第36話 残酷な消失点
36話です。よろしくお願いします。
あってはならない、事実。あってはならない、現実。
「嘘……嘘でしょう……」
唐突な驚愕に思考がついていけず、ただただ身体が小刻みに震える。金繊維が弛緩しているのか、硬直しているのか。それすらも定まらない。
彼女は、その手を血塗り、愛しき祖父――アストレア・セロージュの腹を穿ったのだ。
鮮血が彼女の腕を滴る。僅かな呻き声が否応なく聴覚が捉える。だが、理性がそれを受け付けない、認めない。嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
最早、彼女の心裏は、瓦解の道筋を辿るのみだった。
なくてはならない何かが、今。彼女の中で爛れて、折れていく。
「ああ、ああああ」
感情が、喪失し、自壊する。涙腺から溢れ出る雫は、何だ。潤む視界は、何を見据えているのか。それは、誰にも分からない。死に際のアストレアに向けてのものだったかもしれない。いや、そもそも誰かに向けられたものではないかもしれない。
だが、何にせよ。
何を為すべきか、と決壊した感情に訴えかけるものは皆無だったのだ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
悲しみが絶叫と共に胸の奥底から吐き出される。螺旋階段に彼女の叫びが反響し、共鳴する。おえつを漏らし、幼子のように泣きつく彼女の涙は、留まる事を知らない。
救いの福音を請おうが、生憎、彼女を救済できるものは存在しなかった。
――だが。代わりに。いや、救済の代替ではなく、上書きの虚無といったところだろう。
悲嘆に上塗りをする哄笑があった。
「アハハッ! どうかなぁ――その手を愛すべき者の鮮血で染めた気分は?」
螺旋階段の上層からの、カツ、カツ、カツと確かな足跡は耳朶に響き渡る。
大粒の涙と共に、彼女、クレオネラ・セロージュは戦慄する。声の主であろう男は、彼女達の眼前に姿を現す。道化師のような、鋭い双眸だけが彫られた白の仮面を被っている。そのため、素顔は不明瞭だ。痩せ身で、高身長の身体は漆黒で塗りつぶされたタキシードを纏っている。腕も黒革のグローブで覆われている。髪もまた黒で染まっているためだろうか、やけに顔面の仮面が強調されている。
「貴方は……一体、何者な、んです――」
途切れ途切れに言葉が紡がれていくも途中で疾駆音により掻き消される。マリアが地を一蹴した打突音だった。横顔からは余裕が見られない。寧ろ、焦燥が見られる。不意に、彼女の口から、こんな言葉が零れる。
「こいつは……危ない」
その呟きと同時に、マリアが腰に携えていた銑鉄の剣を抜く。いざというときのために、母親から送られてきた『魔導剣』を携えてきたことが功を為した。――とはいえ、外見はただの鉄剣と大差ないのだが。
流れと共に、横薙ぎの姿勢を取る。右手に握られた剣が左半身に構えられる。疾走により高められた位置エネルギーを削がずに、敵への運動に変換する魂胆だ。
腰を低くし、疾駆する。段を駆け上がる。敵は見据えた。この仮面の男は、敵だ。
故に、躊躇いは要らない。
懐へと肉薄すると同時に剣閃が唸る。左半身に構えられた魔導剣を眼前に一閃。太刀筋に仮面の男を捉えて、風を斬り、振り抜く。衝撃波が爆裂し、周囲に破壊をもたらす。螺旋を構造する強固な石材が瓦解し、砂埃が巻き荒れる。
だが、当たりが軽い。クリティカルヒットは見込めなかった。即座に態勢を整えるため、3歩バックステップしようと右足の爪先に後ろ向きの力を加える。が、動きが制止されていることに気が付く。身体の拘束こそされていないが、腕の延長、魔導剣に強い引力が働いている。
「鈍な動きだなぁ」
声と同時に土煙が霧散する。仮面の青年は、立ち位置を変えず、無傷のまま、魔導剣の切っ先を握っている。マリアの瞳に驚きの色が交える。
やはり、危険人物だ。鋭い双眸で嘲笑いの仮面を睨みつける。
乱雑に剣を振り回し、切っ先の不自由から解放される。
「何……こいつ」
明らかな戦力差に思わず呟きが漏れる。
格の違いが歴然としている。
単独で倒すのには無理があろう。だから。
「ヴァレオ、引き続き防御、お願いね。クレオネラは、学院長の治癒に徹して――わたしが前に出るから」
柄を握り返す。上段に魔導剣が構えられる。応の言葉が発せられる前に彼女は地を駆けだしていた。
疾風迅雷の如く、彼女は段上を疾駆する。砂塵で霞む視界を剣閃で薙ぎ払う。
「おまえだけは――許さない!!」
激情が剣戟となって、螺旋を舞う。彼女の動きは、まさしく“光速”。尋常でないのは確かだ。
だが、それでも眼前の仮面男は、微動だにしない。仮面の奥から嘲笑う姿からは、圧倒的な余裕とそれを上回る奇怪さを醸し出している。腹を捩じらせ、喉と肩を震わす――緊張感の欠片もなく場違いな哄笑。故に、マリアに募る激情は次第に増す。
「さあ――さあ、楽しませてくれよ。宴はまだ、前哨戦だぜ?」
瞬間。迅雷の刃が、放たれ、煌めき、旋風を巻き起こした。
「……よし、これで全部か」
「うん……」
荒い息遣いで、ロキとシグルーンは握った剣を鞘へと収納する。彼らの周囲は、木剣の殴打、聖龍剣の斬撃で地に伏した剣術部員の姿が無数に連なる。あちらからの襲撃だ、文句を言われる筋合いはなかろう。荒い呼吸を整えながら、現状確認をする。
「もう、昼Ⅲの刻は過ぎたはずだ。――恐らく、この剣術部員はクレオネラの足止めのために配置されたんだろうな」
「恐らくは、ね。で、予想外だったのか僕達が先に中央棟に潜り込んだ。警備システムとして働いていた剣術部員が部外者排除のためにこちらに攻撃を仕掛けてきた」
恐らくは、その推理が正論を極めていると言える。この事件において部外者に干渉されると困るのは明らかに爆破犯だ。故に、干渉してくる対象は、即刻排除すべきだ。また、部外者が存在しなかったとしても、――爆破犯が何をしでかすかはわからない。そもそも、相手側の要求の意図が掴めないのだ。人物の特定もできていない。剣術部員は、あくまで柔軟な対応を取るために配置されたものであろう。
「安直な考えかもしれないけど……やはり、剣術部全体がこの事件の主犯なんじゃないかな」考える仕草を取って首を傾げるシグルーン。自分の結論を完全に認めているわけではないようだった。「確かに行動からして、まさに“剣術部が全て事を為している”場面が完成しているよね。――だけど、見落としている点もないわけではない」
「その見落としっていうのは、まず爆発物の生成、そしてセロージュ家監禁の意味あたりか?」問われた彼女の無言の首肯を見届ける。「脳筋な考えで薬品や聖術を混ぜるだけでは爆薬の生成は不可能だ。また、人的被害をもたらす爆発物は販売が禁止されていてもおかしくない。まあ、剣術部にそんな緻密な爆薬精製技術を備えた人間がいるのかって話だな」
この場に倒れた面子を見る限りでは、明らかに“座学より実戦”な逞しい肉付きの男衆しか存在しない。この場に爆薬を作れるものは存在しないように見える。(これはあくまでロキの主観上での感想であり、確証ではないが)
また、セロージュ家監禁について。これについては、理解がし難い。学生抗争という名目であったとしても学院長監禁まで過激な行為には及ばないであろう。
「何にせよ……爆破犯を特定するのは、まだ早いか」
判断材料が僅少なのだ。未だ、犯人像も不明瞭である。故に、判断するのは早計。
「その爆破犯とやらの正体は……聖術炉に辿り着くまでお預けかな」
背伸びをするシグルーン。その仕草からは明らかな体力の消耗が見受けられた。
確かに、剣術部員――推定30人以上を2人で相手したのだ。疲労の蓄積速度は著しい。
だが、休息の時間は与えられていない。
「早い内に聖術炉を目指そう。――そして、読みが外れていたら」
「マリアさん達と合流、だよね」
ああ、と短く頷き、再び地を駆け抜けようとする。
が――、地に伏した男共に変化が見られて、途端、脚が竦んだ。
「……嘘だろ、立ち上がりやがった」
「まだ――戦うの!?」
次々と起き上っていく。殺伐とした空気が再び構築される。
立ち上がった男達の瞳には光が介在していない。
――この現象、サイシス・キリングドールの催眠術と酷似していた。
謎が、紐解かれる。
「ああ――コイツらは、“操作”されているんだな」
「動きも、人間的じゃない。まさに操り人形だよ」
双方、同一の結論に辿り着く。
――結局、振出しに戻りつつある、この戦い。
「ねえ、ロキ君」静かにシグルーンは彼の名を呼ぶ。返事は不要だった。「ここは、僕に任せて――ロキ君は聖術炉に向かって」
「俺もそのつもりで、お前と背を合わせている」ロキは既に彼女に背を向け、一歩、確かな歩みを踏み出していた。シグルーンならこの30人くらい容易に相手ができるだろう――という過去からの自負が積み重なった結果ともいえよう。
だから、最後はこの言葉で――君に託す。
「後ろは――――任せたぞ」
うん、囁きの肯定を耳にして、ロキは、地面を蹴り上げた。
一蹴の風圧が地を穿ち、割断する。覇気のみで、彼は猪突猛進する。向かいくる敵襲など、最早相手ではない。空気を滑るように、また、裂くように風と共に唸りを上げて疾駆する。
第36話 残酷な消失点
中央棟廊下を駆け巡る。この道の終点が聖術炉だ。
刹那にして、駆け抜ける。聖術炉へと繋がる鉛の大扉を見据え、腰の木剣を抜く。疾走の流れで、剣を横に薙ぐ。正面へ伝わる速度の10割を切っ先に込めて――空気を切り裂き、剣が唸る。
1歩駆け出すと、剣の届く圏内に大扉を捉えることができた。
逡巡なく、振り抜け。右足の足跡は地表を抉っている。
込められた膨大な出力を、前方へ際限なく、射出する。
直後――。バキィィィィィィン!! 鉛と木剣が炸裂する。
尋常じゃない速度で放たれた一撃は、重く堅牢な扉を粉塵と帰す。
衝撃が、周囲を揺るがす。廊下に埋め込まれた硝子は、甲高い破砕音と共に煌めく塵となって、空間を彩る。鉛の残滓が彼の頬を掠めて、放射された。残滓の通り抜けた後には、頬に一線が引かれ、流動していただろう鮮やかな血雫が零れ落ちる。滲む痛みが精神を阻害することを許さず、平静のまま、ロキは聖術炉へと足を踏み入れていく。
聖術炉とは、全面を鏡で象られ、中心に動力となる核を建てられたものだ。どうやら、聖因子は光と同じように鏡面で反射して、空間を移動するらしい。恐らく、この学校内に鏡が多いのは聖術炉に聖因子を収集させるためだ。――爆破予告地で学院長室以外には鏡が設置してあったのはこの為だろう。集められた聖因子は、学院内の照明や、その他器具の動力源として支給される。故に膨大な消費量なのだ。それを補うために鏡は存在しているはずだ。学院という機関の動きを封じること――それが犯人の目的か。
聖術炉内部は幻想的な空間だった。光が乱反射して、世界を白に染めている。周囲には聖因子の存在しか感じない。魔力因子が存在するにしても、僅かなものだろう。体外の魔力因子を操作できないのなら、体内のものを使うしかない。魔導から魔術へと魔力の経路を切り替える。
と、その時だった。炉の中央に屹立した核の奥から、周囲の白に溶けるような花嫁衣装の少女が姿を現す。――見覚えのある少女だ。結われていたダークグリーンの髪こそ解けてストレートとなっているが、この少女は、まさしく――。
「アンセル・セロージュ、生徒会長か……。どうして、ここに」
「どうしても、こうしても――これが主様の命令なのですわ」
こちらに気付いた少女――アンセルは淡々と無感情に答えた。
主様、とはいったい何であろうか。――再び問おうとする前に答えが告がれる。
「あたくしの主様は、ただ1人。この世をいずれ掌握する人……」
言葉が虚ろだ。曖昧な意識の中紡がれている。
「大丈夫か――」
「だから、あたくしは貴方を、殺戮します」
言葉に上塗りした殺害の予告。ロキが目を見開くと同時に、アンセルの姿が彼の1歩前へと近づく。
姿に、追いつけなかった。圧倒の力量に刹那怯む。が、既に行動を起こそうと、咄嗟に拳を叩き付ける。腰に力を溜めていない、我ながら脆弱な一撃。無論、明らかな戦力差を誇るアンセルの前に歯が立つわけがなかった。光をも超える速度で躱される。後ろに回り込まれた。
まずい――反射で、ロキは前へと飛び出す。地を滑り半回転。木刀を引き抜き、残心を取って相手を窺う。
「どうしたんだ、生徒会長! 何故、このような真似をする!?」
「――これが、あたくしに託された希望なのですわ」
何が希望だ。荒唐無稽で支離滅裂な論理展開に苛立ちを覚える。
だが、怒りは力みへと直結してしまう。無理強いに迸った怒気を消沈させる。
「お前は、爆破犯に監禁されていたはずだ」
「ええ。監禁されていましたわ。――しかし、その間に、あたくしは主様に魅了された。あの方の言動に感銘を受けた――そして、今は彼の主様の右腕となって、この場で貴方を待っていました、ロキ=レイヴァーテイン1年主席」
この短期間で、何が起きたというのか。ロキの知らない範疇で暗幕が暗躍している。
「俺を待っていた魂胆は?」
「主様の予測故の行動です。あたくしはわざわざ理由を知らなくて充分なのです」
話は通じないらしい。厄介な相手だ。
要するに、アンセル自体が主犯ではない、主犯格は“主様”たるものらしい、ということか。
だが、手を貸している時点で彼女が共犯なのは間違いない。
「……今ならまだ間に合う。俺と一緒に来てくれ。罪を抹消することができる」
ひとしきりの静寂だった。森閑とした空間にドライアイスのような冷気が充満する。皮膚が焼け爛れるような錯覚に陥るも、理性だけは保っている。――そして、静けさは、打ち破れる。
「罪、罪、罪……、我が主は罪を犯していない。正論を述べているのです……!」
静かな憤慨と共に、聖術炉が氷結する。恐らく、アンセルの術式だろう。一面の銀世界。鏡面と砕氷が光を反射し、ダストを為す。七色の色彩が眼前に広がっていた。反射した光がピースとなり、1つの広大な絵画が完成したかのようだ。
「正論か……、その間違った倫理観からした“正論”ってそんなに歪んだものなのか?」
「歪んでいる……?」沸々と、沸々と湧き上がる彼女の感情に反し、周囲は気温の低下を促進する。「何が、何が間違いだと言うのですか!? あたくしははは、主様の行うべき行動が、せいろ、んだと――ソウ、カクシンシテイルノデス」
言語が意味を為していない。既に片言となった彼女の言葉は、ロキの耳に届かない。
その確信は、明らかに世界の核心を突いていない。
「お前を悲しむ者がいる……、それくらいは、分かるよな……?」何も知らない、何もわからない少女への憤怒が、今、爆発する。「お前は、泣き叫ぶ妹の姿を想像したことがあるか!? 悲嘆にまみれ、絶望する妹の気持ちが分かるか!?」
「わかるも何も」静かな反論だった。後に、獰猛な、およそ人外のものと大差ない嗤いが零れる。「――あたくしは、いつまでも1人のはずです。誰も誰にも見放されて、ようやく、主と巡り合えた。――あたくしに、意味ない戯れ事を吹き込まないでくださいます?」
凍り付く、表情。ああ、そういうことか。
この少女もまた――操られている。今更だが、瞳が正気に満ちていなかった。
無感情の中、ただ、視界としてものを捉えるための眼としてはたらくのみだった。
「……お前は、大切なものを奪われたんだな」苦し紛れに呟かれる。込み上げる衝動に押し潰されそうだった。「大事なものを忘れたんだな」
「大事なものは忘れていないです――だって」
「主様が大切なもの、っていうのはナシだ」
「――ッ」言葉が差し押さえられる。彼女の眉間に皺が寄せられる。
「それ以外の大切なものなんて」「思い出せ」
上辺だけの言葉に想いの限りを塗りつくす。
言葉は、短くていい。――短いだろうが、彼にはそれだけで充分だった。
「思い出せ、憧憬の記憶を」
言の葉が連鎖する。もう、止められない。
「――思い出せないのなら、俺が取り戻してやる」
息が詰まる。何故だろう、息が苦しい。涙が溢れそうだ。
――どこかで誰かが笑っている。その光景が脳裏に浮かぶ。
誰かに何かを失って欲しくない。この世で生を受けて、ロキは改めてその想いを痛感していた。
――俺は、一度、愛すべき者を失っている。この手で守れなかった愛へ未だ辿り着けていない。
その後悔が、彼に動力を与える。力を引き起こす。
「――お前の、アンセル・セロージュの記憶を取り戻してやる」
クレオネラが俺と同じ悲しみに打ちひしがれないように――ロキ=レイヴァ―テインは、木剣を上段に構え、地を駆けだした。花嫁衣装のアンセルに肉薄する。
「あたくしの力は、主様のために――」
聖術の展開。永久凍土がその場に顕現する。
絶対零度から放たれる砕氷の礫という弾丸が無惨に掃射される。
だが、屈しない。体内の魔力を呼び起こす。
「燃えろ、燃えろ――血霧の果てに!!」
魔術の詠唱。――ロキは、かつての魔王候補として焔を身体に纏う。
砕氷を飲み込む焔。眼前に、アンセルの肢体を捉え。
剣閃が唸りを上げて、打突する。大火が、花嫁を囲い、白を紅に染め上げる。
さあ。――思い出せ。狂いに狂った操り人形の世界から抜け出せ。――花嫁の右手を強引に握るロキ。それに呼応するように彼女も握る力を強めた、ような気がした。




