第43話 Plorogue Side:A/願い彼方に
第三章 死神の魔踏祭編、始まりました。
第43話 Plorogue Side:A/願い彼方に
ユグドラシル公国の繁華街は入り組んだ迷路のような地形だ。
土地勘がないと、潜り込めば生きて帰って来られない、と言われている。
さすがに言い過ぎだ、なんてこの地形を見たこともない田舎の人々は次々に口にするだろう。だが、実物を見たらああ、確かに、と納得がいってしまう。そんな都市もとい迷宮の中を――少女は、暗闇の中をひたすら駆け抜けていく。
闇夜。光輝するは対に並んだ月。夫月、婦月と名付けられている。総じて、夫婦月。婦月は紅に、夫月は青白く夜闇を照らしていた。
普段、その淡く優しげな光の礫は繁華街の賑やかな臙脂の街灯により打ち消されてしまうが、不思議なことに今夜に関しては街灯の一本も?を灯していなかった。それどころか、繁華街は閑寂とした雰囲気に包まれている。
これは、常夏に吹雪が襲来するくらいに特別な現象であって、昨年や昨昨年、それ以前でも前例がない事態である。人通りに関しても少女を除けば、皆無だった。
森閑とした街に響き渡るのは少女が地を蹴り上げ、疾駆する足音のみ。ペースは徐々に上がっていく。
彼女にとってみたら、誰も存在しない街など隠れ身不可能な危険地帯に等しかった。――どうして、よりによって明日なんかが。ギリギリ、と歯ぎしりする少女。
艶めくブロンドの髪が肩口で揺れる。駆け足。月明かりが彼女を照らした。ガラスのように脆い体格、真珠の如き真白の肌、猫を思わせる眼光。猫耳こそ付けていないが見た目はまさに猫と酷似していた。
まあ、似て非なる存在というだけなのだが。
不幸だった――、と少女は総評をくだす。
ああ、何で敵を阻害できる道具がよりによって今日に限ってどこにもかしこにも存在しないのだろうか。
「はぁ、はぁ……とりあえず、“あいつら”を撒かなきゃ。ッ……、話、はそれからっ……!」
呼吸が荒くなるのは自然の道理だ。誰しもスタミナには限界がある。
火事場の馬鹿力、なんて慣用句で九死に発揮できる人外じみた力を説明しているが、あれは単なる空想にすぎない。
火事場でしか馬鹿力を発動できないことが間違っているような気がしてならないのだ。
まあ、常人ならば――火事場の馬鹿力が当たり前に感じられるのだろう。そう、常人ならば。
「これで、最大だっていうのにぃっ、まだっ、“あいつら”は……はぁ、はぁ!」
内心での戦慄は隠せない。常人に追いつかれてしまう――自分の名が廃る。“天使”の名が廃る。だから、死に物狂いで駆け抜けるしかない。脱兎の如く、延々と敵から逃れなければならない。
ふと、少女の口から弱音が吐かれる。
「たすけてよっ……、おねぇちゃん…………!」
怖い、怖いよ。と震える唇はひとりでに、“あいつら”に囚われた姉を思い浮かべた。
逃走して、早三日が経つ。空腹を満たす暇は無論、安眠も許されない。いや、たとえ追っ手から逃れる必要がなかったとしても彼女は眠れず、食欲も沸かなかっただろう。当たり前だ、自分の姉が“あいつら”に囚われている事実が変わるわけではないし、それに――。
「あたしがっ、あたしが……っ、我儘言うから……!」
自分の稚拙で衝動的な感情に今更ながら腹が立つ。
だが、現状にしてみれば意味のない行為だ。だって、既に彼女の姉は“あいつら”に拘束されているのだから。
背に腹は代えられない。過去を懺悔する暇があるなら、もっと、やるべきことがあるだろう。
「そんなことは、分かって……はぁはぁっ!」
荒らげる呼吸を整えることを忘れ、我を忘れて行く宛もなく彼女は無言の繁華街を駆け抜けた。背後から妙に鋭い視線が二つ、三つ感じられた。恐らく、“あいつら”だ。
脚力の強靭さは常人でないことを明確に示している。このままでは、五秒数えるうちに捕縛されることは安易に予測できた。
――だが、所詮は常人だ。強靭な脚力? そんなもの、術式の強化でなんとでも肉体改造できる。だが、それではまだぬるい。
「消失点開放」
少女は術式を紡いだ。聖術。その中でも『瞬間移動』の術式の上位互換『消失点開放』紡ぎ終えると、フワッと刹那の浮遊感に襲われた。
そして、次の瞬間。
少女の眼前に広がったのはタイル張りの地面だった。
とすり、と尻もちついて彼女は転移先に召喚された。荒げた息を整えながら、月明かりを頼りにして辺りを見回す。そして、眼前にそびえ立つ城のような外観の建物を見据え、見上げた。彼女はその外観に見覚えがあった。
「ユグドラシル、聖術学院……」
そこまで思考が辿り着くと同時に。
「魔踏祭……、だから、か。年に一度の祭典だから、ではないだろうけど、今回の祭では何か凄いこと起こるのかな……?」
できれば、姉と一緒に観戦したかったと今となっては夢物語となってしまった幻想が脳裏をよぎる。
そして、堪らない吐き気に襲われる。反射的に身体が屈み、右腕が口を抑える。罪悪感が喉元からドロドロと吐瀉されそうだった。結果論、吐き出す寸前で思い留まり事なきを得たが、代わりに少女の瞳からボロボロ、と大粒の涙が零れ落ちていく。
――駄目だ、今のあたしでは、誰にも歯が立たない。たとえ、逃げるという二番煎じができたとしてもそれは付け焼刃に過ぎない。二度とチャンスはなくなる。――どうすればいい。
「どうすれば……、あたしとおねぇちゃんは……逃げられるの……?」
答えを返すのはあたりを覆う静寂のみ。
実の無い返答で虚無感が満たされる。あたしには何もできない、なんて暗示は自分への毀誉褒貶。
負の感情に押し潰されては負けだ――ということは理解している。だが、その上で感情が蝕まれていく、それを制止することができない。
「ああ、あああ」
呻く。ひたすらの慟哭と行き場のない憤慨が混色した絵の具のように混ざり合い、何とも言えない複雑で乱雑な感情が表に出される。
手立てがあれば、と思案してみようとしても、中々冷静になれず、それがまたもどかしく、苛立たしい。彼女の征く道に光は差し込まない。“あいつら”が闇へと誘うからだ。
ならば、戦うしか道は残っていない。だが、泣いているだけでは、何も始まらない――というのは成功者の漏らす常套句にすぎない。
皆が皆、泣くのを止められるわけではない。
現に、この少女は瞼を両手で覆うように隠し、涙の雫を掬っている。憤慨は行き場のない後悔へと色を変えつつ、少女の心身を確実に滅ぼさんと迫っていた。
少女の脳裏に浮かんだのは、数時間前の姉との会話。
『フィオナ……、貴方だけは逃げて』
『駄目だよっ、メリュー! そうしたら、メリューが!』
『なあに、大丈夫よ。私は生きて帰るわ。百戦錬磨のお姉様を舐めるんじゃないわよ、フィオナ』
『こんな時にくだらない冗談はやめてよ! ……早く、行こうよメリュー。お母様が待っているから』
――少しでも姉の気を引かねばならなかったが故の失言だった。
彼女達に親は存在しない。孤児院で育てられたのだから。
『……フィオナ、もう、いいでしょ? いい加減、話さないと寛大なお姉様の、堪忍袋の緒が切れるわよ?』
『っ……、』
刹那の間、怖気づく。無理も無い。姉は怒ると鬼のような形相でなりふり構わず暴力的な行動に移ってしまうのだ。だが、気にしている場合か。我に返った少女は、メリューと呼ばれた姉の腕を引っ張る。
『早くっ……早くっ……!』
梃子でも動かないということを理解の上で少女――フィオナはメリューの腕を引っ張るだが、するりと解けるように抜けていく。
メリューの腕という支えが無くなったことで勢い余って、フィオナが前につんのめる。
その隙をメリューは逃さない。
『さあ、フィオナ――逃げなさい』
そこで記憶が一旦断絶している。気が付けばフィオナは、ユグドラシル公国の市街地を駆け抜けている最中だった。本能的に追手を察し、瞬間移動して今に至る。――こうして、回想録を想起し構築する段階でフィオナは己の弱さを感じていた。
結局、姉――メリューを連れて逃げられなかった。フィオナの落ち目が全ての元凶だったのかもしれない。自責の念が血塗られた刃のように彼女の喉笛に突き立てられる。弱さの浮き出た感情は結局誰も守れなかったのだ。
夜半の月が朧げに光る。薄い雲間は次第に晴れの兆候を見せている。場違いな天候だ。まるで、失意のどん底で蹲るフィオナを嘲笑うかのようで、可笑しくなって、諦めかけたような乾いた笑いが彼女から吐かれた。
「ああ、どうすればいいのかな、メリュー」
自然と口に出された言葉、だがもう姉は彼女の隣にいない。空虚な感情が心を占めている。
「手を……、」
――だれか、救いの手を差し伸べてください。
淡く儚い幻想、願掛け。それに答えるものは果たして、存在するのだろうか。希望的観測、真実の延長線上に存在する未来は語らない。ただ、現実を俯瞰するのみ。まるで、この瞬間を生きる者達を嘲笑っているかのように。
「……、なんてね」
自分に言い聞かせ、フィオナは立ち上がる。月明かりが彼女を照らす。地面で薄く揺らぐ自分の影をかき消すように、フィオナは再び走りだす。危険を察知した……わけではない。
「このまま、じっとしているわけにはいかないし、ね。もう充分泣き喚いたから」
だから、もう泣くのはやめよう。自分の感情が押し潰されないように。そして、メリューを取り戻したときの歓喜の涙を残しておくために。
前に進むしか、道は残っていない。
ならば、その道を征くのみだ。
刹那、フィオナの身体が空気に溶け込み、そして消失した。
その場に残るのは、相変わらず、寂寥感溢れる静謐な夜のみだった。




