奇跡
静寂に染まりきった、まるで廃墟のような街。
遠く、風の合間にかすかな戦闘音と悲鳴が混じる。
瓦礫の山を抜け、アーシェはひたすらに走り続けていた。
この一帯の市民はすでに避難を終えているらしく、人影はない。
避難が間に合わなかった者たちは――例外なく、物言わぬ屍となっていた。
「エレナ……クラヴィス、ルミナ……! 無事でいてくれ……!」
胸を締めつけるような不安を振り払うように、アーシェは脚を止めなかった。
やがて、クロイツ団長の家が視界に入る。
市街地中心付近は、天井崩落の影響で家々が押し潰され、瓦礫と化していた。
だが、団長の家は奇跡的に形を保っていた。ひび割れや焦げ跡はあったが、全壊は免れている。
アーシェはドアの前に立ち、返事を待たずに蹴破った。
「リヴィア!いるか!」
リヴィア=ロイス。クロイツ団長の一人娘であり、クラヴィスたちの四つ年上、現在九歳の少女だ。
母親譲りの高い魔力適性を持ち、普段は訓練所で生活している。
だが今日は休息日で、家で過ごしているはずだ――団長自身から、そう聞かされていた。
返事はない。
一抹の焦燥が胸を刺すが、その時、玄関横の靴棚の上に一枚の紙切れがあるのに気づいた。
「……書き置きか?」
手に取り、読み上げる。
『ママへ
第三区画に、にげます。
わたしはだいじょうぶです。
リヴィア』
歪んだ文字に、少し笑みがこぼれた。
「……よかった。とりあえずは逃げてくれていたか」
リヴィアは聡明な子だ。
母に生き写しの容姿に、落ち着いた性格――まるで幼い頃のクロイツ団長そのもの。
クラヴィスやルミナとも幼い頃から仲が良く、よく三人で遊んでいた姿を思い出す。
一抹の安堵が胸に灯る。だが、次に探すべき家族の姿は、まだ見えていない――
「……次は、俺の家だ」
重く息を吐き、再び駆け出す。
市街地の中心地から、ほんの数ブロック離れた場所に、自宅がある。
その途中、瓦礫を飛び越え、崩れかけた壁をすり抜け、火の粉の舞う狭路を突き進む。
かすかに聞こえた音――
うめき声とも、泣き声ともつかない微かな音に、アーシェの足が止まった。
「……誰かいる!」
声を張り上げ、周囲を見渡す。
そして、建物の影――変わり果てた自宅の倒壊しかけた柱の間で、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「……エレナ!」
息が喉に詰まる。焦点が一瞬、合わなくなる。
重たい足を引きずるように、必死に駆け寄った。
そこにいたのは、崩れた壁にもたれるように座り込むエレナ。
彼女の腕の中には、クラヴィスが、眠るように抱きかかえられていた。
その小さな身体を、必死に、壊れ物のようにしがみつくように抱き締め、治癒魔術であろう輝きを灯したエレナの手は、血に濡れ、震えていた。
さらに目をやると、彼女の首や腕、頬にまで、灰化の兆し――ひび割れが浮かんでいる。
隣にはルミナが、地面に横たわっている。
息はある――どうやら気を失っているだけのようだった。
「大丈夫か! 魔物にやられたのか!?」
叫びながら、膝をついて駆け寄る。
そして、クラヴィスの顔を見た瞬間――その呼吸が、止まりそうになる。
「アーシェ……私とルミナは大丈夫……だけど、ク、クラヴィスが……」
「……ッ」
耳鳴りがする。
焦点が合わず、何度も瞬きを繰り返す。
見えているはずの我が子の顔が、ぼやけてにじむ。
――見たくない。だが、目を逸らすわけにもいかない。
「クラヴィス……! エレナ、一体何があった……ッ!?」
声が、掠れていた。喉が張り詰めて痛む。
「ま、魔法をこの子が使ったの……!」
「魔法……を? なぜクラヴィスが……いや、そんなことは今はどうでもいい!」
混乱が理性を焼く。
頭は働いているはずなのに、冷静な判断が追いつかない。
言葉が詰まり、叫びたくなる衝動を必死に噛み殺す。
「だとしたら、これは……魂の燃焼による、灰化徴候……!」
崩れかけていく息子の身体を見る。
ひび割れ、光が漏れ出す全身。末端からサラサラと灰が零れ落ちている。
灰化現象、第三段階の証だった。
こうなれば、もはやどうすることもできない。
ある一定以上の魂の損耗は不可逆であり、治癒魔術でも癒せない。
「エレナ…とにかく治癒魔術をやめるんだ。これ以上は君の身体も持たない…」
「……そんなの、わかってる……!」
エレナの目から涙が零れる。顔を歪ませ、必死に声を抑えながらも、その言葉は叫びにも似ていた。
「でも……でも……このまま、何もしないなんてできない……!私には、例え効かないと分かってても…治癒魔術を掛ける事しかできないのよ…!」
――崩れそうになる感情を抑えるために、アーシェは強く拳を握った。
震えが止まらない。奥歯を噛みしめても、感情が漏れ出しそうになる。
助けたい。自分の命を投げうってでも。
だが――
「……ッ、何か……何か手は……」
声が震える。涙ではなく、悔しさと恐怖が視界を曇らせる。
家族が――この手で育ててきた、自分の息子が、目の前で“終わろうとしている”
ただの戦士では、こんな現実に耐えきれない。
だが、父として――俺は、崩れるわけにはいかなかった。
「くそッ…!考えるんだ…何かある筈だ…!」
震える拳を膝に叩きつけるようにして、アーシェは必死に立ち上がる。
必死に頭を回転させる。魂の損耗……これを止めるには…いや、そんなの無理だ。
無理に決まってる。
そんな事ができるのは神だけだ。人間にできるなら、俺たちはとっくに、こんな鋼鉄でできた籠から解き放たれている。
……それでも、俺は――諦めたくない。
その時だった。
脳内に、雷撃のような衝撃と共に、ひとつの記憶が閃く。
それは、俺が魔法戦士団に入団してすぐの頃――
今は亡き父から聞かされた、あの言葉だった。
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『雷属性の魔法にはな、不思議な性質があるかもしれん』
書棚の影で煙草を燻らせながら、終火機関の制服を纏った父は、いつも無表情だった。
堅物で、感情を顔に出すことなど一度もなかった。冗談を言った記憶すら、ない。
そんな父が、珍しく“語った”あの夜の言葉は、今でも胸に残っている。
『雷というのは……ある意味、他の何かを“震わせる”力だ。空気、地面、そして――“魂”すらも、な』
『魂すらも?』
『……あくまで理論上の話だ。記録には残っていない。だがな――
かつて、強い想いを込めた雷属性の魔法が、他の魔法の効果を“増幅”させたという話がある。治癒魔術の効果を高めて、本来なら回復不能だった重傷者を救った……そんな逸話だ』
『じゃあ、雷の魔法って……他人の力と“共鳴”するってことか?』
『さあな、わからん。実際に再現出来た者はおらん。ただ……お前は雷属性の魔法が得意なんだろ?
いつかこの話が役に立つ日が来るかもしれん』
父はそう言って――わずかに目を細め、窓の外を見つめた。
その表情は、今でもはっきりと覚えている。
あの父が、わずかに“微笑んだ”ように見えたのを。
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アーシェは目を見開いた。
……もし、本当に――
あの言葉が真実だったなら。
それでクラヴィスが助かるなら。
俺の命なんて、安いもんだ。
「エレナ。説明している時間はない。何も言わず、俺に協力してくれ。――命を懸けられるか?」
零れ落ちる涙を拭いながら、エレナが顔を上げる。
「……ええ。何でもする。この子が助かるなら」
そこに、先ほどまでの焦燥や狼狽はなかった。
あるのは、母としての――静かに燃えるような、決意の瞳だった。
「…よし。できうる限りの高灯階治癒魔術を使ってくれ」
その言葉に、エレナは深く息を吸い、第七灯階魔法――
聖祈再命を行使する。
淡く、そして眩い光が辺りを包み、エレナとクラヴィスの身体がその中心に沈んでいく。
だが――クラヴィスの崩れゆく肉体には、一片の変化も見られなかった。
……わかっていた。
それだけでは、届かないということは。
問題は、ここからだ。
「第八灯階――雷鎧環体!」
アーシェの全身に環状の雷紋が奔り、空気が震えた。
圧縮された雷の鎧が身を包む。
魂の火が急速に削られ、すぐさま皮膚は灰色へと変わりはじめ、端からひび割れていく。先程の門での戦闘でひび割れた手の甲は光が漏れ始めていた――
第八灯階魔法を使えるのは、現時点で団内に三人。
俺、レオン、そしてクロイツ団長だけだ。
これは――命を懸ける魔法。
覚悟を決め、エレナの肩にそっと触れた。
雷を纏ったその指先は、確かに放電の光を放っていたが――
「……あっ」
エレナは小さく息を呑むも、その表情に痛みは浮かべなかった。
電撃に打たれるような衝撃も、熱も、灼けるような刺激も――何も、ないようだ。
ただ、温かかった。
それは、雷とは思えない、どこか人肌のようなぬくもりだった。普通の魔法効果ではない。
もう、共鳴が始まっているのか…?
「……痛く、ない……のに、熱い……心が、震えてるみたい……」
そう呟いたエレナの手元で、治癒魔術の光が揺らぎはじめた。
柔らかな黄金の光に、淡く青白い閃光が滲む。
波紋のように混ざり合い、脈動しながら――やがて、ひとつの“鼓動”を刻みはじめる。
それはあたかも、魔法の核が“心臓”を得たかのような動きだった。
「……魔力が、増幅してる……?」
エレナ自身が驚いたように呟く。
2人の体を包む雷は、彼女の治癒魔術と共鳴し、鼓動を刻むように光のリズムを生み出していた。
光が、温かく脈打つたびに――クラヴィスの崩れていく体の灰化現象が停滞し、わずかに後退し、再生していく。
ほんのわずか。 されど、確かな変化だった。
「……いける…!エレナ、魂の損耗が戻り始めている……!」
エレナがさらに魔力を込める。 その両手はすでにひび割れ、光が漏れ始めていたが――彼女は一切の恐れを見せなかった。
ふたりの魔力が完全に重なり、共鳴が極限へと達した瞬間。
眩い閃光が、周囲を包み込む。
雷の咆哮と、癒しの祈りが――確かに、ひとつになった。
共鳴する魔力の鼓動が、次第に重く、苦しくなっていく。
全身を巡る雷が焼けつくような痛みに変わり、呼吸が荒くなる。
「ッ……くそ……っ!」
肌はすでに灰に侵食され、右腕は肩までひび割れていた。
視界の端がちらつき、心臓の鼓動が異様に速い。
エレナの身体も同様だった。
顔色は蒼白になり、口元から血が一筋垂れている。内臓にまで灰化現象が至っているのかもしれない。
両腕は力なく垂れ、それでもなお、クラヴィスの胸に手を当て続けていた。
「エレナ…このまま俺たちは灰になるだろう…」
「私は、いい……この子が、生きてくれるなら…」
「……俺もだ」
アーシェが静かに呟く。
心残りは、ある。
子供たちの成長をもっと見ていきたかった。
クラヴィスやルミナに、別れの言葉くらい交わしたかった。
ルミナをそっと見る。
少しずつ意識が回復してきているようだ。
指先や眉根が僅かに動いている。
愛しい子を見つめ、呟く。
「ルミナ…この無鉄砲なお兄ちゃんを頼むぞ…」
そう言った瞬間、俺の足もとに――
さらさらと、腕からの灰が落ち始めた。
魂が、限界まで燃え尽きようとしている。 もう、この共鳴魔法をあと十数秒も維持できないのは明白だった。
――だが。
その時、クラヴィスの胸元で、微かに光が脈打った。
「……っ!? 今……!」
最初は気のせいかと思った。 だが次の瞬間、確かに、クラヴィスの胸がわずかに上下した。
「……息を……!」
エレナの目が見開かれる。
崩れかけていたクラヴィスの胸部が、ひび割れの内側から修復されていく。
灰色だった肌に、かすかに血色が戻り――
「……っぅ……」
その唇が、震えた。
「――クラヴィス……!」
エレナの叫びとともに、クラヴィスの身体から、ふっと微細な光が立ち昇った。
それは、魂の“再生”――
通常ありえない現象が、今、目の前で起きていた。
「……ッ、…もう少し…踏ん張るんだ…!」
呟いた瞬間、俺の右腕が崩れ、灰となり風に散った。
「……ッッ!」
激痛に崩れ落ちそうになる体を、エレナが支えてくれる。
「あと…少し、頑張ろう。アーシェ」
「あぁ…最後の力を振り絞ろう…」
そう言い、俺たちは一層魔力の輝きを強めた。これが、最後の灯火だ。
クラヴィスの体がみるみる再生していく。
エレナが幼いルミナを見て言う。
「ルミナ、ごめんね。もっとあなたたちと生きていたかった…」
「でも、これが私たちの、親としての役目。お兄ちゃんを頼むわね。兄妹喧嘩も程々に…」
僅かにルミナの目が開く。
強い光に包まれながら、俺たちはニッコリと、笑みをルミナに返す。
そして、俺たちの視界は――
やさしい白に、満ちていった。
―――
二人の命は、静かに灰へと還った。
だがその灰は、ただ風に散ることはなかった。
――まるで、幼き息子を包み込むように。
温かな光の粒となって、舞い、流れ、静かにクラヴィスの胸元へと吸い込まれていく。
やがて、魔物の鎮圧を終えた戦士たちが現場へと駆けつけた。
崩れかけた家屋の奥――そこには、気を失い倒れているクラヴィスとルミナの姿。
そして、その周囲には灰が優しく降り積もり、まだ微かに熱を帯びていた。
「……子供たちは、生きているぞ!」
「灰が……まさか、これは……!」
状況から見て、判断は早かった。
強力な魔物と交戦し、守り抜いた末に親が力尽きた――
あまりにも痛ましく、そしてあまりにも美しい、英雄譚のような結末。
「……最後まで魂を燃やし、子供たちを守ったのか」
「高灯階魔法を限界まで行使した形跡がある……」
「クソッ!ここは確かクラヴィスさんやエレナさんの家だ!……もう少し、早く来れれば…!」
誰もが理解し得たのは、そこまでだった。
――その場に、魂の共鳴現象を知る者はいない。
――あの奇跡が、本当に起きていたことを知る者は、誰も。
灰は慎重に回収され、終火機関によって封印壺に納められた。
“勇敢な親の犠牲が、子供たちを生かした”――それが、誰もが納得した結末だった。
そして数日後、二人の名は静かに、街の追悼碑に刻まれた。
その下に添えられた一文には、こう記されている。
――『魂を燃やし、未来を護りし者たち』
彼らが遺したものは、語られることのない奇跡だった。
だがそれは確かに、灰の中に宿り、これからを生きる者たちの中で燃え続ける。