6話
幸村の元服を目前に控えた真田邸はどこか浮き足だった雰囲気がある。
そこに乗ってやれないのが心苦しくもあったが、嫌いではない、祭り前のようなこの空気。
幸村もあれだけ練習したのだ、そうそう失敗もしないだろう。
さてこれが真田邸に足を運ぶ最後の機会かと、一秋はいつも通り男物をさらりと脱ぎ散らかして、女物の小袖に手を通しながら感慨深いものを感じる。
いつの間にかこの家で着るための服も増えた。
実家には男物は一着も存在しない。
山手が嬉々として揃えたもので、実子である幸村と同じ速度で増えていったそれら。
いつもより少し丁寧に畳んで、一秋は膝を揃えて少しばかり時間を置いた。
着替えて、出て行けばもう訪ねてくることもない。
案外楽しかったのだな、とこの屋敷に通っていた数年を思い返す。
思い出は多くある。
幸村と二人で屋敷を抜け出して無頼の輩に絡まれたとか。
同年代の少年達と取っ組み合いのケンカをしたとか。
佐助を罠にかけるのを楽しみにしていたのに、結局一度も引っかからなかったとか。
庭の木に登って枝を折ったこととか。
幸村と一緒に山手と佐助の説教を永遠と聞かされたこととか。
初めての乗馬で落馬したのは自分ではなく幸村の方だったとか。
屋敷の壁に落書きをして昌幸様に大目玉を食らったこととか。
風邪を引いて家にも帰れず山手様に看病してもらったこととか。
女の格好で街を彷徨いていた時に絡まれたのを助けてくれたのが偶然幸村だった事とか。
いまだに気付いていない幸村を佐助と二人で影で大笑いしたとか。
一秋は数え上げるのをやめた。
着慣れた男物の小袖をさっと返して一秋は山手の部屋を訪ねる。
穏やかな笑みで迎えてくれた彼女を一秋は「母様」と呼んだ。
「長い間、お世話になりました」
頭を下げる女性の肩に山手は手を乗せて頭を上げるように促す。
完璧な女性としての仕草は、それでも長く一秋を見てきた山手には違和感の残るものとなっていた。
細くとも長い手足には女性にはない固い筋肉が張り付いていることを知っていたし、着流しをたくし上げて手足を出したまま走り回っている彼と息子の姿は本当に微笑ましかった。
初めて会った時は一秋が男の子だというのは自分の早とちりかと思う程に彼は可愛らしい娘の姿をしていて、だが動きにくい着物を脱いで身軽になった彼は人形のような整った顔を紅潮させて笑った。
やはり可愛いとしか形容のしようがない笑みだったが、それでも喜びが伝わってきて、その時に山手は思ったのだ。
ああ、この子は随分と窮屈な思いをしてきたのだろう。
せめてこの家では自由でいて欲しい。
そう思って過ごした時間はもう幾年にもなる。
幸村と同じように情を注ぐようになったのは自然なこと。
「もう決めたのですか?」
この後のことを。
そう問えば一秋は苦笑して首を振った。
美しい顔はあの産みの母に良く似て、色素の薄い儚げな印象を抱かせる。
だがそれは彼の本質ではない。
「山手様にはここまで猶予を頂きました。」
先延ばしにする時間を彼女には多くもらった。
感謝をしている。
だがそろそろ甘えてばかりもいられないと、一秋の目にはいつの間にか優しげな笑みの中に確かな意志が揺らめくようになった。
山手が夫やその家臣達、大人の男たちに見るもの。
幸村が元服するように、彼もそんな儀式を経ずとも大人への階段を上っていたのだろう。
全身で甘え倒してきた子供時代は終わり、寄りかかることをやめて、自分の足で歩く。
それを寂しくも思ったが山手ははっきりと返した。
「あなたの人生です、お好きになさい」
山手の言葉は突き放す言葉ではなく、容認する言葉だった。
一秋はもとより、生みの母親に甘えることなど出来なかっただろう。
そして今は自分も寄りかかるには頼りない者になり、守られる者へとなってしまった。
もう自分に一秋にしてやれることは背中を押してやることくらい。
「…はい」
感謝というものは湧き上がるものなのだと一秋は山手の言葉に小さな微笑みを浮かべた。
一秋はかつて、女の性を持ち、女として生きた「ゆら」の時代を思い出す。
あの頃、こんな風に自分の人生を考えたことがあっただろうか。
選択を迫られたことがあっただろうか。
あったのかもしれない。
だがそれら全てから「ゆら」は逃げた。
逃げることが可能な選択であり、可能な時代であり、それが当たり前の世界だった。
「わたくしにとってあなたは、良き息子であり、良き娘でありましたよ」
男か女かと問われれば男だと答えよう。
だが、彼女にそう言われることは苦痛でもなく、嬉しくすらあった。
それは山手の意思表示。
一秋がどちらの人生を選んでも、山手にとって一秋は一秋なのだと。
「母さま」
ふらふらと生きていたあの世界にはこうして本当に自分を信じてくれる人はいただろうか。
自分が何者であろうとも受け入れてくれる人は。
きっと居ただろう。
自分が気付かなかっただけ。
自分は自分のものと思い、傲慢にも煩わしいと手を振り払ってきたのだ。
「幸村に挨拶はしましたか?」
「いいえ、どうも気付いてもいなかったようなので。元服を控えたこの時にわざわざ心を乱すことを言う必要もないかと」
「…あらあら」
山手が穏やかながら呆れた声を上げた。
「気付いた時の荒れ様が見えるようだわ…」
頬に手を添えて山手が困ったように笑う。
一秋はそれにあわせて苦笑した。
「あの子、あなたが一生傍にいるものだと思ってるから」
そう思わせたのは自分だという自覚があるので、一秋としては何とも返しようがない。
これだけ長く共にいたのだ、幸村の中での自分の存在の大きさを一秋はそれなりに理解しているつもりだった。
「男として生きるならあなたは幸村の一の家臣となりましょう」
横谷は今も真田の重鎮だ。
それを継ぐのなら当然そうなるのだろう。
だがなぜ突然そんな話を?
一秋がわからずにいるのを悟っているのだろうに、山手は悪戯を考えついたような顔で無邪気に提案してきた。
「もし女として生きる時は、ねえ、あの子に嫁がない?」
一秋が言葉を失うのは珍しい。
ぎょっとして想定外の言葉に山手をまじまじと見てしまった。
大変申し訳ないことに正直「山手様の頭は大丈夫だろうか」とまで心配した。
「あの、私は一応女のなりをしていても中身は男なのですが」
「知ってるわ」
さらりと流されてしまった。
こういう所が幸村の母だと断言せざるを得ない。
時々無邪気な顔で突飛すぎる事を口にして一秋を驚かせる。
しかもこう言う時、大体が本気なのだからたちが悪い。
せめて真面目に否定しようと一秋は問題点を提起した。
「男には子供が生めません。血筋を考えると少々マズイかと」
「そんなもの、幸村の兄がいます。幸村に子が出来ずとも問題はありますまい」
大ありだと思います。
幸村、お前の健全で平凡な人生が実母の手によって消されようとしているぞ!!
思わず幼馴染みに警告の念を送ってしまった。
「いい案だと思わない?」
「…それではあまりにも幸村が哀れかと」
「そんなことないわよ、だってあの子あなたのことが大好きなのよ?そうすればずっと一緒にいられるんだから喜ぶわ」
それは穿ち過ぎかと存じますぞ、母上!
大体夫婦というのは愛情で成り立つもので、幸村と自分の間にあるのは友情、そこの所をぜひとも吟味して頂きたい。
「わたくしもずっとあなたに『母さま』と呼んでもらえるし」
ふふと最後に囁かれた言葉に一秋は目を見張った。
それが彼女の本音らしい。
寂しいのだと言ってくれている。
それが分かって一秋は目元を和らげる。
「では考えておきましょう」
譲歩して、山手がぱっと喜ぶ顔を眺めた。
もしかしたら見るのは最後になるかもしれない顔だ。
挨拶をしめやかに。
真田邸を辞して横谷の別宅に帰る。
生みの母がいる家。
「帰ったの?一秋」
「はい、ただいま戻りました」
幽鬼のような声だ。
山手に会った後では余計にそう感じる。
家に引きこもって、屋敷を出ることもない。
白く、細い母の手が障子をゆるりと開ける。
男に生まれてよかったと、そんな時思う。
こんな風に大人しく閉じ込められて過ごすのは自由に動き回ることを知ってしまった自分には苦痛でしかない。
例えば、と考えてみる。
最初から女として生まれていたら。
あるいは幸村と出会うことがなかったなら。
待っていたのは母とこの暗い部屋で過ごす毎日だけだったはずだ。
そう考えてみると幸村達と過ごしたあの時間がひどく輝いて見えた。
自由。
そう、自由というならあれをそう言うのだろう。
禁じられていることも、強制されることも多くあったのに、一秋はそう思う。
前世で過ごしたあの世界は、何も気付かないまま死んでしまったけど今なら思う、とても息苦しかった、と。
この世界で母と過ごす時間は同じように苦痛だった。
何でもない振りで、なのに自由を知った。
知らされた。
そうすれば「ゆら」の全ての記憶に感情が生まれる。
ああ、あれは辛かったの。
あれは苦しかったの。
あれはうれしかったの。
あれは、楽しかったのね。
消化する。
昇華する。
かつての記憶が遠い日の霞んだ記憶に。
死に往く誰もが未練を持つ。
何一つ持たない自分にも。
流され生きた自分にも、未練はあった。
自分には何も残っていないという、それこそが未練だった。
だから今も前世の記憶があるのだろう。
あの無念がこの命にこびり付いているのだ。
置き去りにされた感情がひらひらと舞い戻り、やがてどこか一秋の心の深い場所に落ちて沈んだ。
「初めは、ただ興味本位で見届けるだけのつもりだったんだけどな」
見たことのない珍しい人間だったから。
真っ直ぐで無邪気で、疑うことも隠すことも知らない、自分とはまるで正反対の人間。
「すごい影響力だな、幸村」
幼馴染みの名を呟いて思わず笑った。
彼の名は、口にすると冷たい感情を浚うようにぼんやりと温もりを灯らせる。
おかしなことだ。
いつの間にか、感情を植え付けられて、情緒とやらを育てられてしまったらしい。
くしゃりと一秋は前髪を混ぜる。
一番楽しかったことは何だろう。
答えは簡単に出る。
あいつ。
幸村の隣。
あそこはとても居心地がよかった。
「一秋?」
母が呼ぶ。
選べる選択肢は最初一つだった。
やがて別の道ができて、二つになった。
常識的に考えて、選ぶ道は決まってないか?
冷たい牢獄の中から見る、対岸には太陽。
あの世界も、この世界も、ゆらにとっても一秋にとっても、風景はいつも同じ灰色。
心は鈍く、曖昧で、動くことを忘れて久しい。
一つだけ。
色がある。
光が差す。
心の灯る時間、そこにはいつも猪突猛進しかしない馬鹿な幼馴染みがいた。
ただ真っ直ぐ。
視線も、心も、生き方も。
馬鹿正直で愚直なまでに素直な彼を、一秋は別の生き物だとすら思っていた。
興味を抱いたのは必然。
そしてかつて思った。
『行く末を見届けるのも悪くない』
一秋は顔を上げる。
そうだ。
それが意味だ。
突然閃いたように、一秋は悟る。
それが、夢だ。
俺がゆらとして生きて、一秋として生まれ、過ごした日々でただ一つ、やりたいと望んだこと。
肩の力が抜けて、脱力するように息を吐いた。
なんだ、そんなことか。
それだけのことか。
ならやることは一つ。
道も一つ。
一秋は吹っ切ったように、そして最後ににやりと笑った。
「一秋?どうしたのです、具合でも悪いのですか?」
優しく響く声は一秋を繋ぐ鎖だった。
だが、もう長いこと彼女を「母」とは呼んでいない。
そして一秋は何かを絶ち切るように勢い良く彼女を振り返った。
とても気分が良い。
急に軽くなったような肩が清々しくて、今なら何でも出来るだろうと思った。
そうして久々に彼女を「母」と呼んだ。
「母上!」
突然の声に驚いたように母が目を見張った。
もしかしたら女を演じる時には自然になってしまった少し高い声ではなく、自然な声だったからかもしれない。
彼女は自分の本当の声すら、きっと知らなかったのだろうと思うと少しだけ笑えた。
母よ、私はこんなにも、いつの間にか男になったのです。
体は骨張り、筋肉はしなやかなで、声すら低くなって、背も伸びました。
ばさりと女物の小袖を脱ぎ捨てた。
「私は、いえ、『俺』はこれから父に会いに行きます」
晴れ晴れと宣言する。
「…突然何を?父上に会いたいのならば触れを出します。誰の目にもつかないように配慮してもらわねば」
「いいえ、必要ありません」
はっきりと口にした。
いつものたおやかな口ぶりを忘れたように話すわが子に母は眉根を寄せる。
「一秋?」
「母上、俺は今日から横谷一秋になります。」
『横谷』一秋に。
今までもそう名乗ってきた。
だが母は正確に言葉の意味を理解して喉を引きつらせる。
母が息を吸い込んで、何かを叫ぼうとするのを視界の端に捉えて、それでも一秋は踵を返した。
半狂乱の声が背中を叩く。
男として生きることは、彼女を捨てることと同義。
悪意でもなく、敵意でもなく、ただ愛情で、彼女は「一秋」を殺し続けてきた。
「俺は往きます」
あなたを置いて。
あなたへの感謝も情も、全てここに置いて。
「さよなら」
「一秋!待って、母を一人にするつもりなのですか!」
別れの言葉は軽く、羽のように呆気ない。
そしてそれ以降の言葉を一秋は聞く耳は持たない。
「あなたのためだけに生きてきたわたくしを!?」
振り返らず、一秋は鼻歌を歌う。
世界はとても美しい。
あの眩しい魂があるから。
「あなたをたった一人で育ててきたわたくしを!?」
母の台詞には否定も反論も浮かばない。
なぜなら一秋にはその言葉は聞こえていない。
言葉を吟味する意味すら見いださない。
一秋にとって、彼女はもうどうでもいい存在。
死んでいるのと同義語。
たったの一瞬で、そこまで貶められた自身の存在を彼女は必死に叫ぶ。
「こんな牢獄に母をひとり残して往くと、あなたは言うのですか!!」
金切り声も耳に残さず、一秋は亡き母が幽鬼のように住まう屋敷を後にする。
心は痛まない。
とても昔にね、鈍ってしまったんだよ、母上。
だから必要なんだ。
あの太陽が。
俺は光の道を歩こう。
どうすれば光の道を往けるのか、俺にはわからないけど。
幸村、きっとお前の行く道が「そう」なんだろう。
ならばお前の傍にいれば同じ光の道を歩けるはずだ。
だから。
誰にも憚らず。
一秋は一秋になるのだ。
あの場所に帰るために。
「一秋――――――!!!」
妄執を込めた声が一秋を呼ぶ。
一度だけ、母の声を記憶に残すために耳を傾けた。
そして一秋はもはやそれを笑いとばす。
怨念のこもるような自分の名。
心に残す母の思い出にそれを選んで一秋は満足した。
哀れな人。
あなたはこの暗闇で生きればいい。
「わたくしが生んだのは鬼子であったか!!知らず愛を注いだわたくしの愚かさのなんと口惜しいことか!」
一秋は首を傾げた。
おかしなことだ。
やっとろくでなしを卒業したと思ったのに。
実際はそうでもないのだろうか。
どうでもいいことかと一秋はすぐに忘れる。
死んだ女の言葉など気に止めることでもない。
風を受けて細く軽い髪がなびいた。
視界に映り込んだ色素の薄い茶色に鮮烈に胸を突かれる。
この髪が好きだと言った、太陽のようなあの男に会いたい。
とても顔が見たい。
分かり易すぎる感情を素直に表すあの顔。
馬鹿でかくてはた迷惑な、あの声が聞きたい。
子供かと疑う程に高い熱を湛えたあの手に触れたい。
名を、呼んでさえくれればこの鈍色の心はきっと色付く。
だから行く。
一秋は歩き出した。
暗い部屋ではなく、重い着物を羽織るのではなく、あの炎と共にこの国を駆けるために。
一人称挫折回。