19時
荷物を一通り運び終えて、瞬も一息ついていた。
どうしてこんなに荷物があるのだろうと思っていたが、キャンプファイヤーの道具が大物だった。その他にも、鋸やチェーンソー、手斧……これは薪を調達するためのものだろう。明日は、これで焚火でもするつもりなのかもしれない。
先輩達と鮫ちゃんは、そのままプレハブ小屋に戻っていった。俺もそうしようかな……と思いつつ、何気なく辺りの風景を見回した。収容所が暗闇の中で、黒々とした威容を誇っている。収容所の周辺にもいくつか建物が点在しており、さらにその建物の周囲を囲むように黒い森が広がっていた。
ついさっきまで美しい夕陽がよく見渡せていたはずの空に、いつのまにか低い雲が垂れ込め、月の輪郭を滲ませている。今夜は満月だった。満月の夜には事件が増える……そんな、信じてもいないオカルト話を急に思い出した。まさか……。
突然ひゅぅ、と冷たい風が吹いて、体がブルリと震えた。急にストーブが恋しくなって、小屋に足を向けかけたところで、もう片方の小屋からこちらに歩いてくる人影を認めた。
「瞬、今ヒマ?」
真紀の声だ。一歩ずつ足元を確かめるように踏み出しながら、こちらに歩いて来るのが見えた。
「ああ、少し休憩しようかと思ってたところだよ」
「あら……じゃあ、お邪魔しちゃったかな?」
顔が見える距離まで近づいてきた。化粧をしている、いつもの真紀だった。
「いや、全然、大丈夫。特にする事ないし……どうした?」
そう答えた時の彼女は、心なしか嬉しそうに見えた。既に、吐く息が白くなっている。暖かそうなコートを着込んでいるとはいえ、相変わらずミニスカート姿の彼女が少し心配になった。
「もしよかったら、あの収容所の周りをちょっと一緒に見て回りたいな、と思ったんだけど……」
よく見ると、その手には懐中電灯が握られている。
「ああ、構わないよ。――廃墟に興味があったなんて、意外だな」
「え? ええ、うん……実はね、そうなの」
若干不自然な返事だったような気もしたが、まあいいか。
「じゃあ、行こう」
それからすぐに俺と真紀は、収容所へ向かう緩やかな坂道を登り始めた。
舗装されていない土の坂道で、ヒールの高いブーツを履いている真紀はかなり登りづらそうに歩いている。俺が手を貸すと、彼女は腕にしがみつくように体を寄せてきた。ふわりと甘い香りが漂ってくる。
坂を登りきってまず目に入ってきたのは、三、四メートルはあろうかという、有刺鉄線が張り巡らされたフェンスだった。収容所やその周辺の建物、敷地全体を囲むように聳え立っている。坂道からまっすぐに伸びる道路の正面には、ゲートのような大きな門が開け放たれているのが見えた。まるで、巨大な化け物がぽっかりと口を開けているかのように、黒々と……。
ゲートをくぐると、そこから先は道路が広く、大通りのようになっていた。通り沿いに四、五軒ほどの大きな建物が並んでいる。一番手前の建物には、錆びついた古い看板がいくつか掲げられていて、恐らくかつては、種々の雑貨を扱う商店だったと見える。ガラス窓から中を覗いてみると、棚にはレトロな品物がいくつか、埃にまみれながら残っている。ドロップの缶のような、手の平ほどの大きさの四角い缶が並んでいるのが見えた。
『軽食・喫茶』という看板がかかった、食堂のような佇まいの建物もあった。店先には、木製の朽ちかけたテーブルやイスが並べられている。メニューが書かれた立て看板もあったが、インクが滲んでいて、文字は判別できなかった。
通りの裏手には、民家らしき小さな建物が並んでいる。玄関脇のポストにはボロボロになった新聞が押し込まれ、軒下には洗濯竿、家の前には古びた自転車がひっそりと立てかけられていた。
収容所のイメージとはかけ離れた、生活感のある風景が広がっている。勿論、陸地と隔てられているのだから、島にもこうしたものは必要だったのだろう。それにしても、あまりにも長閑な風景に違和感を拭えない。
周囲を懐中電灯で照らしながら、そのまま真っすぐに通りを歩いていくと、いつの間にか収容所の目の前に辿り着いていた。
黒々と屹立しているように見えた収容所だったが、外壁は意外にも白かった。漆喰の壁に、あみだくじのような大きな罅が入っている。玄関の扉のグレーの塗装がところどころ剥げ落ち、赤茶色に錆びているのが見えた。
「やっぱり、寒いね……」
ぽつりと呟いた真紀の声が、ぼわんと響いたように感じられた。。風の音さえ聞こえない、完全な静寂。足元を見ると、枯れた雑草が地面を覆っている。全てが静止している世界。まるで写真や絵画の中に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。
収容所の前の道路は一応舗装されていて歩きやすくなっていたのだが、真紀はまだ腕を離そうとしない。左腕を抱く力はむしろ強くなっている。まるで彼女だけが、時間と熱量を持ち、この空間を現世に繋ぎ止めている存在であるかのように感じられた。
そのまま、収容所の周囲を反時計回りに歩いていくことにした。枯草がサクサクと音を立てる。高さや窓の数から見て、五階建てぐらいだろうか。鉄格子の嵌められたはめ殺しの窓が、等間隔で並んでいた。何か所かガラスが割れているものもあったが、当然、人の出入りは不可能だろう。
「五角形……」
角を二つ通り過ぎたところで、真紀がぽつりと呟いた。
「ん? 五角形……?」
「うん、この収容所、上から見たら、きっと正五角形になっているわ……」
「正五角形の収容所か……」
「歩きながら、建物の角の角度を見ててね、それが直角じゃない事に気付いて……目測しながらイメージしてみたの。きっと、正五角形だと思う」
正五角形……確か、一つの角が108度だったか。そんな事は、全く気にも留めていなかった。
「よくそんな所まで気が付くね、真紀は……」
「もっと誉めて誉めて♡」
たちまち満面の笑顔になった真紀が、その場で小さく跳ねる。
「えらいえらい。賢い、天才!」
「ふふふ~~ん、なでなでは?」
少々照れくさかったが、右手で真紀の頭をポンポン、と撫でてやった。
「ありがとう……ちょっと、バカみたいって思ったでしょ?」
「まあ、ちょっとな」
そこでしばらく、会話が途切れた。
「正五角形……そういえば、逆五芒星って、西洋では悪魔のシンボルとされているらしいな。知ってる?」
「ううん、初耳……」
真紀はゆるゆると首を振りながら答えた。
「バフォメット……悪魔の山羊。山羊の頭をした悪魔と、よく組み合わせて使われる。一方で、日本の陰陽道では、五芒星を魔除けの呪符として使っているんだ」
「へぇぇ……物知りなんだね、瞬は」
実を言うと、オカルトにはあまり興味がないし、たまたま知っていた雑学みたいなものだ。
「図形を逆さまにするだけで、それぞれが全く逆の意味になってしまうなんて、意味深だよな」
「そうね……確かに、そう考えてみると、不思議ね……」
「もしかしたら、ほんの少し解釈を変えるだけで、悪魔も人間も実態は同じようなものなんじゃないか……時々、そんな風に考える事がある」
これは、まんざら嘘でもなかった。真紀は何も答えない。やはりこんな与太話では退屈だろうか、と彼女の様子を窺う。
真紀は、俺の顔を覗き込むようにじっと見ていた。
「な……何? 俺の顔になんかついてる?」
「ううん、何でもないよ」
彼女はにっこりと笑うと、俺の肩にもたれかかるように頭を擦りつけてきた。摩擦熱でも起こすつもりだろうか。
「何でもな~いよっ」
そのまま、ぴったりと寄り添って歩く。傍から見たら、カップルにしか見えないだろう。
「瞬、暖かい……」
それっきり、彼女はまた無言になった。
収容所の周囲を一周ぐるりと歩いて、俺達は再び正面玄関の前まで戻ってきた。
意識して歩いてみると、確かに角は合計5つある。角度も大体108度ぐらいだったように見えた。真紀の推測はきっと当たっているだろう。そういえば、この正面玄関は正五角形のどの辺りに位置しているだろうか……と、建物全体をイメージしてみる。五角形の一辺の正面。大通りの方角から見れば、この建物は護符としての五芒星を意味しているはずだ。ほんの少し安堵した自分を馬鹿らしく感じながら、それでもまだ、妙な胸騒ぎを抑えられなかった。
俺達はそのまま大通りを戻ってゲートをくぐり、プレハブ小屋まで戻ってきた。
「寒くなかったか?」
「うん……ううん、全然」
真紀は一瞬肯定しかけたが、それを打ち消すように小さく首を横に振った。
「多分、肝試しが始まるのは十時頃だと思う。それまで、ちゃんと体を温めておいて」
「は~い。瞬、付き合ってくれてありがとうね」
左目で小さなウインクをして、真紀は小屋へと帰っていった。
左腕にはまだ、彼女の体温が僅かに残されている。馥郁としたフローラルな香水の香りが、乾いた空気の中に散っていった。