53.誘拐事件
学校は今日も休み。そして家に他の予定はない。
ヘクトルは両親に外出すると言って、鍛冶屋街へと向かっていった。
昨夜の家庭は平穏そのものだった。ヘクトルが鍛冶屋へ行ったことは両親も把握していて、どうだったと尋ねてきた。ただ採寸をしただけ。何も特別なことはなかったと言えば、父も母も納得していた。
ただヘクトルだけが、両親を説得しないといけないと気負っていただけだった。
「兄様。今日も鎧を作りに行くのですか?」
外出しようとしたヘクトルに、妹のヘレンが声をかけた。
彼女も学校に通う身分。そして今日はお休みの日。
「そうだよ。鍛冶屋へ行くんだ」
「私もついていっていいですか?」
「うーん……」
妹は目を輝かせて尋ねてきた。
両親と同じくらい、妹のことは好きだ。だから失望させたくはない。
でもヘクトルはこれから、両親が望まないであろう、鎧の完成形について相談に行くつもりだ。
妹から話が漏れると困る。学校に通い始めた年齢とはいえ、まだまだ口が軽い子だ。
「ごめんな、今日は駄目なんだ。また今度、連れて行ってあげるから」
「そうですか……。約束です!」
「うん。約束」
その約束が果たされることはあるのだろうか。
できれば果たしてやりたいけど。
――――
「ルイーザ様たちは、いつ帰ってくるでしょうか」
朝食の準備をしながら、リリアが呟いたのをアニエスは聞き逃さなかった。
あの子たちは、まだ帰ってこない。帰ってきたら、この家にやってくるだろう。
わたしたちへ向けられる視線が増える。優しさはありがたいけど、アニエスの企みには少し邪魔だった。
お母さんと話しに行かなきゃいけないのだから。
「アニエスさん!」
「は、はい!?」
「朝食が終わったら、私市場まで行きます! 昼と夜の材料を買わないといけないので! すぐ戻りますので、その間外出なさらないようにしてくださいね! お客さんが来ても、出ないように!」
「わかりました!」
「あ! ルイーザ様たちが来た場合は別です! その時は出てください!」
本当に、彼らが来ることはあるのだろうか。いつかは来るだろうけど、今日来るのかな。
リリアにもわからないことが、アニエスにわかるはずもない。
けど確かなことはある。外に出て母と会うとしたら、今だ。
アニエスはできるだけ平静を装い、なんでもない風に過ごした。
朝食の席はいつものように穏やかで、簡素ながら美味しいリリアの料理をアニエスもジャンも楽しんだ。
そして言ったとおりに、リリアは市場へと向かった。ジャンは工房にいる。鎧の細かな改善をするためだ。
アニエスはひとりになり、絶好の機会が訪れた。よし、行こう。
そっと扉を開けて、実家の方へ向くと。
「ようアニエス。ひとりでどうしたんだよ」
ドヴァンが話しかけてきた。
「え、あ」
一瞬、頭が真っ白になる。なんでこいつが、家の前にいるんだろう。ジャンに用事かな。けど、ジャンは会いたくないよね。
「わ、わたし。お母さんに会いに」
「そうかよ。ちょうどいい。来い」
「あっ」
ドヴァンはアニエスの腕を掴んで、自分の工房の方へ引っぱって行く。
「離して!」
「うるさい。ユレーヌさんなら、家にいる。会いたいんだろうがよ」
「会いたいけど! これは違う」
「違わねえよ。俺だってアニエスに用があるんだよ」
「私はないの! 離して! ジャン! ジャン! 助けて!」
グイグイ引いていくドヴァンは、普段から鍛冶職をしている通りの腕力で、アニエスは逆らうことができなかった。
お母さんはドヴァンの家にいる? どうして? なんでそんなところに。
そんなお母さんと、まともに会話できるとは思えなかった。
ただただ、後悔だけが頭の中で渦巻いた。
――――
人相の悪い男が女性を掴んで連れて行くのを、ヘクトルは見てしまった。
しかも女性は、知っている相手だ。工房に行くたびにお茶を出してくれて、親切にしてくれたジャンさんの大切な人。
だから助けに行かなきゃいけないのに、足がすくんで動けなかった。
あの男はドヴァンだ。それは知ってる。鎧の制作を託すのに気が乗らない種類の男。
人間的に好きじゃない相手に、立ち向かう勇気はなかった。
こんな時、好感を持ってる相手なら、もっとまともに接することができるのに。
ヘクトルは、ドヴァンがアニエスを連れて行くのを見ることしかできなかった。
けど、何もしないわけにはいかない。
「ジャンさん! ジャンさん大変です!」
工房の扉をドンドンと叩く。すぐには反応はなかった。まさか留守なのか。取っ手をひねると、鍵は開いているようだった。
アニエスは、鍵を閉める暇もなく連れて行かれたんだ。
「ジャンさん!」
「なんだ……ヘクトルさんか。どうした」
工房の方から出てきたジャンは、思わぬ来訪者に怪訝な顔をした。しかし。
「あ、アニエスさんが! 攫われました!」
「なに?」
元々怒っていたような顔が、さらに険しくなる。
怖い。一瞬だけそう思ったヘクトルだけど、相手が決して悪人ではないことは知っていた。
「もうひとり、うちから鎧の注文を受けていた男に、連れて行かれました!」
「ドヴァンか」
「そうです!」
「あいつ。なんのために……アニエスも、勝手に外に出るなと言ったはずなのに」
「あ、あの。アニエスさんは、お母さんと話がしたいと言ってました。ドヴァンさんも、うちにその母親がいると」
「そうか」
「あの。どうしましょう。官吏に言うべきでしょうか!?」
「いや。そんな暇はない。それに、官吏がドヴァンの家に押しかけても無駄だろうな。ユレーヌのやつが一緒にいるなら、官吏は権力に勝てない」
「そんな……」
アニエスの母がどんな人間なのか、ヘクトルにはよくわからなかった。けどジャンの反応は本物に見えた。
「あの! 僕にできることがあるなら」
「ヘクトル。お前は帰れ」
「はい! ……はい?」
「後のことは俺に任せろ。教えてくれて、ありがとうな」
「あ……」
お前は助けにならない。そう言われたのも同然だったけど、ヘクトルはそれ以上に、ジャンの目に心を奪われた。
怒ったような目つきの中に強い意思。
恋人をなんとしても守ろうとする思い。本気で、何に代えても守るという意思を感じた。




