室だから、いつでも見学に来てみて」
「ああ、ありがとう」
転校生は笑顔で礼を言った。
純粋な笑顔には見えなかった。どこかが曇った笑顔のように見えた。
「なんだかさ、岩佐くん、不思議だったね」
夕暮れの帰り道、微かに聞こえ始めた虫の音と共に、美月と自転車を押して歩く。
「不思議……うん、不思議だね、すごく不思議」
「特別イケメン!ってわけじゃないし、もう一目惚れ!ってわけでもないけど、なんか見ちゃうよね」
そう。そう。
なんだか彼には目線が向いてしまう。
「……でもさ」
「なに?」
「……あれじゃない?」
「だから何よ、架穂」
「……ただ「転校生」だからってだけなのかもしれない」
気づいた。彼とは今日の朝出会ったばかりじゃないか。
そりゃ、目が離せなくなるのもしょうがない。今までクラスにいなかった人が急にクラスの一員になったんだもの。
物珍しさ。
そうだ。きっと、そうなんだ。
「じゃあね!また明日!」
「明日は部活だからね~」
美月と別れ、私は自分の家のある方へと歩く。もう一人だから、自転車に乗ってしまおう……そう思い、スクールバッグを自転車の籠に入れたその時だった。
遠くの方から、この辺りのこの時間には聞こえてこないような音が聞こえてくる。
足を止めて、耳を澄ませた。
高すぎず、低すぎず、身体の周りに渦を巻いて、私を心地よい感覚へと誘うような、音。
この、音。
……アルトサックスだ。
でも、誰?
こんな田舎の川のほとりの道で、どこで、誰が、何の為に?
様々な疑問が湧いているのに、私の身体は、勝手にその音色のする方へと動いていた。衝動的に、本能的に。
だんだんと音色が大きく聴こえてきた。アルトサックスまでもうすぐそば。
気づけば私は歩道に自転車を置き去りにして、川の方向へ土手を下っていた。
何かを訴えているような、メロディと音色。
どこにいるの?
ローファーの汚れも気にせず、芝生を走った。
ただただ、音色のする方向へ。
……あれ、もしかして……
二両編成の電車が走る橋の下に、サックスを奏でる人のシルエットが見えた。
もしかして、君は。
古びた二両編成の電車が大きな音を立てて、大きな風を巻き起こして、橋の上を走っていく。
私の髪が大きくなびく。私の足が止まる。
また、時の流れがスローに感じた。
電車の走る音、サックスを吹く彼の姿、電車が過ぎ去ってまた鮮明に聴こえてきたサックスの音、それだけが、私にはクリアに感じられた。
向こうは気づいていないのだろう。
少し遠くから、私は彼を見ていた。
でも、それしか出来なかった。声も掛けられなかった。
あなたの音色は、また私を固めた。
あなたの纏っているものは、こうして私を固めていくのか。
電車が通り過ぎて、少しした後、不意に彼は、唇からマウスピースを離す。
遠くを見ているようだった。彼の後姿を見ていると、そんな気がした。
また、小さな虫の音が聞こえてきた。
「どうかな、次期部長さん」
彼は確かに「次期部長」と口にした。私のことをいつの間に確認していたのだろう。
急に私のことを呼んだことにただただ驚き私は何も言えずに彼の方を見ていた。何か言葉を発したいはずなのに、口から言葉が出てこない。
「……あんまりよく聴こえてなかったかな?」
彼はゆっくり私の方へ振り返り、苦笑いを浮かべた。
私と彼の間に風が吹き抜ける。真っ直ぐな彼の目線が痛い。
痛くて、もどかしい。
「いや……」
これが私のやっと出た言葉だった。
「?」
「いや、あの」
「……やっぱり聴こえてなかった?」
「あ、そ、そういうわけじゃなくて」
何故こんなにも挙動不審になっているのだろうか。
「聴かれてしまったからには是非とも感想を教えてほしいな」
上から目線の話し方ではなかった。少し照れくさそうに、笑みを浮かべながら、私の方を見ていた。
ある程度の、一定の距離を保ったまま。
「……えっと」
「うん」
「……あのー」
「あれ、いまいちだったか」
「吹奏楽部入って!!」
ピューと私たちの間を強めの風が吹き抜けた。
咄嗟に出た私の言葉はそれだった。拙いけれど、等身大ではあった。
「あ……吹奏楽部、ね」
「うん!そう!入ろう!吹奏楽部!もちろんサックスパートで!」
慌てていたのか、見とれてしまった自分を隠すことに必死だったのか、わからない。けれど、いつもの自分ではないことは確かだった。拙い言葉を矢継ぎ早に発することで、その場をなんとか取り繕う自分がそこにいた。
「うーん……」
「ど、どうしたの?……あ!いいのよ!もう7月だし、2年生だけど、そういうのは気にしなくても!みんな優しいし、いい子ばっかりだし」
「あ、そっか、うん、ありがとう」
心なしか彼の表情に一瞬曇りが見えた気がしたが、それをなかったことにするように彼は笑っていた。
頑張って笑っていた?
彼と今朝出会ったばかりの私は、まだ彼の領域に入ることは出来なかった。というより、入ることすら考えていなかった。
「外なのに、よく響く音色だね」
「え?」
「あっ」
「……やっと感想を言ってくれた、ありがとう」
優しそうな笑顔を浮かべる彼。
「課題曲」
「へ?」
「課題曲……何番の課題曲吹いてるの?」
「えっと、Ⅲの課題曲やってるの」
「Ⅲか」
彼はそう言うとすっとマウスピースを咥え、私たちがいつも練習している曲のワンフレーズを吹いて見せた。
そのフレーズはもう、彼のものだった。
正直に、先輩の誰よりも、耳に入ってくる音だった。
「……Ⅲってこれだよね……?」
ワンフレーズ吹き終わると、少し自信なさげに、自分から吹き始めたくせに照れくさそうに、また私の顔を見た。
いろいろな部分において、ずるい。
……今日初めて会った人に、何故「ずるい」と思うのだろうか。
「う、うん、それ。Ⅲで合ってる……すごく上手だね、前の学校でもⅢを練習してたの?」
「いや、前の学校ではⅠだったけど……課題曲はⅠからⅣまで一通りかじってて」
「熱心なんだね」
「ま、まあね」
夕焼け空を見上げていた。
空の向こう側までをも、見透かすような瞳だった。
「……じゃあ、帰りますか、夕焼け空ならもうじき暗くなってしまうよね」
彼はそういうと、サックスをハードケースに仕舞いだした。
「岩佐くん」
「……なんでしょう?」
「また明日も会えるかな」
「……え?今日からクラスメイトになったんだから、明日も会えるよ」
「また明日も聴けるかな」
ハードケースの、パタンと閉まる音が、音として響いた気がした。
変わらない景色に、新しい色と、新しい音が、加わる。
何かが、変わっていくのか。
ここから、何かが起こるのか。
何も知らない私は、彼が陽の目を見ないように、こっそりと示した領域を見つけてしまったようで。すべてを知っているかのような、彼の持つものにつられてしまったような感覚で。
それでもひとつだけ、言えるのならば。
この日から、私を作る要素のひとつに、君という存在が入り込んできたんだ。