白銀の王
凍り付く低温の中、無数の人食い小魚に身を晒してしばらく。
奇妙な事に、気付けば体を喰い荒らされる感覚が無くなっていた。
「……?」
不思議に思いゆっくりと顔を上げる。そこにあの大量にいた小魚の姿は無かった。
それどころか、ここはさっきまでいた監視部屋ですらなさそうだ。
真っ暗な、どこまでも続いているような闇だけがそこにある。
――無。
まさしく何もない、わずかな光すら感じられない空間だった。
もしかして、本当に死んじゃった? ここがあの世だとでも言うのだろうか?
あいたた……かじられまくった背中とかが痛い。死んでいても痛いのかなあ。
ふと、目の前にアリカが倒れている事に気が付いた。
そうだ、私はアリカをかばって覆いかぶさっていたんだ!
慌てて様子を確認すると……良かった、生きてる。カバーしきれなかった部分にいくらかキズがあるけれど、それでも呼吸はしている。
良かった……本当に良かった! 涙は出ないけど感極まるとはこの事だ、きっと今私は酷い顔をしているに違いない。
……いや、良かったかどうかはここがどこなのかによるな。
ふたりしてあの世の入口に来てたんじゃ笑い話にもならないぞ。
「リプリン様」
後ろからアリカに話しかけられた。
ちょっと待って、今ここがどこなのか調べるから。
……ん? 後ろ? それに『様』だって?
振り返ると、確かにアリカがそこにいる。
いや違う、アリカは私の目の前に横たわっているんだ。
じゃあこいつは……アリア、か?
「あなたは……誰?」
「もうご存知なのではありませんか? アリアはアリアでございます」
アリアと名乗ったその少女、見た目はどう見てもアリカだった。双子だと言ってたしそれは当然か。
でもよく見れば違うところも多い。
まず服がフワッとしたワンピースのスカートだし、髪だってアリカより微妙に長い。
これがアリカのお姉さん……アリアなんだな。
ここでふと思いついた。
もしかして、アリアが私たちを助けてくれた、とか?
「ねえ、ここはどこ? もしかして、あなたが私たちを助けてくれたの?」
「はい、アリアはリプリン様を助けました。助けてと仰られましたし、ここで消耗されても困りますので」
なんだろう、引っ掛かる言い方だ。すごく違和感がある。
助けてくれたのはいいけど、まるで他人事のように話すし。それに私のためじゃなく自分のために助けたような言い方だ。
「この後はどうされますか? あの部屋に戻られますか?」
アリアは眉ひとつ動かさず、ただ淡々と喋っている。
「冗談じゃない、あんな所に戻ったら結局死んじゃうでしょ」
「あの者ではリプリン様を殺すことはできません、むしろリプリン様が殺す立場になるでしょう」
どういう意味だ? あの者っていうのはあの魚の事?
「言ってる事がよくわからないけど、とにかく安全な所に行きたい。アリカの手当てもしなくちゃならないし」
「そうでしたか、ソレも持って行きたいという事ですね」
……!
今、何て言った?
そうか、感じていた違和感のいちばん大きなものはこれだ。
アリカ……アリアにとって双子の妹、それなのに全然気にしている様子がない。
そればかりか『ソレ』呼ばわりだって?
「あんた……ここにいるのはアリカ、あんたの妹だよ?」
そうなんだよ、アリカなんだよ。
言葉に出すうちにだんだんと感情が高ぶる、語気も強くなっていく。
「突然いなくなったあんたを、必死で探し回ってた大事な妹だよ!? 他に何か言う事は無いのか!」
しかし、私の必死の訴えにもアリアは全く表情を変えない。
いや、何を考えているかはわかった。
わずかな首の動きから、私の言っている事を全く理解していないという事だけは。
「アリアに難しい事はわかりません。アリアはアリアに過ぎないのです、アリア様とは違います」
言っている事がいちいち要領を得ない。
それがさらに私をイライラさせる。
「……もういい、助けてくれてありがと。早くここから出して」
「そうですか、ではその前に言伝を少々」
「何よ」
「アリア様は現在ルゾン帝国におられます、お忙しい方ですがリプリン様ならばお会いになる価値はあるかと存じます。ただしこちらからの助力は期待なさらぬよう」
こいつ、アリアとかアリア様とか、自分の事を他人事のように話すのはなぜなんだ?
シンプルに考えるなら、目の前にいるこいつは『アリアではない』という事になるのだろう。
アリカそっくりの人間が複数いるとは考えにくい、これも異界の力か。
「言いたい事はそれだけ?」
「……そうですね、リプリン様についても少しだけ」
その瞬間、アリアが後ろに倒れたかと思うと、背中から沼に飛び込んだようにその姿がかき消えた。
「……!?」
アリアの姿が消えた驚きと、再び姿を現した驚きが同時にやってきた。
なぜなら、アリアは私の足元すぐの所に顔の上半分と右腕だけ出して、私の足を掴んでいるのだ。
その光景は本当に沼から顔を出しているみたいで、不気味さに思わず寒気が走った。
顔はアリカと同じだというのに。
「リプリン様ならばあの程度の者、苦も無く殺せたはずです。無視して立ち去るにしても問題は無いと思われます」
「そうだったら良かったんだけどね、あんたに力を借りる事もなかっただろうし」
恐怖を押し殺し皮肉を言ってみたが、やはり意味はなさそうだ。
「リプリン様は母と同じ、道具から引き出さずとも、覚えていれば可能です」
足元の影から何かが現れ、アリアに掴まれている足を伝い私の体を上ってくる。
これ、さっきの魚!?
「うわっ、や、やめろ!」
魚は一匹だったけど、さっきの恐怖が鮮明に蘇る。
思わず魚を手で勢いよく振り払った。
ボウッ!
刹那、振り払った魚が燃え上がり、炭となって砕け散らばった。
今のは……なんで? プリズマスギアは持っていないはずなのに……!
「先程も申し上げました、リプリン様が殺す側なのです」
いつの間にか足元のアリアの姿は無く、その声だけが耳に聞こえる。
代わりに青い色をした小鳥が飛んできた。
小鳥は大きく輪を描きながら飛びまわり、そのうちに私めがけて軌道を変える。
私の胴体にぶつかったと思いきや、そのまま沈み込むように姿を消してしまった。
「その者はそこらを迷っておりましたので、ついでですからお連れください。それでは」
周囲の空間、闇がドロドロとうごめき、徐々に私を中心に集まってきている。
……そろそろ時間が来たという事か。
私はアリカの体をそっと抱き上げた。
*****
私を包む沼のような闇が消え去った時、私はアリカを抱えたまま屋外に立っていた。
ここは見覚えがある。魔術師会本部の入口、城塞のような建物の目の前だ。
無意識のうちに、私の足は建物内へと向かっていた。
重厚な扉が音もなく開き、私たちを迎え入れる。
玄関ホールには複数の人間がいて、その中には見知った顔もある。
「リプリンちゃん、アリカちゃん! ああ、無事で良かった……!」
私たちに気付き、まず駆け寄ってきたのはホウリだった。
その目には涙が浮かび、本気で私たちを心配してくれていた事が見て取れる。
この人の言葉に嘘はない。
「ホウリさん、アリカの手当てをお願いします」
「ひどいケガ……うん、お姉さんに任せて」
魔法は存在しても魔法を使えるものは少ない、それを治療に利用するのはなおさらだ。
しかしここは魔術師会、おまけにホウリもいる。
私はホウリの事はアルマンディのギルドマスターである以上の事は知らないけれど、たちどころにアリカの傷を治すその姿には敬意を抱かずにはいられなかった。
「応急処置だけど、これで大丈夫よ。傷も残らないだろうから安心して」
「ありがとうございます、ホウリさん」
アリカの手当てが終わった頃、次に走ってきたのはシュイラだった。
「オマエら……! ばっかやろう、心配させやがって!」
アリカの予想とは異なり、帰ったりはしていなかったらしい。
なんて冗談です、すいません。
てっきり頬のひとつくらい叩かれるかと覚悟していたけど、シュイラは何もしなかった。
「すいません、心配かけちゃって」
「まったくだ、今度埋め合わせしろよな」
「ええ……この騒動は私のせいじゃないんですけど」
いや、ある意味私のせいではあるのか。
でもその要求はちょっと理不尽ですよシュイラさん。
「無事に戻ったって事で手打ちにしましょうよ」
「ダメだ、オレの気が晴れない」
「ひどい」
シュイラは小さな体でめいっぱいの怒りを表現している。
なんて思ってる事を知られたら大変なんだろうなあ。仕方がない、何か埋め合わせを考えておこう。
……さて、感動の再会はここまでみたい。
周囲はすでに魔術師たちに囲まれている。
まあ当然か、彼らにしてみれば脱走したアバラントをようやく見つけ出したとかそういう感じなのだから。
でも、悪いけど私、今はとっても機嫌が悪いの。
「魔術師さんたち、私を捕まえるつもりですか?」
「……」
魔術師は誰も答えない。
「とりあえず、私の帽子を返してくれますか。アリカを連れて出ていくので」
魔術師たちの沈黙は続く。
もとの姿に戻る方法が何かわかるかと思って来てみれば、やってる事はかつてのルゾンと同程度の監禁に過ぎなかった。
アリカがこんなに傷を負ったのもお前らのせいだ。
私たちを帰す気が無いのなら……たとえ勝てなくてもただでは済ませない。
そんな気持ちで、囲ってはいるがなかなか動き出さない魔術師たちの様子を伺っていると、集団を割ってひとりの魔術師が歩み寄ってくる。
かなり若い……というより子供だ。十五歳くらいの白い髪をした少年が、他の魔術師たちに見守られ私の目の前にまでやってきた。
この少年も魔術師なのだろうか。
「随分と騒ぎになっていたようだね、二体も同時にアバラントが逃げ出すのは僕も初めてだよ。ところで、もう一体の反応が消えてしまったのは君のせい……いや、おかげなのかな?」
声の感じは見た目通り若い、でもその口ぶりはまるで重役のようだ。
少年の言葉に私が返事をしようとすると、それより先に一歩前に出て答える者が現れた。
ホウリだ。
「マリウス、この子を捕らえるように命令したのは貴方なのかしら」
ホウリは少年を真っすぐに見ている。
いつもの口調を忘れたその言葉には怒りがこもっているように感じられた。
「ホウリ、僕達は異界からこの世界を守るためにあることを忘れたのかい? プリズマスギアもアバラントも、及ぼす影響は未知数だ。破壊する事すらかなわないのであれば、手元に置いて監視するしかないだろう?」
白い髪の少年、マリウスは静かにホウリの問いかけに答えた。
その表情にはうっすらと無邪気さを感じさせる笑みが浮かんでいる。
まるで当たり前のことをただ再確認したに過ぎないと言わんばかりだ。
ホウリも難しい顔で言葉に詰まっている様子だった。
正論に対抗するのは難しいらしい。……私にとっては直近の死活問題なので、できれば頑張ってほしいんですけど。
ホウリを黙らせたマリウスは私の方へと目をやった。
「それでも君は他とは異なるようだし、条件によっては目をつぶらない事もないかな」
「条件?」
私が聞き返すと、マリウスはニコリと微笑んだ。
「現在、新生ルゾン帝国なるものが興され、ブリア王国も混乱しているのは知っているね?」
「……まあ、多少は」
「国の代表はもちろん皇帝だけど、実はその影に実権を握っている存在が確認された。その名は大魔女ヴェルダナ、この魔術師会きっての実力者だった魔女さ」
「マリウス、まさか……!」
ホウリの顔がこわばっている。
対照的に穏やかな表情のマリウスは、ホウリの言葉を無視し話を続ける。
「ヴェルダナはあろうことか異界の力まで持ち出してルゾン帝国を興した。何が彼女にそこまでさせるのかはわからないが、魔術師会として見過ごすわけにはいかない」
「それで、私にどうしろと」
「……君に、ヴェルダナを止めて欲しい」
この少年、とんでもない事を簡単に言ってくれる。
私はアバラントになったとはいえただの小娘、国際情勢を揺るがす黒幕を本気でどうにかできると思っているのだろうか。
「本気で言ってます? 私に帝国の黒幕を暗殺しろとでも?」
「取り押さえるなり話し合うなり、方法は君に任せるよ。どんな方法でも彼女を僕の所に連れて来てくれればいいし、殺したければそれでも構わない。成功すれば自由を保障しよう」
「マリウス! いい加減にして!」
ホウリの怒号が飛んだ。
まったくだよ、こんなムチャな話、誰だって怒りたくもなる。
……でも、私の心は決まっていた。
「わかりました、この話、受けます」
「リプリンちゃん!?」
「すいませんホウリさん。でも、私にも理由があるんです、ルゾン帝国に行かなきゃならない理由が」
そう、私にはルゾン帝国に行く理由がある。
他ならぬ、アリアがルゾン帝国にいると言ったからだ。
アリカのためにアリアを見つける。そして妹の苦労も知らず、遊びまわってるアリアをひっぱたいてやる。
異界の力を持ち出したという魔女、ヴェルダナ。そいつがアリアと関わりを持っている可能性だってある。
ルゾン帝国に行く理由としては十分だろう、ついでに自由が手に入るなら願ってもない。
「引き受けてくれて嬉しいよ。それから、この事は知られないようにね。魔術師会は中立を貫いている、政治には関わりたくないんだよ」
「……汚いんですね」
「大人の事情さ」
そういうマリウスは子供にしか見えない。
魔術師、それもかなり偉い立場にある人間なんだ、見た目くらいどうにでもなるのかもしれない。
「さあ、君の服と帽子だ。プリズマスギアは必要かい? と言っても、僕達としては持ち出しを許可するわけにはいかないのだけどね」
「結構です、必要ありません」
運ばれて来た帽子と服を受け取り、私はアリカの元へと向かう。
無理を言えばひとつくらいは許可されたのかもしれない、でも私はプリズマスギアを受け取らなかった。なぜだか、受け取らなくてもいいという確信が私の中にあったからだ。
ちょうど、ホウリの手当てを受けたアリカが目を覚ました。
「……リプリン」
「行こう、アリカ」
まだ少しふらつくアリカの体を支えながら、魔術師たちの看視の中、私たちは魔術師会を後にした。
「アリカ、大丈夫? どこか痛むところない?」
「うん、大丈夫。……ねえリプリン、魚に襲われた後で誰かと話してた?」
「……えっ」
アリアの事を言っているのだろうか。
あの時アリカは気を失っているとばかり思っていたけど、もしかして起きてたの?
「ど、どうしてそう思うの?」
「よくわかんないけど、感じたの。人食い魚よりも怖い、とんでもなく恐ろしい何か」
意外な答えだった。
私はてっきりアリアの存在に気付いたのかと思ったけど、アリカにとっては『恐ろしい何か』に感じられたらしい。
「ああ、悔しいなあ」
「へっ? 何が?」
「だって、リプリンがわたしを助けてくれたんでしょ? 前はわたしがリプリンを助けてたのに、いつのまにか逆になっちゃった」
「……ふふ、どうよ、私も凄くなってきたでしょ」
そう答えたのは本当にそう思ったのが半分、もう半分はアリアの事をごまかしたかったから。
アリカにはとても言えない。探していた姉が『恐ろしい何か』に変わり、自分の事を微塵も気にかけていないなんて。そんな事、言えるわけがない。
でも可能性はまだ残されている。
さっきのアリアが本物ではない可能性、それはアリアの言う通り、ルゾン帝国に行けばわかるのかもしれない。……それだけが希望だ。
「リプリン、今度はわたしが助けてあげるからね」
「そんなに気にしてくれなくてもいいよ」
そうだよ、心配なんかしなくていい。
私がアリカを助ける、何があっても、絶対に。