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【風使い外伝】美山陽は夕日に笑わない(6) 

 そんなことがあった翌日、私は某スナイパーかというくらいに背後の気配に過敏に反応した。

 どれくらい過敏だったかというと、自分のポニーテールにすら反応するくらいだ。

 視界の隅に後ろ髪が入ると、くるっと後ろを振り向いてしまったり。

 我ながらスナイパーっていうより、犬っぽい。


 けれど、放課後になっても成果は上がらなかった。

 昨日と同じように雪絵と二人で麦茶の準備をしているときにも怪しい気配は無かった。

 野球部の練習も始まり、


「あーもう、出るなら早く出ろっての」


 グラウンドのネット裏で少しひと息つきながら、練習風景を眺めていた。


「……ひなちゃん、おトイレ行きたいの?」

「分かって言ってるでしょ、雪絵!」

「えへへ、バレましたか」


 やっぱりイマイチ緊張感の足りない雪絵。

 今だって犯罪者は爪を研いでいるかもしれないってのに。

 その爪が雪絵の柔肉に……ぬぐぐ!

 

「運動部は除外するとして、文化部、帰宅部……教師って線もあるのか」とつぶやく私。

「もう、またブツブツ言ってるよ……んーでも、部活休んでる子も容疑者なのかなぁ」


 人の良い雪絵は、つい私の話題に乗っかってしまう。だからこれが長所であり短所なんだけど。

 ああでもそうか、部活を休んで、例えば委員会活動をしている生徒なんかも怪しいってことになるのか。


 そんなことを考えていると、監督がノックを終えてネット裏に引っ込んできた。


「うぃー、あっちいあっちい! ノックは堪えるなぁ」

「あ、監督。お疲れさまです。麦茶、どうぞ」


 ポットから麦茶を注いで手渡す。


「おう! サンキュー!」


 喉を鳴らしながら監督はひと息に飲み干す。


「いい飲みっぷりですね、ささ、もう一杯」

「いやーこれが泡の立つ麦茶だったら最高なんだけどなー、がっはっは」


 ビールとはそんなに美味しいものなのだろうか。

 一度だけお父さんが飲んでいるのを一口分けてもらったことがあるが、ただ苦くて臭いだけの液体だった。


「それは家に帰って、奥さんにおねだりしてください」

「そりゃそうか」


 と言って、また豪快に笑う監督。


「あ、そろそろ交換しないと。私たち、また給湯室に行ってきますね」

「おう、よろしくな!」

「はい。行こ、雪絵」

「うん。あ、レモンのはちみつ漬けも持ってこようよ」


 二人連れ立って給湯室へ向かおうとすると一年マネージャーの桂木くんが、


「先輩! 僕が行ってきますよ!」と元気な声で申し出てくれた。

「いいからいいから。道具運びとか、そっちお願いしてもいい?」

「分かりました、お疲れさまです!」


 勢い良く頭を下げて、部室の方へと小走りに駆けていった。

 元気ハツラツ、爽やかな後輩だ。ほんと、どこかの陸上部員に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

 

 ********************


「ね、ちょっと味見してみてもいい?」


 はちみつレモンの入ったタッパーを前に、雪絵の表情が緩む。目の前にエサを並べられ、『待て』をしているときの子犬のような、哀願の色が見て取れる。


「ひとつだけだからね。あんたが本気になったら、そんな量、ひと飲みでしょう。ちゃんと節度は守ってね」

「もう! ひどいなぁ、ひなちゃん。大丈夫、大丈夫」


 言いながら既に手が伸びていた。雪絵は、ぺろりと口に含んで、


「んん~、おいしい! ふあぁ、絶妙。も、もうひとつくらい……」


 至福の表情だ。ついつい甘やかしたくなるが、ここは心を鬼にして。


「だーめ、みんなの分が無くなっちゃうでしょ?」

「うぅ……」


 そう言ってタッパーを取り上げる。

 食欲に関しては、育ち盛りのウチの弟とタメを張るわね、雪絵は。

 ああ、心が痛い。

 でもこれも我が子……じゃない雪絵のためなのだ。

 千尋の谷に我が子を突き落とす獅子のような強い意志で、私は雪絵を牽制する。


 そんなやり取りをしていると、廊下の方からパキンと、薄い氷を踏み割るような微かな音が聞こえた。


『ような』ではない。薄い氷を、誰かが踏み割ったのだ。

 こんな真夏に、そうでなくても校舎内に氷が張るか?


 そう、これは私が『水使い』の能力で用意しておいた氷だ。水の分子の動きを止めて、氷点下まで冷やしたのだ(これって世界に発表していいレベルじゃない?)。


「出たわね!」


 昨日、盗撮したであろうポジションを確認し、そこに氷を張っておいたのだ。誰かが近づけばすぐ分かるように。


 と同時に、私ははちみつレモンを三切れ手に取り、斜め後ろ、七時の方向に向かって手首のスナップだけで投げる。給湯室に扉はないとはいえ、犯人との直線上には壁がある。普通に投げたところで犯人に当たるはずもない。


 しかし、はちみつも液体。それなら私の支配下だ!


「ひ、ひなちゃん?」


 戸惑う雪絵を残し、すぐに私は廊下へと出たが、既に犯人の背中は小さくなっていた。

 制服。男子の制服だ。階段の方へと向かっている。

 この距離だとよく見えないけれど、背中にはちみつレモンがくっついてくれていれば……。


「逃がすか!」


 ともかく、その背中を追う。分かっていたけれど……速い!

 犯人は階段を登っていった。私も後を追いかけるが、2階に上がったところで姿を見失う。


 ここからは三択。

 そう、二階を走り抜けたのか、さらに階段を上に行ったのか。

 はたまた、渡り廊下を使って教室棟へと逃げ込んだのか。


 その答えは、はちみつレモンが教えてくれる。

 ヘンゼルとグレーテルのパンくずのように、レモンが一切れ、渡り廊下に向かう方向に落ちていた。

 教室棟に逃げたか。まずい、放課後に残っている生徒がいたら紛れてしまう。私は慌てて追いかける。


 教室棟の廊下を曲がって――いた!


「待ちなさい! 止まれ!」


 古今東西、そんな台詞を真に受けて立ち止まる逃走犯はいない。こちらが拳銃でも持っていれば別だろうけど。しかし私にそんな武装はなく、犯人は止まず走って逃げる。

 追う私。階段の辺りで追いつくが、


「うわ――」


 犯人は階段を全段飛ばしで飛び降りる。かなりの敏捷性、柔軟性がなければケガをしかねない、そんな無茶だが、『彼』は難なく着地し、折り返しの階段も同じように飛び越える。


 私はさすがにそこまでの運動能力はなかった。だだだだっと、階段を一段ずつ、しかし駆け足で降りていく。

 追う内に、私は気づく。


(あの背中は――――)


 私は、『彼』の正体に気づいてしまった。


(【風使い外伝】美山 陽は夕日に笑わない(6) 終わり)


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