22時19分
数メートル先に、三方向に伸びた分かれ道があった。今入ってきた通用口は、正五角形の頂点に当たる位置のようだ。
左右にそれぞれ斜めに伸びた通路と、正面の長い通路。左右に伸びた通路は、どうやら外周に沿って伸びていて、正面の通路は対角線の方向に伸びている。真紀は、先程歩いて確かめた図形のイメージに目の前の通路の形状を当てはめ、直感で左を選んだ。
「鮫太郎くん、こっち」
「あ、あっ、はい……」
声をかけると、鮫太郎くんも慌てて後をついて来た。
さっきのジェスチャーは、うさぎを表したものだった。うさぎと言えば寂しがり屋。つまり、寂しいという意味だ。瞬は頷いていたけれど、本当にちゃんと伝わっているか、少し不安だった。なんかまたバカな事をやっているな、と笑ったのかもしれない。
通路の左側、つまり外側には、ずっと牢屋が並んでいる。外側にずらっと牢屋が並び、内側に何らかの施設がある、という構造をイメージした。そうなると、消火栓はこの階の中央部か。
とりあえず中央部の方向へ折れる小さな通路を見つけて、そこに入る。通路の左右両側にはいくつかドアが並んでいて、一通り開けてみたものの、資料庫だったり休憩スペースだったりで、なかなか消火栓は見つからない。いくつかの分かれ道をスルーしてどんどん直進して行ったのだが、何度か道を折れたところで行き止まりになってしまった。
仕方なく引き返す事にしたが、既に自分たちが今、一階のどの辺りにいるのかさっぱり見当がつかない。
正五角形の建物というだけでも方向感覚を失いやすいのに、中央部へ入ると通路が斜めに分岐していたり、中途半端な角度で折れ曲がったりしていて、正に迷路のような状態だった。囚人の脱走を防ぐために複雑な構造にしたのだと推測されるが、これでは職員の方も大変だったのではないかしら……と、同情の念を禁じ得ない。御手洗を探すのさえ大変そうである。
ずっと黙って私の後について歩いてきた鮫太郎くんが、急に話しかけてきた。
「真紀さんは、幽霊の存在を信じますか?」
「う~ん……絶対いる、とまでは思わないけど、もしかしたらいるかもしれない、ぐらいには思っているよ」
「俺は、全く信じてません。人間、死んだら終わりだと思いますよ。死語の世界とか、幽霊とか、そんなのは生きている人間の願望です。死んだら終わりだなんて思いたくないという願望。もしくは、死んだ人に対して、生きている人間が感じている後悔や罪悪感。そういった感情が生み出した幻想です」
「へえ、結構現実主義なんだね」
小雨はテレビの心霊特集を見てびびったりしていたから、その点については見解が違いそうだ。そういえば、このテーマについて瞬とじっくり話したことはなかった。今度、水を向けてみようか。
「そう、結局、テレビやなんかで騒ぎ立てられる心霊現象や霊能力者っていう奴らは、そういう人間の心の弱さを利用しているだけなんですよ。幽霊なんて、いない」
鮫太郎くんが熱弁をふるっている。流石に若いな、と思う。
「存在するか、しないか、って考える前に、まず幽霊とは何なのかを定義しなければいけないんじゃないかな?」
「幽霊の……定義?」
首を傾げて鸚鵡返しする鮫太郎くん。反論が来るなんて思ってもみなかったという様子だ。
「何だかわからないものを、存在するかしないか、なんて言えないわ。存在しない事を証明できなければ、存在しないとは断定できない。存在するかもしれない。それが正しい答えだと、私は思う」
「は、はあ、なるほど……」
そういえば、この事を『悪魔の証明』というんだったな……何とも意味深というか、示唆的ではないか。
「幽霊とは何か……死んだ人間の残留思念? 或いは霊魂……或いは、死ぬ寸前に幽体離脱した人間の思念体。いえ、もしかしたら、本当はそんな霊的存在ではなくて、もっと物理的な存在なのかもしれない。知ってる? 人間の脳を含めた神経活動は、電気信号によって行われているの。だから例えば、その信号パターンが大気中に存在する電気や電流に何らかの形で流れていくのかもしれない。そして、その電波のようなものを受信した人が霊を見るのよ。その感度にはラジオみたいに個人差があるから、見える人と見えない人とで分かれてしまう。私達人間がその仕組みをまだ解明できていないだけで、もしかしたら、いつかは幽霊の存在を科学的に証明できる日が来るかもしれないわ。ガリレオが生まれてから地球が回り始めたわけではないのだから」
鮫太郎くんは、口をポカンと開けている。勿論、本気でこんな事を考えているわけではないのだが、幽霊の存在を否定する事が知性的で、信じる者はバカであるというような風潮は、あまり好きではない。人それぞれ、信じたいものはあってもいいと思っている。だから、何となくカウンターを放ってみたくなったのだ。デタラメっぷりが瞬みたいだな……と思って、危うく吹き出しそうになった。
「いずれにしても、科学的に証明できるか否か、という事だけで、宗教や土着信仰、幽霊や妖怪、悪魔の存在といったものを全否定するのは、つまらない事だと私は思うの。どうかしら?」
「……は、はあ、仰る通りかもしれませんね……」
実のところ、真紀は幽霊なんかよりも生きている人間の方がよっぽど恐ろしいと思っている。
例えば、斎藤さんや鹿島さんのようにねめつけるような視線を送ってくる女性達。それに、菅山さんや松野さんのようにギラギラした目で近寄ってくる男性達。慣れてしまったとはいえ、その執念のようなものには、未だに空恐ろしいものを感じてしまう。
テレビや雑誌などを参考にして、なるべく多くの人に好かれるように自分なりに立ち振る舞いを研究して演じているつもりだったのだが、どういうわけか、結果として大体の女性には嫉まれてしまう。そして、今となっては瞬以外の男性に好意を持たれても迷惑でしかないので、最早このスタイルにもデメリットしかなくなってしまったようにも思える。かと言って、他にどう振る舞えばいいのかもわからないし、今更すぐには変えられない。それが最近の悩みだった。
そんな事を考えながらも、無意識のうちにアヒル口を作ってしまっているのだ。狙って作っているうちに、癖になってしまった。もう、これはどうしようもないかもしれないと、半ば諦め始めている。
あてもなく歩き回っているうちに、幸運にも、前方にアンティークな消火栓が見えてきた。
「あ、ほら鮫太郎くん、あれあれ!」
「おおっ……まず一つ目ですね!」
私と鮫太郎くんは急いでスマホを取り出し、シャッターを切った。
そういえば、結構あちこち歩き回ったはずなのに、他の参加者と全く遭遇しなかった。他のペアは、もっと早く見つけて二階に上がってしまったのだろうか。瞬と小雨は今頃どの辺りにいるのかしら……。
小雨は鮫太郎くんの事を残念イケメン扱いしていたけれど、なかなかどうして、彼は女の子が放っておかないタイプだと思う。明るいし、人当たりも良さそうだ。
それなのに、何故だろう……彼に初めて会って、握手を交わした時に一瞬だけ、鳥肌というか悪寒というか……うすら寒い感覚を覚えたのだ。
いや、これはきっと、単なる気のせい。なんたって、彼は小雨の弟なのだから。
ここからタイトルの時刻が細かくなっていきますが、あまり深い意味はありません。