第2話 ヒロインの登場です
麗らかな春の午後です。聖トムスン王立学院内にあるカフェのテラス席にて、私は友人たちと刺繍の課題をこなしています。温かな日差しも、花の香りを運ぶ風もとても気持ちがいい。この国にも四季がありますが、日本と比べると春が少し長くて冬が短い印象です。
指定テーマは国花であるラズマタズ。それに任意のテーマを合わせてデザインし、ハンカチに刺繍するというのが課題なのですが……。友人たちは任意のテーマに苦戦しているみたいですね。私はアーサー様の紋章でもある獅子を選びました。
「エメリナ様って何事も卒なくこなしてしまうので羨ましいです」
「刺繍はもちろん乗馬や剣術にいたるまで、ですものね!」
友人たちが褒めてくれて、私はちょっと困ったように愛想笑いを浮かべます。
以前の私ならきっと「当たり前じゃない」と一笑に付したことでしょう。だって私は彼女たちの言うようになんだってできますから。お勉強も、語学も、ダンスも剣術も。だけど……。
「血の滲むような、努力をしたの」
呟いた私の言葉は、その場にいる全員の耳に届いたようでした。一斉にこちらを見る気配。
「算術の勉強を始めたのは三歳のとき。両手の指では足りないほど大きな数字を扱うようになったとき、泣きながら学んだわ。馬に乗るのは怖かったし、銀器を取り違えて手を叩かれたときには食事が嫌になったりもした」
ぜんぶぜんぶ投げ出したかった。だけど、エメリナは歯を食いしばって頑張ったのです。生まれた時から未来の国母となるよう言われ、自分で自分をそうあるようにと縛って生きてきた。
努力をひけらかすことも嫌った清廉な過去のエメリナを、私は尊敬しています。ふふ、自分のことなのに、ね。
友人のひとりが「まぁ……」と声をあげました。
「では、もう二度とダンスなんてしたくないと思ったことも?」
「ええもちろんよ。背すじを伸ばすために背中に棒をさすのは嫌だったし、踊るたび足の皮が剥がれてすごく痛かったもの」
「なんと……。エメリナ様はどんなことでも簡単にこなしてしまうのだと思ってましたのに!」
わぁ、と張りつめた空気がほどける気配がありました。見れば友人たちの表情がいつもよりも明るい。どうやらエメリナは知らず知らずのうちに自分の周りに高い壁を作っていたようです。
いえ、本来なら必要な壁なのです。未来の国母として、隙を見せるようなことがあってはなりませんから。だからエメリナはずっと、真の友情も知らず孤独に生きてきました。でも、私は自分が王妃になることはないと知っています。少しくらい普通の女の子だというところを見せたって構わないのだわ。
それからしばらく、どんな勉強がイヤだったとかどんな練習が辛かったとか、そんなお話で盛り上がりました。刺繍のコツを問われて私なりのやり方を教えたりも。ふふ、こんなに笑ったのはいつぶりでしょうか。
しばらくして、誰かがぽつりと囁きました。
「ヘリン公国は大丈夫でしょうか」
東に隣する国です。また、王妃様の母国でもあります。しかし現在、北に広がる帝国と対立関係にある我が国に対してヘリンは態度を決めかねており、何かと微妙な時期なのです。
市井ではヘリン出身の王妃に対して、民衆が反発的な感情を抱き始めているとか。
「私はもちろんアーサー様も、ヘリン公国を信じているわ」
ヘリン公国の助力が得られれば、帝国への勝ち目は五分より大きい。見て見ぬふりをされた場合、奇跡が起きれば勝てる。けれど彼らが帝国側につけば勝ち目はありません。
友人たちは起こるかもしれない有事に憂いながらも、アーサー様を心配してくれたようですね。
私は未来を知っていますから落ち着いていられますけど、原作におけるエメリナも不安のあまりアーサー様に何度も「大丈夫なのか」と問うたようです。それはアーサー様の心労を指していたのですけど、ご本人にはそうは伝わらなかったみたい。そんな言葉の不足がすれ違いを起こしていたのね。
「エメリナ様もそうですけれど、王太子殿下も本当にいつも冷静で……心強いですわ」
「あ、噂をすればなんとやら」
「本当だわ。ほらエメリナ様、王太子殿下があちらに」
友人たちが口々にそう言って、テラス席の向こうに広がる庭を指し示しました。
他国から友好の印にと贈られた姫リンゴの木が満開を迎え、赤や白やピンクの花を華やかに咲かせる中、アーサー様がご友人の伯爵令息とともに散策していらっしゃるのが見えます。
灰赤色の髪に陽があたって柔らかに輝きます。私は声を掛けようかと刺繍を置いて、席を立ち……思い出したのです。これは原作においてヒロインとの出会いのシーンだと。
ヒロインは家庭の事情で半年も遅れて学院へやって来ます。それで周囲に馴染めず一人歩きをするヒロインとアーサー様とがここで出会うのです。姫リンゴの棘に指を引っ掛けて怪我をしたヒロインを彼が介抱するかたちで。
動けなくなった私にアーサー様がお気づきになって、手をあげました。あら、そんな描写は原作にあったかしら? さらに私に何かおっしゃろうとして……。
「キャッ! 痛っ」
ヒロインの登場です。姫リンゴの花のように薄いピンクの髪を揺らしながら、男爵令嬢マリナレッタ・スラットリーがふらふらとやって来ました。エメリナよりも小柄な体、エメリナよりも豊満な胸。んもう。努力でどうにもならない身体的な特徴に触れてはいけないのに、私ったら!
痛みのためか快晴の空のような爽やかな青の瞳を眇め、高く掲げた指の先から赤い血が滴っているのが辛うじて見えました。
マリナレッタさんの方へ歩を進めるアーサー様の姿に、友人たちが身を固くした気配がします。
ちゅ、中途半端に立ち上がってしまったのですけど、私はどうしたらいいのでしょうか……っ!