辺都エルドライ・4
巨人の棍棒が僕らめがけて振り下ろされた。
轟音と共に館が崩れ、地面が大きく陥没する。
その一撃は、僕からは離れたところに振り下ろされていた。
「ユーリ君……!」
金色の髪が広がる。
駆けつけたニナお姉ちゃんが僕を抱きしめた。
「よかった、無事で……!」
「お、お姉ちゃんも、無事でよかった……」
抱き返そうとしたけど、その前にお姉ちゃんが腕を離した。
「ここは危険だから、すぐに逃げよう」
「う、うん」
僕の手をつかむと、引っ張るようにして巨人の足元を駆け抜けていった。
すぐに見つかって踏み潰されると思ったのに、巨人は僕らを見失ったみたいだった。
「<幻影>をかけたの。これでしばらくは誤魔化せるはず。だけど長くはもたないよ」
走る僕らをニクスが追いかけてくる。
「ニナ様、お会いできてよかったです」
「ニクスもユーリ君を守ってくれてありがとう」
「当然です」
館を出ると荒れ果てた庭園を抜け、街から遠く離れた丘の上へとやってきた。
そこからは街が一望できる。
お姉ちゃんと何度か一緒にきたことのある場所だった。人がいないし、景色もきれいでお気に入りの場所だったけど。
「ひどい……」
街のほとんどは壊されるか、黒い何か覆われて腐っていた。
戦う声さえもう聞こえてこない。
僕の館は跡形もなく壊され、さっきの大きな巨人もいなくなっていた。
「どうして、こんなことを……」
うつむく僕を、お姉ちゃんが後ろから優しく抱きしめてくれた。
優しい匂いがして、少しだけ気持ちが落ち着く。
「忘れないで。精霊は私たちの友達だけど、扱い方を間違えればどんなに悪いことだってできるの」
「うん……」
「でも怖がらないで。ユーリ君は誰よりも優しくて、誰よりも精霊に愛されてる。君がお願いすれば、助けてくれる人は世界中にいる」
「お姉ちゃん……?」
なんだかさっきのお母さんみたいだ。
振り返ろうとしたけど、お姉ちゃんは僕をさらに強く抱きしめた。
「君の優しさを忘れないで。闇に飲まれて道を踏み外した人をたくさん見てきた。復讐なんてしなくていい。それよりも君の人生を歩いて。小さくてもいい。幸せを見つけるの。そばにいて安らぎを覚えるような、ずっと一緒にいたいと思えるような、小さな幸せを見つけて。そのおかげで私が救われたように」
丘の上に風が吹く。
優しい匂いに混じって、鼻をつく鉄の匂いが漂った。
「お姉ちゃん!」
腕を振り解いて振り返る。
お姉ちゃんの背中に大きな矢が突き刺さっていた。
「だめ、だめだよ……! そんなの、ダメだよ……!!」
「ごめんね……。もう少し、一緒にいてあげたかったけど……」
「ど、どうしよう……! どうしたらいいの!? お姉ちゃん、僕、どうしたらいいの……!?」
倒れかかるお姉ちゃんには、もうほとんど力が残っていなかった。それを支えるだけで精一杯で、背中の矢を抜こうとすることもできない。
もし僕が精霊を呼ぶことができたら、お姉ちゃんを助けられたのかな。
傷を癒す精霊が呼べたら、お姉ちゃんを……!
だんだんと冷たくなっていくお姉ちゃんをどうすることもできない。
「嫌だよ……どうしたらいいの……お願い、いなくならないで……僕を置いていかないで……! ねえ、教えてよ、どうしたらお姉ちゃんを助けられるの!? 教えてよ、教えてよ!!」
お姉ちゃんはいつもたくさんのことを教えてくれた。
でも、精霊召喚の仕方だけは、僕が嫌がったから教わらなかった。
そんなもの必要ないっていう僕に、お姉ちゃんはいつも優しく微笑むだけだった。
「ありがとう……私も、ユーリ君のこと、好きだったよ……」
「お姉ちゃん……? お姉ちゃん! お姉ちゃん!!」
それからどれくらいそうしていたんだろう。
ニクスは黙ったまま僕のそばにいてくれていた。
人の気配がして顔を上げる。
さっきまで誰もいなかったはずの場所に、真っ黒なローブを頭から被った人がいた。ローブの正面には見たこともない怪しげな模様が描かれている。
「お前があの家の一人息子か」
そう尋ねるローブ姿の人を、乾き切った目で見つめた。
何も感情が湧いてこない。
もう何もかもがどうでも良くなっていた。
いつの間にかローブの人たちの数が増えていたけど、それもどうでもよかった。
「……心が死んでいるか。放置してもいいが、裏切り者と接触した者は1人も生かしておかない掟だ。悪く思うな」
とんっ、と。
指先で軽く押すような、小さな衝撃が僕の胸を突いた。
「貴様に精霊は効かないそうだな」
胸を見下ろす。
お姉ちゃんの背中に刺さっていたのと同じ矢が、僕の胸を貫いていた。
「ぁ……」
体が倒れた。
温かなものが外に流れ出し、体が冷たくなっていくのがわかる。
怖くはなかった。少しだけ悲しかった。
後ろに倒れたせいで、お姉ちゃんの体から離れてしまった。
それが悲しかった。
「ユーリ。最後にお願いがあるの」
ニクスが僕の耳元でささやく。
場違いなほど明るい声で。
「あたしの名前を呼んで」
名前を……?
「そう。あたしの本当の名前を」
ニクスにはたくさんお世話になった。
だから、お願いがあるというなら叶えてあげたい。
でも、本当の名前って……?
「だって、みーんな私たちを神の使いだとかいって敬っちゃうんだもん。本当はそんないいものじゃないのに。君くらいなんだよ。私たちにそんな風に接してくれるのは。だから君ならきっと私の──私たちの願いを叶えてくれると思うんだ」
そう言って笑う。
今にも僕が死のうとしてる、その目の前で。
手を伸ばせば届く距離で、助けようともせず、笑みを浮かべたまま。
まるで悪霊のように。
「あたしはニナ様に呼び出された時に、本来の力を封じるため、たった三文字の<羽妖精>という名前を与えられたの。ニナ様が死んで君も死んだら、あたしも消えちゃう。次に呼び出されるのはいつになるかわからない。だからその前に、本当の名前を呼んでほしいの」
意識が薄れてて何も考えられない。ただ声だけが聞こえる。
異様なほどに落ち着いた、囁くような声が。
「そうすれば助かるよ」
「世界だって変えられる」
「生者を死者に、死者を生者に変えることだってできる」
「ただ口にするだけでいいんだよ」
「私の本当の名前を」
ニコニコと笑顔を浮かべるニクスの姿が見える。
その姿を構成する神の文字が見える。
「君ならわかるはず。私の《魔名》が」
消えようとする視界の中で、見えているその文字を口にした。
<汝は偽りの姿を持ちし者──>
「神の九文字……!?」
<創世の時より在りし神霊、
神の右手に留まりし凶星。
神に代わって告げよ終末、
浄化の炎にて巡れよ輪廻──>
「五十、五文字……」
「完全神性文字列……おお、なんと美しい……」
その場で動く人は、もう誰もいなかった。
響き渡る神の言葉を、それが構築する世界の真理を、陶然と眺めている。
誰もが、その言葉が終わるのを待っていた。
<──顕現せよ、神話の炎纏いし神鳥>
僕が見た最期の光景は、炎を身にまとって空を舞う、美しい神鳥の姿だった。