ありったけのありふれたとびきりを君に 【1カ月】
「ん、」
「ん?」
味噌汁を一口啜って、わたしは思わず箸を止める。
「どうしたの」
テーブルを挟んで向かい側に座る嫁が、わたしの味噌汁椀を覗き込んだ。
目を凝らして、ワカメや豆腐を順に見やる。
「虫でも入ってた?」
「いや…」
何ならとってあげるよ?と自らの箸をかまえる嫁に、むしろたくましささえ覚えつつ、
「そうじゃなくてな、」
「うん」
「味が薄い」
ためらいなく言い切ったが、一瞬間に表情を凍らせる嫁を見て、言い方がまずかったかと肝を冷やした。
しかし。
「うっそだぁ」
と、こちらの意見を軽やかに流す嫁。
自分の椀で確かめればよいものを、何故かわたしの椀を引きよせ、わたしの味噌汁を一口啜る。
「あ、ほんとだ薄い」
嫁は「参ったなぁ」と呑気にぼやきつつ、冷蔵庫から味噌、食器棚からスプーンをそれぞれ取りだした。味噌のふたをあけ、中身を適当に掬う。
「ねぇ、これ、そのまま入れちゃっていいよね」
「え?あ、」
そして、待ったをかける間もなく、それぞれの椀に冷えた味噌を放り込んでしまう。
「おまえ…」
「ん?どうしたの」
「…いや。何でもありません」
言いたいことは幾らかあったが、今更言っても仕方がないので、そのまま味噌をとかしつつ、冷えた汁を口にする。
今度は少ししょっぱ過ぎたが、言いだすと、次は水を足されることになりかねないので、黙っておく。
ウチの嫁にはずぼらなところがある。
あまり物事に頓着しないし、並大抵のことでは騒がない。
結婚生活もまだ1カ月目だというのに、このあまりの落ち着きように、もう十数年も連れ添ってきた錯覚さえ覚えてしまう。
「なんだかなぁ…」
わたしは、当番となっている食器洗いをしながら、一人愚痴た。
風呂に入っている嫁の性格を思い、どんよりと溜息を吐きだす。
取り留めもない事をぐるぐる考えてしまうのがわたしの悪い癖で、こんなに嫁が余裕綽々であると、男としての立場を疑ってしまうというか何と言うか。
ちょっとやそっとでは堪えない性格をしていると、知っているには知っていたが、狼狽するのがわたしばかりでは何となく面白くない。
大体にして、嫁の考えていることがさっぱり掴めない。
全くもって、綺麗さっぱりだ。
いや、むしろ、そこに惹かれてしまうものがあったので、きっと結婚にまで至った。
なので、単に惚れた者の弱みというべきか、とにかくわたしは、何か有無を言わせない圧倒的な力で、嫁の尻に敷かれている気がする。
わたしはスポンジを握る手を、ふと止める。
「…これは死活問題だな」
どうにかせねばならん。
こんな風では、一生、家庭の中でうだつが上がりそうにない。
会社の上司からもいつぞやに諭された。
嫁の尻に敷かれるようでは到底会社でも出世できん、と。
だが、どうやろう?
見たところ嫁の弱点と言えるものは特になさそうだ。
何かを使ってわたしを称えさせるか?
ハチやゴキブリを退治してやるとか。
「…ハチもゴキブリも大丈夫だったなあいつ」
どうにかして嫁を嫉妬させるか?
どこぞの誰かと連絡を取り合って、浮気を仄めかしたりとか。
「…どの女と連絡取り合っても別段普通だったし」
サプライズで感動させてやるか?
誕生日や結婚記念日に何か買ってやるとか。
「…むしろあいつの方が自分の誕生日忘れてたな…」
わたしは最後の皿を水ですすぎ、水切りかごへ移す。
無理。もう無理。
わたしの頭ではこれ以上のアイディアは出ない。
降参。
早々諦めてしまったわたしは、スポンジの水を切り、手を拭いて、リビングへ。
横臥の体勢でソファーに倒れる。
テレビをつけて、ワイドショーを眺めた。
そこには、今月離婚を発表した芸能人のカップル。
「あぁ…」
じゃあ、なんだ。
離婚届でも突き付ければ、少しは狼狽するのかねあいつは。
でも、また「うそだぁ」って軽く流されるかもしれない。
それに、そんなことをするほどわたしは怒り心頭というわけでもないし、済ませられぬ冗談を口にするつもりもない。
「基本的にしょうもないんだよなぁ…」
離婚届の考えを思いついたあたりに自己嫌悪をした。
本当に何をごちゃごちゃ考えてるんだか、と溜息を一つついたところで、向かいのドアから髪を濡らした嫁が現れた。
「ん…フロ上がったの?」
「うん」
嫁はなにやら、意味ありげにニコリと笑って、ソファーに寝転がるわたしの近くへ腰を下ろす。
ぺたりと床に正座する嫁を見て、ソファーの大部分を占領していることを思い出したわたしは、反射的に上半身を起こした。
「すまん。よける」
「ううん。いいよ、寝そべってて」
でも床に座ると身体が冷えるだろう、と思ったが、嫁は「こう」と言うと頑としてゆずらない性格なので、わたしは仕方なく、中途半端に寝そべったままの体勢になった。
全く、どうしようもないなぁ。心配はするくせに、行動ができないんだ。
「あのね、」
「ん?」
わたしを呼んだ嫁は、首筋の辺りをポリポリと掻く。
これは、何か、言い出しにくいことを言おうとするときの嫁の癖で、何故今そうするのか分からないわたしは、眉を寄せた。
嫁はやはり、何かを言いたそうに口をモゴモゴさせていたが、言葉を選んでいるのか、目を伏せたまま、中々言葉に出してこない。
「…え?何」
先を促すわたしは、これで結構肝を冷やしている。
予測不可能な嫁の事、何かとんでもないことを言われるのではないかと危惧しているのだ。
しかしそんなわたしの心配をよそに、何をするのかと思えば嫁は、ごく自然に笑い、床に両手をついてぺこりと頭を下げる。
突然の行動に吃驚するわたし。
嫁は、依然として頭を下げた恰好のままでいる。
そして、
「今月もお勤めご苦労さまです。お給料大切に使います、ありがとう」
…こんなことを口にした。
「え、」
しばし固まってしまったわたしは、記憶の端を探って、探って、ようやく、今日がわたしの給料日だったことを思いだす。
「…あ、」
嫁に言われた言葉を何度か反芻した。
そうして確かめる。
感謝された。
ありがとうって言われた。
労われた。
ご苦労さまって言われた。
何も言えないわたしを怪訝に思ってか、嫁が不思議そうに顔を上げ、こちらを見詰めてくる。
喜びが、じわりじわりと体全体に拡がってゆく。胸の底の、奥深くから端を発したそれは、ほわりと柔らかな温かみを連れ、わたしのすみずみにまで行き渡る。
「?」
ごく自然に首を傾げる嫁に、自分でも呆れるくらいの愛おしさを感じた。
…そうか、分かった。完敗だよ、おまえには。
わたしは緩々と口許の緊張を解いて、笑う。
右腕を伸ばし、嫁の頭をぽんぽん撫でた。
おそらく泣き笑いのような表情をしているわたしに向かって、嫁は実に幸せそうな、満足そうな笑みを浮かべた。
わたしはソファーから身体を起こし、丁寧に頭を下げ「こちらこそありがとう」とお礼を言う。
それから、お互いに顔を見合わせ、くすぐったくなって照れ笑いする。
…まったく、敵わないよなぁ。
「この笑顔を守ってやりたい」。なんて愚直な決意を、嫁はたった一言で、わたしにさせてしまうのだから。
貪欲で鈍感なわたしは、おそらくこれからも、足下の日常を、つい無下に扱ってしまうこともあるのだろう。
そのときはまたこうして、そっとわたしに諭してくれれば、それ以上の幸せはない。
先程のやり取りで、何だか悟ってしまったのだ。
きっと、わたしは嫁のために、この身を挺してまで働いてしまえるのだろうな、と。
そうして、守ってやりたいと思う。
ありったけの、ありふれたとびきりを、毎日。
ずっと続くように、わたしが。
目指せほのぼの。
苦労症の夫に、出来過ぎてる嫁さん。
夫婦の一つの理想形を書けてゆけたらな、と思います。