こじれた婚約
ハザウェイ国の貴族の間では幼年期に婚約者を定める事が多く、おたがいが15歳を過ぎるまで婚約成立を発表しない風習がある。
5年10年で両家の勢力が変わり、解消や破棄が予想されたためである。幼年期では後々の身体・知能等が不明なため、成長を確認するモラトリアムでもある。
侯爵令嬢ステラ・シャロンには、伯爵令息アラン・アルバという親が決めた同じ年齢の婚約者がいる。
5歳の時に正式に婚約の書類を交わし、10歳の時に両家の食事会という名目でステラとアランははじめて顔を合わせた。
アランは母ローラ・アルバから、この婚約を成功させるように物心ついた時から言われていた。母だけが乗り気なこの婚約を白紙にしたいとアランは思っていた。
アランは名乗るだけで発言を終えた。
それに倣いステラも名乗るだけだった。
本人同士とそれぞれの両親の合計6名での食事会だが、話しているのはアランの母ローラだけであった。
食事が進むにつれて、アランは婚約に対する反抗や否定といった感情は薄れ、違う感情で混乱していた。ステラ・シャロンとその両親は口数が少なく終始穏やかな表情だった。ステラと話したいという自身の感情に気づいたアランは動揺し、かえって全く話すことができなかった。女性は母ローラのように口うるさく狡猾で身分や育ちを鼻にかけるものだと思っていたアランの偏見はこの日までとなった。
一方、ステラは自身の婚約の事を聞かされていなかった。両親の友人であるアルバ家との食事会だと思っていた。ステラは今日の帰りに買ってもらう予定の髪飾りの事で頭がいっぱいで、機嫌が悪く俯きがちなアランの様子に気づくことはなかった。
ステラの母グレースがローラの相手をし、双方の父達は無口であった。
顔合わせが終わった日の夜、グレースはステラに尋ねた。
「ステラ、アラン君とお話しできたの?」
「なにも……」
「今日はご挨拶が目的だ、別にいい」
ステラの父エドガーは少し憮然としながら言い放った。
「お父様、目的って何ですか?」
「グレース、話していないのか?」
「えっ、あなたが説明しているとばかり」
この日の夜、ステラは自分に婚約者がいること、その相手が昼間の少年アラン・アルバだと知らされた。
「書類は交わしたが仮婚約だ。無理に決めなくて良いのだ」
「あなた、何を言っているのですか……仮とはいえども書類を交わしたのです。できるだけ穏便に……」
父と母の間には温度差があることにステラは気づいた。
その後、両家母親が同席のうえでお茶会は続いた。ステラは美味しいお菓子目当てに参加していた。
アランは焦っていた。婚約者ステラとのはじめての顔合わせから何も話せない状態で1年以上が過ぎていた。
毎回ステラがお菓子に目を輝かせる瞬間をアランは見逃さなかった。会話が無くても次第にステラが可愛く思え、話したい、触りたいといった衝動に襲われていた。
母ローラに若い二人だけでの庭の散歩を促された時、アランは何も話せずエスコートもできなかった。それなのに、ステラは嫌な顔をせずに静かに自分の後をついてきた。それがアランにとってはこの上なく嬉しかった。
ステラは自身の婚約話を聞いて数回は緊張したものの、話しかけてこないアランに安心していた。ステラは日ごろから無口な父と早口な母の会話を聞いているふりをしながら、空想の世界に浸るのが大好きだった。
何も話さないアランは道案内に適し、ステラの空想の世界は膨らんでいた。さっき見かけた猫が実は使い魔で、あの木のむろが異世界への通路でぇ、ぽゃ〜としながらステラは有意義な空想の時間を過ごしていた。
全く進展しない仲のステラとアランであったが、もめ事もなくそのまま月日は流れ、ニ人は12歳になろうとしていた。
ハザウェイ国の大多数の貴族子女は12歳から貴族学園に通う。アランは、それを機にステラとの関係を前向きに変化させようとしていた。ステラと同じクラスになることを願い登校し、クラス発表を確認した。アランのクラスにステラの名はなくほかのクラスにもステラ・シャロンの名をアランは見つけることができなかった。
その夜、アランはその理由を父アルベールに確認した。
「ステラちゃんなら留学したぞ、シャロン家のしきたりだ」
「私は聞いていません」
「……アラン、どうしたのだ?」
「うっ……私は婚約者です」
アルベールは妻ローラの意地で結ばれたこの婚約には思うところがあった。
シャロン家にとってはこの婚約はもらい事故だった。アランにおいては婚約の白紙を狙っているふしがあった。
周囲の大人たちの思惑は別にして、当人同士が仲良くなれば憂えることも無くなると思い二人を対面させたが……当の本人たちは全く話さない。
アランとステラの仲は良いとローラは言うが、毎回のお茶会に同行させた執事によると全く進展していないとの報告がアルベールに届いていた。
「これは、驚いたなぁ。
定例のステラちゃんとのお茶会で話すどころか目も合わせないと聞いていたが……ステラちゃんから留学の報告が無かったことがショックか?」
アランが頷くのを確認したアルベールは続けた。
「アランはこの婚約にはじめから不満だったな、はじめて会った時にその感情をステラちゃんに向けただろ。ちゃんと挽回したのか?」
「僕は感情を向けていません。何も言っていません」
「ああ、アランは何も言っていない。人の印象を左右する一番大事な初対面でアランは挨拶すらしなかっただろう。その後は不機嫌を隠さず、しまいには俯いてしまった。あの時のアランの姿は父としてショックだった。
アラン、この婚約はローラが無理を通し我が家から頼み込んだようなものだ。シャロン家はいつでもこの婚約を反故にできる。アランはそれを望んで無視し続けたのだろう?」
はじめて聞かされた婚約の経緯、婚約者の突然の留学、過去の自分の態度が父を失望させていたこと……アランは自分だけが爪弾きにされていたと感じ、急に悲しくなり涙が止まらなくなった。アランは、あの日からやり直したいと強く願った。
「僕は……ステラと関係改善しようとずっと考えていた。はじめて会った時、数分が過ぎてからずっと……でも、僕は、どうしたら良いかわからなくて……父上にまでそんな風に思われていたなんて、ぐすっ……ずびっ……。
何もできないまま月日が流れて……貴族学園に通うようになったらそれを機会に……うっ、ぐすっ……それなのに……誰も留学の話を僕にしてくれなかった、僕だけが知らなかった」
もともと婚約に乗り気でないアランがここまで取り乱すとはアルベールは思いもしなかった。アルベールはアランがステラに多少なりとも気持ちを寄せていることに気づいた。
アランの気持ちを確認せずに婚約を押し付けておきながら、家長である自分からステラの留学を知らせなかったのは配慮に欠けたかもしれないとアルベールは焦り始め、息子アランの号泣姿に親として胸が締め付けられた。
「アラン、すまなかった。ステラちゃんと仲良くなりたかったのか。
なぜ、もっと早く相談しなかった?」
「だって……ぐすっ……ずびっ……」
「アラン、婚約は継続している。留学期間は2年だ。手紙を出しなさい。
アランも勉学に励みなさい」
「……はい」
ステラはシャロン家の決まりで12歳から2年間留学した。帰国して1年間は家庭教師をつけて自宅で学習し、15歳から貴族学園に編入することになった。
両家のお茶会は、ステラが帰国してすぐに再開された。しかし、ステラとアランとの間で会話が交わされることはなかった。
グレースは、お茶会での娘ステラの様子の変化に気づいた。
「あなた、この婚約をそろそろ穏便に解消しましょう」
「ステラが何か言ったのか?」
「いえ、ただ……留学前まではステラはお茶会のお菓子を嬉しそうに食べ、自分の世界に浸り楽しんでいる様子でしたが、近頃のステラはお茶会前に必ず体調をくずし、当日はただ静かに座っているだけです。表情は穏やかですがお茶会では何も口にしません」
「そうか……ステラは留学で視野が広くなり、この婚約を疑問に思いはじめたのかもしれない。学園に通い始めて落ち着いたらゆっくり話そう」
「そうね、あなた」
15歳になり、予定通りステラは貴族学園に編入した。
ステラが貴族学園に通い始めて2週間が経とうとするころ、アランがステラのクラスに訪ねてきた。可愛い令嬢ルチアと一緒に……。
「ステラ嬢、『制服姿を見せて』と母から伝言を預かった」
「アラン様、わざわざありがとうございます」
アランはルチアと腕を組みながら「伝えたからね」と去って行った。ステラはその二人の背中を見送った。
婚約の消滅を予感したステラは、アランとの距離を詰めなくても良いことに気づき楽になった。同時に、これでもう呪われないとホッとした。
「ステラ様、一緒に帰りましょう。今のアラン様でしょ、お知り合い?」
「そうですね……遠い親戚のような感じかしら?」
「もしかして、ステラ様の婚約者がアラン様なの? それともアラン様がステラ様狙いとか──」
ステラが留学して一カ月がたつころ、アランから封筒が届いた。手紙は入ってなく、栞だけが入っていた。
栞を見たルームメイトのリリーは「それは悲しい栞だから、しばらく……こうして次の新月まで寝かせましょう」と……白い布で栞を包み、塩を振り、窓辺に置いた。
それからリリーはステラに栞に使われていた押し花の意味を教えた。それを聞いてステラは自分が呪われるほどアランに嫌われていることを知った。好感を持たれないまでも、まさか呪われるとは……ステラは異国の地で少し苦く悲しく感じたことを思い出した。
「……(婚約解消は)もう決まっているのでは?」
「そうよね、アラン様ほどの方なら決まっているはずよね。今、連れていらした方かしら? そんな雰囲気には見えないけど……」
15歳になったアランは、眉目秀麗で文武両道の素晴らしい令息と評価されていた。ステラは編入早々にその噂を耳にしていた。
(素晴らしい令息ねぇ……婚約者のところに令嬢と腕を組んで一緒に来る? アラン様の本命はあの令嬢だろう。婚約解消をいきなり伝える事を避け、匂わせにあの令嬢を連れてきたのだろう)
栞は偶然ではなかったと悟ったステラは心で毒づいた。
夕食時、ステラはアランとの短いやり取りを両親に話した。
「アラン様の声を5年ぶりに聞きました、お話ができる方のようです」
「ステラ、他に気になることは?」
「はい、可愛いご令嬢と腕を組んでいました。アラン様との婚約が白紙になったのでしたら、私にも教えてください」
「ステラは、白紙を望むかい?」
「望むも何も、話した事がない方なので……」
この時、父と母の目がキラリと光った。
気のせいだろうとステラは深く考えずに食事に集中した。
春学期の最終日、ステラがクラスメイトと学園内のカフェでお茶をしているとルチアが近づいて来た。
「……私は、ターナー子爵家のルチアと申します」
ステラが返事をしなかったにも関わらず、ルチアは話し始めた。
「あの……私とアラン様のお付き合いを認めていただきたいのですが」
(なぜ、私にそのような事を言うのかしら、この方は頭が弱いのかしら?)
ステラは念のため手順を教えてあげることにした。
「お付き合いを認めて欲しいのならば、あなたのお父様を経由してアラン様かそのご家族にお願いしては? 私は無関係です」
(ルチアは私達の婚約を知っているのだろうか? 鎌をかけられた? 本当に面倒、婚約も結婚も……)
ステラの心には親の決めた婚約に対して一気に否定的な感情が渦巻いた。
「ステラ様、行きましょう」
クラスメイトが席を立とうと荷物をまとめ始めた。ステラは忘れ物がないことを確認し席をたった。
「待ってください。父を通してアラン様とのお付き合いをアルバ家に申し込んだところ、アラン様に直接申し込むよう言われ、アラン様に申し込んだところ、『ステラが良いと言ったら』と……」
(それって、あなた……遠回しに断られているのでは? それとも、私が試されているのかしら?)
ステラは何が何だか分からなく、ふつふつと憤った。
「ルチア様、それでよろしいの!?
良くお考えになって……あなたの思いを寄せる人は、あなたとの関係を赤の他人の私に決めさせるおつもりみたい。おかしくないかしら?」
「はい。私もそう思いました」
「ルチアさんは、おかしいと自覚した上で高位貴族のステラ様にいきなり話しかけたのね、呆れた。まず礼儀を身につけてからにしてみては」
クラスメイトが助け舟を出し、ルチアは口を閉ざした。
この隙に逃げようとステラは退散の言葉をルチアに投げかけた。
「ごきげんよう」
「あっ、ステラ様。待ってください、私はどうすれば?」
そんなの知らない、関係ない、触らぬ神に祟りなし、と心の中で繰り返し呟きながらステラはその場を後にした。
ルチア・ターナーの発言は常軌を逸していた。
侯爵令嬢ステラに伯爵令息アランと子爵令嬢ルチアの仲を認めろと……しかも、ステラとアランは婚約を交わしている。三人とも未成年の貴族子女、ルチアは婚約の事実を知らなくてもアランは知っている……これは、何らかの目的を持った狂言か揺さぶりだろうとステラは推測した。
もし本当にアルバ伯爵が言ったとされることが真実ならば十分に婚約破棄の理由になる。
アルバ伯爵のあずかり知らぬ話だとしても、ルチアの発言をクラスメイトが聞いている。事実として立証される。
(ルチア・ターナーが私に向かって発言したという事実が立派な婚約破棄の理由になるはず。人を疑うことを知らない私は真実だと思って、栞の件もあって深く傷ついたことにしよう。よし!)
真実や真相は別として……客観的にみれば、婚約破棄の理由が飛び込んだようなものだとステラの心は軽くなり、ステラの視界は澄み渡った。
この婚約が私は嫌だった、心の底から嫌だった!! とステラは強く自覚した。その事に気づいてしまうと、婚約破棄という言葉が良い言葉に思えてきた。
婚約破棄、破棄、ハキハキぃ〜、と跳ねるようにステラは帰宅した。そして、ステラは真っ先に母グレースにこの話をし、婚約破棄もしくは解消したい旨を伝えた。
2日後の朝、ステラとアランの婚約が破棄されたことをエドガーからステラは聞かされた。
破棄理由は……ステラ・シャロンという婚約者がいながら、他家からの結婚申し込みをアルバ家が断らなかったこと。また、それをステラに非道な形で伝えたこと。これらがアルバ家の有責となった。
アルバ家がシャロン家に賠償金を、ステラ・シャロンに対して慰謝料を支払う。また、アラン・アルバとルチア・ターナーの両名は今後ステラ・シャロンに対して言葉をかけないこと。
以上の事が決まったとステラは婚約破棄の詳細について父エドガーから聞かされた。
「これでステラは自由だ」
「そうねぇ~、結局、アルバ夫人の独りよがりにみんなが巻き込まれたのよ、迷惑な話よね」
ステラとアランが婚約に至った経緯は意外なものだった。
ステラの母グレースとアランの母ローラは、現王太子の婚約者候補として幼い時に親元から離れ厳しい教育を受けていた。どちらかが正式に婚約者が決まるという時に、王太子はぽっと出の男爵令嬢と結婚すると騒ぎを起こした。
結果、グレースとローラを戻された各実家は、元王太子妃候補の二人に見合う年頃の婚約者を見つけるのに苦労した。特にローラの実家はそれを王家の責任として攻めた。
捨てた王太子妃候補ローラとグレースの結婚とその子の代の結婚において王家が全面的に協力する、という念書を王家と両家は交わした。しばらくして、ローラはアルバ伯爵家に嫁ぎ、グレースはシャロン侯爵家に嫁いだ。
ローラはその念書を盾に、息子アランの妻にステラを指名し王家を動かしていた。
「王太子様はその後どうなさったの?」
「その男爵令嬢が王太子様の側近と駆け落ちしてしまって、王太子様は結婚をせずに独身のままよ……あれ以来、王太子様は表に出ることが少なくなってしまったのよね」
このスキャンダルは王家の信頼を失墜させ、王家・貴族制度改革へと大きなうねりに繋がっている。
「ステラは、どんな人と結婚したい?」
「誠意のある方かな、一人で行動ができて年齢相応の対応ができる方なら、年上でも年下でもかまいません」
「まぁ、ステラはずいぶんと許容範囲が広いのね。今回の件が辛かったのね」
「お母様は不快ではなかったのですか? あのお茶会、アルバ夫人が喋り続けるだけの時間……お母様と私のマナーが悪いといつも言いたげな目つきで……」
ステラがはじめて両家のお茶会に対しての不満を訴えた。
母グレースは驚いた。
自分の意見を口にすることが少なく、人を悪く言わないステラが明確に悪意を示したことに。また、ステラがお茶会で不快感を悟らせなかったことに。
「ステラも不快だったのね。マナーについては、私もローラ様も同じ王太子妃教育を受けたのにねぇ。私の実家は伯爵家で、あの方の実家は公爵家だからかしらね」
「でも、お母様は侯爵夫人です、それに対してローラ様は伯爵夫人です。お母様のお母様は隣国の王家からの臣籍降下した公爵夫人でした」
「ステラ、実家をひけらかすローラ様に対して血筋で対抗しようとするのは、ローラ様と同じレベルになってしまうからやめなさい」
現在の爵位でステラの母グレースに劣ってしまうローラは、実家の爵位を持ち出した。それをさらに遡ってもなんの解決にもならないという母の言い分にステラは納得し自分の発言を恥じた。
「お母様、気をつけます」
「ステラ、人は自分ではどうすることもできない血筋・環境・価値観に優越感とコンプレックスを見いだすことが多いの、それが一番厄介ね。
それにローラ様は庶子だったから、悔しい思いも多かったと思うの……心情を察することは私達には無理ね。無責任に『気にすること無い』なんて言ってはいけないのよ。だからといって、変な同情は相手に失礼だし、人として節度を持って接するだけよ。
ローラ様のように、はじめから挑んでくる態度を取られると仲良くなるのは難しいわね。こちらは人として常識を欠かない程度でよろしいのよ」
「はい、そうしていたつもりです」
「そうね、ステラが不快だったなんて……今、知りました。それで良いのよ」
いつも妻グレースと娘ステラの会話を黙って見守る父エドガーが口を挟んだ。
「この話は、貴族制度改革も絡む話でね。
今回は、ステラが巻き込まれて困っていた。これで終わりにできると良いのだが……」
「あなた、大丈夫ですよ」
貴族制度改革って近頃よく聞くけど、何だったかしらとステラは思いを巡らせた。
「ステラは貴族制度改正法についてどう思う?」
父からの唐突な質問にステラは驚いた。
この国は増えすぎた王侯貴族を整理縮小すると決めた。
尊属4親等以内に王の血を持たない貴族は貴族籍から抜け特権を失う。貴族籍を抜けても、家名と領地の継承を許された者は上級市民となる。
上級市民は貴族でもなく平民でもないという位置付けになり、この国の身分体系は王族・貴族・上級市民・平民となる。貴族改正法は3年前に発布され2年後に施行される。
「どうって……是非については……」
「ステラは貴族でなければ人ではないと思うかい? 自分が貴族でなくなるとしたらどう思う?」
「私は私です。隣国へ留学する前であれば貴族を望んだかもしれません。
隣国には貴族はいません。みな等しく国民でした。文化や技術は発展し街ゆく人々の表情は明るく驚きました。
自分が嫌だと思っていた髪色が隣国で羨ましがられたり、自分が気にしていなかった身長が隣国では小さいという分類だったり、いろいろな違いを学びました。
貴族のいる国で貴族でなくなることがどういうことかわかりませんが……」
「あなた、話しましょう。ステラは留学して俯瞰して物事を判断する力を養ったようですから……」
「そうだな、ステラも15歳になった。伝えるころだろう。
ステラにはグレースの出身国であるロイン国の王位継承権がある」
(何かと思えば、さらりと王位継承権って……父よ何の話をしているの?
ちょっと待って……母よ、何を頷いている?)
ステラは母から時々聞き及ぶだけの祖母の出身国へ行ったことすらなかった。
ステラは隣国へ留学して侯爵位が高貴なものだと実感させられた。その侯爵令嬢として育ったステラでさえも……さすがに王位継承権という特異なものに自分が関わるとは思っていなかった。
「お父様、ちなみに私の継承順位は?」
「98位だよ」
「お母様は?」
「65位だよ」
なんだ……遠い! とステラはホッとした。
「ロイン王家は少子化な上に短命なのよ。それに継承辞退者も多くてね。5年前の“ロイン王家にかかわる法律改正”で私達にも順番が来ちゃったのよ」
(母よ、『来ちゃった』って……)
「2年後に施行される貴族制度改正法では、他国の皇・王家の継承権を持つ者は全て貴族となり、尊属4親等の規定は適応されない。他国の継承権をもつステラは改正後も貴族だ。
その一方で、庶子や養子を親等判定において認めないとなってなぁ……各貴族家は慌てたのだ。アルバ伯爵家もそのうちのひとつだ。まぁ結局、今の貴族籍に正しく登録された者は出自に関係なく尊属4親等の規定で落ち着いたから、ステラの血統にこだわる必要はなくなったのだが……なかなか婚約解消に持ち込めなくて難儀していた。
シャロン家は改正法施行後も貴族だが、私は貴族籍を抜けようとも思っている。ステラはどうする? ステラは単独で貴族籍をもつことも可能だ」
(えっ、私、貴族やめるのやめないの? 私が決めるの? 重く濃すぎる話だ)
「ステラ、婚約話もなくなったことだし勉強をしなさい。『私は私です』と、この先も思えるように、貴族特権がなくなるということがどういうことか考えてみなさい。ロインの歴史や習慣や言葉についても学びなさい」
ステラは、結婚しない代わりに勉強しなさいと言われるとは思ってもいなかった。新しい結婚相手を探すためのエステや買い物をねだる予定だったステラだが……。
「えっ、はい……べ、勉強してみます。お父様」
自身の身の上に降ってわいた継承権等の話を聞いたステラには婚約破棄は遠い過去の出来事に思えた。
翌朝、心地よく目覚めたステラは夏季休暇の予定を考えながら父母と朝食を共にしていた。慌てた執事見習いリシャールが朝食室にやってきた。
「旦那様、奥様、アルバ家令息アラン様がお見えです」
「お帰りいただいて」
「何度もそう申し上げたのですが、『ステラと会えないなら死ぬ』と騒がれまして」
ここで娘ステラの名前が出たことにシャロン夫妻は顔をしかめた。
「死ぬというなら、おとめしなくても……」
「ステラ!!」
エドガーは娘ステラの本音に驚いた。
「でも、あなた。ステラの言う通りよ。
よそ様のご子息の生死について、私たちは権限を持っていないのでは?」
エドガーは妻グレースの本音に再び驚いた。グレースの隣でステラはうんうんと力強く頷いている。それを見たエドガーは数秒の混乱ののちに落ち着きを取り戻し、妻子の言うことは正しいと思えるようになった。
「そうか……リシャール、アラン君は自傷に及ぶための刃物類を持っているのか?」
「いえ、それらしきものは……ただ、同行している令嬢が『アラン様、死なないで。ステラ様に私が来たと伝えて』と泣き叫ばれて」
ステラは何の報告を聞いているのか理解できなかった。
「ステラ、その令嬢に心当たりは?」
「……? あっ、ルチア・ターナーかもしれません!?」
「リシャール、その二人はどこにいる?」
「門を入ったすぐのところです」
「敷地内で死なれては困る敷地の外に出せ……警察は?」
「連絡済みです、アルバ家にも連絡済みです。
ターナー家はいかがいたしましょうか?」
「警察がくるまでそのままにしておけ、屋敷へは近づけるな」
「かしこまりました」
ステラは警察とアルバ家に連絡を入れてから父に報告にくるこの執事見習いは有能だと思った。
「有能さん、私のすべきことは?」
「お嬢様、私はリシャールと申します。お嬢様は部屋にお戻りください」
ステラは自室で小説スケキヨに熱中し、すっかりアランのことが頭から抜けたころ、リシャールからサロンに戻るように言われた。
(あっ、読んでいた推理小説の続きがぁ……)
サロンには、ステラの両親、アルバ伯爵夫妻とアラン、ターナー子爵とルチア、警官二人がいた。ステラを入れて総勢10名となり手狭であった。
(敷地の外に追い出したはずの二人がなぜここに……しかも、人、増えてる。
まぁ、まるでスケキヨ……遺言書の公開や断罪劇でも始まるのかしら……)
少し前まで読んでいた推理小説の影響が色濃く、ステラの妄想は膨らんだ。
「ステラ、シャロン家においては全て終わったことなのだが……警察とも話し合って、ステラが出てこないとどうにも収拾がつかないと……座ってくれ」
ステラが席につくと同時に元婚約者アランの母ローラが叫ぶように言った。
「ステラさん! 婚約発表について段取りの報告かと思ったら……アルバ家の有責で婚約破棄ってどういうこと、私達はどれだけのお金と時間を割いたと思っているの?」
(訳が分からない!! 私が責められるの? お金と時間!?)
「アルバ夫人、静かにできないのならば退席願います」
警官がローラの発言を制した。
「アルバ家の執事ロベス・ターナーでございます。私が話を進めてもよろしいでしょうか?」
(ターナーって……ルチアの親族ってこと? 父かな?)
ターナー子爵は、シャロン侯爵に名乗り許可を求めた。
「そうしてくれ」
「アルバ家として婚約破棄と事後処理についての通知を受け取りました。破棄事由に娘ルチア・ターナーの名がありまして──」
「ステラ様、あれは違うのです!」
突然、ルチアが割って入ってきた。
「ぐすっ……ステラ、あれはね……君と話すきっかけが欲しくて……ずびぃ……それなのに……」
ルチアに続いてアランはグスグスしながら話そうとしている。エドガーはうんざりした表情でターナー子爵に説明を続けるように促した。リシャールがアランとルチアの口にハンカチを詰め、暴れる2人の腕を悲鳴を上げる一歩手前までねじり上げて黙らせた。ステラは視界の端の凄い光景に息をのんだ。
(リシャールよ、涙をふくと見せかけて……アランとルチアの口にハンカチを詰めて何をしているのぉ!? 暴力反対!!)
大人たちは見て見ぬふりをしている。それに倣い、ステラはターナー子爵の話に耳を傾けた。
「通知をお読みになったアルバ伯爵から、アラン様と娘ルチアの関係を聞かれ、慌てて娘ルチアを問いただしました。すると、通知にあった発言内容は事実だと」
「ステラちゃん、ターナー子爵からルチア嬢とアランとの付き合いを申し込まれた事実は無いのだ。なぁ、ロベス」
「はい、娘がアラン様と付き合いたいなんてことはなく、なぜこうなってしまったのか? いずれにいたしましても娘が両家にご迷惑を──」
ステラは頭をフル回転させた。
今となっては何とでも言えるけれども、継続・破棄いずれにしろ大人が考えるならもっとマシな筋書きになったはずだ。となると、やはり……アランが私の気を引くために、執事の娘と結託して私を試した! と、ステラは結論付けた。
ステラは猛烈にイライラし、自身の顔つきが険しくなるのを感じた。
「ステラちゃん、これは行き違いだ。今回はおさめてくれないか?」
アルバ伯爵の理不尽な要求にステラの怒りは言葉となって溢れた。
「アルバ伯爵! その婚約破棄の通知は誰の名前で出ていますか?」
「シャロン侯爵の名前で……」
「では、シャロン侯爵と話すべきなのでは?」
「ステラ、私もそう言ったのだが……ステラに話をさせろと騒がれて、警察の方が、ステラが出てこないとどうにもならないと……」
エドガーは娘ステラに頼りなげな言い訳を始めた。
(父よ、それは先ほど聞いた。この父が無駄口を叩くなんて……もしかして、私に引導を渡せと? 大役だよ、私15歳だよ)
ステラは、口角を上げ、静かに息を吐き、肩の力を抜き、息を吸ってから、憤懣やるかたない思いを言葉にした。
「アルバ伯爵に申し上げます。
両家の親同士が勝手に決めた婚約、それを婚約時の取り決めに基づいて正式に破棄した。それをどうして伯爵家当主が今になって『おさめてくれ』と15歳の私に言い出すのですか?」
「いやっ、その息子がここまで短絡的になるとは思わなくて……」
「その息子の保護者はどなたですか? アルバ伯爵家の問題であって当家に関係はございません、迷惑です」
ステラの言い分に隙は無かった。15歳の少女の発言はアルバ伯爵の心に刺さった。
「まったくもって、その通りだなぁ……申し訳ない……」
(わかったなら、早く自分達のおうちに帰ってから話し合って!!)
なかなか話が通じない現状に、ステラは留学先で慣れない言葉で苦労したことを思い出した。留学先は権利主張の激しい国でもあり、ぼやぼやしていると全てが自身の責にされてしまう国であった。
「アルバ伯爵、納得していただけて嬉しいです。
アルバ伯爵夫人から、『貴方にどれだけのお金と時間を割いたと思っているの?』とまで罵られたことに対して謝罪を要求します」
「ああ、それは……」
(また歯切れが悪いなぁ……これではダメだ! 今日で全てを終わらせなくては何度でも蒸し返される。そもそも私は婚約者アランとルチアに酷い目にあわされた可哀想な少女というポジションのはず。なんで、その私がこんなに頑張らないといけないの……不愉快だぁ!!)
ステラのイライラは父エドガーへと向かった。
「お父様、あなたはこの婚約を受けた責任を取って、この場で綺麗に終わらせてください!」
エドガーは娘が本格的にキレかけていることを悟った。
エドガーは娘が沸点に達するのを待っていた。
「ステラ、皆の前で確認させてくれ。
ステラは、アラン君と一緒にいて楽しかったことは?」
「一度もありません。会話したこともありません」
「ステラ、アラン君とこれから付き合いたいか?」
「今までも……これからもそう思うことはあり得ません」
シャロン侯爵は満足げに頷いた。
アルバ伯爵が口を開いた。
「ステラ嬢、留学先にアランは手紙を送ったはずだが……返事を頂けなかったと聞き及んでいるが……」
「手紙? あっ……」
ステラは自室に戻り、封筒を手に戻ってきた。
「これをお返しします、これが私の返事です」
ステラは封筒をアルバ伯爵へ差し出した。アルバ伯爵は、まず封筒の差出人がアラン、宛名はステラだということを確認した。次に封筒を開いた。封筒の中から栞がハラリと床に落ちた。その様子を見ていたアルバ伯爵夫人が息を吹き返した。
「ステラさんだって、大事にそれを持っていたのでしょう? まだアランのことを」
「アルバ伯爵夫人! 『まだ』って何に対してですか?」
「ステラさん……そんな言い方しないで、いつものようにローラ様と……」
「私が、いつ、ローラ様とお呼びしましたか? アルバ伯爵夫人が、私の意向や感想や発言を求めたことがありましたか?」
「そんな……」
ローラは顔を青くしながら、床に落ちた栞を拾った。
「っ!! アランがこれを贈ったの!?」
口を塞がれたアランは何かの突破口になると信じて強く頷いた。
「これは、相手を呪うための花で作られた栞よ!!」
母ローラの叫びを聞いたアランは目を見開き慌ててルチアを見た。ルチアは瞬時に俯いた。
(ふ〜ん、婚約クラッシャーはルチア・ターナーだったのか、なるほどねぇ〜。差し詰め幼馴染みなのかな? 幼馴染みの仲を裂いた私が憎いのかしら?)
「「どういうことだ!!」」
シャロン侯爵とアルバ伯爵は声をそろえた。
ステラの母グレースは震えながら娘を抱きしめた。
王太子妃候補だったグレースとローラは、かつて同じようなものをいくつも目にしていた。その意味も目的も、それを手にした時の心境も知っている。2人は思い出したくもなかった黒い感情に襲われ震えが止まらなくなった。
「どうしてすぐに言わないの、ステラ! あなた気づいていたのでしょ? アラン君から呪われていると……よりにもよって留学中の一人の時に……ステラ、あなたがどんな怖い思いをしたかと思うと……」
「近況を知らせる言葉も相手を思う言葉もなく……この栞だけが入っていました。慣れない留学先でホームシックになりかけた時に、私の息の根を止めに来たのだと思いました。ルームメイトが解呪してくれて『いつか贈り主に返しなさい』と。
2年の留学期間がすぎ、帰国して学園に行きたくないと編入を1年遅らせたのはこれが理由です」
「なぜ、月一回のお茶会を再開したの? 断れば良かったのに」
「お母様が『書類を交わしたからできるだけ穏便に』とか前に仰っていたので、私が気づかないふりをして我慢すれば良いのかと……栞は偶然だと思おうと……自分が呪われているなんて言えなかったの、ごめんなさい」
娘が留学先でそんな思いをし、帰国後も自身の発言に囚われ我慢をしていたとは夢にも思わなかったグレースは、謝りながらステラを抱きしめた。
「ステラ、あれはそういう意味ではなく……。
呪いが怖くて、ステラはお茶会で何も口にできなかったのね」
「はい。でも、お母様が同席してくださるから、呪われることがあっても殺されることはないと思い……」
「そんな、ステラぁ~~、そんなに悲しいことを言わないで、お茶会が近づくたびに体調を崩していたのに気づかないなんて母として情けないわ……」
(母よ、それは違う。お茶会でお菓子を我慢できるように、数日前からもう無理というほどお菓子を食べ、消化不良だっただけです……黙っていよう)
ステラは普段は記憶の底に沈んでいるあの栞がこんなに役立つとは思わなかった。
ルームメイトのリリーから、呪いというのは呪われていると気づき気に病んではじめて効力があることを習った。リリーは「我が家は『呪い』を生業にしているの、こういうのは気持ちの問題だからね。“まじない”と“のろいは”は表裏一体のようなものだから任せて。呪い返しにする?たんなる解呪で良い?」と明るく言い放ち、念のためにと栞を清めた。
それをきっかけにステラはリリーと仲良くなり毎日を楽しく過ごしていた。ステラにとって呪いの栞は、時々靴に入ってしまう小石のような認識だった。
「シャロン侯爵夫妻、ステラ嬢、大変申し訳ございませんでした。
のちほど、いかような賠償にも応じますので本日は失礼させていただいてよろしいでしょうか? 今まで無礼の段、どうかお許しください」
そう言ってアルバ伯爵は深く頭を下げた。
「ああ、栞の件は追加させていただく。リシャール、証拠の保存を」
「かしこまりました」
「シャロン侯爵、アランとターナー子爵令嬢の件は、こちらにお任せいただけますか?」
「ああ、任せる。我々としては、先日の通知を履行していただければ結構だ」
「詳細も確認せず、ステラ嬢には嫌な思いをさせた。申し訳ない。
今後、ステラ嬢が安心して通学できるように対策を講じる」
両家当主の話が終わりかけた。
「ステラ!!」
リシャールの拘束から解放されたアランが元婚約者の名を呼んだ。
「知らなかったのだ、婚約の経緯も、君への声のかけ方も、手紙の書き方も……」
「でも、アラン様は、呪いの花は知っていた」
「それも知らなかった」
「ルチアが『言葉なんかより栞の方が喜ぶ』と言うから栞を贈った」
「それはルチア様が喜ぶことなのでは?」
手紙をどう書いてよいかわからないアランに「栞とかが送られてきたら嬉しいなぁ〜」とルチアが言っていたのをアランは思い出した。
「そうかも、しれない……」
「あの栞を誰が用意したのですか?」
「ルチアが……ステラ、チャンスをくれないか?」
「チャンスは嫌というほどありました。
あの栞のあと手紙が続けば、栞の事を無作為の偶然と思えたかもしれません。
帰国した後、言葉を尽くしてくれれば今回のようなことにはならなかったかと?」
アランは必死にステラと縁を結びなおそうと言葉を探した。
「手紙の返事が来なくて僕は怖くなり、ステラの帰りをまった。
帰国したステラは綺麗になっていて、どうやって話しかけたら良いのかわからなかった」
「(はい? まるで以前は話しかけていた口振り!)だから、ルチアさんと一緒に?」
「あれは勝手にルチアがついてきただけだ」
「勝手に腕を組まれただけだと?」
それは……と言い淀むアランにステラは畳み掛けるチャンスと判断した。
「私が学園に編入したあと、ルチアさんと腕を組んであなたが近寄ってこなければ違った未来があったかもしれません」
「僕とルチアは幼馴染なだけだ」
(でた、幼馴染!! )
「ステラ、あの日から、最初にあったあの日からやり直して──」
「アラン・アルバ!様。
婚約破棄の真相はルチア様という婚約クラッシャーの存在だけではありません。
何も喋らず、人に頼り、人のせいにする人ではダメだと思ったからです。それどころか、気を引くために、人を試すような人との将来を考えられないと思ったからです。後先考えずによくもまぁ、理解できません。
余計なことですが……アラン様は、ルチア様になんでも相談でき、ルチア様を信じられる。アラン様は、ルチア様とお付き合いしたほうが幸せになれます。
婚約クラッシャーのそしりを受けることを恐れずに、アラン様のために動いたルチア様を大切にするべきです。それが人として為すべきことかと。
アラン様、ルチア様、お幸せに!」
嫌味でもあるが真実でもあると思ったステラは祝福の言葉を贈った。
「そんな、婚約クラッシャーなんて。私はアラン様がステラ様に会いたがっていたから、少しでも早く会えるように……体調を崩して、帰国が早まるようにと……」
「ルチア様は、明確に呪いの意志をお持ちだったのですね」
大人たちの顔色が変わった。
「そんな……呪いなんて……」
「友人が清めてくれたけど、場合によっては呪い返しがあるかもしれませんね。お気をつけて……」
「そんな……」
ステラはルチアへの小さな仕返しに呪い返しという言葉を使った。ルチアが泣き始め、ルチアの父ターナー子爵は額に手を当てて俯いていた。それを見ていたアランの母ローラは、次の怒りの矛先をルチアに向けた。
「泣きたいのはこちらです、ルチア。王家の絡む婚約を破壊したのです。
あなたは何が目的だったの?」
「私はアラン様のために、ステラ様に会いたいと泣いていらしたので……」
(泣きたいのは私だよ、いい加減に皆さん帰って! よそでやってくれ!!)
ステラは、アランが自分に会いたいと泣いていたと聞いてゾッとした。おそらくアランの心には都合の良いステラ像が出来上がっていたのだろう。
「アルバ家に恩を仇で返すような……これだから下位貴族は……」
「ローラ、いい加減にして!!
あなたこそ、爵位にこだわって元王太子妃候補特権を使って、アルバ家より上のシャロン侯爵家との縁談にすがりついたくせに」
「グレース、何を言い出すの……」
(飛び火したと思ったら……母よ、それに油を注がないでくれ!)
ステラは、はじめてローラに同意した。
「ローラは、ずっとそうだった。爵位に縛られすぎよ。
ローラは実家の力を使って、王太子妃候補になった令嬢たちを蹴落とした。最後にはローラと私の二人だけになって、私の爵位が下だと安心していたわね。
ところが、二人とも候補からはずれお互いに結婚が決まらず……ローラのご実家は王家にその怒りを向けた。一方、ローラは『グレースより早く結婚する』が口癖だった。
我が家はそんなローラの意向を汲んで結婚を遅らせたというのに……私が侯爵家に嫁いだとわかるとローラは再び私と競い始めた。子どもを使って……ステラを伯爵家の嫁にして……あなたは侯爵家出身の私の娘ステラを支配しようとしたのよ。
例の特権は私も有しています。ステラにとって良くない婚約を王家の介入をもって破棄することも可能なのよ」
「グレース……私は、そんな支配だなんて…」
「ステラに向かって『私達はどれだけのお金と時間を割いたと思っているの?』と言ったけど……あなたはまだ自分が王太子妃候補のままの気持ちでいるからそんな言葉が口をつくのよ。
ステラには呪いの栞以外には、言葉一つ贈られず。何のお金を使ったというの?
時間……私の方がステラのドレス選びに時間とお金を使ったはずよ。
ローラ、あなただけが騒いで締結された婚約だったのよ、周囲がどれほどの時間とお金と気を使ったと思っているの?」
(母よ、それが分かっていたのに、なぜこの婚約に応じたの。娘に無駄な“婚約破棄した歴”を付けたかったの? 母親同士の過去の争いなんて聞きたくなかったなぁ)
ステラ以外の皆がグレースの独白に聞き入っていた。父エドガーが優しくグレースを抱き寄せた。数秒間の沈黙を破ったのは、アルバ伯爵だった。
「アラン、婚約はすでに破棄された。分かったな!」
「…………どうすることもできないの?……」
「ああ、全て終わってしまった」
もう遅い! という経験はアランにとってはじめてだった。
アランにとっての難題は、周囲の大人達によってアランの知らぬ間に全てが良い方向に解決されるものだった。今までのアランは困ったら立ち止まるだけで良かったのだ。
だが、今回は違った。アランは「知らない、やり直す」ということが通じない「もう遅い」という言葉の意味をかみしめた。
「ローラ、もう気はすんだか? 婚約は破棄された。分かったな!」
「貴方……でも……」
それでも食い下がるローラにグレースが退席を促す言葉を告げる。
「ねぇ、ローラ。
いつまであの王太子妃候補だった時に囚われているの? もう、その未来は来ないのよ。
あなたは、アルバ伯爵と結婚して幸せになったじゃない。アルバ伯爵とアラン君とそれ以上に何を望むの?
かつて一緒に争った友人として最初で最後のアドバイスをするわ……気づいたら誰もいなかった、なんてことにならないようにね」
ステラは、母グレースの言葉に心を動かされた。過ぎた何かに囚われて得られぬ未来を手放さず自分は頑張っているつもりでも、気づいたら誰もいなかったということは誰にでも起こりえることだと。
(あ~、やっと……こじれた婚約は終了した)
グレースとローラの因縁から生じたこの婚約の被害者はステラとアランだったのかもしれない。ローラを除いては、はじめから解消ありきの婚約だったのかもしれない。その証拠にステラもアランも両家の跡継ぎだ。ステラはこの婚約において嫁や婿といった言葉を聞かされたことはなかった。
こじれた婚約は噛み合わない周囲の思いとアランの言動によりこじれにこじれ、ルチア・ターナーの決定的な振る舞いで婚約破棄へと至った。
警官が動き始めた。これで誰も変な期待や勘違いはしないだろうと感じたステラは、早くアルバ家とターナー家の皆様にはお帰りいただきたかった。
ステラはリシャールに救いを求める視線を送った。
「お嬢様、ピアノのレッスンの時刻ですが今日のお稽古はどうなさいますか?」
(そうきたかぁ〜、私はいつの間にかピアノを習っていたのね。うんうん、そうそうピアノのお稽古の時間でした。私が退席すれば良いのね!)
「お父様、私は退室してもよろしいですか?」
「ああ、ステラ、嫌な思いをさせた」
エドガーは可愛い娘ステラが雄弁に立ち回る姿に感動を覚えた。ステラの婚約は無事に破棄されたままで落ち着いた。
秋学期が始まり、登校したステラは、何かをやらかして呪いを受けたアラン・アルバとルチア・ターナーは自省と解呪のため別々の修道院付属校へ転校したという噂を耳にした。
そんな噂が落ち着くころ、いつも空想の世界で遊んでいたステラの姿はもうなかった。
固定された世界に見えても、周囲も自分も常に変化していることを意識したステラは、自身の少し先の将来を考えるようになった。
小春日和の空を見上げながら、ステラは「また恋をしたい」と呟いた。
── こじれた婚約・おわり ──