23時24分
鮫太郎は驚いていた。
今目の前にいる真紀が、さっきまで瞬さんの傍でクネクネしていたあの真紀とは別人のように悠然として、鮫太郎を先導しているからである。分岐点に差し掛かれば直感で進路を決め、こちらの質問にはロジカルに返答してくる。最早、別人としか思えなかった。これが二重人格か……?
「あ、あったよほら、二階の消火栓!」
曲がりくねった廊下の途中、真紀が指差した先には、確かに消火栓が見えた。二階に上がってからも結構歩き回らされたが、これでようやく三階を目指せるってことか。二人で並んで、その消火栓をスマホのカメラに収めた。
「次は三階か……あれ、圏外になってるね……」
真紀に言われて改めてスマホの液晶画面を見てみると、確かにこちらの画面にも圏外と表示されていた。おかしい……島についてからもずっと、普通に使えていたはずなのに。
「俺のもです……どうしたんでしょうね」
「何だろうね……ま、いいや。階段を探そう?」
先を急ぐ真紀の足音が、コツコツと廊下に響き渡る。俺も慌てて後を追った。
「二重人格……」
俺がその言葉を口にすると、前を歩く真紀の足音のリズムが一瞬崩れた。
「真紀さんって、二重人格なんですよね?」
「……小雨から聞いたの?」
真紀は、そのまま歩きながら答えた。既に、足音は元の速さに戻っている。
「いえ……俺ね、妙に気になって、調べたんですよ。あの事件……姉貴と、瞬さんと真紀さんが巻き込まれた、袴田っていう大学生が死んだ事件のこと……」
「事件……? 自殺と発表されているはずよ。そんな事、どこで調べたの?」
「掲示板があるんですよ、匿名の……報道されない怪事件に関する噂話が書きこまれる掲示板が。そこ、たまに警察関係者からのリーク情報もあったりするんです。で、そこに書いてあったんですよ……二重人格の美少女が、実は密室の謎を解いていた、って」
真紀はようやく足を止め、こちらを振り向いて照れ笑いした。
「え、そうなの? ……参ったなあ。そんな、もう美少女っていう年じゃないんだけど……誰だろう、里見さんかしら……まったく、そんな重要事項を簡単に漏らすなんて、情報管理はどうなってるのかしらね」
「さっきまでの、瞬さん達と一緒にいた時の真紀さんと、今のあなたを見て、確信しました。明晰な頭脳で密室殺人のトリックを暴いた二重人格の美少女、それはあなたの事だ、って」
一段声を低くして、一語一句押し出すように言った――すると、何がおかしいのか、真紀は突然ぷっ、と吹き出して、ふふふ、と声を出して笑い始めた。
「どうしたの鮫太郎くん、そんな真剣な顔して……ふふふ、これはね、違うの。そう、強いて言えば、小雨の弟くんを預かっちゃったもんだから、保護者としてしっかりしなきゃ、みたいな……私は、鮫太郎くんが知ってる私のままだよ」
「えっ、でも……」
真紀は朗らかに笑っている。まるで、再び人格が切り替わったかのように明るく。
「そっかぁ、私、そんなに違うのかぁ……ふふふ。きっと、鮫太郎くんがもう少し大人になって、素敵な彼女ができたら、わかるはずよ」
「じ、じゃあ、あの事件を解いたのは……」
「あれはね、もう一人の私。私なんかよりずっと賢いの」
そう言うと、真紀は再びコツコツと歩き出す。
「ま、待ってください! 俺……将来、臨床心理士とか、そういう職業に就きたいと思ってるんです。人の心に興味があって……それで、その、二重人格っていうの、もっとよく知りたいんです」
「それはいい心がけだと思うけど……私は、普通の二重人格とはちょっと違うから、あんまり参考にはならないと思うわ。それに、相手の同意を得ずにそういう事を聞いちゃいけないんじゃなかったかしら? ましてや、私は患者でもクライアントでもない」
真紀の背中がどんどん遠ざかっていく。早歩きをして、なんとか追いついた。
「で、では、そんな事は抜きにして……純粋に、僕はあなたに興味があるんです」
自分でも気付かぬうちに、声が大きくなっていた。会話のためだけにこんなに必死になったのは初めてかもしれない。
「申し訳ないけれど、そういう事だったら、私は応えられない」
「二重人格というからには、元々あった人格と、後から作られた人格とがあるわけですよね? ――あなたは、今ここにいるあなたは、どっちなんですか?」
こめかみのあたりを押さえながら振り返った真紀の表情は、明らかに不愉快そうだった。眦を吊り上げた大きな瞳が真っすぐに、俺の顔を睨み付けている。
ああ……いい目だ。
ゾクゾクと恍惚がこみ上げてきた。
「鮫太郎くん……私は、答えたくないという意思表示をしたつもりだったのだけれど、伝わらなかったかしら?」
子供を叱るような、厳しい声音だ。しかし、俺はそんな事では怯まない。
「あなた、もしくはもう一つの人格は、何のために、どうやって作られたんですか? ――あなたのコンプレックス、家庭環境、トラウマ……どこに起因したものですか?」
「もう、いい加減に……痛ッ……」
真紀は突然、こめかみを押さえたまま顔を顰めた。
このまま、もっとたたみかけてみようか……と思ったその時だった。
真紀の背後、廊下の向こう側から、誰かが歩いてくる。
懐中電灯を向けると、それは映画で見たことのあるジェイソンのようなマスクを被り、手斧を握った人間の姿だった。
そいつは、俺達の姿を見つけるや否や、手斧を振り上げてこちらへ走ってきた。
「何だ、あいつは……真紀さん! しっかりして! 逃げますよ!」
「えっ、何……? はっ、何あれ?」
俺一人なら何とか応戦できるかもしれないが、真紀に万が一の事があってはいけない。そう判断した俺は、真紀の手を引いて一目散に逃げた。しかし、彼女は頭痛が酷いのか、うまく走ることができない。可能な限り急いで走ったものの、背後から追ってくる奴の姿はみるみる内に遠ざかり……
遠ざかり……?
ん?
さっきまで俺達を追いかけていたその怪人は、いつの間にか手斧を足元に放り投げて立ち止まり、膝に手を当てた姿勢で屈んでいる。よく見ると、身長は俺や真紀よりもだいぶ低い。150センチか、或いはそれ未満かもしれない。俺は、まだ頭を押さえながらヨロヨロしている真紀の手を離し、その怪人に近付いて行った。
「この斧、小さい割には重いんだもん……ふぅ、ダメだなあ。私もすっかりおばちゃんだね」
小さな怪人が仮面を外すと、その下からは、あのチビ――福田明美の顔が現れた。
「ごめんね、脅かしちゃって……でも、肝試しなんだから、これぐらいの刺激は必要よね」
明美はそう言うと、にっこりと微笑んだ。ぱっちりした目と求心顔で、リスのような印象を受ける。近くで見ると、それなりに美人だ。
「福田さん……ですよね、リーダーの彼女の……」
「そう、和彦もね、きっとどこかで誰かを脅かしてると思うんだけど……、あ、これは言っちゃいけなかったかな?」
「その斧は、どうしたんですか?」
俺は、明美の足元に転がっている手斧を指差した。
「ああ、これね。実は、事前に和彦がこっそり運び込んでおいたのよ。幽霊なんて出ないんだし、これぐらいのスリルは必要だろって、斧とか、仮面とか……」
なるほど。多分、俺が寝ている間に運び込んだんだろうな、と合点がいった。
「えっと、たしか、京谷さんの弟さんだよね?」
「あっ、ハイ、鮫太郎っていいます!」
明るく答えて、愛想笑いをして見せた。こうするだけで大抵の人間とは打ち解けられるのだから、お安いものだ。
「君、背おっきいね~! 和彦と同じぐらいあるかも……今何歳?」
「16です! 高校一年です」
「うっわぁ、若いなあ~。あ、じゃあこんな時間に外ウロウロしてちゃいけない年だよね? ごめんねぇ、そんなところまで気が回らなくて……」
「いえいえ、いいんすよ。俺、夜型だし」
「へええ~、その顔で夜型か……きっと君は将来、女泣かせになるなぁ」
「いやぁ、はははっ、そんな……止してくださいよぉ」
「あたしの元彼もイケメンでさぁ、随分泣かされたわよ~」
女ってやつはどうしてこう、聞いてもいない事をぺちゃくちゃ話すんだろう。返事に困っていると、明美は急に辺りをきょろきょろと見回し始めた。
「あれ……? 西野園さん、どこ……?」
「えっ?」
俺も慌てて周囲を見渡した。
明美以外に、人の姿は見当たらない。真紀の姿はどこにもなかった。
ここまで随分時間がかかりましたが、ようやく話が進められます……。