04【ご近所さんの噂話】
最近、なんだかついていないような気がする。
いや、最近だけではない。
私は、生まれてきてずっと、不幸続きだ。
何もないところでこけたり、嫌な人とばかり出会う。そう思ってしまうのは、もしかしたら私の性格が悪いせいなのかもしれない。
私が、ただ単純に意地が悪くて、自分のだめなところを、他人のせいにしているだけかもしれない。
だけど、それのどこが悪いというのか。
誰だって、他人のせいにしている。
私の夫だってそうだ。
今日の仕事を失敗したのは、お前のせいだと言ってきた。お前がおいしくない飯を作るせいだと。そして、帰宅時。仕事で疲れて帰ってきているのに、お前の辛気臭い顔を見ているとストレスが溜まる。疲れがとれない。だから、仕事でミスを犯すんだ。
そんな風に、詰ってきた。
自分の仕事ができないことを、他人のせいにしている。
私も、そうだ。もっと注意深く周りを見ていれば、何もないところでこけないし、嫌な人会わないですむかもしれない。
「あれ? 奥さん? あっ、川合の奥さんじゃない?」
そう。
こんな風に、わざとしい感じで話しかけられることはなかった。
私は、ぼうっとしていた。
日々のストレスへの葛藤のせいで、周りに注意を払うのを忘れていた。常在戦場。いかなる時でも、他人との関わりを極力なくすことこそが、よりよい安寧へと繋がると知っておきながら油断してしまった。
しかも、相手はいままで何度も面倒事を運んできた飯田さんだった。
同じ専業主婦で、たまに話す。
というか、一方的に話しかけられる。
「川合さん、どうしたの? こんなところで?」
「えっ、と……散歩、です」
嘘ではない。
家から出たくはなかったが、ずっと引きこもっていると心が沈んでいく。多少無理してでも日光を浴びて、新鮮な空気を吸った方が精神衛生上いいのだ。
マンションの近くあたりを、ブラブラと。
何の計画性もなく歩いていた。
私の好きな小説家が、ネタに困った時に何を一番するかという質問に、散歩、と答えていた。
運動。
特に、散歩は思考に没頭できる。考えをまとめることができるものとしてよく知られている。私も、最近のこのしんどい日常について思いをはせていたのだが、もっと散歩する場所を選べばよかった。
もっと、遠くにいけばよかった。
知り合いに会わないような、もっと遠くに。
「散歩? へぇー、なんだかずいぶんおばさんくさい趣味なんですねぇ」
これだ。
まったく冗談に聴こえない声色で、地味な先制パンチ。
いきなりこんな悪口がついてでるなんて、性格の悪さが滲み出ている。この人は、きっと、他人を貶すことが好きなのだろう。
心の内で思っているだけならまだいい。
私だって、いつだって他人を心の中で貶している。
だけど、わざわざ口に出して他人を否定するのはなんだろう。
私は、そういう人間のことを、大人になりきれていない子どものようなものだとしか思えない。
「あれ? もしかして気分を害しましたか? だったら、ごめーんなさーい」
「いえ、そんなことは……」
ま、まずい。
顔に出てしまっていのだろうか。
ここで嫌味の一つでも言ったりとか、そうですよー、とか冗談っぽく返答する。……そんな性格なら良かったのだが、私は目線を下に逸らして、適当な言葉しか言えない根性なしだ。
この人のように陰鬱な感じで愚痴を他人に吐き出したい。
もしくは、もっと明るくなりたい。
そうなることができれば、こんなに胃をキリキリさせなくてすむのに。
「ああ、私、あれなの。思ったことがすぐに言葉にでちゃうのよねー。でも、ためこむとストレスが溜まるじゃない? だったら吐き出した方がいいと思うの。それに、女の人の中には表では仲良しごっこして、裏ではこそこそ陰口を言う人がいるでしょ? そんな人に比べたら、私ってほんとうに立派だと思わない? ねぇ、ねぇ?」
「そ、そうですね。飯田さんはほんとうに……」
ほんとうに、クズだな、この人。――としか感想が浮かんでこない。
飯田さんは、とにかく自己承認欲求が強い人だ。
別に、それだけならいいのだが、私は偉いわよね、私は正しいわよねという確認が多い。
ふふん、そうでしょ、そうでしょ、と笑っているが、もしもここで否定すると、飯田さんの機嫌は相当悪くなる。
そこからなだめるのが、本当に大変なのだ。
今でもどうしようもない飯田さんのことを褒めるだけでウザイなーと思っているが、彼女のご機嫌取りをするのは三倍ぐらいウザイ。というか、ほんとうにつかれる。
この人は、自己肯定に人生をかけているといってもいいぐらい、執拗につっかかってくるのだ。
自分は悪口を言って、スッキリしている。
周りのことを批判しながら。
でも、この飯田さんも、否定している人達とそこまで変わらない気がする。
だって、一番偉いのは、一番いいのは、そもそも悪口を口に出さない人だ。
我慢するのが美徳だとは言わない。
自分の意見を出すなとも言わない。
けれど、他人を批判しても、それはただの自己満足でしかない。
たまに、これはあなたのためを思って言ってるのよ、と言う人がいる。
一番わかるやすくたとえるならば、教師が生徒に対して叱る時だ。
でも、経験上。
あなたのためなんて言う時は、自分のために行動している時なのだ。
私は、そんなごまかしが本当に嫌いだ。
飯田さんのように、ただの悪口を、さも高尚なことのように昇華させるようなことが嫌いなのだ。
自分が正しいと思い込むために、誰かを否定する。
それが一番手っ取り早くて、一番卑劣な行為。
そう思ってしまう。
「川合の奥さん――」
「あ、あの普通に川合でいいですから」
言いにくいだろうから、気を遣ってみる。
飯田さんは少しでも否定するとへそをまげるから怖かった。だけど、どうやら別にそこまで気にしていないらしく、
「あら、そう。じゃあ、川合さんって呼ぶわね」
普通に返答してくれた。
ああ、良かった。
マンションはすぐに噂が回る。
回覧板はすぐに回らないくせに、すぐにだ。
だから、敵を作りたくない。
普通、飯田さんのような人は、みんなの敵になりやすい性格をしているのだが、誰も飯田さんを責めない。
それは、何故か。
答えは簡単明瞭。
「川合さん。あなた、草野さんから嫌われてるって聴いたわよ。あなたが草野さんの悪口言ったせいよっ!」
これだ。
飯田さんの言った意味は分かったけれど、思わず口が半開きになる。
「は?」
私は、草野さんの悪口など言ったことなどない――はずだ。
そもそもそんな関わり合いがない。
関わり合いがないのに悪口なんてでるはずもない。
それなのに、草野さんの悪口を言ったことになっているのは、きっとこの人のせいだ。
そう。
この人は、いじめっ子なのだ。
小学生の時もいた。
誰かにいじめられるのが怖い。
だから、誰かに自分がいじめられる前に、他人をいじめるのだと。
タイトルを忘れてしまった少女漫画で、いじめられオーラ、という単語を観た気がするが、私はそのいじめられオーラが出ているのだろう。
昔から、私はこの手のいじめっ子に眼をつけられることが多い。
きっと、気弱で自発的に行動できないからだろう。
こういう、自分の臆病さを隠すために他人を傷つけることしかできない人に、よく眼をつけられる。
抵抗したい。
世間では、いじめられる方も悪い。
抵抗しないから、いじめられるのだ。
そう、言われる。
確かにそうだ。
だけど、抵抗したくてもできない。
言葉は通じない。
暴力で応じたとしても、すぐに泣く。
というか、こういう他人を平気で傷つける人は、逆に耐性がないのか、すぐに傷つくのだ。彼女と一言一句同じ言葉の刃で刺してみると、狂ったように叫びだす。泣き叫ぶ。
そういう人を見ると、哀れになる。
こんな人と同じところまで堕ちたくない。
誰かに傷つけられるのは我慢できる。
だけど、やっぱり、誰かを傷つけるのは我慢ならない。
「ひっどいわよねー。草野さんも、相変わらず融通がきかないというかなんというか。大丈夫よー。私はあなたの味方だから」
いいや、この人は私の敵だ。
悪口を言っていたのは、飯田さんだ。
飯田さんが、草野さんってこの前、朝のゴミだしの時に時間遅れてきたのよ? 信じられる? ほんとに社会のルールを守れないってひどくない? 常識を疑うわよね!? この前なんか、挨拶しても無視されたの、とか、なんとか言っていたので、私はあ、はい、ぐらいしか返さなかった。
きっと、それがだめだったのだろう。
適当に答えている私に腹が立ったのだろう。
だから、飯田さんは草野さんに告げ口したのだ。
こっちは、はい、としか言っていない。
だけど、それだけで言質はとったようなもの。
私は、確かに肯定してしまった。
だから、もしも草野さんに正面から詰め寄られてしまったら、否定できない。いや、できたかもしれないが、こうやって飯田さんに念押しされると、やりづらい。
この人は、ほんとうにクズなんだ。
だって、はいとしか返せなかった。
もしも、そうじゃないですよ、朝のゴミだしに遅れたのは草野さんがあなたと違って働いているからです。あそこはお金がなくて、共働き。だから、頑張り過ぎて、朝のゴミだしが遅れてしまったんです。それに、何回もゴミだしに遅れているわけじゃない。今まで一度もなかったから、今回ぐらいは見逃してあげてもいいじゃないですか。
とか。
挨拶したって、ちゃんとしたんですか? 遠くから声もかけずに手を振ったんじゃないですか? それをあなたが挨拶したっていいはっていて、たまたたま草野さんが気づかなかっただけじゃないんですか? そもそもあなたの挨拶を無視してなんか問題でもありますか? とか言いたいことは山ほどある。
だけど、そんなことを言えるわけがない。
女性同士の会話において、ノー、と言うのは厳禁。
とにかく肯定しかない。
それが分かっているこの人は、それを逆手に取っている。
だけど、この人に脳みそというものはちゃんと入っているのだろうか。
自分が悪口を言ったというのに、その悪口を言ったのは私にすりかえている。そしてきっと密告者はこの人のはずだ。
そういう、矛盾めいたことを平気でやるのが飯田さん。
胸糞悪いという言葉がしっくりくるぐらい、気分が悪い。
なんで、この人はここまで自分の価値を下げることができるのだろうか。
「いいたいことはそれだけ。それじゃあね」
あっさりと、それだけ言うと飯田さんはどこかへ行った。
何がしたかったのか。
私の傷つく姿を見たかっただけなのだろうか。
私には理解できないけれど、他人が傷つくのを見るだけで幸せになれる人種は確かに存在している。
飯田さんは、そういう類の人なのだろう。
とにかく引っ掻き回したかったのだろう。
きっと、これから。
私は、あの人のせいで、このご近所では腫れもの扱いされるだろう。たとえ、飯田さんの虚言だったとしても、一度悪いうわさが流れてしまったら、それを止めることなどできない。
私は草野さんの陰口を叩いた人間だと、周りから糾弾されることになる。
それなりに暮らしているせいで、このマンションの住人の行動パターンは把握できてしまっている。
どいつもこいつも、ちゃんと情報の正誤をまともに確認せずに、誰かを悪者にしたてあげることが好きなのだ。
間違った情報を拡散し続ける。
そして、人数を集めて、私を囲んで、草野さんに謝罪しろとか迫ってくるのだろう。
いや、別にここだけじゃない。
他の場所でもそうだった。
いつだって、こんなことばかり起こってしまう。
別に、草野さんのことが大切だからとか、そんな殊勝な理由で徒党を組むのではない。ただの野次馬根性だろうし、やっぱり、みんなで力を合わせて悪を倒す。それこそが正義の味方のやり方!
そんな、幼稚じみたことを、やりたいだけなのだ。
家でずっとこもっていると、そんなくだらいけれど刺激のあるものに惹かれてしまうのはしかたのないことなのかもしれない。
「あーあ。引っ越したいな……」
家を変えたとしても、この私が変わらない限りはどうにもならない。
私という人間性が死ななければ、どうしようもない。
それが分かっているのに、どうして私は、私なのだろうか。
こんなに苦しい毎日を送るぐらいだったら、せめて何も考えないでいられる私になりたかった。