23時46分
瞬と小雨は既に、1階と2階の消火栓を発見し、3階へ到達していた。
階段を昇り終えると、外壁に沿った通路が左右に伸び、またもう一本、斜めに伸びた通路。2階に辿り着いた時と全く同じ構造だった。
1、2階のフロアの場合は、この斜めに伸びた通路が正五角形の対角線になっていて、そのままこの階段に繋がっていた。3階も同じフロア構成だったら有り難いな、と瞬は思った。
まずそれを確かめておくのも悪くない、と考えて、その斜めに伸びた通路を真っ直ぐに歩いて行った。風景は、1階、2階と全く変わらない。無機質な白い壁と、横道のような細い通路。所々に木製の茶色いドアが見える。天井にはうっすらと蜘蛛の巣が張っていた。
通路はやはり対角線に真っ直ぐ伸びていて、その先に、4階へと続く昇り階段があった。ビンゴ。ここまでは2階と同じ構成らしい。
「段々この建物の構造が掴めてきたな……。さて、どっちを探す?」
「う~ん、あたしが決めていいの?」
小雨が自分の顔を指差して言った。
「じゃあ、右かな……」
「なんで?」
「いや、何となく」
小雨はニヤリと笑った。俺は何となくハズレのような気がしたが、彼女に従って、外壁に沿った右側の通路を進んでいく事にした。
……結局、その外周を一周歩いて、再び階段のところまで戻ってきた。1階、2階では、この通路に沿ってズラリと牢屋が並んでいたが、3階ではその一部が普通の居室になっていて、牢屋の倍ぐらいの広さがあった。部屋の中には、ベッドや書き物机、クローゼットに棚、その他諸々、一通りの家具が備え付けてあり、恐らくここは職員の宿舎として使われていたのだろう。
気を取り直して俺達は、対角線の通路から最も手近にあった扉を開けてみた。
その部屋はかなり広い空間だった。正面の向こう側に大きな浴槽があり、壁には富士山の絵が描かれている。左右の壁には蛇口とシャワーヘッドが並んでいた。ここは大浴場だったらしい。
「うっわあ、いかにも銭湯って感じね……」
「小雨、銭湯行った事あるの?」
小雨は首をぶるぶると横に振った。
「まっさか~。ないよ。テレビで見た事があるだけ。でもほんとに富士山が描かれてるんだね」
足元を懐中電灯で照らしてみると、床にはびっしりと黒い黴が生えている。一瞬躊躇ったが、富士山の絵をもっと近くで見てみたくなったので、俺達はその大浴場に足を踏み入れた。
抜けるような青空の中に聳え立つ富士山。頂上付近が帽子を被ったように冠雪している。
「なんか、あれね、アポロみたい……」
「アポロ……? 宇宙船の?」
「違う、チョコのアポロ」
小雨に言われて、俺はそのチョコレートの形をイメージしてみた。なるほど、言い得て妙。
「ああ……言われてみれば。でも、アポロにしてはイチゴの部分が少なすぎないか?」
「まあ、そうだけどさ……形が、なんかアポロみたいだなって」
大浴場を後にした俺達は、そのまま更に対角線の通路を真っ直ぐ歩いていった。確か、この通路沿いにまだいくつか扉があったはずだ。懐中電灯で左右の壁を照らしながら、扉を探した。
突然、背後からカチャッ、という物音がして、俺はそちらを振り向く。
続いて、タッ、タッ……という足音が聞こえてきた。誰か他のペアがいるのだろうか。しかし、足音は一人分のように聞こえる。不審に思い、足音の方向に懐中電灯を向けた。
明かりの中に人影が浮かび上がる。
頭部にはジェイソンの仮面を被り、その手にはチェーンソーが握られていた。
「うおおおおおおおおおおお」
その怪人は突然雄叫びを上げ、チェーンソーのスイッチを入れてこちらに突進してきた。
「な、何だ……? あれ……」
「幽霊じゃない?」
これも小雨の楽観的な予測のような気がした。
「幽霊だったら、足音はしないよな……?」
「あ、やっぱり?」
鬼気迫るものを感じた俺は、小雨の手を引き、脱兎のように逃げ出した。
ブィィィィィィィィィィィン
背後からはチェーンソーの音が絶え間なく鳴り続けている。少しずつ音が接近しているように感じられ、俺は自分の運動能力の低さを呪った。
一体何なんだ、あれは……侵入者? しかし、一体誰が……? 今、ここで何が起こっているのか、全く理解できない。そんな事よりとにかく今は、逃げなければ。
そのまま通路を走っていくと、2階への下り階段のある曲がり角が見えてきた。振り出しに戻る、か。階段を降りて転んだりしたら目も当てられない。左右のどちらの通路にするか一瞬迷ったが、右の通路へ曲がる。
「瞬、近付いてきてるよ!」
小雨の声は震えていた。
「わかってる!」
幸い、角を折れてすぐのところに扉があった。そのまたすぐ先には、斜めに細い通路が分かれている。この部屋を利用すれば、うまくすると奴を撒くことができるかもしれない。俺は迷わずその扉を開けた。
そこは意外と狭い部屋だった。すぐに扉を閉め、小雨と二人、息を殺して身を潜める。
奴の足音は、曲がり角を右に折れたところで止まった。それからすぐに、チェーンソーの音も止んだ。
俺達は、音を立てないように注意しながら、部屋の奥を目指した。奴が扉の前を歩いていくカッ、カッ、という足音が、嫌味なほどに反響しながら聞こえてくる。
周囲の壁は全て書棚で覆われていて、中にはびっしりと本が収められている、部屋の中央にある机の上や、床の上にも本が積まれてあった。ここは小規模な書庫のような場所なのだろうか。とにかく物音を立てないように細心の注意を払いながら、部屋の隅まで移動した。
足音は一旦扉の前を通り過ぎて行ったが、すぐに引き返してきて、扉の前で止まった。ノブがガチャリ、と音を立てながら回転する。普段なら気にも留めないような小さな音量のはずだが、この時はそれがはっきりと認識できた。
仮面を被り、チェーンソーを提げた何者かが書庫に足を踏み入れる。
俺は息を呑んで、暗闇の中でさっと身構えた。心臓の鼓動が高鳴っていくのが自覚できる。強く結ばれた小雨の手が、いつの間にかじっとり汗ばんでいた。
一歩、また一歩。床に積んである本を蹴散らしながら、奴はこちらへ近づいてくる――そして、その仮面が、俺達を捉えた。仮面越しにでも視線が合ったと感じられる事に、少し驚いた。
奴がチェーンソーを振り上げる。
「や……やめて……お願い……肝試しなんかして、冷やかすような真似をしてごめんなさい、すぐに出ていくから、だから……お願い……」
小雨が震える声で哀願する。声だけではない、体中が小刻みに震えていた。俺は、この部屋に逃げ込んだ自分の判断を悔みながら、咄嗟に小雨を庇おうと覆いかぶさった。どうにかして小雨だけでも逃がしてやらなければいけない。頭の中は、どうすれば小雨が逃げ出せるだけの隙を作れるか、それだけを必死に考えていた。
「な~~~~~んつってな!」
突然、部屋中に、おどけた胴間声が響き渡る。それはくぐもったような声ではあったが、よほど大きな声だったのか、未だにそこいら中の壁の間で響いているように感じられた。
余りに場違いな、素っ頓狂な声に驚いた俺は思わず、周囲をきょろきょろと見回す。しかし、この部屋にいるのはやはり、俺と小雨と奴だけだ。
再び奴と目が合う。奴はおもむろにポケットから懐中電灯を取り出し、ライトを自分の顔に当てた。そして、ゆっくりと仮面を持ち上げる。
「ドッキリ大成功! へっへっへ!」
仮面の下から現れたのは、加藤先輩の顔だった。
やられた……。
急にへなへなと体中の力が抜けていき、俺は小雨の体の上に倒れこんでしまった。
「先輩……悪趣味な事しないで下さいよぉぉ、もう」
安心と脱力感で、語尾が間延びしてしまう。小雨はまだ目を丸くして、口をあんぐりと開けている。ダウンジャケット越しにも、彼女の心臓がバクバクしているのが伝わってきた。
「はっははは、わりぃな、しかしお二人さん、随分お楽しみじゃないか? え?」
加藤先輩はニヤケ顔で、折り重なって床にへたり込んだ俺達を見下ろしている。俺達は、思わず顔を見合わせた。
「結構結構、俺もひと肌脱いだ甲斐があったってもんだぜ」
その時どこからか、微かに女性の悲鳴が聞こえてきた。
「お、この声は鹿島かな……? 向こうもお楽しみのようだな。ほんじゃ、ま、仲良くな!」
軽く手を挙げながら、先輩はのっしのっしと部屋を出て行った。
小雨の顔がすぐ目の前にある。互いに視線を逸らさないまま……それはほんの数十秒の事だったはずだが、止め絵のように、随分長く感じられた。俺はようやく、自分が小雨の上に乗っかったままだった事に気付き、慌てて飛び起きた。
「ご、ごめん」
「なんで謝るの? ありがとう、嬉しかった……」
小雨独特の、にやりとした満面の笑顔を見て、俺もほっとした。
小雨もゆっくりと体を起こした。互いにまるで腰が抜けたようで、立ち上がる事ができず、力なく床に座り込んでいる。再び彼女が顔を寄せて、耳打ちした。
「ねえ、子供の頃、結婚式ごっこしたの覚えてる?」
「ああ……そんな事もしたんだっけ……」
俺は必死で記憶の糸を手繰り寄せる。
「ほら、鮫太郎を神父役に立ててさ……。あたしは、レースのカーテンのぶった切ったやつを被って、瞬はイミテーションの、おもちゃの指輪を持って来てさ」
「うん……ああ、なんか、思い出してきたぞ。あの後二人とも、小雨の両親にこっぴどく叱られたっけな」
ようやくぼんやりと、その時の記憶が蘇ってきた。あの頃は、小雨の髪が今よりもっと長くて……。
「神父役の台詞をさ、紙に書いて鮫太郎に持たせたんだけど、あいつまだあんまりひらがなも読めなくてさ、結局あたしたちが読んだの。それから、瞬があたしの指にぶかぶかの指輪を嵌めてくれて……その後……ね?」
そうだった。それから、俺達は、軽くフレンチキスを交わしたのだ。
「あたし、あれが初めてだったんだよ」
「俺だってそうだ。今、改めて考えてみると、なんか恥ずかしいな……」
「今でも、恥ずかしい?」
小雨の手が突然、頬に伸びてきた。いつの間にか、彼女の顔がすぐ目の前にあり……吐息が肌に感じられた。僅かに開かれた唇はしっとりと濡れていて、思わず目が釘付けになる。小雨の視線も、俺の唇に注がれている……確かめてもいないのに、それがはっきりとわかった。
鼻先が僅かに触れ合い、
秒速1ミリメートル程の速度で、
互いの唇が少しずつ接近していく。
あと5秒。
4、
3、
2、
1……
その時だった。
「真紀のこと、どう思ってるの?」




