05【私にとっての唯一の理解者】
もう、生きているのが辛かった。
何か辛いことが明確にあればいい。
例えば、事故にあったとか、病気になったとか。もっといえば、生まれながらにして魔王と戦う運命にある勇者だったとか、そういう物語的な設定とか。
そういうことが私にもあったら、もっと自信を持って誰かに私の不幸自慢ができたかもしれない。
だけど、私には何もなかった。
何もないことこそが、きっと、私にとっての最大の不幸だった。
一つ一つは、本当に些細なこと。
だけど、それが積み重なっていけばいずれ致命傷になる。
今の、私みたいに。
どうすればよかったのだろう。
何がいけなかったんだろう。
そんなことを、ずっと、悩んでいる。
「うわっ。なんだいたのか?」
「…………いたわよ」
いきなり、電気をつけられると、声をかけられる。
びくついたのは、私の夫。
どうやら仕事から帰ってきたようだ。
見上げると、いつの間にか外は真っ暗だった。
気がつかなかった。
とりあえず、やらなきゃいけないことを片づけて、壁にもたれかかって、そしていつの間にかこんな時間。
意識がなかった。
別に眠っていたわけではなくて、眼を開けていた。
それなのに、呆然としていた。
時計を見やると、私は三時間以上もフローリングの床に座っていたことになる。尻が痛いし、冷たくなっていた。
「あのさあ。いるなら電気ぐらいつけたら?」
「うん」
陰気な女がここにいて、鬱陶しい。
きっと、そのぐらいの感想しか持ち合わせていないようなぞんざいな口ぶりだった。どうして、この人はこうなのだろうか。会社勤めは疲れているのは分かる。だけど、昔はこんなんじゃなかった。
もっと優しかった。
もっと私のことを想ってくれていた。
それなのに、今では邪魔者扱いだ。
こちらから言わずとも、普通分かるはずだ。今の、この私の傷心っぷりが。どれだけ傷ついているのか。さっきまで暗かった部屋のように、私は落ち込んでいたのだ。
それぐらい、誰だって察することはできるはずだ。
それなのに、なんだいたのか? なんて台詞はないはずだ。一言目がそれでも、二言目にはえ? どうしたの? 大丈夫? と体育座りしている私に声をかけてきてくれてもいいのではないのだろうか。
それから隣に座ってくれて、鞄もどこかに投げ捨ててくれて、そして私のことを心配してくれるのだ。ねえ、どうしたの? と。
そして、私は別になんでもない、と答える。
いや、いいから答えてよ、とあっちが言う。
それを二度、三度ぐらい繰り返して、ようやく私は愚痴るのだ。
そのぐらいのわがまま、聴いてくれてもいいはずだ。
だって、私は頑張っている。
頑張っているんだから。
旦那は、特になにもできない。
仕事をしてくるだけだ。だったら、せめて私の愚痴ぐらい聴いてくれてもいいはずだ。私が家事をするから、気持ちよく仕事ができている。私がいなければ、アイロンをかけたシャツを着ることもできない。
飯にもありつけない。
毎日洗った風呂にも入れない。
何も、本当に何もしていないというのに、この男はなんでこんなにのほほんとしているのだろうか。
本当に、生きているだけ。
楽そうだ。
仕事をしているだけで、日々を緩慢に過ごしているのだから。
私はいつだって毎日、毎日、旦那のために自分の身を削っている。私は自分のやりたいことを我慢して、旦那のためにやってあげているのだ。
それなのに、それなのに、それなのに。
どうして、この人は私のことを分かってくれないんだろう。
「飯は?」
「そこにあるわ」
「風呂は?」
「沸かしているわ」
「あー、どっちからにしようかなー」
この決まりきった常套句。
まるで、機械みたいだ。
文句を言われるのが嫌だから。
専業主婦って、暇そうだよなーと、もう夫に言われたくないので、とにかくやるべきことだけはやっていた。
ほとんど何も考えずとも、長年の経験で勝手に手が動いていた。
「……やっぱり、まずは言っておこうかな……」
と、夫が食事も、風呂も、どちらも選択しないようなことを言って、椅子に座った。
「話、あるんだけど」
どうやら、真剣な話がしたいようだった。
何の予兆もなかった気がする。
仕事を辞めることになったとか、離婚したいとか、そういう類のことだろうか。それほどまでに夫の声色は硬かった。
ゴクリ、と喉を鳴らす。
私はいつも食事を食べているテーブルにつくと、対面の形になってイスに座る。
「…………なに、どうしたの?」
あー、うーん、と言いづらそうに何やらうなりながら、夫は目線をあちらこちらに外す。私が業を煮やして早く話の続きを急かそうとすると、
「実は今日遅くなったのには理由があってさ。会ってきたんだ」
「会って、きた?」
ザザッ、とテレビの電波が悪くなったみたいに、頭にノイズが走る。
どうして、だろう。
会ってきたとしか単語を聴いていないのに、何故か夫の言おうとしていることが分かってしまった気がする。
夫の、性格。
生まれや育ち。
それらを考慮して、夫の取ってしまった取り返しのつかないことを。たったそれだけで分かってしまった。それなのに、答えを出すのを拒否している。
いや、だ。
その続きを聞きたくない。
耳を塞ぎたい。
それなのに――
「お前の両親にだよ」
この人は、ちょっと嬉しそうに最悪な言葉を私に叩き付けてきた。
「――――は?」
夫は、どこか誇らしげ。
俺はやってやった、どう? とでも言いそうな顔をしていた。自分がどれだけ手遅れなことをしたのか、全く分かっていないようだった。
この人のことを考えなしだと思っていたけれど、どうやらその評価はまだまだ生温かったようだった。この人は、底抜けの馬鹿だ。
「ほら、俺達ってちゃんと結婚式挙げたわけじゃないんじゃん? それに、お前は俺の家族には会ったのに、俺はお前の家族には会ってないだろ? だから、ちゃんとあいさつしておきたかったんだよ……」
「なに、いっているの? 私、言ったわよね? そんなことしないでって、何度も、何度も……」
バァン!! と、机を叩いた手が痛い。
どうすればいい。
どういえば、この人は分かってくれるのだろう。
私の、物心ついた時からの苦悩を。
「それは、確かにそうだけど……。でも、良くないだろっ! 家族ってやつは、きっと仲良くなれるんだよ! お前だって、昔は思春期だっただけだろ? 今は、もうお前も大人なんだ。いつまでも子どもっぽい反抗期なんか卒業しよう」
この人は、こうなのだ。
昔は、この純粋さに惹かれた。
私はいつだってネガティブだ。
無駄に悩んで、無駄に苦しむ。
勝手に被害者意識を持ってしまう。
みんなができることができなくて、些細なことで傷ついてしまう。
そんな鬱々とした心を、この人はいつだって晴らしてくれた。
私にはない、純粋で、明るい心で。
でも、それは私にとっては害悪でしかなかったのかもしれない。
辛いことを忘れさせてくれるけれど、彼と辛いことを共有できるわけじゃない。
寄り添い合うことができない。
だから、忘れた辛いことを、たまに思い出してしまう。
一人で抱え込んでしまう。
旦那とはまるで正反対の性格だったけれど、私と同じような性格の人とならもしかしたら、もっと結婚生活はうまくいったのかもしれない。
私は、恐れていた。
同じタイプの人間と一緒にいたら、同じく苦しんで、苦しみが二倍になるかもしれないって。でも、そうなるとしても、私は、自分の苦しみを理解してくれる人間と一緒にいるべきだったんだ。
私が、自分の恐怖にもっと向き合っていたら、こんなことにはならなかったはずだ。
自分の善意が私のことを救うことに繋がると信じている、この頭お花畑の人間に崖から突き落とされるような真似は、きっとされなかったはずなのだ。
「…………そう。じゃあ、あなたは毎日殴られても何一つ文句言わないのね? 毎日、学校もあるあるのに、子どもの時から家事を全部やって、そのせいで遊ぶ時間がなくなって友達の一人もできない。そして、ずっとお前はクズだ。使い物にならない。お前は私達がいるから捨てられずにいる。感謝しろ。お前なんか本当は産みたくなかったって、そんな風に暴言を言われ続けても、あなたは親に感謝しろっていうのね?」
「お前、なんだよ。その言い方はっ!! 親に向かってなんて口の聴き方だよっ!!」
聴いていない。
私のことを全く聴いていない。
この人は、世間一般でいう常識だけを絶対の真実だと信じ込んでいるようだった。
大枠しか見えていない。
枠の中の、私という人間に眼を向けてくれていない。
一般常識と、私という個人では異なる。
常識は、あくまで常識。
大多数の人間の統計学――その結果。
でも、いつだって例外は存在する。
私の親のように、平然と子どもの心を殺す奴はいるのだ。
それを、認めてくれていない。
この世界には、どうしようもなく救えない人間だっていることを。
この育ちのいいお坊ちゃまは、何も分かっていなかった。
この人が、男だということも、こうやって現実逃避している一因かもしれない。
この人が今やっているように、世間の常識であてはまると、男は世間体を気にするらしい。確かに、うちの夫はいつだって周りからの眼を気にしている。凄い大変な仕事しているのね、とか言うと、急に機嫌がよくなる。無駄にプライドが高い。
だからこそ、なのだろうか。
私の夫は世間体を気にするせいで、世間一般の常識に縛られている。私が涙を流しても、どれだけ苦しみを訴えても、まるで羽虫が路傍で悶え苦しんでいるのを見ているような視線しかよこさない。
同情はしても、手をさし伸ばしてくれるわけではない。
あくまで、自分と私とは住んでいる世界が違う。
物凄い濃い、一線を引いている。
そんな気がする。
「……とにかく、今はきっといい人だよ。お前に会いたがってたぞ? もう、五、六年以上会ってないんだって? 会いに行ってやれよ! 喜ぶぞっ! きっと!!」
「そうね。喜ぶわね。きっと、また私の通帳勝手に盗んで、勝手にお金全額おろしてまた開き直るんでしょうね……」
両親は、私のことを金づるとしか思っていない。
いつもこうだ。
怖い。
本当に怖い。
今すぐにでもそこの扉をドンドン叩いて、両親が乗り込んできそうで怖い。
私の親は、まるで借金取りのように執拗に金をせびってくる。
自分達はちゃんとした職に就いているわけでもないのに、親として当然の権利とばかりにお金を奪っていく。どんな方法を使ってでも、私のお金を根こそぎ奪っていく。
その癖、一週間に一回は他県に旅行に行く。
そして、写真を撮ってそれを私に見せに行く。
パチンコ屋に行って、お酒を毎日飲んで、新しい化粧品を買って。
それなのに、そんなことをしているのに、私の貯金残高を平気でゼロにする。
訴えようとした時もあった。
実の両親を。
そうしたら、あっちが先手を打ってきた。
と、言っても、別に訴えられたわけじゃない。正確に言うと、あちらは弁護士を通して、私からまた、お金を奪おうとしただけだ。
私は奨学金をもらっていた。将来的には自分で払うもので、別に不満なんてなかった。だが、私の親は遊びほうけていたせいで、私の学費に手を出した。奨学金に手を出すだけじゃ飽き足らず、学費に手をだし、そして借金をした。
正直、私には関係ない話だった。
それなのに、弁護士を通じてその借金は奨学金を払うためのもの。
日本学生支援機構から借りているものだから、私が払うべきだと言い出した。
弁護士も雇ってだ。
私は吐きそうになった。
私のバイト代も根こそぎ奪って、しかも、勝手に借金を作っていたくせに、それを私に払わせようとしたのだ。
私は、もちろん反論した。
だけど、あっちは話を全く聞いてくれなかった。
私は、辟易した。
もう、疲れた。
だから、親がつくった借金を肩代わりした。
納得したわけでも、理解したわけでもない。
ただ、争いたくなかったのだ。
子どもの頃から両親の喧嘩を毎日聴いて、親に殴られて育った私は、極端に争い事が嫌いだったのだ。
そして、借金を払っていった。
でも、それは間違いだった。
一度味をしめれば、さらに無茶な注文をするのは、別にテロリストの専売特許ではない。さらに金を私に払わせるように言ってきた。
遠洋漁業に行けと私に言っているのだろうか。
私は逃げた。
最低限の荷物だけを持って、市役所に行った。親と絶縁したかったのだが、法的には難しいようだったので、最低限の手続きだけした。
それから、私は、一日一食。
一食はたまごかけごはんとかですます。
みたいなこともあった。
だけど、やはり、歳をとっていくと、一日一食はきつかった。いや、どんな年齢でもきついだろうが、なんとか耐えれた。
だけど、段々と、頬がこけてきた時に分かった。
私は、誇張表現なしに、親に殺されてしまうと気がついた。
このままでは、本当に死んでしまう。
別に、死ぬのは構わない。
生きることに、さほど執着はなかった。
だけど、両親に殺されるのだけは嫌だった。
自分の憎んでいる連中は、きっと私が死んでも金づるがいなくなって舌打ちする程度だろう。もしくは、どうして、死んじゃったの? とか悲しむかもしれないが、それはあくまで悲しんでいる自分に酔っているだけだ。
その原因が自分にあるとは夢に思わないのだ。
そして、なんとか、私は普通の生活を取り戻した。
それなりに、辛いこともあった。
死にたいと思わない日の方が少ない。
だけど、今になって分かる。
私は、幸せだった。
私は、ちゃんと生きていた。
なのに、どうしてなんだろう。
目が滲む。
涙がこぼれる。
どうして、この幸せだった時間を、この世で最も愛したはずの人に粉々に壊されないといけないのだろう。
「はぁ。話し合いにならないな……。もういい。明日になってから話そう。少し、頭を冷やせよ、お前は……」
そういって、夫は話し合いの放棄。
逃げ出した。
私が入れた風呂に入りだした。私がやっているのに、何の感謝もなしに入っている。その石鹸も、シャンプーも、タオルも、バスタオルも、全部私が買ったものだ。用意したものだ。洗濯したのだ。
夫が好きなシャンプーを買ってきたのだ。
こんなにも尽しているのに、夫は自分のことしか考えていない。
偽善者。
そんな言葉がこんなにも似合う人間が他にいるのだろうか。
「何も、分かっていない……」
私が泣いている姿だって見たはずだ。
それなのに、夫がやったことといえば、あーあー、めんどくせぇーなー、とためいきをついたぐらい。
肩に手を当ててくれることさえしてくれなかった。
私にはなにもなかった。
今日は、ちゃんと眠れるのかさえ心配だった。
私には、もう生きている理由が見当たらなかった。
「もう、やだ……」
顔を上げる。
すると、そこには私の理解者がいた。
「あっ、あああ」
いた。
私にはいたのだ。
救いはあったのだ。
向かいのマンション。
そこには、私のことを分かってくれる人がいるのだ。夜なのに、まるで太陽の光のように輝いているその人が、私のことを見つめ返してくれていた。
口を開けて驚いた顔をしている。
確かにそうだろう。
毎日毎日、私は叫んでいる。
時には、叫びながら愚痴を言ってしまっている。
そんな奴が、今度は泣いているのだ。
二十過ぎにもなって、可愛そうな女が泣いているのだ。
だけど、私の見られてはいけない側面を何度も目撃している彼女は、私のことをきっと理解してくれるはずだ。
きっと、世界で唯一私のことを理解してくれる。
「あああああああああああああっ!!」
私は駆け寄る。
駆け寄って、そして止められる。
落下防止の、ベランダのちょっと高い壁。たまに布団を干すために使うその壁に、私は足をかける。
だって、待っていられない。
私のことを知って欲しいのだ。
話したことなんて一度もないけれど、きっと、私のことを分かってくれる。向かいの人は、私のことを分かってくれるはずなんだ。
だって、だって、だって。
向かいの人も、泣いてくれていた。
手をさし伸ばしてくれていた。
きっと、感情豊かな人なのだろう。
私と一緒で、映画やドラマなんかですぐに泣いてしまうような人なんだろう。優しくて、私の異常に気がついて、私のことを分かってくれる。話さずとも、私の心に寄り添える人なんだ。
下に降りて、あちらのマンションの階段を上がって、ピンポンする時間なんてもったいない。今こそ、心を通わせる時なのだ。
ビュウビュウと、冷たい風。
そんなの関係なくて、より一層手を伸ばす。
そして、強い突風が横から吹いて。
それから私は、私は、私は、私の視界は、真っ逆さまに落ちていった。