【風使い外伝】天馬美津姫のワンポイント看護(1)
「天馬」編はちょっと短め4部構成。連日掲載予定です。
「あ、しまった――」
ふと気になってスマートフォンでレシピを確認すると、『にんじんは乱切りにする』らしい。
まな板の上では、橙色した根菜が輪切りにされている。切ったのは私――だから、これは私の失敗だ。
「仕方ない――」
軽くため息を吐いて、私はバラバラになったにんじんに、軽く手のひらを覆いかぶせる。
輪切りでも味は変わらないし、たぶん問題ないだろう。でも、改めて見た画像の盛り付けは、やっぱり美味しそうだった。悔しいので、やり直そうと思った。
「三分……くらいかな」
すう――と目を閉じて、三分前のにんじんの姿を思い浮かべる。
目を開くと、等間隔に切り刻まれていたその野菜は、皮を剥いた直後の、つやつやした姿にまで戻っていた。切れ目など、どこにもない。
「よし、と」
気を取り直して乱切りに取り掛かる。
私は人より集中力が高いほうだと思っている。その深さも、長さも、それなりであると自負している。ただ、料理についてのみ、その集中力が散漫になってしまう。そう、あの日からは――特に。
爽介くんの家を訪ねたあの日。
鼻の下を伸ばした彼から、料理の手ほどきを受けた貴重な時間。
事は順調に運んでいたのに、彼のお姉さんが降りてきて……ダイニングキッチンが瀕死の台所と化した、惨劇の一日。
あの出来事がトラウマになって、我が家での料理中にも、妙な緊張が私の体を支配する。心も体も、いつも通りにはいかなくなる。こうしてまな板の前に立っていると、ちょうど廊下に続くドアが視界に入ってきて、今にもあのドアが開いてお姉さんが現れそうで――
「ひゃあ!」
「ただいま、姉さ――って、うわ!」
ごとん、という鈍い音。
帰宅した弟がドアを開けた瞬間。
私は驚いて飛びのいた拍子に、料理酒の入った瓶を、背中で床に落としてしまった。
弟の空良は、そんな私の様子に驚いたようだったけど、すぐに、
「姉さん、大丈夫? 怪我してない?」
と駆け寄ってくる。
「――大丈夫よ、ありがとう」
幸い蓋はしていたし、キッチンマットの上だったので割れずに済んだ。私も、何ともなかった。なのに、空良は青い顔をして、
「本当に? もし足の指とか打ったんなら……」
「本当に何ともないったら。それよりほら、お風呂入ってきなさい。それまでに夕ご飯準備しておくから」
まだ何か言いたげな空良の背中を押す。
――仮に怪我をしていたとしても、私にとっては大した問題ではない。
「今日は酢豚よ」
「パイナップルは?」
「なし。空良のために豚肉多めだからね」
露骨に上機嫌になる弟を見送って、私は調理に戻る。料理酒の瓶を手に取って、気付く。
「あ――」
蛍光灯の光に透かしてみると、深緑色をした瓶の底には、一本の濃い線が走っていた。少しだけヒビが入ってしまったようだった。
「これは……」
三十秒くらいだろうか。指先でひび割れの箇所を優しくなぞる。瓶が元に戻ったことを確認して、私は手を洗ってまな板に向かった。
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私――天馬美津姫は、大袈裟に言えば『時を操る』ことが出来る。この手で触れた物体の時間を、私の想像が及ぶ範囲であれば――思い描いた時点まで巻き戻すことが出来るのだ。
切った野菜はくっつくし、瓶のヒビは無かったことになる。
――まるで、神様だ。
私はそう思う。
究極的には、もし地球が滅亡したとしても、私の力で救うことだって出来るはずだ。……地球が滅んだ後にも、しぶとく私が生きていれば、の話。
けれど、たとえ出来たところで、私は実行するつもりはない。とても便利な能力だけど、死んだものを生き返らせることはしない、と決めている。
もしも家族が、友人が、ボーイフレンドが――
大切な人たちが突然亡くなったとしても、私はこの力を使わない覚悟がある。
『死』に抗うとしたら、それは神様の力ではなく、人の力であるべきだと思う。それがあるべき姿だと信仰している。
だから私は医療の道に心惹かれる。
神様に――立ち向かいたくなる。
それが出来ると、思っている。
死ぬことと生きること。
私たちが日々こうして食事をしていることも、命の代謝であると言えるだろう。
「姉さん、歯でも痛いの?」
空良は、頬いっぱいに含んでいた酢豚を飲み込み、そう訊ねてきた。
母は夜勤で、父は単身赴任。そして兄は遠くの大学。だから今日の夕飯は、空良と私の二人きりだ。
ダイニングテーブルを挟んで忙しなく箸を運ぶ弟を眺めていたら、急にそんな言葉が出てきたのだった。
「え、そんなことないけど。どうしたの」
「だってほら、ほっぺた押さえてるし」
私が左手で頬を触っているのを、空良は気にしているようだった。
「最近、よく触ってるよね」
「そうかな……別に、意味はないよ」
嘘をついた。
虫歯ではないし、頬が痛いわけでもない。
――でも、確かに意味はあるのだ。
(【風使い外伝】天馬美津姫のワンポイント看護(1) 終わり)
(続く)




